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自性清浄心と聖なる甘え
- 質問文章は、「自性清浄心」や「聖なる甘え」についての議論をしています。
- 自性清浄心とは、生まれつき清浄な心を指し、仏典では心の清浄さを重視しています。
- また、「聖なる甘え」は、特別な修行を必要とせずに得られるものであり、思考を停止し自由な状態になることを意味しています。
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こんばんは。 ☆☆☆ ○その深さにおいてよい意味でも そしてひとに伝わり難いことにおいてわるい意味でも 《唯我独尊》ということなのでしょうか? そうでしょうね。 仏教は、世俗から一歩引いたところから物を見ますから。悪く言えば、上から目線でものを見て、考える。これは《慈悲》という言葉に象徴されるかと思います。《慈悲》とは純化された《憐れみ》。上から目線。対等な関係から生まれるものではありません。キリスト教の《隣人愛》とは決定的に異なる。 また《阿羅漢》は、四つほど意味があるとされますが、尊敬に値する人の意味です。出家と在家には対等な関係は存在しません。 色々な意味で仏教には《唯我独尊》的な要素があると思います。 教えについては、ヨーガに基づいた知的・哲学主義。ヨーガが教えの源泉だから、普遍性は持ちえない。さらに、仏教には言葉軽視の姿勢がある。人には伝わりにくい。それが分からないと《おまえは迷妄にとらわれている》と切り捨てられてしまう。 いろんな意味で仏教は《唯我独尊》だと思います。 ☆☆☆ ○人間の範疇に入らない女が ブッダの発言を聞いたあと どういうことを仕出かすか? これについて 必要なかぎりで考慮しておいてよいはずだ。です 正直、ブッダが向かう先は、《お利口で善い子》のサーマーワティーではなく、《おバカで悪い子》のマーガンディヤだったと思います。 それは、ブッダが発したとされる彼女への迂闊な発言が悲劇を巻き起こすことになるからではなく、救われない魂の救済という面からでもあり、僕の人間的な感情からです。 でも、ブッダは《お利口で善い子ちゃん》に向かってしまう。キリストは《おバカで悪い子》の方に向かう。ここに(実在のブッダの)仏教とキリスト教の決定的な差がある。埋めがたい溝があると考えます。 この事件は実在の事件ではなく、この仏伝は《ダンマパダ》の 《つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励むの人々は死ぬことがない。怠りなまける人々は、死者のごとくである》 を物語にして分かりやすく伝えようとしたものだと考えますが、 この物語がすでに、 仏教は《お利口で善い子ちゃん》のための宗教であるという一面をよくあらわしていると思います。 もしかりに、《仏教の教え》はみずから求めなければ与えられないということを仏教の求法システムとよぶとすれば、 《無明》《自業自得》《仏教の求法システム》を頭に刷り込まれた仏教の《善男善女》(かなり皮肉を込めています)は、何の疑いを持つこともなく、この話をすんなりと受け入れてしまう。 サーマーワティーの悲劇に涙し、マーガンディヤを「悪い奴だ。許せない」と憎むことでしょう。 そのことに何の疑いも持たない。 この仏伝の製作者もそうでしょう。瀬戸内寂聴の言葉を見るかぎり、彼女も「ブッダはマーガンディヤをなぜ救わなかったのか?」という疑問を感じていないようです。だからでしょう、《彼女には何の生命がなかった》みたいな酷い言葉を口にできるのは。 《阿呆で悪い子》の僕は、この言葉に「むっ」としました。かなり「切れ」ました。寂聴のこの言葉に、「それでは救いがない」と思いました。 ○女は人間ではないから ブッダはおのれの実存のあり方として直接に向き合って話をする必要はなかったとしても 間接的にブッダの発言が女に伝えられるわけですから その結果 どういう影響が出るか? これについては ひととおりのことをブッダは考えておいてもおかしくはない。むしろ ふつうのことです。 いやいや、「女は人間ではないから、ブッダがマーガンディヤに直接向き合って話をしなかった」というわけではないんですよ。 ブッダとて当時の女性蔑視の風潮から完全には脱却していない、その意味で、ブッダの《ブッダの教え》には限界があるというのが趣旨です。 