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嘉祥の日の典拠について
- 仁明天皇の時代に疫病が流行り、厄除けなどを祈願するために嘉祥元年六月十六日に神前に供えた餅などを振る舞い、これが嘉祥の日として江戸時代まで展開した。
- 嘉祥の日は現在では和菓子の日として知られている。
- 仁明天皇の嘉祥元年の祝い菓子の記述は『続日本後紀』などの書物に記載されている可能性がある。
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残念ながら「仁明天皇の嘉祥元年の祝い菓子の記事」ではなく、 現時点で私が調べた範囲内のお話に過ぎませんが、 「6月16日」の「嘉祥の祝」に関しての記述で遡れるのは、 ・『鈴鹿家記』応永六年六月十六日(1399年) ・『実隆公記』永正四年(1507年) ・『御湯殿上日記』享禄1年6月16日(1528年以降毎年) などまでのようです。 詳細は以下のとおりです。 おっしゃるとおり、嘉祥期由来説を調べる順序から言えば、 仁明天皇一代の編年史である『続日本後紀』の 「巻第十八(起承和十五年正月、盡嘉祥元年十二月)」六月の条からとなるのが 誠にもって順当な御判断だと思います^^ 私も『続日本後紀(下)全現代語訳/森田悌/講談社学術文庫』の 「巻第十八 承和十五年・嘉祥元年」部分などを拾い読みしてみましたが、 おっしゃるとおり、それらしい記述は見当たりません(><) 何より「嘉祥元年六月」に関しましては、 「六月戊子朔(1日)」「己丑(2日)」「庚寅(3日)」「壬辰(5日)」「甲午(7日)」 「乙未(8日)」「丁酉(10日)」「庚子(13日)<※改元当日>」に続く日付は、 「辛亥(24日)」「壬子(25日)」「甲寅(27日)」「乙夘(28日)」で、 肝心の「癸卯(16日)」の記述はなく、また「庚子(13日)<※改元当日>」には、 改元に際しての罪人に対する恩赦などに続き、白亀への返礼として大分の郡に対する、 官位昇級や場合によって物を賜うなどの記述は見受けられますが…それだけのようです。 御存知のとおり「嘉祥」「嘉祥の祝」等につきましては多数の説がありますので、 事は単純ではなさそうですので改めて、一から出直してみますと… たとえば 『古事類苑 歳時部7/神宮司庁古事類苑出版事務所編/神宮司庁/明29-大3』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/897577/48 <48~53/90>(1202~1213頁) 嘉祥(祥)の編には、多数の由来が掲載されていますが、 嘉祥期由来説は既に江戸期でも否定的に捉えられている記述も多い様子が伺え、 〔日本歳時記 四 六月〕十六日、… 今按ずるに、四季物語の説にしたがへば、そのよつて來る亊、誠に久しき亊になん侍る、 されども延喜式、江家次第、公事根源、年中行事などにも見えず、 まして國史にもしるさゞれば、いぶかしき亊にこそ覺え侍れ、… などとも記述されています。 逆に肯定的な記述となれば、たとえば、 『和漢三才図会 巻第四』「嘉祥食」 http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/wakan/wakan-ten/page.html?style=b&part=6&no=23 「世諺物語云仁明天皇承和十四年五月豐後國ヨリ獻ル<=>白龜<->、…」 或いは、 『大日本国語辞典 第1巻あ~き/上田万年・松井簡治/金港堂書籍/大正4-8』 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954645/418 <418/636>(810頁2段目11~24行目) かじゃうまつり 嘉祥<祥>祭 (名) かじやう(嘉祥<祥>)に同じ。 四季物語 六月「仁明天皇の承和一四年の頃、二神<神>の御告げおはして、 六月十六日は疫病の氣人の肌膚に入りて惱みをなすべし。 十六日の數によそへて、餠十六、或ひは木の實も數に調べ、百取り机物を營み祭らるべし。 さらずば主上の御身の上、まいて下司は重き惱みあるべしよものし給ふより、 めでたき事とて改元あり、嘉祥<祥>と改めさせおはして、六月十六日になん、 その事營ませ給ふに、その年民安く國豊かなれば、この事をつとめての年も 猶又行はせ給ふ事なるべし。