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自我研究の意義は案外疑問が挟まる
- 哲学における自我の研究目的や物質の分析手法について紹介しました。
- 原子の発見と哲学の関係、そして宇宙論の限界について述べました。
- 自我研究が全体像や本質の解明には至らないことを指摘しました。
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残念な事に、抵抗はしない(^^)。 科学は例えば次のようなやり方で、人間玉ねぎの芽まで、そのうち根こそぎ摘んでくれる。 [定義1] 自我に価値を見出すとは、それが達成できたときに、あなたが気持ち良くなって安心できる状態を指す。 [定義2] 気持ち良くなって安心できる状態とは、脳のこの部位の電位活動や、海馬から放出されるあれこれの種類のホルモン物質が、これあれの値以上や以下になる事である。これらは全て測定可能であり、そうなれば気持ち良くなれる事は、全人類を対象とした調査結果で実証されている。 [定理] こうすればあなたは、気持ち良くなって安心し、自我に価値を見出せる。 (証明) 人間業とは思えないくらいに面倒臭いが、即物的な研究をまとめた論文の結果。 そして最後に科学は言う。 「定理に従えば、あなたは確実に自分の自我に価値を見出せる。しかしそれが絶対的価値であるかどうかは、我々は問わない」 「我々は、あなたが確実に気持ちよくなれる手段を提供するだけだ。その状態に真の絶対的意味があるかどうかを判断するのは、あなたの仕事だ」 「何故なら我々は、定義1と2を前提として結論を述べたに過ぎないからだ」 「そこに文句があるなら、我々には聞くな。勝手にやってくれ」 ・・・という訳で、 ・蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノバァー. という事になります。 ・我々はどこから来て、どこへ行くのか?.
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- kazamidori360
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『ヴァルキリープロファイル』(VALKYRIE PROFILE)はトライエースが開発、エニックス(現スクウェア・エニックス)が発売したコンピュータRPG。1999年12月22日にPlayStation用ソフトとして発売され、2006年3月2日にはPlayStation Portable用の移植版である『ヴァルキリープロファイル -レナス-』が発売された。略称は「VP」または「VP1」。 https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァルキリープロファイル ~~~~~~~~~~~~~~~~ 私はこのゲームの名前しか知らないので、どのようなゲームか知らないのです。 北欧神話もほとんどしらないですから。
お礼
ゲームじゃなくて、人の死後と神のかかわりでも研究したんかい。 私には乱闘としかそれは語れないね。
補足
死の儀式にはいろいろと言いたいことがある。 観念世界を精神世界と言い換えても却下。 臨死体験を神秘体験と言い換えても却下。 人がずる賢く言い換えても、迎える天界の住人が納得しない。 そうした試練ではあるが、絶対的に定められた事柄ではない。 不正を見抜き許可しないだけだ。 弊害はもちろん承知しているよ。 なす術もないままの放置をしないことは、私が体を張ることであったけどね。 自らが死を望む行いでなく、自らが生きることを望む行いをすると、悪魔の復活と同じ現象が起きて、悪の真相が暴露される。 で、人間悪についての研究というか人体実験だ。
- kurinal
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大局的に考えて、 「全体が定まらないことには、部分の評価も定まらない」ということですね。 宇宙の外側を観測していくのは結構ですが、 「人格を砕き、自我を砕き」なんてことは、 フロイトは、自らを「完璧」を設定して、 他者を「デキナイやつ」と貶めたのです。 そうして、「他者に「完璧」であることを求めた」のですね。 ・・・危険な思想です。
- kazamidori360
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『下町ロケット』(したまちロケット)は、池井戸潤の小説、及びこれを原作としたテレビドラマ・ラジオドラマである。宇宙科学開発機構の研究員だった佃航平が、死んだ父の経営していた中小企業「佃製作所」の社長となり、社員たちと共に奮闘する姿を描く。 小学館発行の『週刊ポスト』に2008年4月18日号から2009年5月22日号まで連載され、加筆・訂正の後、2010年11月24日に単行本が小学館より刊行された。2013年12月21日には小学館文庫版が刊行された。第145回(2011年上半期)直木三十五賞受賞作品、および、第24回(2011年)山本周五郎賞候補作品。 2011年にWOWOWの連続ドラマWでテレビドラマ化された。 2012年3月20日には、TBSラジオでもドラマスペシャルとしてラジオドラマ化された。 