• 締切済み

宗教に無知なので質問です。

日蓮宗では僧俗和合を大事にされると聞きましたし現実、日蓮聖人は手紙に何回か僧俗和合の大切さを書かれてます。 一方で坊さんは要らないと言う宗派も有ります。 僧俗和合とは何ですか?…。 どうして坊さんは要らないのですか?…。 金儲け葬式仏教だからですか?…。 今は家族葬とて坊さんも呼ばず自分達で…。 反面、社会で有る程度、信頼有る役職や立場に居た方々が亡く成られると坊さん呼ばない訳には中々行かないとも聞きます。 日蓮や釈尊は坊さんは要らない!…そう教えて無いと思いますが如何ですか?…。 だって自分達が坊さんなのに坊さん否定するの可笑しいですよね。 と言う事はその時々の都合で自分達の都合の良い様に解釈してるだけですか?…。 だとしたら随分と傲慢では有りませんか?…。 それとも本当に坊さん要らないと言う正式な根拠を教えて下さい。 何卒、宜しく御願い致します。

みんなの回答

  • skypee
  • ベストアンサー率26% (21/80)
回答No.6

多くの新興宗教は、既存の宗教や信仰を否定して出てくることが多いし、特にカルトと言われるような狂信的、排他的な教団は、「自分達が正しい」という考え方に非常に拘っています。 つまり、他の宗教を否定していないと、自分達の信仰の意義が無くなってしまうのです。他の信仰を否定し、勧誘して信者を増やし、組織を大きくすることで(布教することで)皆が幸せになれると信じてしまうのですから。 普通に考えれば分かりますが、題目を唱えたり祈るだけで成仏できるとか宿命が転換できるとか、そんなわけはありません。(それ以前に「成仏」や「悟り」などの言葉の定義からして違うわけですが。)あくまでも民衆に生きる希望を与えるものだと解釈するべきです。 つまり「自分達の信仰が正しくて、必ず人を幸せにする」と強く信じる人にしか通用しない理屈なのです。 信じることは否定しませんが、「宗教」ましてや「宗教法人」という立場となれば何を信じても良い、何を信者に教えてもよいというわけではありません。排他的な信仰を指導するなど論外です。 そもそも、「これが正しい信仰だ」と自分の思想を訴える凡夫が宗教指導者となること自体が間違いであり、だからこのような問題が起きてしまうのです。 もちろん、葬儀にお坊さんがいなくてはならないとか、葬式をしなくてはならないとか、そういうわけではないと私も思います。現在は形式的な意味合いが強いのではないでしょうか。確かにお坊さんが堕落した、と言われるような時期がありました。宗教や信仰は「心」に関してのことを扱うものですから、本来は葬儀もお墓もお坊さんも必要ないと言えばないのです。 しかし、僧侶の方々もずいぶん変わったように思いますし、形式的な事や、心や見えない世界などについては私達より先輩であるお坊さんから学ぶことはとても多いと私は思います。

jamamono2
質問者

お礼

御回答本当に、ありがとうございました。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.5

創価学会 壮年部の者です。 >僧俗和合とは何ですか?…。 ●僧俗和合とは⇒出家僧、信徒ともに協力し合い “法”を守り、広める事を言います。 >どうして坊さんは要らないのですか?…。 ●単に、要るとか要らないとかという事ではありません。 >日蓮や釈尊は坊さんは要らない!…そう教えて無いと思いますが如何ですか?…。 ●釈尊や日蓮大聖人の時代では、葬儀については 出家僧の参列は有りませんでした。葬儀は在家信徒 により執り行われたのです。 日蓮大聖人の時代には、病気の祈祷や、自然災害に 対する祈祷、故人の追善供養は行われていたようです。 >それとも本当に坊さん要らないと言う正式な根拠を教えて下さい。 ●そもそも、仏道修行は何のために行うかという事が 重要なポイントなのです。 これは、宗派により大きく異なる事だと思います。 本来は、人間の生涯のは“成仏”といって自身を 仏の身として開くことにあります。これは、釈尊の 悟りの中に、仏の出世の目的として説かれています。 法華経“寿量品”の最後にある『以何令衆生 得入無 成道 速成就仏身』とあるのは、仏の悩み(願い、目的) として、衆生の身をして仏に至らしめんと欲すという 意味です。 ですので、死んだ後どうなるのではなくて、生きている うちに仏道修行に励む事なのです。 逆に言うと、“葬儀には坊さんが必要だ”という概念から たんに離れられないのではないでしょうか。 まぁ、多くの日本人はそうだと思います。 我々、創価学会員ですら、当時は何となく違和感があり ましたから。

