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鎌倉時代の幕府・天皇の「二頭政治」で怒った天皇が戦争で幕府に負けた
13世紀だったと思いますが、後鳥○(正確な名前忘れました)天皇がたぶん京都にいて、そして関東にある鎌倉幕府と、同じ日本で二つの支配層があるような政治形態だったと思います。 その天皇が統幕を企てるも、戦争に敗れ、勝者としての幕府と、応援した武家たちが、西日本に大挙として押し寄せた。どうやら、褒美として西日本の政治的・経済的な支配権をそうした武士達に与えるという趣旨だったようですが、そもそも西日本は天皇側の京都もあり、戦争に勝ったとはいえ、にらみを利かせる意味で武家を幕府が配置したのでしょうか? 関東から西日本に行くというよりは、行かされる(縁のない地域に住んで自分の代から子供や孫までその地域に住む覚悟だったと思います)という気持ちはなかったのでしょうか。各々の武家は、何を基準に、西日本の地域のあるところは、武家Aで、またこちらの地域は武家Bという風に決まったのでしょうか。サイコロですか?
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承久三年(一二二一)後鳥羽上皇がかつがれておこした「承久の乱」ですね。 制圧した鎌倉幕府は「応援した幕府たち」への恩賞として上皇方旧領の地頭職を与えました。 その配分規準は知り得ませんが、上皇に加担した武家の地位と、その旧領へ送り込む幕府方の武 家の功績とのバランスをみて決めたと思われる例が多いようです。 また、そのとき「にらみを利かせる意味で」京都に設けられたのが、六波羅守護(六波羅探題)です。 頼朝の「平家討伐」のときも、東国武士たちに西国の平氏没官領が与えられています。 もともと東国などに地頭職をもっていたので、初め代官を送って支配に当たらせた例もあったようで すが、庶家(分家)が増えれば東国の本領だけでは扶養しきれません。 やがて、新所領に移転して支配に当たるようになりました。
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- tanuki4u
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1 後鳥羽上皇です 2 新補地頭で恩賞をもらった →初期には、代官みたいなのがいっていたが、代官も分家だったりする。 元寇の段階で、対元防衛のためにちゃんと赴任しろとされた。 毛利家はもともと相模の国で大江家が毛利の荘をもらっていたが、分家が安芸の国に行った。大分の二階堂酒造の先祖は、鎌倉の二階堂からの分家。 3 江戸時代のように、国替えで移動ではなく、分家が広がるという形で、その形式は平安時代から、武家には普通のこと。
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ありがとう。 先祖を調べていて、1800年までは遡れたのですが、残る情報は限られています。どうも神奈川県の相模からやってきた武家で、家紋も同じです。 1800年ごろに、私の6代先祖が生まれていますが、すでにあたり一体の大地主でした。特別の権利を得ない限り、そのようなな地位は不可能です。 私から数えて5代先祖までは、そうした商人?的な立場だったので、いつの時代から何をきっかけに、武家から商人?に変化したのかとそこが知りたいです。
お礼
なるほど、私の先祖は 神奈川県の武家のようで、京都や大阪に近い西日本の一帯に、同じ苗字の農家がたくさんあります。 ただ、藤原という名前だったのが、その武家の苗字に変わったりと、色々と、本来の苗字から、そのいわば輸入した苗字に江戸時代前期かそれ以前に変わっている可能性もあります。 回答ありがとう、分家を養うためなら、ある意味、西日本に行ってゆったりと暮らすのも良かったでしょう。