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子供の意見も聞きましょう。役に立たない勉強なぜしないといけないの?
まだ結婚もしてませんし、子供もいません。もし、子供から、「役に立たない勉強なぜしないといけないの?」と質問」されたらどう答えていいかよくわかりません。無味乾燥で役に立たないことをや、英語も喋れない教師に英語を習う恐怖や、大人になったら必要だといっても、テレビを見てたら、必要なさそうだし、 NHKのアニメのセリフで、他者に頭を下げさせてそれで、おのれの地位を確認しなければ安心できない者などは、私は軽蔑する。まさしく教師こそ、おのれだと思います。教師自体、学問を軽蔑し、しかたなく教えてる教師もいます。 人に頭を下げることで、壊れていく者のほうが、私は問題だと思う。人は真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じた時には、自然に頭は下がるものです。ドゥルーズは、このことを自然成長性として肯定しなければいけない。と論じてます。 役に立たない勉強なぜしないといけないと受け入れた人々がたどる道とは、教えてください。
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何故勉強しなければならないのか? そう問われたら、私は「不便だから。」と答えます。 物事を知っていればそれは落ち着きとなり、自信となり、それなりな対処ができます。言葉の多さが思考力の豊かさであるのと同じ理屈だと思います。だから、どんな学びであろうとも、役にたたない勉強とはあり得ません。 ただし、どんな学習をも役に立てられない者はいます。 それは自動車の設計図から全部品の機能や特長を知り尽くして、組み立てや分解が自在にできるくせに自動車を運転できない人に例えられるでしょう。 知識ばかりで、その実践という「知恵」というものが欠如している人です。教育者とは本来その部分を教えるべきであり、その意味では経験(成功談、失敗談に関係なく)を経たというだけでも、年配の人達には敬意を払うべきなのでしょう。私はそう思います。 しかし、現実はどうか。 教訓の宝庫どころか煙たがっているだけの傾向。 学ぶ姿勢がないから、まあ、耳も目も心も閉ざしているのだから当然かも知れませんが、時代遅れな部分でしか判断していない。 普遍的なものを常に抽出できなければ、どんなことだって時代遅れになるに過ぎないのに、それさえもわかっていないようです。 自分を語る言葉も経験も足りないから、人生の解答ばかりを見せるドラマや漫画からそのまま取り入れ、「そんなものだ」と考えている。そして口にすることとはニヒリズム、「世の中、そんなに価値のあることはないし、人それぞれでいいじゃないか」。 他人との共感や絆も希薄で、ただの個人主義。自分らしさを追及するなどと言って、ただのワガママか自己中心主義でしかない。愛社精神や愛国心、公共の福祉などの帰属意識は速やかに低下した風潮ですね。 価値あるものもそれに気付かないと、無価値なものと同じ。 それらはみな、「役に立たない」と考えている「勉強」をしないと「いけない」と受け容れた人達の末路でしょうか。 しかし、そういう暗い世相ばかりでもありません。 「勉強が役に立たなくていい」と考えている人などもいないもので、みんな楽しそうでも内心では個人の疎外を感じていて、孤独であるようです。 彼らは次第にある特定の目的や評価のための「勉強」から、全人生的な「学び」を求め、それを与えてくれるところを無意識にも探しているようにも思います。 つまらない、無感動で無価値なままの生活にはいつか耐えれらなくなるものなのでしょう。私もそうでしたから。 その道の辿る先には、これらの凋落を経たからこそに、到達できるような成熟した社会の実現がある、と私は信じたいです。
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- acacia7
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「雲濃ければ月朗らかなること難く 地薄ければ苗長じ難し」 (宗秘論) ってことでどうですか?
