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宇宙の法則は創造されたものなのか
神=創造主と考える人は多いようです。 しかし果たして宇宙の法則、つまり世界の全てを支配する法則は創造し得るものかと考えてみました。 宇宙の法則は創造されたものではなく、また創造し得るものでもないと考えますが皆さんはどう考えますか。 やはり創造主がいて、この創造主によってあるとき突然宇宙の法則は誕生したと考えるのでしょうか。
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私も創造主はいないと思います。 もし、仮に創造主がいて、この宇宙や、法則を考えて創造したのだとしたら、その創造主の能力はものすごいですよね。そうなると、そのものすごい創造主を誰が創造したか?という問題が発生します。 そんなにすごい創造主がいきなりポンと生じるのは考えにくいです。 きっと、この宇宙を創造した創造主を創造した存在なのだから、この宇宙の創造主よりもっとすごい存在に違いありません。そして、この創造主を創造した存在を創造したのは、誰か?という果てしない連鎖が生じます。 ということは、やはり創造主は元々いなかった、と考えるのが自然だと、私は思います。
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今の物理学や天文学をもってしてもビッグバン以前のことは分からないし、現宇宙の質量や行く先なども分からないことだらけだから神にたよるんじゃねぇ、そのうち超統一理論でも完成したら分かるのかねぇ、でも神を信じている人は変わらないと思うけどね
お礼
分からないんであれば、宇宙はもともとあったということにしておけば何も問題はありません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ (No.18お礼欄) 「宇宙の法則は創造されたものなのか」と質問したのであるが、そのような問いかけはどうでもよいことと決めつけた。 ☆ (1) 《創造主なる神が創造する》なるものは 表現の問題であり その文字通りの意味を一義的に語っているわけではない。と答えています。 (2) 《決めつける》というのは 理由も根拠も明らかにせずに自分の主観を勝手に述べ おまえもそう考えよと言うことを言います。わたしがいつ決めつけたか? 言ってみろ。 ★ 宇宙の法則などどうでもよく信仰のほうが大事となり、いつの間にか信仰とは何かという議論にすり替えられた。 ☆ (3) 宇宙の法則とは何かを明らかにしないのは どこのどいつだ? (4) 信仰を大事としこれを説明し始めたのは 《神はナゾだから 補助線を引いて説明するしかない。ゆえにその補助線を引くという表現の形式は いくらでもありうる。妥当でよさそうな試みをすればよい》ということのひとつの説明のためです。 (5) 信仰は非思考の問題であるゆえに 信仰をめぐる人間の言葉による表現は 一概に決まらない。つまり 最終の正解はないということです。この信仰――非思考の庭――において神を表わすときに 《創造主》なるひとつの補助線を引くこともありうるという説明のためです。神は 人間の相対世界を超えていると想定するからには 絶対なる場(チカラ)であるゆえに 《宇宙の創造主なり》という説明もあり得るのです。 (6) 議論は きちんとその流れにしたがって取り扱うようにしなさい。《議論のすり替え》なり《決めつけ》なりと決めつけるのではなく そうではなく 質問者は司会の役目をも負う者なので きちんと相手の言っていることに耳をかたむけなければなりませんよ。 ★ そして信仰は信じることであり感じることではないと言いつつ、最後は信仰体験を持ち出した。 ☆ 信仰について説明したまで。 ★ で信仰体験とはどのような体験かと訊いても何一つ明かすものはなし。 ☆ おまえの目は節穴か。 ★ どうやら最後に求めるものはやはり感じることらしい。 ☆ (7) そういうことも――あくまで主観の内において――ありうると言ったまで。《最後に求める》のではなく 信仰が成ったなら 主観が神をあたかも感じると思うことはありうると。 ★ 信仰体験って何のことなのか説明してもらわんと。 ☆ わたし自身の個人的は体験は 説明していません。一般的なかたちをすでに説明しています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ >それは 人間がもとめてその結果として 神のもとにあるようになる――のではないということです。 信仰とは祈ることである。 救いを求めて神に祈るんではないのか。 祈るとは神を求める行為ではないのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (8) 信仰とは 神なるナゾを心に受け容れることである。 (9) 受け容れて信仰が成ったなら この神に願うことも祈ることもある。願うなら 何でも願えばよい。 (10) 祈るというのは わたしはいま・ここにいますというおのれの自覚をあらたにすることです。願ったり祈ったりする内容は 願い祈る前にすでに神には知られています。願いがかなわないときには そのかなわない理由をおのれみづからが やがて明らかに知ることになりましょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 神のほうから こちらにやって来るというところが けっきょく全然違うと言わねばならないでしょう。 