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ブッダ vs フロイト | センセーショナルなタイトル
- 諸法無我の説によれば、トラウマは存在しない現象であり、心的外傷は屁の河童と見なされる。
- 仏教では無我の概念が重要であり、それによって平和な涅槃の理想に到達することができるとされる。
- 心的外傷は外的内的要因による衝撃的な体験によって引き起こされ、精神療法や薬物療法の治療が有効であるとされる。
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ご無沙汰しております。 >( b ) 心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。 これでよろしいでしょうか? ☆ 仏教的にいえば 「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」 とは言えますが、「屁の河童である」とは言えません。 なぜなら、仏教の「無我」、「空」は存在の否定を意味しておらず、 物質的、精神的現象の存在性を認めているからであり、 因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。 (おそらく、仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとるのでしょう、たぶん) bragelonnneさんは、「諸法無我」の「無我」を「我執がない」と解釈していらっしゃいますけれども、 この無我は「アートマン(我)」がないという意味で、 「あらゆる現象にはアートマン(実体)がない」、 「現象はさまざまな原因や条件で成立しているのであって、現象そのものに恒常不変のアートマンが存在するわけではない」 という意味です。 >( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。 ☆ 「トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。 だから、その原因、条件を一つ一つ対治してゆけば直る」 ということを意味するのならば、仏教的にこの主張は正しいです。
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- kurinal
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>「《根治》なら 心配はないわけですから。」 いかにもフロイトらしい、ですね。
お礼
つづいてご回答をありがとうございます。 いえいえ。これは 強いて言えば 確かにブディズムの《無我説=縁起説=空観》の立ち場として わたしが勝手に言ったことばです。 言いかえると フロイトは わたしはまるで敵対しています。ムイシキ説は おかしいと思っている者です。
- kurinal
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「卒業」と「根治」との違いを、よろしれければ、ご教授ください。
お礼
つづいてご回答をありがとうございます。 それは ★★(回答No.6) ・・・「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば、トラウマ卒業、でしょうか。 ☆ とありましたから 《卒業》したとしても ちいさく傷の痛むこともあろうかと思ったからです。少し心配することが必要な場合が あるというかたちで。 《根治》なら 心配はないわけですから。
- kurinal
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>「早く言えば 《完治することではないが ほぼ終わったと言える状態にまでは成れる》ということでしょうか」 仏教的に、凄いことを示唆されていると思います。
お礼
つづいてご回答をありがとうございます。 いえいえ。わたしは ブディズムについて知識として知っていることがあるだけです。むしろ批判しています。もっとしっかりせえいと。 でも 《根治》すると行きたいところでもあります。
- kurinal
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bragelonneさん、どうも。 「トラウマ」に関して言えば、 「確かに(過去)生じた、危機的状況が、(仰る通り、)一生つづくというのでもない」 ですが(それは)「確かに(過去)生じたもの」なのですから、「全ては仮のこと」などとも言えない。 ・・・「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば、トラウマ卒業、でしょうか。
お礼
つづいて ご回答をありがとうございます。 ★ 「確かに(過去)生じたもの」なのですから、「全ては仮のこと」などとも言えない。 ★ ・・・「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば、トラウマ卒業、でしょうか。 ☆ としますと ★ 「全ては仮のこと」などとも言えない。 ☆ というのは ひとまづとしてでも ブディズムの縁起説とは別だという主張のようです。 ★ 「必要以上に心配することは無い」、ということが判れば ☆ ということは 早く言えば 《完治することではないが ほぼ終わったと言える状態にまでは成れる》ということでしょうか。 そうしますと いづれの場合も ブディズムによれば 《完治する》ものであり それはなぜなら ただ仮りにそういう現象が起きているだけなのだから と言うと思います。このところブディストは弛(たる)んでいますから はっきりと言わないし関心もないとさえ言うかも知れませんが これを放っておくわけにも行かないはずです。 あとは ブディストの側の問題になるということかも知れません。 くりなるさん ありがとうございました。
- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 いわゆるPTSDからの立ち直りには、「そのような(PTSDの原因となったような)危機は既に去り(過去のものであり)、(現在から未来にかけては、過去に生じた危機とは無関係に)安全なのである」という安心感を得られることが肝要であると、聞きかじっております。
お礼
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうしますと どうなりましょうか。 ★ いわゆるPTSDからの立ち直り ☆ これは ありうるということになりますね。トラウマが 一生つづくというのでもない。これでよろしいのですかね。そして そのことは ブディズムが 無我説=縁起説=空観で トラウマもうつろいゆく現象であり すべては仮りのことであるとわざわざ言わなくても トラウマは直る。こういうことなんでしょうかね。 それでしたら 特に問題にすることもなかったかも知れませんが。 そういう見方もあるということ 承りました。ありがとうございました。
- ri-zyu
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>心的外傷は 現象として起きても 屁の河童である。 屁の河童であるというほど、生易しいものではないですが。 本性(自性)を自覚すれば直るでしょう。 本性(自性)自覚すれば直そうとするのを止められますから、表面上の心の表れは 雲の流れのように変わっていくもの、それをトラウマ或いは症状とし智的はからいを遣ってしますので 本来、雲の流れのように変わって行く表面上の心が症状として固着していきます。 表面に現れる心が本来、本人の智でコントロール出来ないと解ればいいわけです tumaritou1さんが神との和解とか無意識の意識に出会ったと言っていますが これはtumaritou1さんなりの言い回し方だと思います、それにより直すことを止められた のだと私は思ってます 自覚がなくても本人がとことん苦しんでもう直らなくてもいいと思えば直ります。 tumaritou1さんの言って、おられるのはフロイトの精神分析ではなく 禅に類似していると、いわれる森田療法が基盤になっています。
お礼
こんにちは。ご回答ありがとうございます。 ★ 本性(自性)を自覚すれば直るでしょう。 ☆ 自性つまりアートマンなる・実体としての我がないと自覚すれば だと思います。 ところが けっこう むつかしい。もしくは ややこしいと あとで分かりました。 それは こうです。 ひとつは 例のアーラヤ識なる仮説とどうかかわらせるか。 種子とか薫習とかいうとき そのようなあたかも或る種の業としてのトラウマが 形成され受け継がれると見るのは あくまで仮りの現象である。とことわっているなら だいじょうぶなのですが。 もうひとつは 仏性です。 縁起説=無我説=空観に立って トラウマを生むような人間の実体としての本性(つまり 自性)はないと言うとき しかもその基礎には 仏性のやどりは 想定していると思われるからです。 あらゆるものに仏性がやどるという説は その仏性が じつは すでに何ものにも左右されない・変わらざる霊であると想定しているはずです。つまり 縁起を空と観る見方を超えて或る種のアートマンなる実体として 仏性を見ているはずです。そうでなければ トラウマからの自然本性の回復もかなわないと見ているはずです。 だから 仏性が 変わらざる実体であり自性であるなら トラウマないしそれを作ってしまうムイシキの領域もあるわいなと 勝手にうそぶくかも知れません フロイトなら。 あぁ こまった。困った。 必ずしもぜんぶにお応えしえていないとは思いますが このように述べて さらに進展を期します。 ご回答をありがとうございました。
- 畑 茂夫(@Flareon)
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お気づきかもしれないが私は本来真面目な哲学が苦手で、質問文も最初の十行位しか読めませんでした。 それ以降は降参です。 むしろ無常に主眼を置くべきで、とらわれる処の執着なるものがあるなら、それは無常と異なる。 そこから我を悪玉にする無我の考えに発展したのではないか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 無常に主眼を置くべきで、とらわれる処の執着なるものがあるなら、それは無常と異なる。 ☆ そうですね。そうなのでしょう。そういうことなのでしょう。 そしてしかも それでよいのなら ふたつ そこからの発言や行動がすでに行なわれていて不思議ではない。こういう趣旨になります。 つまり ひとつに トラウマは 心の傷としての現象が確かにまぼろしとしてではなく現実にあるが それとても 傷そのものとしての――自性としての――存在が つねにあるわけではない。つまりその傷とても 無常であるはずなのだ。必ず移りゆくものであり 直るはずであると。 こういうことをブディズムの側は 精神医学のトラウマ理論に対して しっかりとはっきりと言挙げしていなければウソである。と思います。 もうひとつに だとすれば 当然のごとくブディストとしてのあたらしい独自の精神医学がすでに切り拓かれていても 不思議ではない。こういう思いです。 こういう質問になっています。
- NemurinekoNya
