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室町時代の南北の朝廷と東西の幕府について
- 室町時代には、南北朝の対立だけでなく、関東にも「鎌倉府」という別の幕府が存在しました。鎌倉府は室町幕府の組織に似ており、なぜ室町幕府はこれを認めたのか疑問です。
- 鎌倉府は、足利尊氏の子である基氏とその子孫が代々世襲していました。鎌倉府の組織は「鎌倉公方」をトップに、「関東管領」が補佐し、その下に「侍所」「政所」「問注所」があります。
- 幕府はなぜ「もめる」と分かっていた鎌倉府を認めたのか疑問です。鎌倉府を学んだ筆者は将来争いが起こると予感し、その予感は永享・嘉吉の乱、応仁の乱という事件で現実となりました。
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歴史の流れを現代人の目から見ると、 「結局○○になるのにこいつら馬鹿だなあ」 などと、つい笑ってしまいがちですが、 それは後知恵による結果論です。 下の回答者の方も書いておられますが、 鎌倉府を作ってしまったために争いが起きたのではなく、 権力の中心を一つにまとめることが出来ない状況だったのです。 (室町幕府がどうやって出来たか考えてみてください) 後の江戸幕府のあり方と比べてみれば、 室町幕府のお粗末さは目に余る程ですが、 考えてみれば江戸時代の平和も、 100年続いた争い、すなわち戦国時代を経た後 だからこそ実現したと言えるのではないでしょうか。 (そう考えると、参勤交代の制度を作ったりして 大名達をコントロールした徳川将軍家ってすごい) 現在の私達は、明治以降の強力な中央集権化によって出来た 1つの政府の存在を自明のものとしていますが、 歴史の流れをさかのぼれば、 権力が統一されていないこと時代があって当たり前です。 あなたは鎌倉府について学んだ時に、 「これはきっと争いが起こるに違いない」と予感したそうですが、 この時代の人たちも勿論それは予感していました。 と言うよりも、もう既に争いの真っ只中にいたのです。 建武の新政では、 後醍醐天皇の息子である護良親王は天皇の言うことを聞かず、 鎌倉では中先代の乱が起き、 南北朝の分裂に続いて観応の擾乱・・・ ワンマン天皇の死に体の親政を延命するか、それとも 頭の2つある危なっかしい形でも幕府をスタートさせるか、 (リーダーは尊氏か?それとも直義か?) 当人たちは真剣に迷ったと思いますよ。 結局、足利尊氏は、 幕府を鎌倉ではなく京都に移す「建武式目」を発表。 足利一族の争いを都に持ち込まないためには、 離れていてもらうしかない!という訳で鎌倉府の設置に至ります。 しかし争いの種はすぐに芽吹いた訳ではなく、 足利義満は有力な守護が勢力を強めないように討伐を行うなど、 将軍権力の確立に力を注ぎました。 しかし足利義教の恐怖政治や、足利義政の無気力政治のせいで、 守護大名たちが争い合う時代を招いてしまったのです。 まず「永享の乱」ですが これは室町幕府と鎌倉府の対立と言うよりは、 義教の専制政治の一環と捉えるべきではありませんか。 次に「嘉吉の乱」ですが、 義教の専制政治を覆そうとした有力守護の反乱です。 室町幕府VS鎌倉府の図式には当てはまりません。 そしてこの2つの乱は 応仁の乱の引き金になった訳ではありません。 「嘉吉の乱」はやがて「結城合戦」や「享徳の乱」を誘発し、 関東が全国に先駆けて戦国時代に突入するきっかけとなりましたが、 応仁の乱が起こったのはまた別の理由によります。 因みに応仁の乱の図式は、 将軍家、畠山氏、斯波氏の各家督相続争い+守護大名の勢力争い ということになります。かなり複雑な事情がありますので、 じっくり腰を据えて勉強してみてください。 「東西の幕府」というキーワードだけでは 室町幕府の失敗の謎は解けませんよ。 まずは学校で社会科の先生に聞いてみてはどうかな。
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- tanuki4u
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鎌倉時代にも 鎌倉幕府と六波羅探題があり、関東を本拠地とする武士勢力とすれば、関東は特別扱いせざるを得ない。 関東を特別扱いしないと、関東に南朝方の勢力が扶植される。 →実際に北畠氏を中心に奥州の勢力は一度は尊氏を京都から追っ払っています。二度目は失敗しましたが。
- suppi-
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鎌倉は、源頼朝が幕府を成立させて以来、武家政権の中心となり、武家社会における象徴的都市でもあったので、どうしても押さえておく必要が、あった。極端なことをいえば、鎌倉を本拠地に、京都に出先機関でも良かったのだけど、治める為に京都を離れることが出来なかった。 もともと観応の擾乱が起こっているように、室町時代は、最初から不安要素だらけです。本拠地でも戦乱が起こっているくらいなので、地方統治のために出先機関が必要だった。