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鎌倉武士と阿弥陀信仰と板碑

一説には、板碑は阿弥陀に関係するものが非常に多くあり、 しかも鎌倉武士の支配する地域に沢山見られるそうです。 とすると鎌倉武士は阿弥陀を信仰していたのでしょうか? 信仰していたとしたらその理由はなんでしょうか。 よろしくお願いします。

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回答No.6

板碑は 関東地方で少なくとも47000以上あるそうです。 多くは 緑泥片岩で武蔵型ですが、他の石材や木製もあるそうです。 どちらにしても、鎌倉中期からの造成ですが、板碑のその後というと、再利用や単に土木工事や井戸の石材として使われしまったものも多いそうです。 先祖が造成したものを子孫が乱暴に扱うことは少ないでしょうから、板碑を造成した人々の栄枯盛衰や移住転居は多かったと推測されるとの解説をされているものもありました。   鎌倉中期以降となると、幕府も得宗家の専横と他の有力者の壊滅などもあり、やがて朝廷との争奪戦、貴族、朝廷、地方武士団の勢力争いが激しくなった時代です。義経に味方していた勢力が幕府の意向で一掃されますが、その後もごたごたは続き、地位や領地に安定感は低く、14世紀半ばには、武蔵国・相模国・伊豆国を中心とした国人一揆も起きるような地域です。広く眺めれば、元と高麗の軍との戦いに行く軍の移動、恩賞問題など、めまぐるしい移動があり、13世紀末には徳政令が必要なほどの状態になっています。14世紀は反乱、紛争の時代です。 この時代の人々にとって、生死や盛衰は直面している問題だったでしょう。 鎌倉時代というと、御家人を思い浮かべますが、1275年(建治元年)で全国の御家人の総数は約480名であり、御家人は武士の中でも非常に限られた階層だったそうです。関東諸国は他地域に比べて御家人が非常に多い地域で、最も多い武蔵国に約80名、関東の各国には数十名の御家人が在住していたそうです。御家人とは呼ばれない武士が大勢います。武蔵武士が182氏もいたそうです。軍事命令で地方に一族あるいは惣領家と庶子家の何れかが移動させられたり、北条得宗家の意向や勢力争いの結果で移動するものもいて、武蔵国の武士は移動の多い武士と言えそうです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%AE%B6%E4%BA%BA#.E9.8E.8C.E5.80.89.E4.B8.AD.E6.9C.9F.E4.BB.A5.E9.99.8D http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E4%B8%83%E5%85%9A#.E9.8E.8C.E5.80.89.E6.99.82.E4.BB.A3 板碑の多い場所の一つ八王子には、配下氏族の多い横山党がありました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%9A#.E9.8E.8C.E5.80.89.E6.99.82.E4.BB.A3 http://www.simizukobo.com/toshoshitu/youran_moku/yo-0505.html この横山宗家は八幡神社などを祭っています。 児玉党は、武蔵最大の一族ですが、幕府の命で、安芸・九州まで及びその防備につくため下向し土着していったそうです。児玉時国は鎌倉時代後期1304年に、北条時政に滅ぼされた畠山重忠(1205年没)の百年忌に建てた板碑があるそうです。 http://www.geocities.jp/kawai5510/saitama-kodama-gyokurenji.html 畠山重忠は、法然に遭ったことがあるようですが、浄土宗の信仰に近いとは思えません。 http://home.catv-yokohama.ne.jp/66/sigetada/sub1.html 児玉時国は日蓮と遭った1271年に、日蓮の教え(法華宗)に惹かれたらしいです。板碑を建てたときに浄土宗の教えではなかったでしょう。板碑に掘った種子も阿弥陀キリークではありません。 鎌倉時代1228年に、熊谷市観音寺にあった阿弥陀キリーク種子の掘られた板碑が発見されています。観音寺は真言密教の寺だったようです。真言でも顕密禅を兼ねている部分が多いですから、阿弥陀のキリークがあっても不思議ではありません。 http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/jousetu/itahi/ita_06.htm http://www.reihokan.or.jp/syuzohin/hotoke/nyorai/amida.html 川越市の養寿院は1244年河越経重が作った密教の道場がモトだそうです。 13世紀、14世紀の武蔵では、密教系、顕密禅、神仏習合の八幡などが普通でしょう。   確かに、法然や親鸞は13世紀に活動し、少数の信者を獲得していますが、鎌倉時代にはほとんど信仰の広がりがありません。本格的に広がったのは戦国時代です。武蔵国の浄土宗の寺は、八王子の大善寺、川越市の蓮馨寺の創立も16世紀末です。 浄土宗の寺として、然阿良忠が鎌倉に蓮華寺(現在の光明寺)を1240年に創建したそうですが、その後廃れて13世紀~14世紀の状況は不明になり、浄土宗の寺の復興は15世紀末のようです。   しつこく私説を繰り返します。(専門家や学会の通説は存在しないらしいです)   鎌倉期の中期に武蔵に数多くいた武士団が、自領での永続にも不安を感じ、先代の加護や自領の永続あるいは移住先などでの繁栄、頸をかかれて死ぬ、戦死するのではなくて極楽浄土にいけるのを願って、梵字種子を刻んだ板碑を作らせ、真言呪、祈祷を高野聖や時宗の遊行僧などにさせたのではないでしょうか。   武蔵型板碑は、浄土宗や一般の農民とは関係がなくて、時代の嵐に翻弄された武蔵武士の緊迫した祈願でできたものだったのではないでしょうか。 そうした状況がなくなれば、武蔵型板碑は作られなくなると解釈すると、収まりが良くないでしょうか。