大方後には嘉祥<祥>祭といへり」 「世諺物語」「(歌林)四季物語」等がポイントになりそうですが、 残念ながら「世諺物語」については全く情報がないため、 「(歌林)四季物語」について調べて見ますと、 『岡山大学教育学部研究集録 131号/2006』(1-17頁) 「「徒然草」と「四季物語」/稲田利徳」 http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/Detail.e?id=1096920100714184742 <2上・下段/17> …このような江戸時代の断片的な臆測ではなく、 近代になって本格的に偽書説を展開したのは、 岡田希雄氏「鴨長明四季物語偽書致上・下」であった。 岡田論文は、「四季物語」が偽書であると考えられる論拠を七点ほど提示しているが、 そのうち主要なものを挙げて紹介しておく。 … …(2)六月の条に「嘉祥(定)の祭」の行事のことが記されているが、 嘉祥の祝儀に関する記録を辿ると、最古の記録は「実隆公記」の永正四年である。 これでみると嘉祥(定)の祝儀の行われたのは、 永正を去ること余り遠く無い頃であったと考えられる。 嘉祥(定)の起源が室町時代の中期であったとすると、 その祝儀を古い時代からのものと信じて記述しているものが 長明の時代に出現すべきものでないこと。… … <3上段/17> 次に、浅野日出男氏「鴨長明四季物語偽書説をめぐって」も、 岡田氏の偽書説の再検討である。 特に、岡田氏が記録を博摸して論及した「嘉祥の御祝」につき、 それが「鈴鹿家記」の応永六年六月十六日の記事により、 永正頃より百年以上も遡れることを指摘、他の偽書説の論拠にも再検討を加え、 長明自身の手になる可能性もなきにしもあらずとし、 かつ「為定本作者は真の長明をかなり正しく把握したうえで作りあげたよう思われる。 後世の人間としても、鴨家に親しい者か長明の内実を知っていた人物だったと思われる。 それも長明の時代からあまり離れていない時代の人物だったのではなかろうか」と推測する。 さらには、「四季物語」は偽書説を離れて、 随筆文学として考察する意義があるとの提言も行っている。… などと「(歌林)四季物語」の作者が鴨長明(1155?~1216)か否かの真偽は別にしても、 専門分野の研究者が調べても6月16日の「嘉祥の御祝」で遡れるのは、 <「実隆公記」の永正四年>又は<「鈴鹿家記」の応永六年六月十六日>のようですから、 永正四年=1507年、応永六年=1399年とすれば、「嘉祥の御祝」の記述を 承和十五年・嘉祥元年=848年まで遡って探すにはどうやら相当に無理があるようです。 逆に言えば、決して秘匿すべき内容でもありませんから、 『続日本後紀』に限らず、嘉祥改元期当時の記録などの中に 仮に6月16日の「嘉祥の御祝」に関する決定的な記述が有るならば、 複数の説が登場する余地はなかったとも考えられますが如何でしょうか? あと、東京大学史料編纂所>データベース検索-データベース選択画面> できごとを主題に-大日本史料総合データベース>キーワード「嘉祥」検索によれば、 『御湯殿上日記』に限ると宮中に「6月16日」の嘉祥行事の記録が見え始めるのが 「享禄1年6月16日」(1528年頃)のようでそれ以降は概ね毎年6月16日に 嘉祥行事の記録が残っている様子です。 以上 直接の回答にはなりませんが、 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
お礼
回答ありがとうございます。 もうっ、ほんとに無茶苦茶詳しく書いてくださいまして、お礼の書き方も分かりません。本当に、ありがとうございました。 私は国史関連を専門で勉強したことがないので、ちょっと調べることにはなったのですが、手順などが分かっていませんでした。とりあえず、歴史書を探してみるか?くらいのことしか思いつきませんでした。 回答だけではなく、順番や手順も書いてくださいましたので、次回からまた似たような問題が出てきたときに、ある程度自分であたりをつけるこが容易になりました。 嘉祥の日自体の起源は、意外に新しいようですね。だからといって、それがまったくの嘘かどうかというのは、簡単に言ってはいけないのかもしれませんが、鎌倉時代あたりから、こういう伝承のたぐいは増えるのかなという気もします。 ここは久しぶりに利用するので、お礼のポイントがどうなっていたのか忘れてしまいましたが、システムで制約されてしまうと思うのですが、気持ちとしては、2000点くらい差し上げたいと思っています。広く参考図書や論文などもお調べくださいまして、本当にありがとうございました。調べるってこういうことだな、と学習させていただきました。m(_ _)m