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人間は知っていることより知らないことのほうが多い
公理として、 (1)人間の知っていることは有限である(自明) (2)人間の知らないことは無限である(公準として仮定する) としたときに、推論として 「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」 という命題がこの公理系のなかで定理として証明される と考えたのですが、暇人の戯言と笑わないでください。 この命題から色々考えさせられることが多いと思います。 例えば、人類としても個人レベルにしても謙虚であれなどと、、、。 どう思いますか。
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ANo.10 です。お礼を頂いていたのに気づきませんでした。ごめんなさい。 ところで、キーワードとして、「階層」と「時間」を挙げておられませんでしたので、あるいは平面的な世界での、お考えなのかな?と、察します。 そうなりますと、私の回答では、これ以上はお役に立てないものと存じます。
- moto_koukousei
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書き漏れたことがあったので、追加コメントします。 1) 「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」の「人間」を、特定個人あるいは抽象概念としての個人ではなくて、集合体として考えた場合、 Aさんが知らないこと、Bさんが知らないこと、Cさんが知らないことは、重なるとは限りません。 書店や図書館に行く、ニュース報道や授業、講演会、研究会などで、個人Dさんが始めて知ったとしても、他のどなたかは知っていたことです。 そうすると、個人が今まで知らずにいて、初めて知ったと思うことでも、集合体としての人間はすでに知っていたことになります。集合体としての人間がこれまで決して知らなかったことが、どの程度存在するのか不明だとしても、個人としての人間が「知らなかった」ことの大部分あるいはほとんどの部分は、集合体の人間は知っていたことでしょう。 集合体の人間にとって「知っていることより知らないことのほうが多い」という命題に〝現実感”があるかは、疑問です。 その方面から推定しても、「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」の証明は難しいでしょう。 2) 「知っている」とは何か。70歳の人間は、3歳、15歳、30歳、45歳を経験しています。この70歳の個人の「知っている」は、忘れてしまったことを含むのでしょうか。 「知る」のは教わる、学習するなどの外部からのインプットによるのでしょうか。真の認識とは「想起(アナムネーシス)」にほかならないという論議もあるかもしれません。新しく知るのではなくて、もともと知っていることを思い出したことを「知る」、思い出せることを「知っている」と表現するのかも知れません。 そうすると、新事実発見というようなことでさえも、トリガーとして発見の行為はあったけれど、それを新事実発見と認知できたということが、思い出したことでしかないかも知れません。 では、思い出しうるものは無限と言えるものでしょうか、有限でしょうか。 この方面から推定しても、「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」の証明は難しいでしょう。 3) 「知らない」とはなにか。 「知っている」の件数や量を測定、カウントするのも難しいです。「知っている」に関しては、そのカウントや量表示の方法を決めることも可能だと思いますが、「知らないこと」の件数や量を測定、カウントする方法は決めることもできないでしょう。 知らないという意味にもよるでしょうが、具体的に内容を規定できないと(知っていると区別して)1件、2件、3件とカウントできないでしょう。 明確にタイトなカウントはできないようなものでも、少なくとも100件以上、1万件以上、10万件以下のような範囲推定でもできれば、他のこととの多少の論議は可能でしょうが、範囲推定もできない状態だと、他のこととの多少の論議は不可能でしょう。 この方面から推定しても、「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」の証明は難しいでしょう。
- moto_koukousei