その他の回答 (5)

回答No.5

☆ 板碑建立の主な目的が先祖供養でしたので、自然と彼岸の仏である阿弥陀如来と理解しました   ⇒ そうなのかも知れませんが、追善と板碑に書いてあるから「板碑建立の主な目的が先祖供養」と考えて良いかどうかは不明です。板碑を作り、読経するだけならば、追善が主目的の可能性もありますが、先祖供養を勧める霊能者等に依頼する最近の人々は先祖供養が目的なのでしょうか。自分の開運や病気平癒、事業成功などが本当の目的ということは多いのではないですか。板碑を作り、おそらく造立記念の法要を多くの人を集め、酒肴飲食を用意し、聖や僧に賑々しく追善と繁栄の儀式をしたのだと、私は想像します。 阿弥陀如来、浄土を説くのは、その時代のはやりです。経典などの内容を多くの人が理解したのではなくて、それらしく儀式が賑やかで荘厳に行われ、わからないけれど種子が書かれた板碑を前にすることが大事だったのでしょう。画像の阿弥陀仏でなくて、種子を掘るのは、掘るのが簡単だというだけでなくて、神秘的呪術的な感じもあるからでしょう。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/fukuoka_so16.html 造立の趣旨は同じでも武蔵、阿波、国東、九州と各地でそれぞれ形状を異にし、かつ混在する不思議はどのように考えらよいものか。私は板碑に共通するところが多い種子(しゅじ)に注目してみたい。それには流行のようなものあって、ときに阿弥陀如来であったり大日如来などであったりするが、そういう様式の原初がどこかにあるばずである。そして、それを諸国に伝播させる集団なり僧や修験者といった廻国の者が存在したのではないだろうか。私は、直方市植木町の観音堂にある延久二(1070)年在銘の石柱梵字曼陀羅碑に注目する。私はひそかにこの曼荼羅碑こそが板碑の祖型ではないかと思っている。遠賀川の流域に存する板碑は造立年代が古く、原初型を偲ばせるものが多く、宗像の鎮国寺の板碑もその外延部にあるものとみたい。 http://www.h4.dion.ne.jp/~toso504/renkei/sikoku/Sikoku-Sonota-tokusima7.htm 板碑の原初を鎌倉期の関東に見出すことができるという説がある。修験道の入峰の証として建てられた碑傳(ひで)を祖型と考える者もいる。板碑の一般的な型式として、長方形に整形した扁平な石の上部を尖頭にしつらえ、尖頭の底部に二条の沈線を刻み、身部に仏、菩薩の種子或いは画像や銘文を刻んだものと説明されている。両説は、その種の板碑の古いものが関東にあるという主張や、板碑に先行して板碑の形状によく似た碑傳が存在するという理由などを支えとしている。板碑は、関東、東北、北陸、畿内、中国、四国、九州と全国に分布する。その土地の名称をとって武蔵様式、阿波様式、国東様式等の呼び名もある。部材も花崗岩、緑色片岩(青石)、安山岩など多様であるし、種子や画像の表現も阿弥陀仏、阿弥陀来迎図、南無阿弥陀仏の名号であるなど実に多様である。 板碑の発生源、ないし祖型について、それが仏教信仰を元にするから、京都や奈良を思わねばならない。しかし畿内には造立年代等からみて祖型を思わせるものはない。板碑の発生期である12、3世紀において、最も古い板碑は九州の鎮国寺や遠賀川流域、英彦山の周辺にある。さらに、私は、それらの祖型は直方の延久二年(1070年)在銘の石柱梵字曼陀羅碑ではないかと密かに思いを回らせるのである。いずれも北九州の遠賀川流域ないしはその近辺に古いものがある。 