向こうから勝手にやって来るんであれば、祈る必要もなく信仰する必要もなくなる。 信仰も真理の探求も一切が不要ということになるが、それでよいのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ (11)《向こうから勝手にやって来るんであれば》――そうだ。 (12) 《祈る必要もなく》――信仰が成る前にも 祈ることは自由。まったく自由。 (13) 《信仰する必要もなくなる》――神が神のほうからやって来る前には 信仰は自覚されていない。かまたは あいまいであったはず。神が心の窓をノックしたとき その声を・音を受け容れたならそのとき 信仰は成ります。わが心に《非思考の庭》が成ります。 (14) 信仰が成ったあとに 信仰する必要はあるか?――保つか捨てるかの問いが持ち上がることがある。どちらをえらんでも 神との関係は――すなわち信仰は――すでに成っている。捨てた場合には 特には《無い神》としての信仰となる。 (15) 窓をノックして拒まれたから もう神ではない――ということにはならない。そんなインチキ観念なる神は神ではない。人間がののしり捨てようと・よろこんで受け容れようと 神は神である。 (16) 《真理の探求》は 非思考の庭の問題ではなく 思考の緑野や感性の原野において経験合理性が問われるところの――すなわち補助線を引く作業なる――いとなみである。真理は向こうからやって来ると言っているではないか。 ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕~~~~~~~ 自然といふは 《自》はおのづからといふ。行者のはからひにあらず。 《然》といふは しからしむといふことばなり。 しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。 * 爾(に・じ):しかり。そうである。 ■ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~ 自己を運びて万法を修証するを迷とす。 万法進みて自己を修証するは悟りなり。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと(17) 《宇宙の法則》とは何か? を明らかにしなさい。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.15です。 長くなるので ここらへんでこちらは切り上げます。 けっきょく神を感じることになるのでは? というお尋ねです。 議論を端折りますが もしそうであるとすべて認めたとした場合 それでも 違いがあります。それは 人間がもとめてその結果として 神のもとにあるようになる――のではないということです。 神のほうから こちらにやって来るというところが けっきょく全然違うと言わねばならないでしょう。 もし人間の欲するままに神に到達できたとするのなら その神は 神という・人間のペットのようなものでしょう。
お礼
「宇宙の法則は創造されたものなのか」と質問したのであるが、そのような問いかけはどうでもよいことと決めつけた。 宇宙の法則などどうでもよく信仰のほうが大事となり、いつの間にか信仰とは何かという議論にすり替えられた。 そして信仰は信じることであり感じることではないと言いつつ、最後は信仰体験を持ち出した。 で信仰体験とはどのような体験かと訊いても何一つ明かすものはなし。 どうやら最後に求めるものはやはり感じることらしい。 信仰体験って何のことなのか説明してもらわんと。 >それは 人間がもとめてその結果として 神のもとにあるようになる――のではないということです。 信仰とは祈ることである。 救いを求めて神に祈るんではないのか。 祈るとは神を求める行為ではないのか。 > 神のほうから こちらにやって来るというところが けっきょく全然違うと言わねばならないでしょう。 向こうから勝手にやって来るんであれば、祈る必要もなく信仰する必要もなくなる。 信仰も真理の探求も一切が不要ということになるが、それでよいのか。
- titelist1
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番号を変えた理由を教えてください。
お礼
番号を変えた理由? 何故番号を変えたのか、誰の仕業でこーなったのかはおよそ見当はついております。 例えば創価学会に関わること書くと直ぐに消されてたとかね。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.14お礼欄) 信じるとは願うことです。 ☆ ここは 文学じょうの表現のあやなどの問題ではないのですから その定義は 成りません。 なぜなら《願う》は ただの経験的な思いや意志行為であるからです。願うというおこないも 経験的でありその狙いや目的も経験的なものごとです。だから けっして《ナゾの何ものかを受け容れる》という信じる行為には入りません。 大きくは《願う》は 考えるや感じるという経験事象に入ります。 ★ 信じるとは信じたいと願うことなのです。 ☆ そういう文学的な表現があるかも知れません。ですが お呼びではありません。 ★ しかし神は信じるためのものではありません。 ☆ 神を信じるのでなければ いったい何を信じるのでしょう。 ただし《信じるためのもの》というのは おかしいです。信仰はあたえられるものだからです。 ★ 神は感じることのできるものです。 ☆ それは 一人のひとの主観内面において そういうことが起きた・出来たという思いを持つことがある。という意味です。おれは神を見たという主観もあり得ます。 ただし このことが ほかの人と共有されることはありません。あり得ません。 《神を見た。神を感じた》という表明は すでに神本体のことではなく ただ補助線を引いた表現であるに過ぎないからです。《補助線としての神を見た》ということです。主観内面に起きたとその人は 言い張ることがあり得ます。そこまでです。 ★ そして真理の探求を通して神を感じることが出来るようになるのです。 ☆ それも 補助線としての神に近づいたと思ったり感じたりすることがある。というにとどまります。 ★ 信じようともがく必要はないし、また信じようともがいたところでそのような人に神は何もしてくれません。 ☆ 神のほうからやって来る場合しかないと言っているのに どうして《もがかなければならない》のだろう。 信じることは あたえられるのです。 ★ 神は唯一真理を探求した者にのみ扉を開くのです。 ☆ それは せいぜいが補助線としての神です。無理です。 ★ 仮に病気になっても真理の探求によってその病気を克服することが出来るのです。 ☆ そういうことは 決まっていません。そういう願いがあるというだけのことです。神は風が気ままに吹くのと同じように あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむのみです。 ★ 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神がそのように教えているからです。 ☆ それは ただの補助線学です。
お礼
> ところが 《信じる》は 何の根拠もなく・また論証も成し得ないながら 或る日或る時ふとそのナゾの何ものかのほうからやって来ます。心の窓をノックするので もし素直な羊であるならそのよき羊飼いのことを 直感でさとって その戸をたたく音の主を受け容れます。何の根拠も確証もなしにです。あれば それは信じるとは言いません。バカみたいに受け容れます。 信仰体験したのであれば、そのナゾの何ものかが何であるのか多少なりとも説明出来てよいのではないのかい。 信仰体験したのであれば、そのナゾの何ものかはどこからどのようにやって来て何をノックするのか多少なりとも説明出来るはずではないのかい。 信仰体験とは感じることではないのかい。 信じるが感じるに変わったってことではないのかい。 であるならアルケーの神を感じることと何が違うのか。 信じるといっても最後はやはり感じることを求めて止まないのではないのかい。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★(No.13お礼欄) ~~~~~~~~~~~ どれほどの補助線やタトエ話を用いようと、人間が人間の言葉で神を表すなど簡単には出来ません。 補助線は補助線に過ぎず、タトエ話はタトエ話にすぎないからです。 人間は神に到達することは出来ないでしょう。 ここを勘違いしてはなりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そう言っています。わたしが言っています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~ 真理の探求は終わりなきプロセスであり、永遠に続くのです。 しかしながら神に到達することは出来なくても、真理の探求を絶え間なく行うことにより少しずつ神に近づくことは出来るのです。 真理の探求は人間から神への一方的な対話の試みなのであり、それは人間が神に近づくことが出来る唯一の方法です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここでは 《信じる》と《考える・感じる》との区別が 必要であり大事です。 ★ 真理の探求は終わりなきプロセスであり、永遠に続くのです。 ☆ これは 《補助線を引いての〈考える・感じる〉による探究》のことです。 ところが 《信じる》は 何の根拠もなく・また論証も成し得ないながら 或る日或る時ふとそのナゾの何ものかのほうからやって来ます。心の窓をノックするので もし素直な羊であるならそのよき羊飼いのことを 直感でさとって その戸をたたく音の主を受け容れます。何の根拠も確証もなしにです。あれば それは信じるとは言いません。バカみたいに受け容れます。 その信仰体験のあとも 前と同じように《思考と感性》とで真理の探究をつづけます。たぶん引く補助線が うまい具合いに引けるようになっているでしょう。 言いかえると 《神に近づく》といった表現(つまり補助線のひとつ)はあまりしません。信じる事件において すでにわれは そのナゾの何ものかによってつつまれているからです。魚が網に掬われるように からだが浮き上がってのように すがすがしさに満ちているので 《神に近づく》とか《神から遠い》とか そういった表現ではもう言わなくなります。 ★ 真理の探求は人間から神への一方的な対話の試みなのであり ☆ それは 思考と感性との問題です。人間から神への動きは してもしなくても構いません。自由です。 