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仏教は精神分析や精神医学、心理学といわれるものが生まれる2000年以上前に生まれた 宗教、思想なので、精神医学のトラウマについて触れられていないのは確かです。 歴史的にこれは仕方がないことだと考えます。 そもそも、仏教は、精神医学や心理学ではなく、心の平安を目指す宗教ですから。 さてさて、前置きはこれくらいにして、質問にお答えします。 > でしたら こんどは その直すことをやってるんでしょうか? と尋ねたくなりますが まづは この主張をきちんとはっきりと打ち出すことが大事だと思います。 ☆~~~ 日本の既成教団で現在そのような治療行為(?)を行っていないと思います。 >( d ) トラウマという心の傷は それとしての実体のある存在としてはいっさい存在していない。《生まれている》と言っても その現象には それ自体で自存するという実体はない。 とはっきり言えるのでしたら しめたものです。 ☆~~~ 「心的外傷は現象として起きても、心的外傷は本質的に無我、空である」 でおなじことを言ったつもりなのですが… >( e ) トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。 と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか? ☆~~~ おっしゃる通りです。 「仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとる」 と書いたのは、そのためです。 心的外傷すなわちトラウマは、仏教的に言えば、 一種の迷い、心の動乱、迷乱、 あるいは、 ”幽霊を信じるような”誤った認識(虚妄分別・こもうふんべつ) に分類されるでしょうから、 仏教修行の実践(瑜伽)で本当に根治するかどうかは別にして たぶん、仏教の修行論のどこかに その解決策は示されていると思います。 仏教の修行論、教義(日本や中国のものではなくインドのもの)は、煩悩的迷い、知的迷いを含め、その構造を徹底的に分析し、 それを一つ一つ克服するために作られたものですから。 私は仏教の専門家でないので、 具体的にどのような修行(瞑想法)が該当するかは、答えかねますが… ☆~~~ 最後に 仏教修行が実際にトラウマの完治に役立つかどうかは別にして、 仏教は「仏教の修行法をただしく行えば誰でも悟りを得ることができる、 成仏することができる」という立場をとりますから、 トラウマも完治できるという立場になると考えます。 これが 「精神分析では トラウマの完治については 懐疑的なのではないでしょうか? そんな思想にまかせておくわけにはまいらない。こう考えますが どうなのでしょう?」 に対する私の答です。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ☆ ~~~ 最後に 仏教修行が実際にトラウマの完治に役立つかどうかは別にして、 仏教は「仏教の修行法をただしく行えば誰でも悟りを得ることができる、 成仏することができる」という立場をとりますから、 トラウマも完治できるという立場になると考えます。 ~~~~~ ★ これが 承け継がれて来ている伝統なわけですね。 そうしますと このこれまでの伝統の思想と修行に加えてさらに あたらしい心理学や精神医学を ブディストの人びとが切り拓いて行くということ これが望まれますし むしろすでにじゅうぶんに研究と実践が行なわれていてもおかしくない。こう思われます。 ☆ ~~~ 「仏教では、瞑想や思索により心的外傷の原因を徹底的に分析し、 その実有性を否定して、心的外傷を克服するという手法をとる」 ~~~~~ ★ これは 基本的な伝統の哲学だと思われますので さらにそこへ精神医学を積極的にそしておそらく批判的に摂り入れて あたらしい医療哲学を形成して行けばよいと思われます。 そうでなければ 仏教はもう終わったかと言われても仕方がないのではないでしょうか。 勝手ながら。かつ ぶっきらぼうにて。
お礼
ねむりねこにゃあさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 いろいろあるようですが・つまり浅く乱暴に解したところがあるようですが 最後の命題について肯定の回答をいただきました。 ☆ ~~~~~ >( c ) トラウマは 存在しない。現象として起きても 直る。 「トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。 だから、その原因、条件を一つ一つ対治してゆけば直る」 ということを意味するのならば、仏教的にこの主張は正しいです。 ~~~~~~~ ★ でしたら こんどは その直すことをやってるんでしょうか? と尋ねたくなりますが まづは この主張をきちんとはっきりと打ち出すことが大事だと思います。 ☆ トラウマは、さまざまな原因、条件があって生まれる(因縁所生)。 ★ つまり ( d ) トラウマという心の傷は それとしての実体のある存在としてはいっさい存在していない。《生まれている》と言っても その現象には それ自体で自存するという実体はない。 とはっきり言えるのでしたら しめたものです。 ☆ 仏教の「無我」、「空」は・・・因縁で生じたさまざまな現象が我々の肉体、精神へ及ぼす影響力を認めているからです。 ★ ですから この影響力について ( e ) トラウマという現象が われわれの身と心に及ぼす影響を具体的にきちんと分析し検証するという作業が望まれる。 と考えられます。ここは ブディズムの真骨頂であるのではないでしょうか? 精神分析では トラウマの完治については 懐疑的なのではないでしょうか? そんな思想にまかせておくわけにはまいらない。こう考えますが どうなのでしょう。 すでにこういうことは言われて来ていましょうか。すでに対処されていましょうか。 もし放っておかれているのならば 仏教もただの観念論だと蔑まれざるを得ません。 ありがとうございました。こんなふうに思いました。