http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/hasegawa/manyu/itabi.htm ☆ 徳島県立博物館土曜講座「中世の民衆文化-板碑をめぐる信仰の世界-」☆ 全国的な状況に目を転じてみると、関東地方はとくに多くて、全国の7割が集中しているともいわれます。また、残存数の多い順に県名を挙げると、埼玉県、東京都、宮城県、群馬県、大分県、徳島県となるようです。   板碑に見る信仰とその周辺 (1)信仰の特色  板碑に投影された信仰の特色は、表面に刻まれた信仰標識からうかがうことができます。結論からいうと、阿弥陀信仰に関するものが圧倒的に多いようです。有紀年銘板碑の、実に74%までが阿弥陀信仰に関するものなのです。無紀年銘のものでも、阿弥陀三尊種子板碑を見かけることが多いので、実際には、阿弥陀信仰に関わる板碑の割合は、もっと高いのかもしれません。   (2)造立の背景を探る  では、阿弥陀信仰に関わる板碑の多さをどう考えればよいのでしょうか。従来、阿弥陀信仰といえば、浄土教系の鎌倉「新仏教」(浄土宗、浄土真宗、時宗)との関連で理解しようとする向きが多かったように思います。  しかし、中世社会に根を張った阿弥陀信仰は、必ずしも「新仏教」系だけではありません。事実、院政期の歌謡集「『梁塵秘抄』には、「弥陀の誓ひぞ頼もしき 十悪五逆の人なれど 一度御名を称ふれば 来迎引接疑はず」という今様が見え、「新仏教」以前の阿弥陀信仰(念仏)の定着を物語っているのです。板碑の阿弥陀信仰を理解しようとするとき、教科書的な中世宗教史像にとらわれず、視野を広げていく必要があることは間違いないでしょう。  ここで、ひとつの事例を見ておきましょう。高野山奥の院には、「南無阿弥陀仏」と刻まれた康永3年(1344)の阿波型板碑があります(図7)。板碑を運びあげた労力に驚嘆すると同時に、高野山-阿波-阿弥陀信仰をつないだものは何なのかが気になるところです。高野山奧の院は、11世紀初頭から形成された弘法大師入定伝説の舞台であり、高野山に生き続ける弘法大師の居所とされてきた場所です。したがって、霊場としての高野山の信仰拠点として重要な場所であったといえるのです。  こうした高野山の信仰と阿弥陀信仰を結びつけたのは、おそらく高野聖(図8)ではなかったかと思われます。 ~~~~  ~~~~~  ~~~~~~~  ~~~~~~~~   高野山は真言密教で有名です。 高野聖は、高野山から諸地方に出向き高野山寺院の復興資金募金活動をしたのですが、教義は真言宗よりは浄土教に近く、念仏を中心とした活動で、各地で浄土を説き、密教祈祷もするような行動だったようです。 比叡は天台密教で有名です。しかし浄土や阿弥陀も説いています。密教呪法もやります。 顕教といわれる各宗派でも密教儀式はしてます。 禅宗で有名な臨済宗、曹洞宗(道元だけは別です)の後継者は顕密をします。浄土宗の時宗も同じです。 一方、延暦寺が念仏を「万善衆善の根本」「諸宗の通規」と語り、興福寺が「諸宗みな念仏を信ず」と語っているように、阿弥陀念仏信仰は、顕密仏教全体の共通基盤にもなっています。 http://www4.ocn.ne.jp/~yamamtso/newpage47.htm 高野聖だけでなく、地方を遊行し、民衆対象に活動した僧は、地方の富裕農民や武士には先祖追善や自分たちの無病息災、病気平癒などのために、板碑の制作と、関係者を集めた結縁・法要・催事の実行を勧めたのではないでしょうか。 http://japanese.hix05.com/Performing/sekkyo/sekkyo01.html

