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子供の意見も聞きましょう。役に立たない勉強なぜしないといけないの?

まだ結婚もしてませんし、子供もいません。もし、子供から、「役に立たない勉強なぜしないといけないの?」と質問」されたらどう答えていいかよくわかりません。無味乾燥で役に立たないことをや、英語も喋れない教師に英語を習う恐怖や、大人になったら必要だといっても、テレビを見てたら、必要なさそうだし、 NHKのアニメのセリフで、他者に頭を下げさせてそれで、おのれの地位を確認しなければ安心できない者などは、私は軽蔑する。まさしく教師こそ、おのれだと思います。教師自体、学問を軽蔑し、しかたなく教えてる教師もいます。 人に頭を下げることで、壊れていく者のほうが、私は問題だと思う。人は真実相手に感謝し、心から尊敬の念を感じた時には、自然に頭は下がるものです。ドゥルーズは、このことを自然成長性として肯定しなければいけない。と論じてます。 役に立たない勉強なぜしないといけないと受け入れた人々がたどる道とは、教えてください。

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  • izaya
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回答No.15

何故勉強しなければならないのか? そう問われたら、私は「不便だから。」と答えます。 物事を知っていればそれは落ち着きとなり、自信となり、それなりな対処ができます。言葉の多さが思考力の豊かさであるのと同じ理屈だと思います。だから、どんな学びであろうとも、役にたたない勉強とはあり得ません。 ただし、どんな学習をも役に立てられない者はいます。 それは自動車の設計図から全部品の機能や特長を知り尽くして、組み立てや分解が自在にできるくせに自動車を運転できない人に例えられるでしょう。 知識ばかりで、その実践という「知恵」というものが欠如している人です。教育者とは本来その部分を教えるべきであり、その意味では経験(成功談、失敗談に関係なく)を経たというだけでも、年配の人達には敬意を払うべきなのでしょう。私はそう思います。 しかし、現実はどうか。 教訓の宝庫どころか煙たがっているだけの傾向。 学ぶ姿勢がないから、まあ、耳も目も心も閉ざしているのだから当然かも知れませんが、時代遅れな部分でしか判断していない。 普遍的なものを常に抽出できなければ、どんなことだって時代遅れになるに過ぎないのに、それさえもわかっていないようです。 自分を語る言葉も経験も足りないから、人生の解答ばかりを見せるドラマや漫画からそのまま取り入れ、「そんなものだ」と考えている。そして口にすることとはニヒリズム、「世の中、そんなに価値のあることはないし、人それぞれでいいじゃないか」。 他人との共感や絆も希薄で、ただの個人主義。自分らしさを追及するなどと言って、ただのワガママか自己中心主義でしかない。愛社精神や愛国心、公共の福祉などの帰属意識は速やかに低下した風潮ですね。 価値あるものもそれに気付かないと、無価値なものと同じ。 それらはみな、「役に立たない」と考えている「勉強」をしないと「いけない」と受け容れた人達の末路でしょうか。 しかし、そういう暗い世相ばかりでもありません。 「勉強が役に立たなくていい」と考えている人などもいないもので、みんな楽しそうでも内心では個人の疎外を感じていて、孤独であるようです。 彼らは次第にある特定の目的や評価のための「勉強」から、全人生的な「学び」を求め、それを与えてくれるところを無意識にも探しているようにも思います。 つまらない、無感動で無価値なままの生活にはいつか耐えれらなくなるものなのでしょう。私もそうでしたから。 その道の辿る先には、これらの凋落を経たからこそに、到達できるような成熟した社会の実現がある、と私は信じたいです。

passagen1919
質問者

お礼

ありがとうございます。回答の中にたくさんの宝ものを見つけました。知識と知恵との関係や、年配の人達には敬意を払うべきなのに、過去とは、過ぎ去った無価値とする、未来指向。教訓の宝庫どころか煙たがっているだけの傾向など、自分らしさを追及するなどと言って、ただのワガママか自己中心主義に落ち込んでいくこと。そのような思考の元になるような宝」のような言葉ありがとうございます。 近代って何だったんでしょうね。知識や未来指向や自己がこれほど持ち上げられたのか、近代になってからです。

その他の回答 (18)

