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結局、吉本隆明さんの思想的業績は??

「棺を蓋いて事定まる」といいますが、 結局、吉本隆明さんの思想的業績って なんだったのでしょうか? 新聞の訃報記事を読んでもよくわかりませんでした。 どなたかわかりやすく教えてください。

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  • lv4u
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回答No.2

>>結局、吉本隆明さんの思想的業績って なんだったのでしょうか? マルクス、エンゲルスの共産主義思想が登場したときは「貧困の無い、平等で素晴らしい世界が実現する思想」だと思われました。資本主義社会が発展して、貧富の格差が広がった時代、貧乏人はもちろんですが、金持ちの子息も、その共産主義に引かれたものです。そういう子供がいると「アカにかぶれた」なんて言われたものですね。 60~70年代の学生運動も、そこに参加していた方たちは、社会改革をめざして、「すばらしい日本を作ろう!!」という心境だったと思います。そして、その中でも、急進的、過激な左翼運動は「新左翼」と呼ばれ、その理論的指導者の一人が吉本隆明であったと思います。 私も、ヘルメットにマスクし、成田闘争のデモに参加し、ジュラルミンの盾を持つ機動隊と対峙したこともありますが、そういった活動の仲間たちは、吉本隆明の「共同幻想論」を勉強会で輪読していたりしました。 原発反対などの、いわゆる「市民運動」や、小さな木造アパートの一部屋(いわゆるアジト)に数人が集まって、なにやら計画を相談する「○○派の活動家グループ」なんてのをやる人達のリーダになるような方も、彼の思想の影響を受けていたように思えました。(公安に尾行された日々のあのころ・・・) キリスト教では、 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」(マタイによる福音書7章17節) とありますが、これは木を見ただけでは、その良し悪しは判らない、でも、実を見れば、その木が良いか悪いかが判断できるということです。同様に、共産主義思想、資本主義思想も、その実でもって、良し悪しが判断されるってことです。簡単にいえば「やってみなくちゃわからない」てことですね。そして、その壮大な社会実験がソ連、中国、北朝鮮とか、世界の多くの国々で行われて、どの国においても、多数の人々が惨殺されたり収容所送りになったわけです。 つまり、キリスト教の教えに従えば、「吉本隆明は悪である」という結論になり、仏教的には、悪い思想を流して、人々に害毒を与えたってことで、無間地獄に行くことになると思います。 彼自身も「自分の共同幻想とは、マルクスの用語である上部構造と同じ意味であり、ただ手垢がついているから使いたくなかった。」と述べていますからね。 結局のところ、資本主義社会を「共同幻想」として攻撃し、バラ色の未来を共産主義に真似て提示したわけですが、その彼の提示したものも、やはり「共同幻想」でしかない、「悪い木」でしかなかったということだと思います。 つまり、思想的業績というよりも、思想犯といったほうが適切でしょうね。

bougainvillea
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 プラグマティズム的で吉本隆明にわりと否定的な意見ですね。 マスコミなどで「戦後最大の思想家」などと言葉は踊りますが、 その内実は乏しく、新左翼を理論的に指導したので、 その影響が今もマスコミ上層部に残存してるので こんな取り扱いになってるのか?と考えました。

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回答No.5

>さらにはソニーに使い捨てにされた技術者がサムスンに液晶の作り方教えたり ソニーを使い捨てにした技術者個人が、今度はサムスンを使い捨てにして、老後の資金の貯めている、とも言える。 吉本さんは、何を基準に考えるかの軸をゆさぶってくれました。 米国人のハワード・ストリンガー氏がCEOで英語で取締役会をする会社、販売の過半が日本以外、生産の過半が日本以外、そして資本金の半分が外国資本であるソニーがなぜ「日本の」という枕詞をつけられるのか、これを考える軸を与えてくれたのです。 まさに国家が共同幻想であり、そこでの「この国の会社」というものも共同幻想に違いないと思いますが、如何ですか?