yoshinobu_09
質問者

お礼

ありがとうございます。 大変勉強になりました。 埼玉県の板碑を調べた本で、 「年代的に供養目的の推移をみてみるならば、まず追善供養から始まり、若干遅れて逆修供養の板碑が増加してくる傾向がみられる。また、宗教的行事のなかでも特に民間信仰的な色彩の強いものは十五世紀後半から顕著になってくる」 「板碑の基本は、供養を目的としています。死者の冥福を祈るために、仏に供養する追善供養の場合が多いのです。縁につながる死者が、極楽往生出来ますようにと仏に願うという形で造っている。こういう板碑が非常に多いわけです。ところが中には、死者の冥福だけではなくて、生きている人が自分のために生前供養(逆修〉するものもあります。」 とあったので、板碑は追善供養から発生したと思っていたのですが、 御教示いただいたサイトにより全国的な観点から眺めると、板碑の源流がどこにあるかわからないですね。 ネットで検索すると木製板碑などもあり、混乱するするばかりです。 http://www.ishikawa-maibun.or.jp/maibun/hakkutu_2007/iseki/nonoe_2007.htm

回答No.4

板碑が作られたのは、鎌倉期から室町期くらいまでですが、鎌倉期と室町・戦国期ではやや違いがあります。 鎌倉期の板碑は浄土教とは関係がないと思った方が良いです。 鎌倉期の武士は、神仏混淆、顕密禅が混ざった状態で信仰、祈祷していますいます。 浄土真宗が普及勢力拡大した戦国期では、板碑は急速に消滅していきます。 武蔵国、関東だけでなく、鎌倉武士の支配する地域に板碑が作られています。 板碑が盛んになり始めた時期には、板碑の彫りは金剛界大日如来の種子が多く、その後、阿弥陀如来の種子が増えるというようらしいです。鎌倉時代末から室町時代初めにかけてもっとも造立され、その前後の造立は少なくなります。全体としてみれば、阿弥陀如来が90%近くあるそうです。http://www.geocities.jp/kawai24jp/index-itabi.htm 阿弥陀如来の種子が多いので浄土教との関係を想像されるのでしょうが、板碑の多数が武蔵を中心に発見されることとみれば、浄土宗そのものに板碑の起源を求めるのは適当ではないでしょう。 鎌倉期は平安貴族が衰退し、武士や地方の豪族が力や富を持ち始めた時期です。平安貴族は氏寺を良く造立しました。新興の武士や地方豪族でも勢いを持つ有力者は寺院を建立しています。寺院を建立できるほどの力や富に余裕がなかった中小勢力は、比較的簡単に板碑にできる緑泥片岩を利用して板碑を作らせ、祖先の中で隆盛をもたらして功績の高かった祖先の追善法要を催し、あわせて自分一族の繁栄やら戦勝を祈願したのでしょう。 栄枯盛衰は、造立された寺院を廃寺にし跡もわからない状態にしたけれど、数万と作られた板碑はそのまま残ったり、その後一箇所に集められたりして現代まで残ったのでしょう。   現世の救済や極楽往生を願う性質の催しに板碑が使われたのであれば、京や西国にも全国でかなり似た数が残っても良いですが、武蔵や鎌倉武士の系統に多く残ったのは、今まさに勃興し力をつけてきている鎌倉系の武士層が自分の直系の功績が大きかった人を追善し自分に力添えをしてくれることを期待し、密教的祈祷形式で、浄土教の阿弥陀も使い顕密+地祇神加護も交えて法要を行ったと思って良いと、私は思います。 その祈祷の場所が板碑だったと思います。 こうした法要形式が多数出現し流行したあとで、やがて、死者や先祖歴代のための墓を作るという葬式仏教の成立につながり、各宗派が葬式仏教化し、石墓の出現で、板碑の造立は廃れてしまったのでしょう。 http://www.geocities.jp/johannes_schiffberg/sotsuron.html#1  ~~~ 以上 勝手な私見終わり ~~~~   東京都府中市『郷土の森博物館』で、『武蔵府中の板碑 -石に刻まれた中世-』4/14(土) ~7/1(日) があるそうです。 http://www.fuchu-cpf.or.jp/museum/event/tenji.html#itahi

