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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:マ(間・間合い)の理論  (つづき))

マ(間・間合い)の理論とは?

このQ&Aのポイント
  • マの理論は世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。
  • マの理論は、相手とのマ(間合い)が抜けたり違ったりすると起きる心的かつ社会的な現象を探求します。心理学や精神分析はこれに従属します。
  • マの理論は人文科学や社会科学のすべてに応用されます。人間関係や社会階級、役割関係もマの理論の一環です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.7

「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。 これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。 しかし、如何せん、人間は、好むと好まざるとにかかわらず、間接的に殺人に加担することがあります。これは悲しいけれど現実です。 たとえば、携帯などで使用されているレアメタル、石油などの資源権益、資源分配をめぐる争いがその典型的な例でしょう。 その資源をめぐる争いで毎日のように人が殺されています。もちろん、私は直接的にその殺人行為に加担してはいませんが、わたしが携帯を使うこと、日々電気やガソリンを使う日常的行為によって、関節的にその殺人に加担しているわけです。私の日常の行為が巡り巡ってその殺人を誘発しているわけです。したがって、私にはその殺人に対する道義的な責任があるわけです。「そんなことになることは知らなかった」では済まされない問題です。 しかし、人間の能力は限られています。自分の何気ない日常の行為がどのような結果を招くかなど予測不能です。また、そうしたことを一つ一つ気にかけていたら、日常の生活を送れません。ジレンマです。ここに、非常に難しい問題が、矛盾があります。 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。 この「めぐりめぐっての間接的な殺人」についてbragelonneさんはどのようにお考えですか。ご意見を伺えれば幸いです。 ☆ アブラハムのイサク殺害に関するbragelonneさんの解釈は深いですね。 私は、神がアブラハムの忠誠を試した話としてしか理解していませんでしたから。 最愛の息子でさえ神に対して捧げることができるのか? アブラハムの苦悩、葛藤は別にして、アブラハムには「神がイサクを犠牲に求めるには人知を超えた何らかの理由がある」、あるいは「たとえ殺したとしても、神によってしかるべき取り計らいがあるに違いない」という強い確信があったと思っていたもので 話は予定調和に終わっているので、のちに神によってモーセに与えられる「汝、殺すことなかれ」に抵触しない形で終わっていますけれども。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。  どう言いましょうか。この質問においても わたしの場合 要するに《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。  というわけは たとえば  ☆ 理念 あるいは 道徳  ★ といった概念や観念の形成される以前の或る種の心や意志のみなもとのような領域における出来事です。  むろん そのことは次のごとく捉えることにおいてそのまま質問趣旨に沿っていただいているようではあるのすが。つまりまづ  ☆ ~~~  「人は人を殺さない」という命題は、理念としては同感です。  これはいかなる道徳律以前に、人間に本源的にそなわっている徳性であり、アプリオリとして受け入れるべき命題(無前提の原則、公理と表現した方が適切でしょうか)です。私はそのように思っています。  ~~~~~  ★ なのですが ここで 微妙な異同があると思われることにさらにこだわってみます。    一方で  ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 無前提の原則 / 公理  ★ と捉えてもらっているその他方で  ☆ 理念・徳性  ★ という規定もされているということ。ここにこだわってみます。つまり 違うという感じを持っています。  アブラハムのイサクを犠牲にささげる物語をめぐっての解釈にもかかわって来ているかと思います。    ○ アブラハムは 長い苦悩のトンネルを抜け得たのは 《自分でも他人でも ひとが ひとをころすことはしないものだ》というヒラメキが得られたからではないのか。  このとき 《神は ひとが ひとをころすことを欲しない》と言いかえてもよいかと思います。  ▲ (ホセア書6:6) ~~~  わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく  神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。  ~~~~~~~~~~~~~~  ★ さんざん生け贄を受け取っておいて 何を言うかとも思いますが アブラハムのインスピレーションとしては これであった。と思います。  すなわち  ☆ 道徳律以前 / 本源的にそなわっている / アプリオリ / 〔無前提の原則 / 公理〕  ★ としての内容であり それはあくまで  ★★ 《ヒラメキ》としての心のあり方 そしてそこからさらに意志をかたちづくってくるその道筋 こういった領域に焦点をあてています。    という道草の段階なのであり そしてまだなお ひとりの人間の主観にとどまっています。そのあとようやく概念として持たれるようになって  ☆ 無前提の原則 / 公理 / 理念 / 徳性  ★ として受け留められるようになるのだと。  何だか歯切れがわるいですし 問題のないところをあたかもイチャモンをつけているみたいですが 確認します。  ○ ~~~  アブラハムにとって 自分の心なる非思考の庭における神とのあたかも対話は 結論として 《イサクを ころさない》が得られた。  これは・つまり《ころさない》というのは  (1) やっと思考にかかわるかたちで翻訳したあとの言葉として得たものである。実際は ヒラメキである。意味のあいまいなイメージとしてのような直感であった。  (2) しかも概念化して《ころさない》と規定しえたとしても まだなお アブラハムという一人の人間の主観内面における出来事であるに過ぎなかった。  ~~~~  言いかえますと 次のような問いかけになると思います。  (3) この《ころさない》あるいは《神は いけにえを欲しない》を モーセはいとも簡単に律法規範としたようだ。それは いったいどういうことなのだろう?   (3-1) つまり神は 《アブラハムの神 イサクの神 ヤコブの神》であるというごとく一人ひとりの神であるはずだ。したがって 《ころさない》という観想もまだまだひとりの人間の主観の内にとどまるのではなかったか? それを いつのまに《共同主観》としたのか?  (4) しかもさらに アブラハムの得た観想は 《ひとは ひとをころさない。われは ひとなり》といったひとつの《判断》であり さらにはそれを表現したとすればそういう《意思表示》であった。なのに モーセはこれを《なんぢ ころすなかれ》というふうに《人間という人間の主観をぜんぶ束ねてしまって 頭ごなしに規定として措定してしまった》。それでよいのだろうか?     *  その上で  ☆ 「めぐりめぐっての間接的な殺人」について  ★ ですが:  これは ヒラメキの内容から逸れる《マヌケ》や内容をねじ曲げる《マチガイ》を  片や抽象的に そこに居合わせた人びと互いの心的現象という次元における同時一体性の内に見るかどうかの問題があり  片や具体的にたとえば資源獲得競争にしのぎを削っている人びとと その経済行為をまわり回って間接的に共有しているのではないかという同時一体性の問題があると見ます。  しかも ずるい見方をもしなければならないと考えます。一人ひとりがそれぞれの内面において《わが神(または わが無い神)》をいだくというように 一人ひとりはその自由意志において行動しているということも 実際なのだと見ざるを得ないようです。  その上で先の《自然本性ないし心的現象を基礎としての 具体的な経済行為をもめぐる人びと相互の連帯性》において マヌケやマチガイについて共同の責任を負うというかたちになるかと。  ☆ 私は、道徳を行為の結果には求める結果論・帰結論的な立場をとりませんけれども、だからと言ってこの間接的な殺人の責任を回避できるわけではありません。  ★ とおっしゃるその中身を 上のように考えるというひとつの結果を得ました。  たぶん ヒラメキ次元を大事にするところの――そしてその意味で 一見場違いのような《タマシヅメ・タマフリ》の事例を出していますが の――自然本性ないしそのような基礎における観想が 人びとのあいだのマの関係としてその水嵩を増して行くことを思います(そう期待します)。   いやあ むつかしいですね。

