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カテ違いかもしれませんが
カテ違いかもしれませんが、他に思いつかなかったので、、、 以下を宗教的なものを排除して論理的に書き直して下さい。 ある程度、端折ってもらって構わないです。 *************************************************************************************************************** 人間の自我意識は左脳に在る意識です、処が人間は左脳の自我意識だけで生きている訳ではありません。 本当に人間が人間らしく生きてゆく時には、左脳の自我意識と右脳の仏性が調和をして生きています、 言い方を変えたなら、絶えず交代しながら、或いは連絡を密にして生きています。 処が人間の心は余りに巧妙に出来ています。その交代が分からないように出来ています。それが無明と言う事になります。 自分で自分が分からないという事です。自分は何者か?という疑問はここから湧き上がっています。 心の状態を端的に言い表すならば、右脳の意識と左脳の意識が喧嘩をしている状態が神経症、自律神経失調症、或いは悩みや、苦しみと言う事になります。 理由は以下に示します。 左脳の自我意識の機能は「分別」する機能が備わっています。従って割り切れる問題を論理的に割り切ってゆく処に在ります。 と言う事は割り切れない問題には対応できないという事になります。人生には割り切れない問題が存在します。 その問題を、言い方を変えたなら、矛盾する問題を左脳の自我意識である分別脳に抱え込む事が、人間の苦悩になっていると言えます。 心は悪循環に入ってしまいます、負のスパイラルに入ってしまうという事です。精心疾患からなかなか抜け出せない訳はここに在ります。 その悪循環からの脱出方法が「宗教」と言う事になります。キリスト教的に言うならば「天国に一番近い存在は幼子」と言う事です。 幼子は左脳の機能と右脳の機能が未分化だからです。まだ心が一つしかないからです。 思春期頃に脳の機能分化がほぼ完成に近くなります、悩みが始まるという事になります。 この事を聖書では「知恵が付いたために天国から追放された」という表現をしています。 人間の苦悩からの解消方法がお釈迦様の言う「悟り」です。それは自我意識が右脳の人格仏性と出会うという事になります。 右脳の意識は「仏」だからです。機能的に言うならば「全能」と言う事が言えます。割り切れない問題を解く事がその機能として備わっています。 自我意識の機能は割り切れる事(有限)に対して「永遠」そのもので出来ているからです。 その出会いによって有限である自我意識は永遠に包まれてしまいます。 そのために自我意識の苦悩は、肉体的な死は一番大事なことではなかった事を体得します。 是が「生死の問題」が解決した姿です。 キリスト的に言うならば「神の思し召しのままに」と言う事になります。仏教的に言うならば「自然法爾」と言う事です。 全てが、苦しみが有ったままに救われていた。と言う事になります。 人生に救いを求めていた事が「迷い」であり、救いが無かったと分かる事が「救い」と知るという事になります。 従って自我意識が自我意識だけで問題を抱え込む事が人生における苦しみと言う事になります。 機能的に解く事が不可能な問題を抱え込んでいるという意味になります。左脳の意識だけでは苦しみが解けないという事になります。 その解消方法が「禅」と言う事になります。禅に生きると言う事は、右脳の仏性が主導権を握って自我意識が従っているという事になります。 人生苦と言う事は自我意識が主導権を握って「仏性」の行方が分からなくなっている状態、或いは仲たがいをしている状態と言えます。 この事を無明と言っています。自分自身が分からないという事です。この状態から人生には障害が始まっています。 ***************************************************************************************************************
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嫌いな話ではないので、自分の考えを述べてみます。 >人間の自我意識は左脳に在る意識です、処が人間は左脳の自我意識だけで生きている訳ではありません。 人間は、自分で自分をモニターする存在です。肉体の状態だけでなく、モニターしている意識も物理的には同じ脳がモニターしますが、モニターするモニターまでモニターして・・・、という無限連鎖が自意識です。この時、右脳は肉体の一部とみなしても良いと思いますが、いずれにしろモニター行為は、左右脳が動的に通信しながら、左右脳全体を対象として行われます。 これは非常に強力なフィードバック機構です。負のフィードバックが発生したなら、「死にいたる病」状態に陥りやすい欠点を持ちます。実際、制御理論の観点から精神疾患を解決しようという試みは、ある程度成功したはずです。 >右脳の意識と左脳の意識が喧嘩をしている状態が神経症、自律神経失調症、或いは悩みや、苦しみと言う事になります。 >精心疾患からなかなか抜け出せない訳はここに在ります。 この悪循環を断ち切る方法が「宗教」かどうか、自分にはわかりませんが、日常的には、次の言葉になると思います。 ・気にしない,くよくよしない,前向き思考。 ・心のままに(体感のままに)生きる。 ・そう出来れば、失敗しても、後悔だけはしないはず。 上記を系統立てて組織化し、一種のマニュアルとして体系化したものが、宗教でしょうか?。このマニュアルは、現在も改訂中です。 >全てが、苦しみが有ったままに救われていた。と言う事になります。 >人生に救いを求めていた事が「迷い」であり、救いが無かったと分かる事が「救い」と知るという事になります。 これがマニュアルの結論になるであろうという事は、自分も賛成です。ただ実現方法としては、4つくらいある気がします。特に西洋と東洋の違いが顕著です。西洋は最後には、人の生に絶対的価値を認めます。東洋は、価値を気にしません。社会学者マックス・ウェーバーは、この差を、現世支配的,現世逃避的という言葉で表現したはずです。 (1)キリスト/イスラム的発想 世界と人の意味は、神が絶対的に保証する事を信じる。信じる事に理由はない(心情倫理)。なので「神の思し召しのままに」生きれば良い。結果として、くよくよしない事になる。超越的存在の前では、人の価値は無に等しいので、逆に人はみな平等になるが、異教徒は認められないので、解決不能な価値の争いが生じる(イラン・イラク戦争?)。 (2)ニーチェ的発想 神は妄想である。世界と人の意味は、絶対にない。世界も人も偶然に生じた。故に、だからこそ、自分の意識は唯一無二の絶対的存在であると、逆に自分を自分で意味付けられ、超人となる(実存主義)。誰もが等しく唯一無二なので平等だが、同時に解決不能な意味の争いが生じ、それが世界を動かし(責任倫理という世界の意味)、近代人が生じる(ウェーバー)。 (3)神道 たぶんに日本的。体感のままに生きる事を強調する。人生に意味がなければ生きていけないのか?、と逆に問う。体感上、人は平等だと感じるが、体系付けは弱い。 (4)仏教/道教/儒教 失敗しても、後悔だけはしない方法。人の価値を積極的に却下する。みな無価値だから、人は逆にみな平等となる。もともと無価値だから、失敗しても後悔しない(悟り)。責任倫理は、儒教の思想が保証する。 (5)禅 たぶん(3)+(4)で、日本人には相性が良かった。煩悩の果てに悟りあり。 日本人は、世界に例をみないくらい無宗教だと時々言われますが、それは(3)のせいかなと、勝手に思います。まさに勝手な事を書きました。
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- katyan1234
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>人生苦と言う事は自我意識が主導権を握って「仏性」の行方が分からなくなっている あってますね。これが煩悩というのかな? キリスト教は反対に目的を知る。天国があり救いがある。明確だから迷う必要もない。信じたら幸せなんです、 信じるものは救われる。つまり信じた者は救われているんです!
お礼
やはり日本人なのか、絶対的なものを信じる方向ではムリみたいです。 無価値の方向でいきます。 ありがとうございました。
お礼
ハッキリではないですが、なんとなく分かったような気がします。 再度、質問します。 ありがとうございました。