女性を人間とみなさい当時のバラモン教支配の社会では、ありえないほど、ブッダは女性に優しいんですよ。 身分の賤しい女性が救いを求めにやってくれば、なんら差別をすることなく、理解力に応じて教えを説く。在家の妻帯男性信者には、「妻を敬え、尊敬しろ。装飾品を与えよ。大切にしなさい」と説く。女性出家信者も認める。これらは当時では信じられないほど、画期的なことなんですよ。 でも、みずから救いを、教えを求めなければ、わざわざこちらから出向いて教えを説くようなことはしない。 そこに出家宗教である仏教の限界があるという意味です。その意味で、インド社会、時代を超越した思想にはなっていないという意味です。 やっぱり、上から目線なんですよ、仏教は。庶民階級から生まれた、弾圧を何度も受けた原始キリスト教、イスラームとは違うんですよ。《お利口さん、善い子のための宗教》なんですよ。お行儀のいい人向けの宗教なんですよ、仏教は。大乗の般若経なんかにも、《悪い人に交わるな》みたいなことを書いていますし…。真宗の人は、うちは違うぞ、と、ほくそ笑むかもしれませんが。 ○事件の後追いをするだけになり つねに超然的な態度を取っているというのは 普遍性に欠けましょう。つまり 理論においては普遍性を問い求めているが 生活世界においては偏頗な態度が見られるのではないか。こういう問題だと見ます。 ブッダの教法姿勢は、ご指摘の通り、普遍性をもちえていない、と考えます。 当時のインド社会というごく狭い枠の中でしか成立しえないものだからです。 そのインドの中でにおいてさえ、イスラム勢力が侵入して社会が混乱し、出家集団をささえる在家集団のシステムが瓦解すると、仏教は簡単に消滅してしまいますから。 仏教の教法システムは、真の意味での普遍宗教のそれにはなりえなかったということの証明ではないでしょうか。 ○つまりは 執念深い《男》が 何かの発言を聞いて 理解しえず 変に仕返しをするようになるといった影響をも及ぼしかねない問題だとすれば 女の場合に限らないとなりますから 言っておく必要はありましょう。 史実ではないと考えられますが、あるんですよ、こういう仏伝。 以前、ご紹介した《ウッパラ=ヴァンナー》の話。 真正の聖女と言ってよいウッパラ=ヴァンナーが、ブッダの留守中にブッダの居室に入ろうとするデーヴァダッタの姿を見かける。で、「ブッダに非礼だ」と注意する。デーヴァダッタは、このことを恨みに思い、ある出来事をきっかけに、彼女の頭を叩き割って殺してしまう。 この話を使って、ダンマパダの一節を説明してくれれば、すべたが丸くおさまるのですけれど…。むしろ、この話しの方がふさわしいですから。 仏伝の製作者の頭に「女、馬鹿だし、嫉妬深いし…」みたいな根強い当時の女性蔑視の考え方があったのではと。 実在のブッダがそんなことを考えていたと言うのではありません。ブッダのおばさんで、育ての親であるゴータミーの出家を許す前に、 「アーナンダよ、その場合、女性とはいえ、さとりに達することができよう」 と言って、出家を許していますので。 でも「女性とはいえ」なのです。ブッダにしても根強い女性蔑視の考えがあったことだけはうかがえます。 ☆☆☆ ☆ ただし聖書では たぶん《香り》としてでも 何がしか引導を渡すかのごとく 納得させることを伴なうのではないかとは思います。 これも 理論化はむつかしいと思いますので 印象を述べてまた感想として 次のような主題を引き出してくるだけのことになるかと思います。 (あ) ほろびる者にも ほろびることに納得を得させることは 大事ではないか? の問題。 《香り》ですか… The Story によると、 マーガンディヤの悪だくみで王殺人未遂の嫌疑を掛けられたサーマーワティーに、王の放った矢があたらなかった…。 これは《神明裁判》の一種でしょうから、《香り》には十分だと考えますが… この時点で、彼女は「王の放った矢が実は自分に向けられたものである。それは紛れもなく、破滅への《香り》だ」と気づくべきだったのでは。 そうでなくても、何か変だと思い、普通、その意味を考えようとするのではないでしょうか。 でも、相手は《おバカ》なマーガンディヤですから、 ブッダが直接、マーガンディヤのもとに行き、教え諭す必要があったと考えられます。 でも、ブッダの話を聞く耳を持っていたかどうか。それ以前に彼女が会おうとするかどうか… なんとも微妙です。 ☆☆☆ 言葉による説得では無理なので、この《矢》をもって、彼女に教え諭そうとした。フォローした、 ということで、駄目でしょうか。