その他の回答 (23)

回答No.3

昔、ピクニックに行きました。 もともとは、朝鮮半島の方が発達していたのは間違いないと思います。 想像だけど、その負けている感をうまく「たかくなおきこころ」みたいに、 とおとぶところからってきがする。 だから、「まちがい」をたくさん、表に出してはずかしめられること で、アイデンティティを変容させていくことにマゾ的快感をもとめる ことが、それが、たかきこころの推進力だったとかって かってに考えた。 予想のとおり、やっぱりネットあきてきました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ ~~~  昔、ピクニックに行きました。  もともとは、朝鮮半島の方が発達していたのは間違いないと思います。  ~~~~~  ☆ ええ。トゥンサン(登山)なんかは ごく一般的な趣味・スポーツであるとか聞きました。  ★ ~~~~  だから、「まちがい」をたくさん、表に出してはずかしめられること  で、アイデンティティを変容させていくことにマゾ的快感をもとめる  ことが、それが、たかきこころの推進力だったとかって  かってに考えた。  ~~~~~~  ☆ あぁ。《立ち帰る》ということは 恥をかきかき たどり着くことだということでしょうか?  でも それほどでもないと思います。またそういうことは前提にしていませんでした。  つまりそれは ヒラメキを前提としていましたし いまも そうです。  ただ きっかけは 何らかのマイナスの事態が起きて そういう静かな《立ち帰り》の時間を持とうとするということかも知れません。  ★ 予想のとおり、やっぱりネットあきてきました。  ☆ そうですか。ご卒業ということでしょうか。  そうですね。《わたしがわたしである》ことは 競争でもなければ ほかの人間との比較の問題でもないとは思いますけれど。・・・