yoshinobu_09
質問者

お礼

詳細な解説ありがとうございます。 五輪塔・宝篋印塔(平安時代、貴族階級) ↓ 板碑(鎌倉・室町時代、武士階級) ↓ 四角柱の墓石(江戸時代、庶民) という流れと捉えました。 板碑建立のの主な目的が先祖供養でしたので、自然と彼岸の仏である阿弥陀如来が選ばれたと理解しました。

  • ennalyt
  • ベストアンサー率29% (398/1331)
回答No.3

http://okwave.jp/qa/q2226534.html この回答者7番さんのお説がしっくりきます。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.2

 鎌倉武士が阿弥陀如来を信仰するに至ったのには、いろいろな流れがありますが、主流は越後から移った「親鸞聖人」の活躍によります。  親鸞という人は、東西を合わせると、現在日本最多の信徒を持つ宗教団、「浄土真宗」の開祖です。  説くところは、阿弥陀如来の本願(人間を救済するぞーという決意)に対する絶対的な信頼です。  師匠の「法然」が流罪になったのと同時期、彼も越後に流されて、そこで浄土真宗と呼ばれる宗教の根幹をつくり、後、鎌倉武士の有力者に招かれて常陸の国へ引っ越しました。  そこで、さまざまな著述をして考えを広め(非常に納得しやすい論理を展開)、また自身、坊主でありながら結婚したこと、子供を作ったことなどから判るように、従来の仏教の枠からはずれる思想を持つ人で、例えば「悪人正機説」を説いたりもしました。  例えば彼が説いた内容が、「絶対に人を殺してはならない」「殺すと地獄行き確定」なんて話なら、武士には実行不可能ですので武士は信仰しなかったでしょうが、彼の説いた内容は、農民や鎌倉武士がどうしても譲れない一線の内側にあったのでした。  そのせいで、さまざまな階層、特に武士に受け入れられて、急速に広まったのでした。

  • ks5518
  • ベストアンサー率27% (469/1678)
回答No.1

創価学会 壮年部の者です。 鎌倉時代少し前に、法然が浄土宗を開きました。 この浄土宗の根幹である「南無阿弥陀仏」は、 念仏することで西方極楽浄土に行けるという教え が鎌倉時代に急速に広まりました。 特に、北条一門の帰依は強く、鎌倉に数多くの 寺を寄進しました。 当然、北条一門に連なる武将、武士の帰依も多く なるのは当たり前の事なのです。

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