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- NemurinekoNya
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こんばんは、です。 今回もずいぶんと考えさせられました。 仏教に関係する問題なので、哲学的態度ではなく、 仏教的観点から、お答えします。 では、本題 ☆☆☆ (α‐4)まづこの経験世界を こんどは赤子の状態になって 超えることである。(因果関係から自由な状態になるという意味である) 十二支縁起 無明→行→識→名色→六入(六処)→触→受→愛→取→有→生→老死 赤子として生まれた時点で、すでに無明がある。 つまり、誕生の時点で、(赤子の)心は無明(煩悩)で汚れており、もはや”清浄"ではない、 ということになります。 苦(生・老・病・死)、つまり、輪廻を克服するには、《十二支縁起》の逆観、つまり、 老死→生→有→取→愛→受→触→六入→名色→識→行→無明 をたどり、輪廻の根本的原因である《無明》を克服しなければいけない。 それには、《修行》《実践》が必要です。 (α‐3) 《白紙還元》あるいは《われにかえる》と言うだけで済むのではないかと問うたのであるが エポケーということを持ち出さずとも 日本語にはちょうどいい具合いに《甘え》という言葉もある。 仏教の教義的には、《エポケー》は解決策になりません。 何もしないということでは、《無明》を克服できないからです。 業(カルマ)とは、本来、行為の意味です。人間の行為、仏教では《身業》《口業》《意業》としますが、 《カルマの教え》は、人間の行為・《三業》が輪廻の原因になるということです。 《エポケー》はなにも行為しないということと同じなので、 確かに新たな、輪廻・生滅の原因となる《業》は作りませんが、 すでに《輪廻の主体》に内在する輪廻・生滅の原因である《業》の除去にはならないからです。 輪廻・生滅の原因としての《業》を除去するには《善行》が必要なのです。 《善行》とは仏教の広い意味での《修行》です。 (α‐2) この世のシガラミによって清浄心がよごれて来ているとするなら そのつど余計な判断を中断して静かに世界の中に置かれたおのれを見つめるとき・つまり《エポケー》をおこなうとき そのシガラミはただ縁起によって起こるものとして空であり もともとの清浄心じたいも仮りの姿として空であると見られるようになる。ただ これだけのことではないのか? この世のシガラミで清浄心が汚れるのではなく、 汚れるのはあくまで自身の行為、すなわち自身の《三業》です。 この世のシガラミにとらわれるか、そこから離脱するかは、それはあくまで行為者の《自由意志》。 この世のシガラミは補助的原因・《縁》にはなりますが、 直接的な原因・《因》ではないからです。 仏教は、輪廻の原因をすべて個人の行動に還元します。 そこには一切の《甘え》は存在し得ません。 それは、絶対他力でも、たぶん、同じことです。 (真宗の)宗学をまったく知らないので分かりませんが、 絶対他力は、《みずからのはからい》を徹底的にそぎ落とした所に発生するもののはず。 その行為は、まさしく仏教のいうところの《自力》ですから。 仏教は自己に対して徹底的に《きびしい》んです。 (α‐5) つまりは 非経験の場としての神(または 無い神)を対象として・つまり非対象として わが心の《非思考の庭》において 《聖なる甘え》を持つ。これだけで済むことではないか? 仏教の三法印《諸行無常》《諸法無我》《一切皆苦》、縁起の理法などから論理的に導き出せるものなので、 その意味において《非思考の場》ではありません。 と言いきりたいところなのですが、これは論理的に少し無理があります。 仏教は、実在した《人間シャカ》が《ブッダになった》という宗教的確信・信念を抜きにしては成立しえないからです。 これは《非思考の場》。 《ブッダ》が実在した時代においてでさえ、 その体を触ることができる、話すことができるという意味で《非経験》ではありませんが、 《人間シャカ》が本当に《ブッダになったか》どうかは、確認できない。 《人間シャカ》の言動を通じて推測するしかない。 