bougainvillea
質問者

お礼

結局、この人の根本は詩人であって、 「古事記」と「遠野物語」で近代国家日本を論じるのは、 歴史的変遷や法体系や社会構造、文化など時空をすっとばした議論で、 「モーツアルトは万葉集である」なんて喝破した小林秀雄に 通じるものがあると思いました。 世間の人を驚かすような事を言って、そのたびに論争になるけど あまり実はなかったのではないでしょうか? 「思想」家というより「詩藻」家に近かったのでは? また文章は難解ですが、以下のジョンロックの言葉を思い起こさせます。 ---- 奇妙でばかげた学説を流行させたり主張したりするには、曖昧でわかりにくく、 意味のはっきりしない言葉をふんだんに用いて周りを固めるにしくはない。 しかしながら、そうしてでき上がる巣窟は、正々堂々とした戦士の要塞というよりも、 山賊の住む洞窟かキツネの巣にそっくりになってしまう。 そこに逃げ込んだ者を追い出すのが難しいのは、その場所が持っている強さのためでなく、 周りを囲む茨や棘、藪の暗がりのせいである。 というのも、誤謬はもともと人間の知性と相容れないので、不条理なものを擁護し得るのは、 曖昧さしかないのである。 ジョン・ロック ----

回答No.4

やはり共同幻想論ではないでしょうか。 私は、青年のころに共同幻想論に接したおかげで日本という国に依存しなくても(共同幻想が崩壊した後も)自分と家族は生き残ってゆけるように人生の舵取りをしてきました。吉本氏の後半の著作には詳しく無くて申し訳ありませんが、個人的には「国家は共同幻想にすぎない」というパンチをくれた吉本さんに感謝しています。合掌。

bougainvillea
質問者

お礼

この「国家に依存しなくても、自分の力で生き残る」という共同幻想論が、 市場主義とミックスされたとき、派遣でスキルアップを永遠に求められる 修羅の世界のディストピアになってしまったのが、現代の日本なんじゃ ないでしょうか? さらにはソニーに使い捨てにされた技術者がサムスンに液晶の作り方教えたり 日立がハイアールに売られて白物家電で猛追を喰らって、 日本が中国・韓国に抜かれてしまうという現在の苦境を招いていると思います。

回答No.3

 こんにちは。  (1) 対象化 そして対象化の対象化  ということを言いました。(最近 宮本 孝二:吉本隆明の社会理論 が出ました)。  (1-1) 原生的疎外 および 純粋疎外  とも それぞれを言います。〔疎外とは 外化 つまり 表現(おもてにあらわす)という意味をも持ちます〕。    (1-2) たとえば 自分を知る ということであり さらには《自分を知る自分を知る》もしくは《自分と知ったその自分を概念として持つ》  だと捉えられています。  このとき   (2) 遠隔対象性:どこまでも対象化をすすめていくこと  という捉え方もします。ただし   (2-1) 遠隔対象性は おのれの意識の天井にぶつかって そこまでだ。  とも言っていたと思います。  ところが その後  (3) 親鸞にあっては ついに《非知》を掲げた。もしくは 《非知》なる岸に到ることを見つめていた。  といったように捉えて《意識の天井が閊(つか)えていた遠隔対象性》が 《非経験の場 ないし わが心なる非思考の庭》にまで突き抜けたかに思われます。  このような精神の営為があったと思われます。  《共同幻想論》は どうも幻想に終わりそうにも感じられます。

bougainvillea
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分を知る→世界(他者・事物)を知る→自己の認識の限界を超えた世界を知る という3段階論を説いたということですね。

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回答No.1

これから語りたくてうずうずしてる人間達がでてきます。すでに原稿を用意していた人もいると思う。待ちましょ。

bougainvillea
質問者

お礼

「ユリイカ」や「現代思想」に追悼の解説が載るとしても ちんぷんかんぷんでとてもじゃないけど理解できる自信がなくて・・・

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