江戸時代のいわゆる「切り捨てご免」は「名誉は人命より重い」という立場から、侮辱に対して正当防衛的に相手を殺害する事を認めたものですが、現在でも正当防衛が簡単に認められないのと同様、当時も認められる事は殆どありませんでした。
当然ながら侮辱行為を証明する事が出来なければ単なる殺人行為にとなり、切腹どころか斬首刑に処せられ、お家断絶と言う事になりかねないので、迂闊に切り捨てなど出来る行為ではなかったのです。
また町民や農民を殺害する行為はその領主に対する挑戦と受け止められる傾向が強く、このため江戸の町民は「公方様の領民である自分たちは田舎武士より上である」として、参勤交代で江戸に来た大名の家臣に対しては横柄な態度に出ることが多く、このため問題が生じたときに証人となる人間が必要な事から「人通りの多いところに行くときは必ず複数で行くこと」などといった通達が煩雑に出されていました。
また法的に正当な切り捨てであっても、相手方の領主とトラブルになる危険性も高く、当の武士にとっても危険な行為だったのです。
(有名な例としては天保年間に尾張藩内にて、暴れ馬を取り押さえようとした佐吾平という農民が不運にも明石藩の大名行列を横切ってしまい手討ちにされましたが、その処置に尾張藩が猛抗議し、明石藩はそれ以降、尾張では葬式の装いをして通らねばならなくなった、という話があります)
そんなわけで武士が「たたっ斬ってくれる」などと叫ぶのは、あったとしても多くの場合は脅し程度のものであり、本当にそんなことをしていたら、何よりも「本人の命が幾らあっても足りない」と言う事になります。
お礼
詳しいご回答ありがとうございました。 実にわかりやすかったです。