jamamono2
質問者

お礼

御回答本当に、ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

それとも本当に坊さん要らないと言う正式な根拠を教えて下さい。 ○ 釈迦仏教は、三宝に帰依が基本です。仏帰依、法帰依、僧帰依の順ですね。 釈尊生存時は仏帰依が基本ですね。釈尊入滅後は、釈尊の説いた法帰依ですね。法もすたれると僧帰依の段階になりますが、僧帰依というのは僧に帰依することではないのですね。正確には仏法護持の僧団の規約をまもるという意味なのですね。仏教教団の僧は仏陀に帰依してお経を読み日々修行しているわけです。 その意味では、檀家は僧団の規約を守っれば良いのですね。葬式は原始仏教にはありませんでしたが、中国を経て組み入れられたものですね。それにしても、檀家は僧団の規約を守るということですから、葬式に際しても僧団が葬式に対して決めゴトがあれば僧にお願いすることは自然のことですね。 日蓮、法然、親鸞などが活躍した時代は、彼らは末法の時代と考えていたようですが、そんなことはなくて、民衆は信仰深く、彼らのような立派な僧もたくさんいた時代ですね。あれから千年も経ちましたが、仏を信じる人あまりいませんね。つまり、今が末法の時代なんですね。末法の時代にはいろんな宗教が出てくるのですが、三宝に帰依が基本さえ忘れてしまった団体もあるのですね。 質問者さんのご指摘のお坊さんいらない人が増えていますね。葬式の本来の意味は、あの世を知っているお坊さんが死者の霊が迷いなく三途の川を渡れるように導くものなんですね。それゆえ導師とよばれるのですね。 あの世がなければ導師などいらないわけですね。家族葬、友人葬というのはたいていそういうものですね。 形や名前ではなく、仏神やあの世を信じているかどうかなんですね。信じていない人にお坊さんはといっても馬の耳に念仏でしょう。 あの世がなければ坊主はいらないのですね。でも実際にあの世はありますから、こまったことになっているのですね。まあいつの世でも末法の世はそのようなものなのですよ。 でも、末法の世にはいつも仏が再誕して新しい仏教を説くことになってますから、仏帰依できるようになっているんですよ。 葬式はあの世を知っているお坊さんに頼みたいものですね。 回答になっているかどうかですね。

jamamono2
質問者

お礼

御回答本当に、ありがとうございました。

  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.3

  坊さんに成ったら苦から逃れられるんですか。。?   坊さんに成ったら癌に成らないんですか。。?   法華経をを学んだら或いは唱えたら苦から逃れられるんですか。。?   他のお経を学んだら苦から逃れなれるんですか。。?          

jamamono2
質問者

お礼

ありがとうございました。 考えてみますが……

回答No.2

仏教徒で出家してるのに、肉食妻帯をする坊主ってのが許せないですね。 日本の仏教はこの島に伝来して以降、ガラパゴス化してしまったのでしょう。 親鸞と日蓮が、門徒や信者を増やすことに貢献したのは事実でしょうが、仏教を仏教でなくしてしまったような部分があります。 仏様のありがたい講和をした後、夕食にはシャブシャブを食って、その夜、女房殿セックスを楽しむ坊主なんて、認めるわけにはまいりません。

jamamono2
質問者

お礼

御回答本当に、ありがとうございました。 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い…少数の悪僧、駄目坊主の為に僧侶全部が同じだと思われる。 是は少し違う気がします。 例えが違うかも…昔、学校に不良が1人居たら同じクラス、学年、学校は皆同じだと腐った蜜柑の例えが有りましたが坊主も悪僧だけ見て坊主の全て…では無いと私は思います。 同じ師匠に師事しても優秀も居れば駄目も居る。 それを見て師匠の指導力を判断出来ますか?…。 学校の教師も同じだと思います。 脱線し本当に申し訳ございませんでした。 僧侶は全てが肉食妻帯者ばかりでは無いです。 宗派を越えて本当に尊敬出来る方々もいらっしゃいます。 僧侶と俗の役割が曖昧だから僧侶が必要無い!と、されるだけです。 如何ですか?…。

回答No.1

まずは一つずつ情報源を明らかにしていきましょう。 >>日蓮聖人は手紙に何回か僧俗和合の大切さを書かれてます。 それは何という手紙のどの部分でしょうか? >>反面、社会で有る程度、信頼有る役職や立場に居た方々が亡く成られると 坊さん呼ばない訳には中々行かないとも聞きます。 これは宗派関係なく、日本古来の習慣であり、檀家制度の名残と見栄にすぎません。 また、日蓮宗各宗派は、第二次大戦を擁護すべく行動しました。これは宗祖の教えに 背いた行動に他ならない。「僧」が必要とすれば、その存在価値を自ら貶めた事に なるのではなかろうか。 では、「僧」とはいったい何なのか。それを考えるところから始めましょう。 信仰を持って行動する者に、「僧」も「俗」も関係ないということではないだろうか? これは日蓮宗だけではなく、どんな宗派においても適用できると思いますよ。 僧が不要ということではなく、僧も俗も同じであるという事でしょう。

jamamono2
質問者

お礼

ありがとうございました。 仰る通り信仰それ自体は僧も俗も無いです。 では何故必要も無い僧侶を宗祖は作ったのでしょうか? それは僧は僧、俗は俗の果たすべき役割が最初はきちんとしてたが今は無いだけではないのでしょうか?…。 宗祖始め僧侶は檀家から人間的にも僧侶としても尊敬されて僧侶で有り、だからこそ檀家は御供養もし忠誠も尽くすのでは?…。 今は傲慢な権威権力だけ残り、沢山の檀家から心底尊敬されてる僧侶は何人居るでしょうか?…。 だからそんな傲慢なだけの僧侶は要らない…と成りませんか?… この状態を何とかしたいのです。 宜しければ御考えを何卒、宜しく御願い致します。

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