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「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」を証明したい。 証明方法案A (1)人間の知っていることは有限である(自明) (2)人間の知らないことは無限である(公準として仮定する) としたときに、「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」が証明できる。 しかし、 (2)'人間の知らないことは有限である としたときには、「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」が証明できない。 証明方法案Aではないものがあるでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「Aであることより、Bであることの方が多い」を証明するには、AとBが両立できないことの場合、(A、Bの双方のケースの数)あるいは(A、(A+B)のケースの数)、(B、(A+B)のケースの数)がわかる必要があります。 (無限も数の一つとして。ただしAかBのどちらかは有限であることが、証明の必要条件です) 証明方法案Aは、(A、Bのケースの数)で証明しようとしています。 しかし、【(1)人間の知っていることは有限である(自明)】とは言えません。知らないことがあるということを立証できても、知っていることは有限であると証明したことになりません。 【(2)人間の知らないこと】も、無限か有限かは立証できません。 A,Bともに、無限の可能性を残したままです。 従って証明方法案Aでは、「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」を証明することはできません。 もともと「あなたwadarikaさんが知っていること」を数でカウントするのも、量で特定するのも難しいです。 自然数と整数の個数?を比較しようとしているのと似ていませんか。 さらに言えば、「人間が知っていること」が何を指しているかが不明確です。 誰が人間ですか、特定個人のことでなく、抽象概念の人間を指しているのであれば、「人間が知っていること」も抽象概念であって、数量的にカウント、計測できるものではないでしょう。 同じように「人間が知らないこと」も抽象概念であって、数量的にカウント、計測できるものではないと思います。 個人的経験でも、何かを知っても知っても、まだ知らないことがある感覚があるのは確かです。 たぶん、他の人も同様でしょう。エンドレスの感覚があるから、知らないことは無限と思えるのだと思います。 しかし、知っていること、あるいは今は忘れてしまったり、思い出せないでいることも、尽きずにあります。 感覚的には有限そうな気がしますが、有限でしょうか。1cmの長さを細かく分けるのも有限そうな気がしますが、無限です。個人の知っていることも、有限とは言い切れないです。では、どう無限であることを証明できるでしょうか。できないかもしれませんが、有限と証明できないなら、無限と言わざるを得ないでしょう。まして、特定個人ではなく、「人間」という抽象概念の知っていることは、無限と言わざるを得ません。 「人間は知っていることより知らないことの方が多い」を証明することはできないし、証明する必要性も私にはわかりません。 ただ「知らないことの方が多い」という感覚は大事ではないかという気持ちはします。もっと正確に言えば、「知らないことがたくさんある」という感覚とか、思いが大事なのではないかと思います。これまでに知ったことよりも多いかどうかなどは関係がないと、私は思います。
おおむね、よろしいかと思います。 (1)人間の知っていることは有限である(自明) (2)認識できないことは、その際限を知り得ない(公準) よって、人間の認識できることは、その因果関係を測ることができない。 すなわち、人間は何も知り得ない。ここに因果律は揺らぐ。 【推論として】 「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」 【という命題がこの公理系のなかで定理として証明される】 大意では、よろしいと思います。しかしもし許されるなら、 「人間は知っていることより知らないことのほうが大きい」 と訂正されるほうがよろしかろう。
- Mokuzo100nenn
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人間にとって知らねばならないことは、知らなくても良い事よりもよっぽど少ないとも言えます。 だから、必要充分に知っているか否かが重要なんです。
お礼
有難うございます。 なるほど、 > だから、必要充分に知っているか否かが重要なんです。 というのは、すばらしいご返答です。 実際、個人として生きてゆく上で大事な指針となります。 ただ、『必要十分』の定義が難しいですね。 (1) 人間の知識は必要十分に達していない。 (2) 人間の知識が必要十分であるかは、判断できない。 などなど、考えても公理には成り得ないように思います。