信じるの問題は 神のほうからやって来ます。いやなら拒めばよいわけです。羊として羊飼いの声だと思ったなら 受け容れればよいわけです。 まったく自由です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ > 《愛》とか《慈悲》とかと言えば その言葉が・つまりその発音や文字が 神のことになるということです。 《愛》とか《慈悲》を求める相手は我々人間なのであって、神ではありません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 《思考・感性》としては そうです。《信仰》としては 初めは神のほうからやって来ます。 愛とか慈悲とかからもっとも遠いところにいると思われた人間にも 神は気ままであって やって来ます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 我々が《愛》とか《慈悲》を求める相手は親であり、兄弟であり、近所の人達であり、同じ日本人なのであってかみではありません。 神に《愛》とか《慈悲》を求めても無駄であることは皆知っているのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは やはり《経験事象――つまり思考および感性――》の問題とそして《信仰――非思考の庭――》とでは 違って来ます。 思いやりとか助け合いを求めるのは 経験的な意志行為です。考えておこなうものであり まわりの人たちとのあいだで繰り広げられることです。神は直接にはかかわっていません。 愛や慈悲は 単なる補助線であると言ったのです。神から声がかかると 愛とか慈悲のことをわたしたちは――信仰の次元で――よく受け留め そこから今度は思考の次元でよく考えよいと思うところを実践する。というかたちになります。 神にもとめることは――という意味は 神がわれわれにしてくれることは―― いちばんのこととして・また分かりやすいこととしては 《元気にしてくれる》ことです。とにかく元気になります。 もし病状にあったときに心の窓へのノックがあったなら ただちに治るといったことではなく そうではなく 支えに成るということであり そのとき心はすでに癒されているはずです。そういう意味で 元気になります。 神が創造主であるかどうか そんなことは どうでもよろしい。元気ジルシであれば 神なのです。 そのとき宇宙の法則がどうのこうのも ほとんど関係ないでしょうよ。
お礼
信じるとは願うことです。 信じるとは信じたいと願うことなのです。 しかし神は信じるためのものではありません。 神は感じることのできるものです。 そして真理の探求を通して神を感じることが出来るようになるのです。 信じようともがく必要はないし、また信じようともがいたところでそのような人に神は何もしてくれません。 神は唯一真理を探求した者にのみ扉を開くのです。 仮に病気になっても真理の探求によってその病気を克服することが出来るのです。 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神がそのように教えているからです。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんばんは。 ★ (No.10お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~ >神についての表現形式は いくらでもある。 であるなら一切のタトエを排除して、神を表すことも可能であるはず。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 補助線を引くごとくの《仮りの説明》としてなら その表現形式は いくらでもある。という意味です。 もし神を――つまり神本体を――人間が人間の言葉で表わし得たとしたら どうなりますか? その表わした表現内容が そのまま神のことになります。 そうすると その認識内容が 神であるとなります。 つまり 神が人間によって知られた。となります。 つまり それなら どこかで・いつか人間が思考力や想像力によって思い描いた姿としての神である。となります。 つまり 神は人間の想像の産物であるとなります。 つまりその神は たとえば一編の小説であったり あるいは概念や理念ないし観念であったりするだけのことです。 《愛》とか《慈悲》とかと言えば その言葉が・つまりその発音や文字が 神のことになるということです。
お礼
>もし神を――つまり神本体を――人間が人間の言葉で表わし得たとしたら どうなりますか? どれほどの補助線やタトエ話を用いようと、人間が人間の言葉で神を表すなど簡単には出来ません。 補助線は補助線に過ぎず、タトエ話はタトエ話にすぎないからです。 人間は神に到達することは出来ないでしょう。 ここを勘違いしてはなりません。 真理の探求は終わりなきプロセスであり、永遠に続くのです。 しかしながら神に到達することは出来なくても、真理の探求を絶え間なく行うことにより少しずつ神に近づくことは出来るのです。 真理の探求は人間から神への一方的な対話の試みなのであり、それは人間が神に近づくことが出来る唯一の方法です。 > 《愛》とか《慈悲》とかと言えば その言葉が・つまりその発音や文字が 神のことになるということです。 《愛》とか《慈悲》を求める相手は我々人間なのであって、神ではありません。 我々が《愛》とか《慈悲》を求める相手は親であり、兄弟であり、近所の人達であり、同じ日本人なのであってかみではありません。 神に《愛》とか《慈悲》を求めても無駄であることは皆知っているのです。