回答No.2

同意見です。 グローバルといいながら、かわいい子を旅に出す在り方として 現状どうなのかと考えさせられます。 もともとあるおおらかな、野山を駆け回る黄色い猿のプライドを、 格差とか二局化の社会承認的なエリート意識で抑圧しておいて、 階級社会に放り出して、イエローモンキーのデッドロックの罠 に苦しんでひねてしまった人も知っています。 アグレッシブな勇気のいる大変なことなのに、 なんか無責任な気がします。 個性なんて、へちゃむくれや、短足や、いんきんたむしみたいな ことを、まるで芝生の青さのように流布したり、へんなんですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ご見解が一致したようです。  ここらあたりが 重要ではないかと思っております。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  ~~~~~~~~~~~  ☆ ただし このことの実際のあり方としては まだまだ 一般に共同の概念として持たれてはいないかも知れない。というこれからの望みがあります。  ★ ~~~  個性なんて、へちゃむくれや、短足や、いんきんたむしみたいな  ことを、まるで芝生の青さのように流布したり、へんなんですね。  ~~~~~  ☆ といった《個性》にしても すべて鎮めて まづ静かなたましいに立ち帰るといった・雲をつかむような話を〔も〕 しようとしています ここでは。  深く静かに潜航しまして やがては・ほんとうは グローバルな舞台にも出て行く人びとの姿をも描いてみたいというふうな です。その土台のような存在のあり方です。  ★ アグレッシヴ  ☆ な世界を 突き抜けて行くような姿です。  さらに問い求めが煮詰まって行くことを期待したいと思います。  

回答No.1

マチガイは人類を進歩させる動力源のひとつですゾ ヒトがヒトを殺さないて必然がそもそも無いのでは? 次段階への飛躍=見方を変えればマチガイの一形態 相互不可侵の均一社会が望みなら私輩とは意見違い

bragelonne
質問者

お礼

 うろんりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  さあて あたらしい質問なんですが・そして一番目のご回答なので 全体的なことを書いたほうがよいと思ったのですが いきなり わたしからの反応をつづってまいります。  ★ ヒトがヒトを殺さないて必然がそもそも無いのでは?  ☆ これは 原則として成り立つかどうかの まづは 問題です。公理のように前提としうるかという。  たとえば――最近用いた例示ですけれど―― 憲法によるかぎりで日本国民は 納税の義務があります。つまり これは 労働や教育を受けることやの取り決めと同じく 原則の問題としてあります。  そして同時に 実際上どうなのかといった《必然か否か》などの問題も 別にあります。  つまり 納税の義務という原則があることと この義務に従うことは必然かということとは 互いに別の問題です。  よって――仮説としてですが――  ○ 《わたし》は《わたしがわたしである》というマの原則にもとづけば 《ひとは ひとをころさない》と見る。  というかたちです。  ○ 《わたし》は 《ひとは ひとをころさない》という能力をその生まれつきの自然本性において持つ。  といった内容の原則です。  したがいまして 次の命題も 重要な主題であるようですが 一概にそう言えるものかどうかの問題もあるかと考えます。  ★ マチガイは人類を進歩させる動力源のひとつですゾ  ☆ いろんな場合がありそうです 考えてみれば。  ○ (マチガイが じんるいの進歩に貢献した場合) ~~~  1. セレンディピティと言いますから 思わぬ〔良い〕発見は さまざまにいくらでもあるでしょうね。あやまちという意味での間違いではないのでしょうが 初めの意図としてのマが違ったところで 進歩につながる動力源となるのでしょう。  2. ということは 考えてみるに 初めからマチガイを意図していたとか計画的にマチガイをおこなったというのでもない。ということではないか?――すなわちこれも 原則の問題と実際のあり方や応用の問題とは違うということを物語っていませんか?  ~~~~~~~~~~  科学上の発見とかを 上手に例で示し得ず 打ち切りましたが そういった二面性もしくは 原則と応用といった構造性をもった命題ですよね。  ★ 次段階への飛躍=見方を変えればマチガイの一形態  ☆ 要するに こういう場合に《マチガイ》を持ち出すということは おそらく結果論としてのことなのでしょう。  そして キュリ夫人がラヂウムの発見をしたことは マチガイのもとにおこなったことではなく しかもその結果被ばくによって寿命をちぢめるというマチガイが起きました。  よって 前提としてマチガイを置き 全面的にマチガイを肯定して認めこれを勧めるという行き方は 違うというように思いますゾ。  ★ 相互不可侵の均一社会が望みなら私輩とは意見違い  ☆ たぶん それでも《マチガイを起こさないという原則を 大々的にそこら中に張り巡らせる》といった方針あるいはそういったクウキ これには反対するということなのかも知れません。  おそらく――言えることは―― もしひとのおのが内面においてもあるいは外面における人と人との交通関係においても マの取り方が自然本性に沿って無理なくうまく行った状態に ひとと社会がもし成るとすれば そのときには〔おそらく 言えることとしては〕 《人間(現実)が変わる》ということでしょう。  いまのホモ・サピエンス・サピエンスが あらたなニンゲンの種に変わるということです。  そのあたらしいじんるいにとっては   ★ 相互不可侵の均一社会  ☆ の問題としてではなく あたらしい別種のマチガイを許容して自分たちの世の中をいとなんで行くことでしょう。    でもまだまだこの今の日本において お上の言うことに逆らわないといったクウキが有力であるとすれば その状態のほうが  ★ 相互不可侵の均一社会  ☆ なのではないでしょうか? いますでに閉塞感をともなった閉鎖社会に閉じ込められているのではないでしょうか? ただただ感性を麻痺させて それに耐えているのではないでしょうか?

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