《どうやらブッダになったようだ》とは推測できるかもしれませんが、 あとは信じるしかない。 その意味では《非思考の場》です。(《非経験》ではない!!) 《ブッダになった》という確信・信念を《聖なる甘え》と言えば、まあ、そういう事なのでしょうねぇ~。 《阿弥陀さまの本願》も《聖なる甘え》になるんでしょうね。 こればっかりは、頭であれこれ考えても、どうしようもないですから。 アプリオリに受け入れるしかない!! ( h ) 尚、心が自性として清浄であるか否かは、諸部派の間で意見が分かれ、説一切有部などはこれを認めない。 おっしゃる通り、説一切有部は認めません。 しかし、説一切有部も重視する《ダンマパダ》の3章には 《心は動揺し、ざわめき、制しがたい。英知ある人はこれを直(なお)くする。 (途中略) 心が煩悩に汚されることなく、思い乱れることもなく、善悪のはからいを捨てて、 目覚めているに人には、なにも恐れることは無い。》 とありますので、 実在した《ブッダ》の到達した《心が煩悩に汚されない》状態を《自性清浄心》と言うのなら、 《自性清浄心》と表現出来るんでしょうね。 でも、《性》という言葉はまずい。 《自性》に誤解される恐れがある!! ( i ) 大乗仏教はすべてこれを承認する。 実はそうではない。 以前紹介しましたけれど、瑜伽(ゆが)・唯識学派は 《五性格別》の立場から、これを否定します。 《無性有情》は、永遠に輪廻の世界を流転するのです。 (《先天的な無漏の種子》が欠如しているから) 根本経典《解深密経》にそう書いてあります。 これが時と所を変え、日本で法相宗と天台宗の間で大論争を引き起こします。 《天台本覚思想》と《法華経》を根拠に、《五性格別》を説く法相宗にはげしく迫る。 法相宗は防戦に苦慮する… 実は、インドから中国に《唯識・法相》の教えを持ち帰った玄奘三蔵も 「実は、自分は《無性有情》なのではないか?」 と真剣に悩んだ。 それほど、《無明》《煩悩》というのは、強くて執拗。 修行の観点からすると、心は《自性清浄心》と言える代物ではない。 《自性清浄心》はめざすべき究極の目標でしょうね。 ○《心性本浄説》 たしかにそうなんでしょうけれど、厳密には 《心相(《すがた》の意味)清浄説》 とすべきなんでしょうねぇ… (と独り言)。 (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。 《白紙還元》が仏道修行の意味で、 《シガラミ》が《みずからの行いが作り出したもの》 という意味なら、 そうですね。 はい、否定しません。 例によって、ビシバシ、突っ込んでください。
お礼
ねむりねこにゃあさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 仏教に関係する問題なので、哲学的態度ではなく、 / 仏教的観点から、お答えします。 ☆ そのあとに 二段ロケットのごとく 哲学の問題としてあつかってくださってもよいと思います。 ★ 今回もずいぶんと考えさせられました。 ☆ 《無明》を持ち出されたのを知って 悩み始めました。 ★ ~~~ 赤子として生まれた時点で、すでに無明がある。 つまり、誕生の時点で、(赤子の)心は無明(煩悩)で汚れており、もはや”清浄"ではない、 ということになります。 ~~~~~ ☆ たしかにヰキぺの説明( e )でも《本来清浄》と《現実には汚れている》との両面を言っています。 けれども――揚げ足取りを敢行しますが―― (β‐7) 《もはや”清浄"ではない》という意味は 《生まれつきの状態として清浄でありつつ すでに無明が入り込んでおり どちらかと言うと 無明のチカラのほうがつよい》ということではないのだろうか? (β‐8) 前項に続きまして: ★ ~~~~ 苦(生・老・病・死)、つまり、輪廻を克服するには、《十二支縁起》の逆観、つまり、 老死→生→有→取→愛→受→触→六入→名色→識→行→無明 をたどり、輪廻の根本的原因である《無明》を克服しなければいけない。 それには、《修行》《実践》が必要です。 ~~~~~~ ☆ というさとりの方程式において すでに生まれつき清浄であり明知も〔潜在的なチカラとして〕そなわっている。ということではないのか? それゆえにも 即身成仏が説かれ得たと。 (β‐9) なお同じように: ★ ~~~ 仏教の教義的には、《エポケー》は解決策になりません。 