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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:鎌倉幕府衰退の理由)

鎌倉幕府衰退の理由とは?

このQ&Aのポイント
  • 鎌倉幕府衰退の一つの理由としてよく挙げられるものには、均分相続(分割相続)があります。しかし、それだけではなく、人口増加や生産力以上の人口増加も大きな要因とされています。
  • 鎌倉時代の世帯あたり人数は減少していたのか、子に均分相続させる場合の田畑の扱い、そして幕府衰退の根本理由としての人口増加と生産力の乖離などについて、考察を行いたいと思います。
  • 資料によると、均分相続によって田畑が分割され、子孫を残さずに死ぬ子の田畑が耕作放棄されて困窮する御家人が増える一方で、人口は増加していたようです。そのため、均分相続だけでなく人口増加も鎌倉幕府衰退の理由とされています。

質問者が選んだベストアンサー

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  • tanuki4u
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回答No.4

問題はイス取りゲームで空いたイスの処遇ですが、 ↓ 基本的は、上層部ではイスは余らない。2,3男や庶子なり親族が仰山いましたので。 下層部においては、耕地の所有権がないのでイスがもともと無い。 後半の下層部というのは、 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E7%99%BE%E5%A7%93 農村における上層部=初期本百姓に対する、水呑み百姓という歴史学用語で定義されるかと思います 平安時代以降江戸時代前までで言えば http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%A3%E6%9D%91 惣村の 乙名 というのが農村における上層部でそうでないものが下層部 http://www.morikado.net/culture-nichizemi/018_edo05.pdf ここの資料で言うところの 大百姓 小百姓の構造となります。 上層部に関して鎌倉時代・室町時代を比較すると とにかく北条家だけは拡大再生産できたのが鎌倉時代 有力守護大名層のなかで、大名家内自治とでもいう認識で、有力大名層も拡大再生産出来ないが、足利家も拡大再生産しないというのが室町時代。 だから、明徳の乱とかいろいろな大名個人を潰しても、義満は潰した大名個人の弟や従兄弟などを大名家に継がせています。 逆に、義満の息子たちは、義持以外は基本的に出家させています。つまり足利家も拡大再生産を自粛している。

ibm_111
質問者

お礼

なるほど、分かってきました。 > 2,3男や庶子なり親族が仰山いましたので。 となると、幕府衰退の(根本)理由は、 均分相続というよりも生産力以上の人口増加という事になるのではないでしょうか? という疑問はどうなりますか? ひょっとして、鎌倉後期は親戚関係が遠くなってしまって 協力体制が築きにくかったという事情があるのでしょうか?

その他の回答 (4)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.5

人口増加というのはなんとも言えない http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88 研究者によって1200-1300-1400-1500-1600 つまり鎌倉時代から室町時代の人口推移推定がバラバラ 単に横軸で合わないというのではなく、源平の争乱時代の養和の飢饉に対し 1100-1200の変化を 5750→7500(千人)と増加と推定する研究者もいれば 7000→6000(千人)と減少と推定する研究者もいる 鎌倉幕府の衰退というのも、結果として鎌倉幕府が潰れたから後付けで衰退していたに違いないということであって、尊氏が負けていたら、鎌倉時代に多くあった北条家の他家排除あるいは、北条家内の内訌の1つとなっていたかもしれない。

回答No.3

いや 息子の頼家と実朝がアホだっただけです どう見ても頼朝ほどの実力はなかったですから

ibm_111
質問者

補足

実朝がアホだろうと凡人だろうと歌の達人だろうと この質問には全く関係ありませんが、 あえて疑問を呈するとすれば、 幕府滅亡まで、実朝死後100年もかかったのはなぜでしょうか?

  • tanuki4u
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回答No.2

均分相続は、母体となる生産単位が成長していれば問題ない。 鎌倉幕府において、北条家は均分相続しても北条家が拡大したので北条家内では問題が生じない。 北条家の拡大は、他の有力御家人を滅ぼすことで実現された。 なので、最後に残ったとも言える有力御家人の足利家に滅ぼされた。 論点1 現在の核家族が成立したのは、江戸時代初期で、それ以前は非血縁者も含めた大家族制度。 世帯数で・・・と考えるのは変だなと 北条家と御家人のイス取りゲーム 上層部は人口が日本全体の人口増加(=耕地増加)よりも大きく、下層部の人口は飢餓ラインにおりますので日本全体の増加よりは少ない(場合によっては減少する)。このために、上層部の生き残りイス取りゲームが生じます。 江戸時代は、長子相続でイス取りゲームを戦闘にしないようにしたということかなと。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3 チンギス・カンの遺伝子という話がありますが、これはチンギス・カンだけの話ではなく、経済的・政治的に優位に立っている子孫は多いという一般則であり、イス取りゲームの存在を傍証します。 上層部と下層部と分けて考える必要があるかと思います 江戸時代の前半は、農民においては大家族制度から核家族づくり時代 ※ 自作農創成運動 の時代だったので

ibm_111
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり世帯数で考えるのはおかしいですよね・・・ 問題はイス取りゲームで空いたイスの処遇ですが、 いったいどのように分配されたのでしょう?

  • ennalyt
  • ベストアンサー率29% (398/1331)
回答No.1

鎌倉幕府衰退の理由といえば、元寇における圧勝にあるでしょう。 井沢元彦さんの「逆説の日本史」を読まれては? http://www.amazon.co.jp/dp/4094020063

ibm_111
質問者

補足

とりあえずここでは元寇のことはおいてください。 ちなみに、私は「逆説」の読者で、 均分相続の件は逆説にも取り上げられていました。

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