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自我と自己について
こんにちは。自我について、質問させて頂きます。 様々解釈はあると思うのですが、一般的に、青年期で言う自我の目覚めというのの自我と、幼児などの自我が強いと云う方の自我との違いは、自己を客体化できているかつまり自分を客観視出来ているかいなか、ということでよいのでしょうか。 また、自己と自我の違いは、自己を見る意識が自我、見ようとされているものが自己ということでしょうか。そしてそうだとしたならば、見られている自己は、決して見ようと思っている自己でなく、つまり私たちは客体化された、いわば像としての自己しか見る事はできない、ということになるのでしょうか。
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>自己は意識〈以外の〉精神活動という事でしょうか。 まあそういうことになりますが意識も含めての統合性とでも言いましょうか。コンピューターで言うCPUにあたるところだと考えればよいと思います。 >自我は移ろいやすく、自己は継続的にその主体に備わる、ということでしょうか?それとも自己が主体そのものなのでしょうか。 これは難しいところで主体性としては自我的なイメージですが自己主体的な側面では自己自身が自我と連携して主体性を持つこともあります。松本サリン事件のオーム真理教の場合自己と他者もしくは環境に置いて自我を変化させ自己主体が麻原そのものになってしまっていた組織です。西洋人には自己と自我との関係が強く自我と他者と関係が強く自己と他者との関係は弱い傾向があるそうです。しかし東洋人は自己が中心になって他者との関係が成立しやすい傾向があるみたいで、悪い方向へ流れると他者中心化してしまう可能性があるのが東洋のヤバイところです。その一例がオーム真理教です。かと言って西洋的な傾向がよいのかといわれても難しいところで自我が中心になって自己と他者との関係がなりたっているので悪い方向へ流れると暴動や戦争などに発展する傾向があります。 あくまで傾向の話なので個人とはまったく関係の無い話です。まあその辺の諸説は色々あるみたいななので個人的には言及しません。あくまで噂の話です。 >自我は自己と完全に別個として考えてよいのでしょうか? 上記にも多少触れましたが完全に別個として考えるのはいかがなものかと思います。重なる部分もあるだろうし重ならない場合もある。という見方でいいかと思います。あと一つ時間的経過で自己も自我もいかようにも変わりますから一概に「固定」であるとは言えません。むしろ流動的であると表現したほうが近いと思います。 >>自我は自己から連絡を受けるので自己認識が出来る >自己が能動的に自我に働きかけるイメージをしていいのでしょうか? まあその場合もありますが(神からメッセジを受けたと感じる人など)自我が直接自己にアプローチを掛けて話し合いをする場合もありますのでやはり一概にはいえませんのでやはり流動的と言ってよいと思います。 (流動的→辞書で調べてください。)
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- tumaritou1
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心(念や脳の働き)を学ぶなら、分かり易いと思いますので、脳の機能の科学的な研究成果です。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” 脳の構造がそのまま心の構造になっています。つまり、心は二つ在る事を意味します。そうして成長段階において、脳の機能完成を待って『二つの機能として分れた心が、相争う事』を意味します。 その脳の機能が完成する時期が、思春期頃になると云う事です。 右脳の意識は、左脳に存在する『自我意識』の前から姿を隠しています。自覚でき難くなっていますが、動画によって、右脳の意識の何たるかが詳しく説明出来ている動画がありますので載せてみます。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 右脳の意識は、人間の『自我意識が出ていない時の』自分の身体と心を支配している意識です。人間の正常な営みは、自我意識と『無意識の時の自分』との交替制から成り立っています。 この交替制が、正常に働いている場合を『健常者』と呼んでいます。 眠る事一つ取った場合でも、ぐっすりと深い眠りが出来ている場合では、交替制が良く確保出来ている事を意味します。 もし交替制が確保出来ないとするなら、『意識して眠りにはいる事を、待ち構えている事』を意味します。眠ろうとする事から眠りは逃げてゆく場合です、この自我意識が強く『単独で眠れるもの』と勘違いする状態が『不眠症』の原因を作っています。 良く眠れる場合では、眠ろうとしていません、自我意識は『段々と意識が無くなってゆきます、そうして無意識の自分とすっかり入れ替わった時、深い眠りに入っています。』 このように無意識の自分が身体と心を支配している時『身体も心も休まっています。』ですが、自我意識は無意識の自分『右脳の意識』の存在を知らないで居ます。 すっかり心が一つのものとして働いている場合が『幼子』の状態です。その状態の時が『自己』です。 『I am..』と言った時に自己が自我意識に戻ります。 右脳の意識は『自己の生命維持装置です。』自我意識では計り知れない力を持っています。或いは、過去の記憶も持っています。 その記憶とは、生命が生命として生きる力そのものです。その場その場の状況を『自我意識』に、意識していないところまでも、知らせる機能です。 高い所や、狭い所や、鋭い刃物を見た時の感覚として知らせる機能です。男女の関係で言うなら『この人とは遊びに過ぎない事』を知らせるシステムとして働く機能です。 或いはこの人とは、先の見えない将来においても末永く上手く行く事、つまり真実の愛をお互いにおいて確認する事が出来る機能です。