何もしないということでは、《無明》を克服できないからです。 ・・・ 輪廻・生滅の原因としての《業》を除去するには《善行》が必要なのです。 《善行》とは仏教の広い意味での《修行》です。 ~~~~~ ☆ この善行ないし修行が目指す地点に到るということは 明知ないし清浄心がそなわっているゆえではないのか? ☆☆(趣旨説明欄) ( f ) そこで、悟りによって外来の諸煩悩を離れた状態は「離垢清浄」と説明される。垢(けが)れを離れて本来の清浄性を取り戻したという意味である。 ☆ もともとそなわった心の状態が顕わになるということだと受け留め得る。すなわち 《何もしない》エポケーでよいのではないか? あるいはつまり エポケーにしても《もののあはれを知る》にしても 《何もしない》ということは みづからの行為によって積み重ねたよぶんな業がそれらは余分だと見ることを通じて取り除かれて行って 知恵の核心にまで到るのではないか? 善行ないし修行によっておこなうことは 余計な業を意図的に削ぎ落として行くことなのであろうか? (β‐10) ★ ~~~ この世のシガラミで清浄心が汚れるのではなく、 汚れるのはあくまで自身の行為、すなわち自身の《三業》です。 この世のシガラミにとらわれるか、そこから離脱するかは、それはあくまで行為者の《自由意志》。 ~~~~~ ☆ 舌足らずでしたが ここで《シガラミ》とは こうです。もし相手の人間としての存在を受け容れているなら その相手との人間関係をもそれとして受け容れるものと考えますが そのときその場その情況におけるシガラミに対応してみづからの意志行為が成されます。それゆえ 《受け留めたシガラミに対応して》において 縁のほかに因の要素をもふくむと見たいと思います。 無明を受け留め包み込む明知と言えませんか? そのとき《何もしない》振る舞いとしては たとえば次のような親鸞があります。 ● (親鸞:末燈抄 22) ~~~~~ 『宝号経』にのたまはく、 弥陀の本願は行(ぎょう)にあらず、善にあらず【万行を修めること を求めているのでもなければ 諸善を積むことを条件としているわけで もなく】、ただ仏名をたもつなり。 名号はこれ善なり 行なり。行といふは 善をすることについていふことばなり。 本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには【心得た上は】、善にあらず、行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。 本願の因は能生(のうしょう)する因【直接の原因】なり。 能生する因といふはすなはちこれ父なり。 大悲の光明はこれ所生(しょしょう)の縁【間接の要因】なり。 所生の縁といふはすなはちこれ母なり。 ◆(親鸞:有念無念の事) ~~~~ 来迎は諸行往生にあり 自力の行者なるがゆゑに。 臨終といふことは 諸行往生のひとにいふべし いまだ真実の信心を得ざるがゆゑなり。 また十悪五逆の罪人 はじめて善知識にあふて すすめらるるときにいふことなり。 真実信心の行人は 摂取不捨のゆゑに【即時に】 正定聚のくらゐに住す。 このゆゑに臨終まつことなし 来迎たのむことなし。 信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀則をまたず。 (末燈抄・一 伊藤博之校註) ~~~~~~~~~~ ☆ 絶対他力による即身成仏を言っていると見ます。何もしません。ひたすら 聖なる甘えを敢行します。 ★ ~~~ 《ブッダになった》という確信・信念を《聖なる甘え》と言えば、まあ、そういう事なのでしょうねぇ~。 《阿弥陀さまの本願》も《聖なる甘え》になるんでしょうね。 ~~~~ ☆ アミターユスは もとより《非経験の場》として想定されていると見ます。これをわが心に受け容れ――その名を受け容れ言わば領収証を書き―― 《非思考の庭》が成るという姿とします。 非思考の庭において聖なる甘えをじっさいに持ち得ます。心の伸びもしくは明けとして。 《ブッダに成った》は その結果としての経験事象であるようです。つまり自性清浄心の顕在として。 ★ 説一切有部 ☆ コメントが出て来ません。(そこまでの知識がありません)。 ★ 《無性有情》は、永遠に輪廻の世界を流転するのです。 (《先天的な無漏の種子》が欠如しているから) ☆ これは 《一闡提》といった用語で記憶していますが またそれとは別ですか? たぶん仏性に例外はないと思うのですが。 でも ★ ~~~ それほど、《無明》《煩悩》というのは、強くて執拗。 修行の観点からすると、心は《自性清浄心》と言える代物ではない。 《自性清浄心》はめざすべき究極の目標でしょうね。 ~~~~~ ☆ ということなんですか。《生まれつきそなわっている》という見方にこだわりたいのですが 甘いですか? 無明・煩悩の強さは 例のパウロの罪の法則が執拗にはたらくといった見方に通じるように思われます。 ★ ~~~ ○《心性本浄説》 たしかにそうなんでしょうけれど、厳密には 《心相(《すがた》の意味)清浄説》 ~~~~ ☆ これは 《すがた》ないし《状態》を言うのですよね? それで エポケーなどにとって構わないと思います。 ☆☆ (β‐2) ・・・つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。 ☆ これが ブディストの真骨頂だと思うのですが どうでしょう?
- MOG777
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>つまりは シガラミの現実の中に位置して《清浄心》をたもつことは かんたんに出来るものではないのだ。こういう意味合いでしょうか? 事実を一瞬でもありのままに観れば、「私という馬鹿の心の声や判断、知覚を真に受けまい」と決意するわけですが、芝居に引き込まれるが如く分かっててもやめられない・・・ とういう意味です。
お礼
つづけてです。 ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~ ・・・自性として《本来清浄である》ことと《現実には汚れている》ことと どちらが優勢であるのか? (β‐5) どちらもそもそも生まれつきの状態であって どちらが優勢であるかは 人それぞれなのか? でも人間に生まれてくるということは まだ成仏していないということだとすれば 一般に《よごれ》のほうが優勢であるように思われる。ということなのだろうか? ~~~~~~~~~~~~~~ ゆえに 次のようなのでしょうか。 ★ ~~~ 事実を一瞬でもありのままに観れば、「私という馬鹿の心の声や判断、知覚を真に受けまい」と決意するわけですが、芝居に引き込まれるが如く分かっててもやめられない・・・ とういう意味です。 ~~~~~ ☆ よごれ・けがれのほうに向いて行ってしまうのだと。 パウロも同じように こころの葛藤を言っていましたね。 結論めいたことが言えないままですが・
- MOG777
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しまった、しまった。 そもそも《清浄心》とは何かを明らかにすることを忘れていました。 ですので、以下は私の考える《清浄心》を述べます。 >子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから 子どもも清浄な心の状態ではないというという立場です。 >自性清浄心の状態にあることを取り戻すこと自体は それほどむつかしいことではないと言えましょうか? はい。ただ維持するのが厄介です。 > ☆☆(α)・・・特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか? ☆ について 然りというお答えでしょうか? 回復できるが維持が難しいのでものの役に立たないことがほとんどであると思います。 役に立つとすれば、光明や確信の元になるということでしょうか。 >ひとりのチカラが弱いとすれば みなによるチカラの寄せ合いのほうに問題が移るのではないか? こう思っているのですが どうなんでしょうねぇ。 こころの状態ですから、各人から離して集めるということは無理でしょう。
お礼