人間の知っている事は有限では無いし、知らない事は無限でも無い。何故なら、人間は何も知る事が出来ないから。知ったと思ったら大間違いだし、知らない振りはカッコつけ。全てを知ろうとした末に、何も知る事が出来ないこの身に気づかされる。 海水が蒸発して、天に上って雲になって、雨粒として大地に降り注ぎ、川となってまた海に還る。川で生まれて海に出て、また一生懸命に川を登って、力尽きて川を下る。生まれた所も行き着く先も、いつだって元の木阿弥。それでオーライ、万事オーライ。
お礼
お返事ありがとうございます。 ただ、申し訳ありませんが、おっしゃっていることがよくわかりません。 >人間は何も知る事が出来ない。 これは意味深い言葉のようにも思えますが、私には理解できません。 申し訳ありません。
理屈としては自明の理なのですが 主観的な見方の幾つかを上げてみます。 自分にとって知る価値のあることだけを知っていればよい、といった この世界に先立つ自己の能動性の優位に満足している場合 知る必要のないことが多いという、世界に対する自己の整理感覚 名付けて無知なる優位性 一点の如きものにすべての要素が含まれているという直観的な認識 自己に代わって直観がすべてを知りうるという了解 名付けて無責任なる了解 前者は自我肯定の認識感覚、後者は自我否定の認識感覚 >人類としても個人レベルにしても謙虚であれなどと・・・ 謙虚という状態をもたらすのは後者の体験でしょうか 無責任なる了解という、無知の知によって自我の狭量さを思い知らされる体験です。 知る必要はないという傲慢さと、知らないことがあるという謙虚さでは、天と地ほどの開きがあるかもしれません。 知るという事の裏側に、人間的な心理が常に幾つも働いているのではないでしょうか。 普段は自我優位の働きが、時には崩壊してしまう場合もあると思います。 何度も崩壊しては再生してきた自我の成長は肥大ではないと、期待してもいいのではないでしょうか。
お礼
ご返答ありがとうございます。 ただ、申し訳ありませんが、内容についてはまったく理解できません。 お許し下さい。
知らないことをどう定義するかですが、 知らないことは認識できませんから、カウントもできないと私は思います。 よって、 知らないことが知っていることより多いとはいえないと思います。 基本的に、世界は有限ですから、その構成要素も有限です。 よって >(2)人間の知らないことは無限である とはいえないと思います。 >人類としても個人レベルにしても謙虚であれなどと いずれにせよ 人間の現状での限定的な知的レベルから見て、これは当然のことだと思います。
- 雪中庵(@psytex)
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1.量子論的に、無限分割は成り立たず、どのように多くとも 無限ではあり得ない。 2.しかしながら、脳は宇宙の部分である以上、ニューロネット とシナプスのつくる回路は、全宇宙の量子(ビット)の数を 超え得ない=完全に宇宙を把握する事は不可能。 3.認識が原理的に遡って確定(→量子ビット数)せず、階層 現象表面的に経験によって“いい加減”に捉える事により、 絶対化によって無限不確定化する不確定性原理の相補的 不確定性の、有限的存在化を可能にしている。 4.「知っている事より知らない事の方が多い」というよりも、 知らない事(=非確定)が知っている事(=存在)であり、真に 「知る」事とは、知っているものを無(=無限不確定)に還元 するプロセスなのだ。
- k_mutou
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“知っていることより、知らないことの方が多い”とは『人間は【自分に都合の良い事だけ知って】【自分に都合の悪い事は知らない】フリをする』から“知っていることより、知らないことの方が多い”となるのでは? 『自分にとって都合の悪い事』も現実として理解し受け止めれば[無限に近いぐらい]知識として受け入れられると思います。 または、[視野の拡がり]になるのかも。
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お礼
有難うございます。 私が考えたことは、 『人間は知っていることより知らないことのほうが多い』という命題が論理的に証明できるかどうか、ということです。 この命題自身を『自明である』とした公理系を考えるなら、証明は必要ありません。 しかし、なんとなく気になったので、色々考えてしまいました。 そこで、 > 公理として、 > (1)人間の知っていることは有限である(自明) > (2)人間の知らないことは無限である(公準として仮定する) > としたときに、推論として >「人間は知っていることより知らないことのほうが多い」 > という命題がこの公理系のなかで定理として証明される と考えました。 ここで、公理(2)は公準ですから、あくまで仮定です。ですから公理(2)を否定することも可能です。 公理(2)を否定して、人間の知らないことは有限である、とすれば、別の公理系が出来ます。 公理系はそこから生み出される定理に無矛盾性を要求されますが、上記の二つの考え方には、何か不都合があるのでしょうか。