この事がお互いの間で確認できた時『赤い糸』で結ばれていた事が分ります。 誰でもが持っている働き『生命の維持装置』が右脳の意識です。 生命が生命として働き始める時から働き始める機能です。誕生するや否や『学校で習った訳でもないにも拘らず』泣く事も、笑う事も、不安も安心も、恐怖する事さえ知っている機能です。 身体に対しても機能しています、心臓の早さも、肺の機能も、ホルモンの分泌機能も全て賄っているる機能です。 『心』に関しても『行動』に関しても係わっています。 只眠る場合と同じで、『自我意識には分り難いですが?』 自分の心(脳の機能におけるシステムの関係)のシステムが分る時、心を病む事、神経症である事、或いは自律神経失調症や、難治性の症候群である事のからくりが分ります。 今の医学は『心』=『脳』の働きの一部分のみの解釈で全てを判断しようとしています。『心』=『脳』の働きの内の、自我意識のみの訴えを聞くだけで『右脳の言い分』を聞く事が出来ない事が、今の医学の盲点になっています。 心の半分(妄想)を事実と誤認していると言う意味があります。薬付けの弊害に気が付かない原因となっています。
お礼
詳しく丁寧な説明ありがとうございました。 リンクの動画もとても興味深かったです。 双方の脳半球は、『それぞれ独立した意識』 を持っていて、左脳が『自我意識』として、右脳が『自己の生命維持装置』として働く、という事ですね。 そして、成長すると、左脳が発達し、自我意識が生じ、元々あった右脳の機能と『相争』い始める。(故に戸惑いも大きく多感な時期になる?) 幼児期は左脳ではなく、生まれた時から備わる、生命維持の働きをする右脳がほとんどを担う…という事は、いわば本能的な機能にのみ従っている、ということと理解しました。 左脳が「考える」、「意識する」といった部分を担うのなら、確かに右脳は意識に上がりにくいですね。 自然に歩ける、自然に食事が出来る、というような、無意識の部、無意識に体が動いて生命活動に赴かせる部分は、右脳の働きなのですね。
自我というのは意識的な中核であり。精神的に安定していると安心します。しかし人や現実は絶えず変化していくものでそこで葛藤つまりコンプレックスが生まれ例えば今まではうまく行った事がある時から新しいなにかが表れ葛藤に悩まされ苦しんだ人がいたとすると、その新しい何かが現れる前の自我が新しいなにかが現れた時に今までのやり方が通用しなくなります。以前は通用したのに今は通用しない、この場合以前のままであれば自我は安定しているといえますが通用しなくなった状態は自我が安定してるとはいえません。この時に自我は現実に適応するために変化していきます。そう考えると現実と自らが安定している状態が自我が強いと表現するのだろうと思います。が変容を迫られた時の自我そのものは自我の崩壊もしくは自我が変容するという表現になると思います。 それで以前の自我と今の現実との葛藤の中、精神全体を支える中間組織の事を自己と言います。行ってみれば自我が不安定の時の他の精神状態や現実や他者との間における仲介役の事を自己という訳です。なので自我安定しているときは自己は傍から見守っていると思います。その状態が永久に続けば良いですが人間と現実は日々変化していきますからそれに対する適応に置いてアンバランスな状態からバランスの取れた状態へ移行する仲介役が自己と言えると思います。そう考えると自己と自我は相反的な役割でありながら補償し合う存在でもないかと思います。 >また、自己と自我の違いは、自己を見る意識が自我、見ようとされているものが自己ということでしょうか。そしてそうだとしたならば、見られている自己は、決して見ようと思っている自己でなく、つまり私たちは客体化された、いわば像としての自己しか見る事はできない、ということになるのでしょうか。 そうではないと思います。自我から見るのは確かですがその自我は自己から連絡を受けるので自己認識ができるわけであって、相手が自分をどう思っているか理解できるのと同じ事で確かに自我で判断していますが自己からの視点で自我を見る事はできると思います。
お礼
ありがとうございます。 自我は意識活動、自己は意識〈以外の〉精神活動という事でしょうか。そして自己は意識に上がらず、自我を傍らで見守る。 自我は移ろいやすく、自己は継続的にその主体に備わる、ということでしょうか?それとも自己が主体そのものなのでしょうか。 自我は自己と完全に別個として考えてよいのでしょうか?他に頂いた回答と合わせて確認というか、少し気になりました。 >自我は自己から連絡を受けるので自己認識が出来る 自己が能動的に自我に働きかけるイメージをしていいのでしょうか?
- shift-2007
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自分から見た自分が自我 他人から見た自分が自己 という分類でいいのではないかと思います。 私たちは自分からしか見えない自分(自我)があり、自分からは見えない自分(自己)があるという存在ですね。 自己と自我が合わさった存在なのでしょう。 >客体化された、いわば像としての自己しか見る事はできない そもそも私というコアはどこに存在しているのでしょう? あるのは意識だけで自分だと思っているものはすべて記憶によって作られたイメージでしかないのではと思います。
お礼
ありがとうございます。 自我が主体的意識であり、人とその視点を共有できない。 自己は客観的に見られる存在である、自分では見えない、という事ですね。 その二つが合わさった存在が私たち。 その私たちというものは、意識(自我)によって記憶されたものから作られたイメージでしかないのでは、という事でしょうか。
お礼
後半の質問にまで答えて下さり、本当にありがとうございます。丁寧で、とてもわかり易かったです。 精神の部分は様々な条件が重なってその働き方は変化するので、一概に「こうだ」と言い切ることが難しいものだと云う事ですね。 西洋と東洋における自己・自我の傾向の違いは、はじめて伺ったので(不勉強ですみません)興味を持ちました。自分でも調べてみたいと思います。