  • kitanoms
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回答No.8

 No.4の方の回答には、『いまになって役に立っている教科』については書いてありませんが、きっと少年時代に役に立つと思っていたものとは異なっていると思います。勉強とはそういうものなのではないでしょうか。『役に立つ勉強』と『役に立たない勉強』があるのではなく、『勉強することが人生の糧になる』ような教育システムが重要なのではないでしょうか。  この点でいまの学校システムが理想的に働いているかどうかには疑問がありますし、『役に立つ』かどうか判らない知識の量を云々して『学力低下』だとさわいでいるマスコミのあり方も大いに疑問です。  『学問を軽蔑ししかたなく教えている教師』『権威に寄りかかって勉強をおもしろくなくしている教師』がいるとしたら、そういった教師たちの意識を変えることのほうが重要なのではないでしょうか。  

passagen1919
質問者

お礼

学問と学校とは、絶対に両立しない対立項です。ほんものの学問は、常識への疑いから出発し、世間で正しいこと、正しくないことと評価されている価値に疑いをもち、常識みよって見えなかった現実を、新しい概念を創造することによって、見えるものにして、常識の枠を事実の発見によって、打ち破っていく精神のみが、真実の学問をつくるのでは、ないでしょうか。 とこらが、学校は違う。近代のすべての学校は、国家に属している。そこでは、国家的な力を背景にした、知識の伝達と訓練によって、若い精神を一定のフォルムの鋳型していく標準化していくことが、学校教育の第一目的だった。授業時間の生徒は、自分の椅子に身体をくくりつけ、教壇の教師の語る言葉を聞き、その要求にこたえ、もとめられている振る舞いをすることによって、教師の満足を得なければ、いい生徒には、なれない。ここでは、知識は自由をもたらさない。学校での知識は、むしろ支配や優越のための道具にすりかえられてしまう危険を、たえずはらんでいます。 昨日、芥川賞をとった人も、学校から逃亡して、学問を求めて、独学したことを、想像できますが。

  • cliomaxi
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回答No.7

あなたが云うパスカルや南方熊楠等は極々稀な人達ですから、学校の教育を受けなくても立派になれると云うにはあまりにも特殊すぎませんか? 最近「トリビア」や「無駄な知識」「雑学」等がもてはやされてますが、これの延長に「役に立たない勉強」があると思えませんか? 知識は財産です。物質は壊れたり盗まれたりして無になる事もありますが、知識は盗まれても無くなりはしません。(アルツハイマーやボケ等脳障害を除いて) どんな知識でも吸収しようとする探究心や好奇心は人間を豊かにすると私は考えています。 ですから「役に立たない勉強」等無いと思っています。

  • las8ty
  • ベストアンサー率34% (35/102)
回答No.6

どうも哲学にはまったく無知に者です。 勉強が役に立つか、立たないかは義務教育が高い日本と発展途上国を比べてみれば解るでしょう。 あらゆる物、病院、学校、電気施設などの整備がしっかりしていません。また、質の高い製品も作れないでし、高い生産性もありません。 また、勉強したことで他の方が回答してあるように脳を鍛えます。これにより、理論的に物事考えれるようになります。ルートに計算などは確かに生活上、仕事上一部を除いては必要ないかもしれません。 しかし、日本の産業を見ても第3次産業に働く人が多くても、第3次産業の人は第2次産業で作ったものを上手く活用しています。コンピュータや携帯電話(厳密言えば同じか)やテレビ、自動車はすべて設計図を書き、数学の計算を使って作成したものです。 特にこういうインターネットをするにしてもブラウザが必要です。そういうブラウザはプログラミング言語を使ってプログラミングします。そういった時に理論的に考える力がないとできません。僕は情報の高校に行っていましたが、数学が苦手な人はプログラミングは???でした。経営関係は、いろいろな統計やデータ、グラフから何を読み取り、将来を推測して事業を発展させていきます。 一部の人だけが勉強した知識や技術が使われるのだと思います。そういう一部の人たちの下に勉強が役に立っていない人がいるのです。そういう関係が経済を支えていると思います。 ------------------------- >役に立たない勉強なぜしないといけないと受け入れた人々がたどる道とは、教えてください。 役に立たなかった人、役に立たせなかった人は、そういう時はただ暗記してテスト終了後、忘れていく。上の人の意見を聞いて深く考え意見を出すことができないと思います。物事を考える要素として分析をする力が必要ですから。 >人に頭を下げることで、壊れていく者のほうが、私は問題だと思う。 同感です。しかし、そういうことを教える人が少ないのでしょう。また、教わったとしても目先の利益と楽さから失われていくのでしょう。

passagen1919
質問者

お礼

「むかしは世の中は狂っていた」歴史はだんだんと進歩していって、迷信や非合理は、乗り越えることができる。もう過去から学ぶことはなく、現在を絶対化して過去は完結した総体として見通すことこれが、近代の目指した一つの視点です。私は曇りない目でものを見ているという手前勝手な前提から出発する。このことが、人々を安心と安定をもたらしたか、想像できます。 発展途上国、昔のことは、おくれているというのは、幻想じゃないかと考えたのは、文化人類学であり、哲学じゃないでしょうか。金1キロ取るのに、土を500トン掘り替えさなければなりません。金を取りたいといって、自然破壊したわれわれと、大地の重要性、そのトーテミズムに、大地を神とし、金など取らなかったアボリジニは、どっちがおくれているか、判断するかは、そう簡単ではないと思います。