もぐさん ご説明をありがとうございます。 ★ 子どもも清浄な心の状態ではないというという立場です。 ▲(ヰキぺ) ( e ) 自性として、には本来清浄ではあるが、現実には汚れているという意味が含められている。 ☆ というところでしょうか? このあとの ねむりねこさんも そもそもの人間の状態として《無明》を持ち出して来ておられるので こう問いたくなります。 (β‐4) それでは 自性として《本来清浄である》ことと《現実には汚れている》ことと どちらが優勢であるのか? (β‐5) どちらもそもそも生まれつきの状態であって どちらが優勢であるかは 人それぞれなのか? でも人間に生まれてくるということは まだ成仏していないということだとすれば 一般に《よごれ》のほうが優勢であるように思われる。ということなのだろうか? ところが もぐさんの見るところによると 自性清浄心の回復じたいは むつかしくないのだが・・・ということになる: ★ ~~~~ >自性清浄心の状態にあることを取り戻すこと自体は それほどむつかしいことではないと言えましょうか? はい。ただ維持するのが厄介です。 ~~~~~ (β‐6) 《無明》から解脱して《明知》に達するのは 割り合いたやすいことだが この明知を維持するのは むつかしい。ということか? ★ ~~~ 回復できるが維持が難しいのでものの役に立たないことがほとんどであると思います。 役に立つとすれば、光明や確信の元になるということでしょうか。 ~~~~~ ☆ 絶望するのはあたらないといった意味でしょうか? ★ ~~~~ >ひとりのチカラが弱いとすれば みなによるチカラの寄せ合いのほうに問題が移るのではないか? こう思っているのですが どうなんでしょうねぇ。 こころの状態ですから、各人から離して集めるということは無理でしょう。 ~~~~~~ ☆ これは 要するに回復した清浄心を維持するためには――そしてさらには ほかの人たちに影響をおよぼすことができるようになるためには―― どうすればよいか? こういう問い求めになっています。
- MOG777
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《清浄心》は物ではなく状態ですから、あるという表現は不正確です。 あるなしではなく、状態が一定期間維持できるかが焦点でありまして 「瞬間程度では現実には使い物にならんので鍛えろ」ということではないでしょうか?
お礼
もぐさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 「瞬間程度では現実には使い物にならんので鍛えろ」ということではないでしょうか? ☆ ううん。さて どうなのでしょう。もしこのご見解にしたがうならば 次のような場合にその清浄心の保持がむつかしいということを示していましょうか? すなわち ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~ (β‐2) 《白紙還元》と言ってもおそらく複雑かつ微妙だろうと思われる。 つまりは 清浄心に還るとかそれを回復すると言っても 子どもに成りきった状態で生きるのではないであろうから そうではなく おそらく白紙還元によって いまのシガラミを空と見るというその境地を築くことなのだと考えられる。 つまり 依然としてシガラミの真っただ中にいることに変わりはないのだと見られる。 ~~~~~~~~~~~ つまりは シガラミの現実の中に位置して《清浄心》をたもつことは かんたんに出来るものではないのだ。こういう意味合いでしょうか? ということは もっと具体的にどんな実際のあり方になりましょうか。 内面は 清浄心を取り戻した。活きている。けれども 外では相手や一般に社会との関係において 《外来のもろもろの煩悩(客塵煩悩)によって汚れている》という側面が消えたわけではない。消えたわけではないか それらを空と見るかたちが少しづつ出来て行くといった事態。 こういった情況なのでしょうか。 ということは もぐさんのご見解においては じっさいにどうなのでしょう? つまり 自性清浄心の状態にあることを取り戻すこと自体は それほどむつかしいことではないと言えましょうか? つまり 質問趣旨として ☆☆(α)・・・特別の修行を必要とすることなくふつうの勤勉な社会生活によってこの《自性清浄心》は 実現しうるし回復しうる。のではないか? ☆ について 然りというお答えでしょうか? なぜかと言いますと この清浄心を取り戻すことが割り合いかんたんに出来るとすれば あとは ひとりのチカラが弱いとすれば みなによるチカラの寄せ合いのほうに問題が移るのではないか? こう思っているのですが どうなんでしょうねぇ。 それとも 犀の角のようにひとりわが道を行くといったかたちなのでしょうか?