- NemurinekoNya
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自然科学的な見方をしますと、 なぜか分からないけれども、こういう法則があるんだなぁ~、 です。 別の法則でも構わないんだけれども、なぜか、こういう法則なんだわ、 です。 もっと数学的に美しく、より普遍的な原理があったとしても、これを自然が採用しているとは限らない、 なんてことをいう人もいます。 すっげぇ~ダサダサで、不完全な法則を自然(自然科学者の神ですな~)が採用しているかもしれない。 オラッチには、「何でこんなダサダサで不完全な法則なんですか。オラッチはもっと格好よくて、もっと筋の通った法則がいいです。こんな不条理な法則は嫌です(涙)」と自然に文句はつける資格も権利もないんです。 この説明のために、誰かが「創造神がいて、今の法則を定めたんです」という作り話をこさえられたとしても、 この神様が自然法則に反する奇蹟を起こすような真似さえしてくれなければ、 あるいは、 「お祈りをすれば神様が奇蹟を起こします」なんて与太話さえしてくれなければ、 オラッチ、理系の人間は、すくなくとも自然科学をやる分には、全然困らないです。 「へぇ~、そうなんですか。それは好かったですね~」 とニコヤカ笑顔で応対できます。 あと、理系の人間からのささやかなお願いをしますと、 似非科学は止めて欲しいです。 ps 番号が1増えて気がしますが、これは勘違いですかね~。
お礼
>すっげぇ~ダサダサで、不完全な法則を自然(自然科学者の神ですな~)が採用しているかもしれない。 ちょっと見にはダサく見えても後からよくよく調べてみるとますます完全完璧であったことが分かったってゆー事例は沢山あります。 アルケーの神は完全のなのです。 >番号が1増えて気がしますが、これは勘違いですかね~。 勘違いではございません。 しかし誰の仕業かはおよそ見当はついております。 例えば創価学会に関わること書くと直ぐに消されてたとかね。
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
ビックバンにより出来た宇宙が地球を作り、地球が人間を作り、人間が神と言う観念を作ったのです。だから、神が宇宙を作ったのではありません。 ならば、宇宙はどのように出来たのか。ビックバンなどと言われだして久しいが、天文学知見から我々の知る宇宙は小宇宙であることが判ってきました。インフレーションによるビックバンで出来た無数の小宇宙からなる大宇宙がすでに存在していたと考えられるようになっています。ならば、その大宇宙はどのように出来たのかはまだ未知なのです。 この考えを提唱し認められるようになった学者は日本人で、素粒子物理学からの知見なのです。素粒子と天文学の宇宙は良く似ているのです。この理論が数学で裏づけられ、インフレーション理論と呼ばれています。いったい哲学とは何なんだろうと思ってしまいます。哲学とは神を作ったように後付けの学問なのではないのか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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No.6を承けます。 【Q:聖書は 表現〔形式の多様性〕の問題である。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8849035.html (1) 《神》なる次元と《経験世界》とのあいだの隔たりを重く見た場合に それらの関係をどう表現するか。これが ひとつの表現の問題である。そもそも神と人とは 互いに同じ平面において並列するものではない。絶対的と言うべき隔たりがある。 (2) けっきょくのところ 神とヒトとの――次元を隔てた――関係を表現するには 仮りの表現にならざるを得ない。神本体をこの経験合理性を超えるようなチカラを持たない人間の言葉で直接に表わすことは出来ない。(つまりこれは 空(シューニャター)観である)。 (3) ぎゃくに言いかえると 神を表わすときには 仮りの表現として――本体(答え)をみちびく補助線を引くかたちで――いかようにもその形式をこころみることが出来る。神についての表現形式は いくらでもある。人間は 自由に補助線を引けばよい。その真実味や信憑性を競えばよい。 (4) かくて 神をあつかう聖書は――幾人かの聖書記者たちが相い競ったかのようにして―― 表現の問題である。ということは 表現形式の多様性の問題である。 (5) とは言っても おそらく主題は 神とけっきょく人間としての我れとの関係であり この関係とは何であり 如何にあるか? だと考えられる。人間の条件(自然本性の限界)を問うかのような《存在》論。あるいは 《〈わたし〉とは何か》。そしてあたかも《無からの創造 creatio ex nihilo 》と言うかのように そこに創造された(生成して来た)《モノ》論――自然科学――。 (6) 神が《創造する》とは どういうことか? 《つくる》とか《創造主》とかの表現ないし文字にこだわることはない。はずだ。 ▲ (創世記1:1) http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c=1&t=KJV#s=t_conc_1001 ▲ Gen 1:1 בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃ ( Be-resit bara’ Elohim et-ha-samaim wa-et ha-’arec.) ( In-beginning He-created God (acc.)-the-heaven and-(acc.) the earth.) ▲(KJV):In the beginning God created the heaven and the earth. ▲(新共同訳) 初めに、神は天地を創造された。 (7) この《 created / 創造した》を表わす《バラー》なる語についてそれは 《切ることによって形をつくる》という原義の言葉であるようですが 《創造する to create 》の意味では 神にのみ使うと言います。 ○ bara' http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H1254&t=KJV (8) だとしたら ますますこの《創造する》なる表現形式にはこだわる必要がない。と考えられます。 (9) すなわちたとえば 《光(あるいは天地)なるモノを作ろうと思う。というよりは 光なるモノがおのづから成るように環境をととのえてやろう。ぢゃあ そうすっか》とでも言って そうした。のかも知れない。 (10) すなわち 《無からの創造》というときの《無》とは 有ったり無かったりする相対世界の無ではなく 絶対領域であるからには まったく人間には分からない。と同時に それを理解しようとして如何ようにもというほどにわれわれはそれぞれに補助線を引くことが出来る。 (11) 絶対領域というのは 絶対無でもあれば絶対有でもありうる。したがって 神を《有る神・存在としての神・生命なる神》という呼び名で呼ぶことを人は選び得るし あるいはそうではなく 《無い神》としてもその呼び名を選ぶことが出来る。そのほうが 神を知るにはよい補助線だと思えば 人は自由にそれを引く。すなわち いわゆる無神論である。 (12) 無神論にあっては この《バラー(創造した)》の中身を さらにたとえば 《いやいや 神などと言ってもその言葉はどの言語にも用いられているが 実質はない。あるのは ただ光などのモノのみである。すなわち 初めからモノがユラギを始め自己運動を起こした。というだけである。世界は モノの世界である》という表現形式をえらぶかも知れない。 (13) 有神論と無神論。どちらも 人間にとって自由な表現形式をえらんだその結果としてあり 持たれている。互いに同等である。 (14) ところで かの福音書記者のヨハネ(つまりイエスの弟子のヨハネ)は 言葉が《天地や光る》なるモノ(存在)と同時に発生したのではないかという説などは どこ吹く風で この言葉を《ロゴス》として《初め》に持って来た。すでに《神》として持ち出した。そういう表現形式を採ったのである。そういう補助線を引いたのである。 ▼ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~~~~ はじめに ことば(ロゴス)があった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ (15) 表現の問題としてこのあたりまで たどり着けるのではないか。これを 検証しつつさらにあらたな出発へとすすむことが出来るのではないか。という意味で 成否と当否を問います。 (16) なお《光あれ》(創世記1:3)というときドイツ語が 《 werden :〔光が〕成る》という語を翻訳で用いている。このことは ひとつの――補助線としての――ヒラメキを示しているかも分かりません。《有る》とともに《成る》というニュアンスの言葉を当てることも 一解ではないかと。 (17) フォイエルバッハとかいう人は 神学は人間学であると言ったようです。たぶんこのフォイエルバッハの意図とは違って その《火の川(?)》を突き抜けて このいまの神学⇒人間の存在論――つまり人間と社会の理論――は さらにこれからも寄与するところがあるものと考えますが みなさんにあっては いかがでしょうか? * 以上のように 《創造》は タ・ト・エです。 《宇宙の法則》は 神そのものとは 別。
お礼
>神についての表現形式は いくらでもある。 であるなら一切のタトエを排除して、神を表すことも可能であるはず。 神を表すのにタトエを持ち出さないとならない理由はどこにもない。 神を表すのに直接法であってならないという理由はどこにもない。 この立場をとるなら、創造主は存在しない、神は創造主では有り得ないと表現する以外ない。 何故なら既に存在するものを創造することは不可能だからである。
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お礼
>ということは、やはり創造主は元々いなかった、と考えるのが自然だと、私は思います。 仮に創造主がいたなら無限連鎖が起こるという観点から創造主はいないという答えですね。 これも有りですが、宇宙はもともと存在したので新たに創造することは不可能であったと考えてもよいのではないですか。