  • briony
  • ベストアンサー率29% (323/1090)
回答No.5

私だったら科挙の時代を(多少尾ひれをつけて)説明し、現代は科挙はないものの、似たようなフィルタリングで振り落とされる時代を生きてるんだよ、と教えるでしょう。 学校の教える勉強を勉強しないといけないのではなく、自らの足で生きていくために、勉強が必要だと教えます。 生き残った人にせよ、振りおとされた人にせよ、その意味やそこから学ぶべきことは自分で考えればいいのです。

  • sanori
  • ベストアンサー率48% (5664/11798)
回答No.4

お気持ち、わかります。 私も少年時代、そういう疑問を常に持っていました。 ・私が少年時代「役に立たない」と思っていた教科  国語の大部分、生物の大部分、数学のうち図形問題、英文法、歴史の暗記物、美術 など ・「役に立つ」と思っていた教科  算数・数学の大部分、物理、歴史のうち昭和以降 など 前にテレビで有識者のどなたかがおっしゃていたことなのですが、「学問を習う」ということは、「文化の継承」という意味もあるのだそうです。 私は単純思考なので、「なるほど」と思い、なんとなく納得してしまいました。 今では、一見無駄に見える勉強も、心を豊かにするために必要なことだと思っています。(子供には理解できないと思いますが) なお、「頭を下げる」や「伝統を継承する」というのは、ひとつの「型」を習うことであって、 それは、その後、どんな道に進むにしろ、どんな独自性をあみだしていくにしろ、必要な過程だと思います。

passagen1919
質問者

お礼

「文化の継承」は大事ですよ。でも現実は「文化の継承」として機能してないのが現実でしょう。環境が変わるのに、変われない。それは、今を生きていないと同じ意味です。ビジネスの世界では、経営の失敗です。勉強するなといっているのでは、ありません。

noname#5463
noname#5463
回答No.3

役に立たない勉強・・・どうして役に立たないと思うのですか。 将来、なにかに興味を持って「それを勉強していたから」その興味をもったものに、すう~っと、入っていくことができた。ということもあるはず。 断片的だけど幅広く物事を知っているとある日、その断片的なものがつながることだってあるかもしれない。 また、礼を尽くすことと、頭を下げる事をごっちゃにしていませんか。 ひれ伏すことと礼をつくすことは違うと思いませんか。

  • timeup
  • ベストアンサー率30% (3827/12654)
回答No.2

哲学方面は元々あまり興味が無いので、他の人にお任せするとして、人体の方面から言うと、脳細胞同士の配線を多く作るために必要なのです。 筋肉を鍛えると大きくなるのとメカニズムも働きも違うけど、目的は同じ面があります。 脳も鍛えておけば哲学もよく考えられるようになる訳です。

passagen1919
質問者

お礼

パスカルは、学校にいってませんし、南方熊グスも、あまり学校にはいかず、森の中で、昆虫をとってました。人間何もしないわけにはいきません。三度の食事や、八時間の睡眠。何もしなくても、頭は、いろいろなことわ考えていると思います。

  • o_tooru
  • ベストアンサー率37% (915/2412)
回答No.1

こんばんわ、疑問はつきませんね。 さてご質問の件ですが、確かに「役に立たない勉強」という論理はよく聞きます、私自身高校の時に、「大根を買うのにルートなんてつかうか」と日本史の先生から言われ、「その通りだな」と思ったこともあります。 ただ最近思うのは、これからの子供の時代はどんな学問も高校生以上の知識は必要な時代になってきているのでは?と考えています。 たとえば、カーナビを買ったとします、確かにブラックボックスとして、使う分には、リモコンをあれこれいじっていればいいでしょう。しかし、一歩興味を持ち、開発してみたい・少しばらしてみたい、などと思った場合、中学生の知識では全く歯が立たないことは想像に難くないと思います。(たぶん人工衛星までの距離を、三角関数を使いながらはかっているのだとは思いますが) これからの世の中で、全くのブラックボックスに囲まれて、奴隷のように隷従するだけの人生を子供たちには送らせたくない、と個人的には考えています。子供たちには酷な言い方になりますが、「これからの世の中高校生の知識くらいは最低限必要だよ」と言いたいです。「でないと・・・寂しい人生になってしまうよ」と結構真剣に思っています。 (カーナビの例はあくまで例であり、あらゆる分野において、専門性を求められ、そこの分野に進むときには、最低限高校生の知識は必要だと、私は考えています。また子供にもそういうつもりです)そちらでお望みの回答とはずいぶんはずれてしまいましたね。ごめんなさい。

passagen1919
質問者

お礼

日本における英語教育、不ていしの形容詞的用法だとか、あまり意味がありません。松下幸之助も、小津安次郎も満足な教育も受けていません。それなのに、家電も作り、映画も作り、 人間たらい回しにされた体験を持つと、挑戦しようという気概が失せてくると思います。 別に勉強するなと言っているのではないのです。 独学の可能性がまったく機能してないように思えるだけです。

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