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お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 正直、ブッダが向かう先は、《お利口で善い子》のサーマーワティーではなく、《おバカで悪い子》のマーガンディヤだったと思います。 ☆ この見方は 控えていました。きれいごとに終わりかねないと思われたからです。 でも きちんと出してもらったからには 《誰に対しても なるべく(自分の度量のゆるす範囲で)隣り人となる》という行き方を わたしからも つけ添えておきたいと思います。 * ★ ~~~ ・・・ この仏伝の製作者もそうでしょう。瀬戸内寂聴の言葉を見るかぎり、彼女も「ブッダはマーガンディヤをなぜ救わなかったのか?」という疑問を感じていないようです。だからでしょう、《彼女には何の生命がなかった》みたいな酷い言葉を口にできるのは。 ・・・ ~~~~~ ☆ そうですね。次のように無難なしめくくり方でもあります。 ▲ (寂聴:《悪女 聖女を焼き殺す》の結語) ~~~ 人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は 考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間 で はかってはならないのだろう。 (瀬戸内寂聴『釈迦と女とこの世の苦』 p.159) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * 次のご指摘は 考え及ばなかったのでした。 ★ ~~~~ 女性を人間とみなさい当時のバラモン教支配の社会では、ありえないほど、ブッダは女性に優しいんですよ。 身分の賤しい女性が救いを求めにやってくれば、なんら差別をすることなく、理解力に応じて教えを説く。在家の妻帯男性信者には、「妻を敬え、尊敬しろ。装飾品を与えよ。大切にしなさい」と説く。女性出家信者も認める。これらは当時では信じられないほど、画期的なことなんですよ。 でも、みずから救いを、教えを求めなければ、わざわざこちらから出向いて教えを説くようなことはしない。 ~~~~~~ ☆ 《でも》以下が 言われてみれば 確かに独特なようですね。 ★ 色々な意味で仏教には《唯我独尊》的な要素があると思います。 ★ お行儀のいい人向けの宗教なんですよ、仏教は。大乗の般若経なんかにも、《悪い人に交わるな》みたいなことを書いていますし…。真宗の人は、うちは違うぞ、と、ほくそ笑むかもしれませんが。 ☆ 同じくですが なお引用します。《教法システム》にまで及ぶこととは知りませんでした。 ★ ~~~~ ブッダの教法姿勢は、ご指摘の通り、普遍性をもちえていない、と考えます。 当時のインド社会というごく狭い枠の中でしか成立しえないものだからです。 そのインドの中でにおいてさえ、イスラム勢力が侵入して社会が混乱し、出家集団をささえる在家集団のシステムが瓦解すると、仏教は簡単に消滅してしまいますから。 仏教の教法システムは、真の意味での普遍宗教のそれにはなりえなかったということの証明ではないでしょうか。 ~~~~~~~~ * ★ 《ウッパラ=ヴァンナー》の話。 ☆ かつてデーワダッタを悪者と見るこには 誇張があると 加藤周一だったかが言っていて デーワダッタにかんしては その後割り引いて受け取っていました。史実ではないとしても 考え方の上で真実に近いということなのですね。男の話としてなら ブッダもかまってみるというところでしょうか。(ちょっと言い過ぎでしょうか)。 * ★ ~~~~ 《香り》ですか… The Story によると、 マーガンディヤの悪だくみで王殺人未遂の嫌疑を掛けられたサーマーワティーに、王の放った矢があたらなかった…。 これは《神明裁判》の一種でしょうから、《香り》には十分だと考えますが… この時点で、彼女(=マーガンディヤー)は「王の放った矢が実は自分に向けられたものである。それは紛れもなく、破滅への《香り》だ」と気づくべきだったのでは。 そうでなくても、何か変だと思い、普通、その意味を考えようとするのではないでしょうか。 ~~~~~ ☆ なるほどですね。 ★ 言葉による説得では無理なので、この《矢》をもって、彼女に教え諭そうとした。フォローした、 / ということで、駄目でしょうか。 ☆ たぶん ここから踏み出す次の段階は 《みづからの悪をさとるのに ほかの人の犠牲をともなうことがある》事例 この事例を――いささか安易な言い方ですが―― 《前史》とすべく考え方を練って行くこと。これではないかと考えました。 しかもそれは そうだとすれば 例の《友のために命を投げ出すことほどの愛はない》の考え方をも突き抜けようとする大胆な方向での志向性です。(このような向こう見ずの言葉を発したあとにはわたしは よく《へへっ》という言葉を添えるならわしですが さすがびびります)。 * ねむりねこさん おかげさまで いいスレになったと思います。 みなさんにも たのしんでもらえたのではないでしょうか。 いましばらく開いています。補遺などありましたら お寄せくださいませ。