お礼
なんか、すばらしいですね。 これが道(タオ)だと口で言ったからっって それは本当の道(タオ)じゃないんだ これがタオだと名づけたって それは本物の道(タオ)じゃないんだ。 なぜってそれを道(タオ)だと言ったり 名づけたりするずっと以前から 名の無い道(タオ)の領域が はるかに広がっていたんだ。 まずはじめに 名の無い領域があった。 その名の無い領域から 天と地が生まれ、 天と地のあいだから 数知れぬ名前が生まれた。 だから天と地は 名の有るすべてのものの「母」と言える。 ところで 名の有るものには欲がくっつく、そして 欲がくっつけば、ものの表面しか見えない。 無欲になって、はじめて 真のリアリティが見えてくる。 名の有る領域と 名の無い領域は、同じ源から出ている、 名が有ると無いの違いがあるだけなんだ。 名の有る領域の向こうに 名の無い領域が、 はるかに広がっている。 明と暗のまざりあった領域が、 その向こうにも、はるかに広がっている。その向こうにも、、、 入口には 衆妙の門が立っている、 森羅万象あらゆるもののくぐる門だ。 この神秘の門をくぐるとき、ひとは 本物のLife Forceにつながるのだ。 名のない領域と名のある領域を交通する。
- briony
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>>自分と異なる意見をノイズとして、排除しようとするのは、ドグマティカーな行為だと思います 間違ってますよ、あなた(笑) ここは意見に対して自分の意見をぶつける場ではないからです。
お礼
ほんとですね。ずれて、ずれて、本来の意味までずらして、良くて正しいことは、迫りくる恐怖を土台にして、語っていて、その恐怖自体も自覚できていない、暴露したのがニーチェです。さもようこと、誤読すること、そして、人生は祭りだと宣言すること。このことに、興味があります。 間違ってますよ、あなた(笑) というのは、誤読を否定し、さまようことを禁止する意志こそ、小賢しいと思います。
- gekkou
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その1)「役に立たない」という大前提、そもそもここから怪しいとは思いませんか? 質問者様は#9氏に「子ども」と一喝されておりますが、そうは言わないまでも冒頭で、 >まだ結婚もしてませんし、子供もいません。もし、子供から、「役に立たない勉強なぜしないといけないの?」と質問」されたらどう答えていいかよくわかりません。 と自ら述べておられる。 未知な領域においては「どう答えてよいのかわからない」というのが素直で正常な回答です。 かといって今後自分が足を踏み入れるであろう「未知」をどの様に事前に知ることができるでしょうか? 役立つ役立たないは、足を踏み入れる前に言えることではないと思うのですが。 その2)本当の勉強はその「未知」に踏み込んだときこそ始まると思いますが、質問文の「役に立たない勉強」というものは「勉強と名の付いた日本社会への順応教育」だと思います。だから義務教育なのでしょう。 そういった意味で、私も勉強になっていない今の教育制度は根本的には間違っているとは思っているのですが、=「役に立たない」にはならないと思います。 なぜならば、前述の「日本社会への順応教育」をしている事に他ならないから仕方がないのです。 異文化の中で生活するつもりなら別ですが、多くの日本人は日本で生活していくでしょう。 もし、今の日本の教育受けることをを放棄し、なおかつ大人へとなっていったら、当人にとって「生き難い世の中」と感じる事でしょう。(多少の例外はあるとしても) 結論)正しい、正しくないという次元とは別に、実際生活していかねばならないのはこの日本という国家です。 生き難いと感じる世の中で、私は生きていきたくありません。
お礼
「わからない」といことから、始めるというのは大賛成です。 本当の勉強はその「未知」に踏み込んだときこそ始まると思いますが、この文章に出会えてうれしいです。教師が答えをもっていて、質問する。クイズ人生というんじゃなく、まったく未知にふみだすことを、それを肯定する。そういうのが、本当の勉強という強度を生み出す。そんな風に思っています。