2015年10月3日から、続編『下町ロケット2 ガウディ計画』が朝日新聞に連載され[1][注 1]、2015年11月5日に書き下ろし単行本が刊行された[2]。『下町ロケット』はロケットエンジンのキーパーツであるバルブシステムの開発に賭ける佃製作所の奮闘が描かれ、『下町ロケット2』では心臓手術に使用する人工弁「ガウディ」開発に取り組む様子が描かれる。 2015年10月18日からTBS系の日曜劇場でもテレビドラマ化された。10月3日から朝日新聞に連載されている『下町ロケット2』が、6話からの「ガウディ編」として映像化され、新聞とテレビの同時進行で描かれた[1]。 https://ja.wikipedia.org/wiki/下町ロケット ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 文字の無い新聞でも記者だろうかとか思いつつも、 宇宙研究において、JAXAとかNASA以外のルートを確保したいと思った。 JAXAとかに資金を投資さえすれば素人はそれでさよならみたいなのは それでいいのかもしれないけれど、なんかこうもっと他の何かが無いのかなあ、と。 町工場が人工衛星を作って打ち上げましたみたいなのがしたいのか? とか言われても別にそういうわけではという気もするのですけれどね。
お礼
宇宙論は観測可能な範囲内から学説が立っていて、観測の限界も実際は話し合われているだろう。 その手の話に反応してくれたんだね。 ちょっとほかで見かけたんだが、科学者は実際哲学による新発想への援助を期待しているけど、伝統哲学は権力闘争のヴァルハラ バトルみたいになっているから、いそいそと物理学などの研究者が新発想につながる題材を探しに行くのは、「私は宇宙人と交信できます」系のイロモノだ。 オカルト的なそれらに哲学の役割を期待するくらい哲学者は見捨てられているんだ。
補足
君への私信で、研究テーマに関して説明だ。 神の存在証明仕掛けたよね。 中途半端な試行錯誤なら、2001年の滅びの宴以降ならいつでも始められたんだけど、そろそろ立ち回りができる自信がついたんでね。 個人的見解であり、普遍性はないだろうが、理解可能な人物だけが読み解ければ当面の成功だ。 賢人というのはそのように先導してきたから問題ないだろう。 この閉鎖性が哲学の伝統でもあるしね。 ただ私の目標は「実在する妖精の捕まえ方」という児童文学だ。 私は根性が曲がっているから、これはだれにでもわかる普遍性を目標にしていない。 子供たちが喜びで目を輝かせ、神様とお友達になり、頭の固い大人は相変わらず、さっぱりわからない。 何せ君たちは滅びると脅かしているんでな。 これもおいおい詳しい質問を立てるつもりなんだけどね。 涅槃への到達、すなわち観念への昇華が死の儀式であることは、神の人への絶対の定めではないんだ。 絶対に思えるのなら、人間の絶望が絶対化させたんだ。 無力な者どもと違ってね、もう私は観念の通過に死の儀式を必要としないが、死の儀式の実験動物にされちまったよ。 それでも取り組んでいる。
- 雪中庵(@psytex)
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玉ねぎの芯が、実は外皮である。 半径138億光年彼方の宇宙の果ては、ビッグバン 当初の一点であり、そこから始まった膨張の 最果てが現在=「ここの」一点である。 脳は宇宙の要素であり、宇宙は脳内の現象である。 量子論において、存在的な有限性は認識される事で 派生している事が明らかとなった。 全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、 無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、 無と等しくなる。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の 闇に認識体の仮定断面(潜在的認識可能性)の運動 (時系列化=プランク定数hの収束=物体収縮=宇宙 膨張)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、 認識体はその光(量子相互作用パターン)の向うに、 自己の補完(相補的不確定性)としての宇宙を認識する。 超弦(量子定常波)において光速に還元される本質を、 仮説的に階層現象を表面的に(いい加減に)捉える事 によって、潜在的認識可能性(現在)から、自我仮説 (記憶=時間の流れ=過去=超光速)と空間仮説(予測 =空間の広がり=未来=光速下)に相補分化する。 「いい加減な認識」=(本質的な)無とは認識でき ないことが有なのだ。 存在(量子)とは仮説的時空への無の射影なら、 物理は仮想的宇宙の無への還元である。
お礼
おじさまぁ~。 あなたは私のきらきら星よ。 うるうる~。
お礼
こりゃあ、価値という言葉を使って意義という言葉を使わないだけでも即物的だな。または価値を報酬となる脳の快感と言っていい。 > 自我に価値を見出すとは、それが達成できたときに、あなたが気持ち良くなって安心できる状態を指す。 さて、自我に取り組んでも見出すのは自我でなく総括的自己なんだ。 哲学的に言えば「自己の存在の確信」で神学では「自己の信仰への到達」だ。 付録として神様とお友達になれる。 伝統的にそうで、私も変則的形でもそうした取り組みの一種で、理解した者としての特異な知性を発達させたんだ。 カギを握るのは、さんざん親切にしているように「死への取り組み」だよ。