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鎌倉幕府の成立理由

テレビ「義経」を見ていてふと思ったのですが 頼朝はなぜそれまでの朝廷政治を否定して 武家政権を設立できたのでしょうか? 朝廷の反対・反感もものすごいものがあったはず ですし それまでの平安時代では朝廷任命の国司などが各地方を 治めていたはずなのですが。。。 しかし頼朝の幕府設立の時期には、北条、畠山、足利 ・・・など各地方豪族が統治していてそれが 鎌倉幕府の基礎となって幕府政権設立が可能と なったようなのですが・・・ そのへんのところと、そもそもいつ頃から、どのように 朝廷任命の国司が有名無実となり、武士が 地方の統治実権を持つようになっていったのか (いわゆる武士の勃興の理由と背景) を教えてください

質問者が選んだベストアンサー

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  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.3

当時は地方の自立意識がめばえてきた時期でした。 皇室の権威をかりた公家政治は次第に実効を失い朝廷の任命する国司の権威は地に落ちて実効的な支配者は武士に移行していたのです。 しかしまだ中央の権威も命脈を保っていて一種の過渡期でした。 武士による政治形態という概念はまだなかったというより各地の現状維持に忙殺されて全国的なまとまりは考えられなかったのでしょう。 従って平家も実力はありながら公家政治に頼る事を選び、官位の権威に頼ったのです。 しかしその為自由は束縛され、かえつてその介入を招いてしまいそれならと朝廷を取り込む為に外戚になる途を選んだのです。 頼朝は平家のとった途の脆弱な事を見抜き武家による直接全国統治が必要と考えたのです。 それには京都に乗り込んでは平家の二の舞に成る恐れがあるので武士支配の勢力の強い東国を中心に据えたのです。  それにより公家政治への強烈な訣別のメッセージとしたのです。 彼の鎌倉幕府は公家出身者もブレーンに取り込み政治組織を整備し中央集権的な形態を備える事に成功しました。 彼を補佐した北条氏の野望により血脈の断絶に至りましたが、北条幕府はその後も長く継続しました。

a3453a
質問者

お礼

ありがとうございます 過渡期に入っていた時代なのですね 「公家出身者もブレーンに取り込み」 という点は全然頭に無かったので 参考になりました

その他の回答 (4)

noname#16911
noname#16911
回答No.5

No.4の回答者です。 鎌倉幕府設立(が可能となった)理由について、ぬけてしまったので箇条書きにて補足します。  壱  武士が実質的には時代の中心的存在になっていた段階だった  弐  実際の力よりも軽く扱われていた  参  武士の存在や権益を守る仕組みや考え方が無かった  四  朝廷や貴族による支配の限界 壱は清盛と平家について。 参について注目してその後の歴史を見ると、とても興味深いし、疑問も解決していくと思います。  

noname#16911
noname#16911
回答No.4

平将門の時代には既に朝廷から派遣された国司は、腐敗政治(賄賂がらみ)に染まっていたと伝えられています。 地方では元々は武装した農場主である武士が、生産活動(農作業や武器製造)をしていた事や治安維持活動をしていた事から、統治実権を持つ様になったと思います。 都では朝廷や貴族社会がケガレを嫌い、軍隊(現代の自衛隊のようなもの)を廃止したり、警察のような役割を武士におしつけてしまいました。 生産力と武力と強靭な精神力とを持った武士が台頭し、時代の主役になるのは当然だと思います。 朝廷にとっては反逆者になる将門は、地元では今でも英雄ですよ。

a3453a
質問者

お礼

ありがとうございます 腐敗が蔓延していたという背景が あったわけですね

  • tokimune
  • ベストアンサー率27% (187/690)
回答No.2

1183年木曾義仲が京に入ると、後白河法皇は、頼朝に征伐を以来、それと引き換えに、朝廷が支配していた、朝廷が持っていた国司の権力を頼朝に渡した、このことから、鎌倉幕府の成立が早まったといわれて います、(寿永2年10月宣旨) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C#.E9.8E.8C.E5.80.89.E5.B9.95.E5.BA.9C.E3.81.AE.E6.88.90.E7.AB.8B

a3453a
質問者

お礼

ありがとうございます 頼朝に権限を渡してしまったという点にも理由が あるわけですね

noname#113260
noname#113260
回答No.1

平安時代末期は国家の土地という物は少なく、藤原氏や天皇(天皇や上皇の個人的な土地)が多くなってきた。 各地の武士も自分たちが開墾した土地を都の有力な公家に寄進し、税を免れると共に、寄進先の公家に土地の支配権を保証してもらい、その代償に幾らかの金銭を上納する形になってきた。 そして実質的な地方政治は武士がやるのだが、名目的にはこれらの武士たちは公家の部下として、庇護を受けることになる。 また平安時代は国軍が無いので、武力を必要とする時は朝廷の権威で武士を集め、その力で戦うことになり、現在の傭兵・外人部隊を髣髴させる。 その中から出てきたのが平氏で、清盛の伊勢平氏は平家の中でも傍流であったが、商業的なセンスに優れ、財を蓄えて、その富の力で朝廷に取り入り、権力を握ります。 しかしながら武士でありながら公家的になり、実質的に国を動かしてる武士の代表とは言えなくなり、支持を失います。 そこに出てきたのが源氏で、例えば源頼朝は関東の武士たちの要求を巧みにまとめ、平家を滅ぼします。 ただ源頼朝にしろ、木曽義仲にしろ、武士たちの名目的な旗頭であり、要求に合わなければ捨てられる運命にあります。 義仲も自前の配下の武士は少なく、木曽地方の武士の旗頭として入京しますから、配下の武士たちは彼の指示に従わず乱暴をして京都市民の指示を失いますし、逆境になると離れてしまいます。 ご承知のように鎌倉幕府が3代で絶え、その後は平家の一族である北条氏が仕切ったのも、伊豆源氏(頼朝の血統)が武士の要求する方向と変わり、娘を天皇に嫁がせて藤原氏のように公家化しかけたり、時代の流れに合わなくなってきたためです。

a3453a
質問者

お礼

ありがとうございます 詳しい説明なのでよく理解できました

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