こんにちは。 子供に問われたらどう答えればわからない、ということは、 ・役に立たないと思われる勉強でもしておいたほうが良い、という気持ちはある。 ・しかしそれが学校である必要はない、むしろ現状の一般的な学校には通わせたくないほどだ。 と理解しましたが間違ってたら指摘してください。 もしそうだとすれば、「通いたくなければそれでよい。ただし勉強はしろ。」と答えればよろしいことでしょう。 自分も、そう答える勇気を持ちたいと思います。 何故これが"勇気"であるかといえば(教育の義務については考えないとしても)、正直そこで学べることがすべて無駄だとも思えないからです。 また、そこへ行かなくても育める、そんな隠された才能や可能性を見出すのは、親にだって容易なことではないと思うからです。 だから「とりあえず将来の可能性のために通っておけ、」と答える大人を責めることもできません。 学校に行かせないことが、松下幸之助を生むのか、生涯フリーターを生むのか、そんな予測はできません。 今ゼロ地点にある子供がどちらに転ぶかという可能性だけを見れば、学校に通わせていても同じことだと言えます。 自分は、少なくとも記憶のある物心ついてからの自分の行動は、すべて自分に責任があったと思っています。 大人の言うことに対しては、反発してなんぼ。それが子供時代の仕事だったと思っています。 何故あのとき親の言うことを聞き入れておかなかったのか、と後悔することは多々あります。 しかし、そうすべきであることをその時に親が納得させてくれなかった、と恨む気持ちなど微塵もありません。 社会のこと世の中の厳しさ、なんもわかっちゃいなくても、決断したのは自分だったのだから、と思っています。 >役に立たない勉強なぜしないといけないと受け入れた人々がたどる道とは これは、「疑問を抱きつつも勉強することは受け入れた者がどうなるか」という意味でしょうか? だとすれば、自分も今、その道にあるのかもしれないと思います。 今、勉強の仕方がわからなくて愕然としています。 トシをとったことによる記憶力の低下を差し引いても、何にどこから手をつければいいのか、わかりません。 子供のころ学校でどうしていたかを思い出せません。学校の教師の顔もよく思い出せません。 テストでいい点を取りたいのでカンニングしたことは憶えています(^^;; 社会に出て、経験を重ね、現場で四苦八苦しながら必要なものを体得することはむしろ容易です。 机上の勉強の仕方が、さっぱりわかりません。 しかし、熱意が足らんだけ、と言ってみればまったくその通り。 勉強の仕方をこそ教えて欲しかった、と顔も思い出せない教師に向かって言うつもりはありません。 結局、今の自分が努力すればいいことなんですねぇ。。。 ご質問の意味、取り違えていたらすみません。
お礼
なんだか、よくわからなくなってきました。答えなんか、そんなに意味を持たないのかもしれません。私が、親ならナワでひっぱってもつれていくでしょう。 中学の時、チョークで黒板塗りつぶして、黒板消しかくした、不良のあさましさは、 アタッチメントのないデタッチメントは、何の衝撃力を生まない。不良の黒板消しをかくしたのは、この行為ですし、学校にいかず、逃げているだけでは、何の衝撃力を生まないのは、理解できます。
役に立たない勉強はしなくていい、と思っている者ですが 回答してもいいかしら。 私は「役に立たない勉強はしなくていい」と考える子供でした。 親や教師からはしばしば「将来、きっと必要になるから」と尻を叩かれました。 私は「じゃあ、必要になったら勉強する」と答えていましたが 親や教師は「大人になったら出来なくなるから」と言われました。 現在、私は間もなく40歳にならんとしていますが 今のところ「大人になったら出来なくなるから」ということは 全然ないと感じます。 ただし。 子供のこのような言い分は、言い訳であったり詭弁であったり することが多いと思います。 親(大人)はそこをしっかり見つめるべきだと思います。 大根を買うのにルートは必要ありませんが 例えば数年後に受験をするつもりであればルートは必要かもしれません。 受験をする道を選んだ人にとっては 受験勉強も生活の一部の筈です。 この辺は(決まった正解があるとは思いませんが) もう少し丁寧に子供も話し合うことが大事だと思います。 それと、もうひとつ。 少なくとも義務教育は、文字どおり「義務」として 全うさせないといけないのではないか?という 別の問題が残っていると思います。 義務を全うしなければならないのか?については ここでは深入りしないことにします。 一方、私が教師に求めるのは 役に立つか/立たないか?ではなく 例えば子供に数学なら数学を「面白いかも?」と 思わせて欲しいなぁ。 ちょっと余談でしたか? 質問は哲学への投稿だったり、ドゥルースを引用したりと 何らかの含意も感じますが 私には質問者様のパフォーマティブな意図が読めないので コンスタティブに解釈して回答しました。
お礼
わたしが思うに、最も優秀な文化というのは何かと、質問されたら、天才を生むことのできる文化だと思います。ああでもなく、こうでもなく迷い、さまよい、何かを生み出していく、そんな文化だと思います。きっとあなたも、ああでもなく、こうでもなく迷い、さまよい、何かを生み出してきたのでしょう。そんな土壌から天才という者が生まれてくるんだと思います。そのああでもなく、こうでもなく迷い、さまよいうことを、抑圧するのが、腹立たしい行為であり、ドゥルースは国家装置といい、その空間を条理空間といって、資本主義が生み出してそれを徹底的に、洗練していくことに、無自覚ではいけない。小さい正義が、大きい正義を抑圧するっていうにも、
