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北条氏政は、信長の家臣?????????
信長公記 巻十二 天正七年 駿河路鳴動 氏政甲州表へ働の事 10月25日、相模国の北条氏政が信長公に好を通じ、約六万の軍勢を率いて武田氏攻撃のため出陣し、甲斐に向かって黄瀬川を隔てた三島(1)に陣を取ったとの報が届いた。この動きに武田勝頼も甲州の兵を出勢させ、富士山麓の端三枚橋(2)足懸りの砦を築いて在陣した。また徳川家康も北条勢に呼応して駿河へ攻め入り、諸所に火煙を揚げたとのことであった。 なおこの時期、相模の北条氏政の弟大石源蔵氏照(2)が鷹三連を京まで送り、信長公へ進上していた。
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本能寺の変で織田信長が死ななければ成立した と思われる、信長の娘と北条氏直の縁組が進行 していたので、織田ー北条同盟が結ばれたのは 確かと見られる。 これが永続すれば、北条は家康と同様の立場に なるが、氏政と家康は同格とは言えない。 家康は信長と形では対等だが、実質は与力大名 に近かった。 氏政のほうは石高からして、家康より格上だが 京を収めた信長には敬意を表していた。 3年後の武田攻めでも信長の要請に応じて出兵 した。 信忠の侵攻があまりにも早いので、北条は戦功なく 見返りを得られなかった。 その後、織田方と摩擦もあり不満があったようで、 信長の死により同盟は解消、敵方になった。 武田攻めが終わり、勝頼の首を見た信長は 「日本に隠れもなき弓取りなれども、かくならせ 給うものかな」と嘆いたという。 家康も礼を尽くしたとの由。 戦功で駿、遠、三、三国の太守になった家康を 信長は「東海一の弓取りなり」と褒めたそうだが、 姉川、長篠の戦功、負けたとはいえ箕形ヶ原(三方 ヶ原)での力戦など、信長に尽くした功績は大きい。 織田ー北条の同盟が続いたとしても、北条が 本気で協力するとは思えない。 信長としても200万石以上の大大名の北条を、 警戒するだろうから、いずれ潰されるのでは なかろうか。 家康と氏政の器量の差である。