- sponta
- ベストアンサー率26% (54/207)
10の回答者の再登場です 学校とは根源的には、良質な自由市民をつくるところです。したがって、同質な人々をつくるためにあるわけではありません。 民主主義において、過度の同質性は議論の不在や集団としてのバランスを欠いて行く方向に社会をすすめると思います。 根源的に学校とは何のタメにあるのか。ということと、怠惰な人間がどう現状に妥協して流れてしまうか。 そのあたりの分析がなされていない気がします。 勉強の根源は独学である。 では何故学校に通うか。 それは学校がこどもたちにとって社会であるから。 社会の矛盾に接することによって、こどもたちの万能観が壊されて行くことに意味があるのだ。 ☆ 結局のところ、学校という言葉の共同幻想につきあわされている気がしています。 学校であれ、社会であれ、家庭であれ、それを構成しているのは人間です。 その人間を見ずして、機構を語ることの不毛を感じます。
お礼
>>学校とは根源的には、良質な自由市民をつくるところです。したがって、同質な人々をつくるためにあるわけではありません。 学校の理念はそうあるべきです。同感です。 それは学校がこどもたちにとって社会であるから。 社会の矛盾に接することによって、こどもたちの万能観が壊されて行くことに意味があるのだ。 万能観を壊すことから、はじまる。それが、他者の理論です。 理念の重要性。万能かんというドグマを壊すこと。これは、子供の問題でもあるし、私の問題だと思います。
- kashi__
- ベストアンサー率10% (40/380)
教えを請いたいのであれば、自ら頭を下げてお願いするのはしごく当然なことです 自分にとって役に立たないと認識しているのであれば、さっさとやめることです 学校とか教師に疑問があるのなら、別の道を探しましょう、今は学校以外にも学ぶ機会がたくさんあります >学問と学校とは、絶対に両立しない対立項 と思い込んでいるところが、すでに枠にとらわれています
お礼
学問と学校とは、両立する。というのは、まさしく啓蒙主義です。 アドルノの啓蒙主義批判は、理性が神話を乗り越えていくと、理性が野蛮と結託し、道具的理性に堕落するのを考えた人です。学問と学校とは、両立するという、理性の神話は、フロイトの無意識、マルクスのイデオロギー批判、ニーチェの反形而上学で、理性の自主的根拠を批判して、さらにその動きに逆行するのは、政治的だと思いますけど。
- Sage-y
- ベストアンサー率14% (2/14)
こんにちは。 おもしろい疑問ですね。確かに学生時代誰もが思ったことでしょう。といっても私はまだ学生の身分ですが…。そんな弱輩の意見というか感想です。 その子に特に才能や趣味、興味があるようならその他の勉強などはしなくてもいいように思います。しかしそのような子どもは稀でして(passagen1919さんのいうところのパスカルや南方熊グスでしょうか)、その子にしたって基本的な勉強をするべきだと思います。 ここで勉強とは公式や年号、英単語を覚えることではありません。数学をやることで理論的な考え方が身に付き、国語や英語で表現力を養います。理科や社会の世界に触れることでその世界に興味を持つことができるようになるかもしれません。興味を持つことができればそれだけでそれまで勉強してきた意味はあります。 理論的に考え、自分の考えを効果的に表現することはできなくても困らないと言えば困らないかもしれませんが、誰かと世間話などをしていてお互いの意見を述べあっている時、相手の意見が自分と違っていたとしてもすごく筋が通っていたり、自分なりの意見が上手く相手に伝わらなかったり、または相手の言っていることが(難しすぎて)理解できないというのは単純に“くやしい”“情けない”です。その時に勉強しておけばよかったと後悔しても遅いのです。 つまりは『今やっている勉強は将来くやしい思いをしないためだ』とも言えるのではないでしょうか。極論ですが。 そして勉強をすればする程、上に述べたような効果が期待できるのではないでしょうか。 ちなみに私は現在アルバイトで塾の講師を4年程やっています。中学生を教えていますが、やはり似たような質問をされますが、そのように答えたことはないと思います。その時は(自分の意思なのかはわかりませんが、そうして塾に来る以上、高校には進みたいと考えているとして)、『確かに将来必要ないかもしれないけど、高校入試で出るからやらないとね』みたいな適当なことを言ってたと思います。その場しのぎで、夢のない(?)腑に落ちない答えに見えますが、今の日本を見る限り間違っていないとも思います。 勉強とはそれだけのためでは決してないのですが、今やっていることが、身近で最も役立つ機会として高校入試があるわけで。実際高校は(推薦を除いて)五教科の平均点が高い子程欲しがります。 以前あるサイトで(忘れてしまいました)“数学はもっとも訳に立たない学問だ”という文章をみつけました。その後に“数学から派生した、または数学的な考えを取り入れた学問で今の世界は成り立っている”とありました。たしかフェルマーの最終定理を扱ったサイトだったと思います。 ↑いちお、参考までに。 また、現代人(?)とアボリジニーを比較するような文章があったように記憶してますが、確かにどちらが優れているとは言えません。しかしお子さんに、今の生活とアボリジニーの生活どちらがいいかを聞けば勉強の必要性が理解できるかもしれませんね。後者をとるようでしたらプリミティブな生活をさせてあげてください。 さらに、頭を使うにしても、同じ事を考えるよりも、常に違った事を考えていた方が脳の刺激になります。 ↑上二つについて、そういう意味での発言でなかったのならごめんなさい。 最後に、勉強をしてこないと私のように考えが上手くまとまりません。また文章理解能力も乏しいです。 私は反面教師として子どもに、勉強の大切さを教えられそうな気がします(笑)。 長くなってすいませんでした。
お礼
家庭教師といえども、教師です。たとえば、教科書の答えを、究極まで考えてみる。そうしたら、この答えは、合っているのか、合っていないのか、わからないことに、たびたび出会います。ユークリット幾何学を究極まで考えてみと、いかなる道筋によっても解釈しきれず、そうした解釈をはねつけず動いていく世界、いかなるパースペクティブのもとにの包括することもできず、そこからはみ出して変貌していく、閉域からも逃走するという体験に出会うことがあります。、現在を絶対化して過去は完結した総体として見通すことこれが、近代の目指した一つの視点です。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発する。対象を完了して、単純化し、安心と安定のもとに、教えることの弊害があると思うんですが。
- sponta
- ベストアンサー率26% (54/207)
人間の頭をパソコンだと思いましょう。 グレードの高いパソコンにするには、CPUの処理速度を上げること。 HDDの容量大きくすること。 HDDの処理速度を上げること。 HDDの内容物を多くすること。 そして、沢山のアプリケーションソフトを搭載すること。 以上の件を生物学的に行なうには、いわゆる勉強という方法しかない。 もっとも、旧式の遅いパソコンでもなんとかやれるじゃないか。という人には説得力を持ちません。
お礼
CPUの処理速度を上げるには、どうすればいいのか?を考えるのは、楽しいことです。CPUの処理速度を最大限にすることを、ニーチェが、永遠回帰という概念で教えてくれます。もっと速く、最大限まで速くというのは、美しい行為だと思います。それを学校がやっているのか?というのが疑問です。村上春樹の翻訳、ニーチェの思想、スピノザの怪物的形而上学など、CPUの処理速度を上げ、HDDの処理速度を上げ、沢山のアプリケーションソフトを搭載することによって、生まれてきました。でも彼等は、既存の学校を逃亡することから、初めました。
- vat99
- ベストアンサー率18% (10/55)
貴様が子どもそのものである。 まずは書き込んでもらった回答者には例を言うべきである。 それが貴様の意に添ったものであろうと、なかろうと。 そんなことさえ理解していない程度の人間に「勉強の実効性うんぬん」は100年早い。 繰り返すが、貴様が子どもだから「わかっていない」だけの話である。
お礼
自分と異なる意見をノイズとして、排除しようとするのは、ドグマティカーな行為だと思います。一方的な拒絶、貴様が子どもだからという、ラベリング。 しかし、投稿してくれて、ありがとうございます。
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お礼
ありがとうございます。回答の中にたくさんの宝ものを見つけました。知識と知恵との関係や、年配の人達には敬意を払うべきなのに、過去とは、過ぎ去った無価値とする、未来指向。教訓の宝庫どころか煙たがっているだけの傾向など、自分らしさを追及するなどと言って、ただのワガママか自己中心主義に落ち込んでいくこと。そのような思考の元になるような宝」のような言葉ありがとうございます。 近代って何だったんでしょうね。知識や未来指向や自己がこれほど持ち上げられたのか、近代になってからです。