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桶狭間の戦い 本当にあんな差があったのか?
今川義元4万五千(2万五千説もあり) 織田信長3千 なんて言われて、あらまぁ10倍の勢力と戦って、よく勝ったわね。なんて言われていますが、ちょっと待ってね、後年になりますが、太閤検地によれば http://daiiti-web.hp.infoseek.co.jp/zatu001.htm 今川:駿河、遠江、三河で、約70万石 織田:尾張、57万石 だいたい、100万石で3万程度の動員力ですから、今川の2万五千は、いっぱいいっぱい、甲駿相三国同盟 万々歳の動員力です。 この時点で、信長の尾張統一戦は半ば(確か)上四郡の統一は終わっていたので30万石で一万くらいの動員力はあったはずです。 10,000ー3,000 七千はどこに行ったんだろう? あるいは、後世にいかに信長がすごいかと、語るために少々少なめに伝えたのだろうか?
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たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。 「信長公記」 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき) ・今川:四万五千 「三河物語」 ・織田:三千 「道家祖看記」 ・織田:二千あまり ・今川:六万余 「定光寺年代記」 ・今川:一万人被打(討たれた人数) 「享禄以来年代記」 ・織田:七百余 ・今川:二万余 「甫庵信長記」 ・織田:三千(善照寺の東に集結したとき) ・今川:四万五千 「足利季世記」 ・今川:一万余 「家忠日記増補追加」 ・織田:三千余 ・今川:四万余 出典によって結構バラツキが大きいです。 織田/今川の大きな格差は、そもそも数字の比較対照が違っていると思います。 今川は総勢。大高城救援に向かった松平元康勢など各地に散らばった全ての兵数。 一方で織田は義元本陣に突入した一部の兵数。鳴海城・大高城を囲んだ丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の砦に陣する兵数は完全に除外されています。 私が思うに、二千・三千といった兵数は信長直轄の精鋭のみの兵数です。弟信勝と争った稲生の戦い(弘治二年・1556)のとき七百だった直轄軍を、永禄三年(1560)には二~三千にまで増強したのだと思います。
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- snowbees
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織田の奇襲が成功したのは、1)地の利すなわち地形を熟知していて、今川本隊の休息場所を予想していたこと、2)人の利すなわち今川軍の移動情報を収集していた。さらに、信長の親衛隊(馬廻り組)の勇猛さでしょう。該親衛隊は、信長の親族討伐戦で戦場経験を積み、前田利家などの有力幹部を輩出しています。(下記ウエブ)3)最後に、天の利すなわち信長は稀に見る強運です。勝負に必勝はありえません。
お礼
3)に関しては、新田次郎の 梅雨将軍信長 なんて本を前に読みました。ここぞと言うときに 雨が降るそうですね、信長。 新田次郎さん元々気象庁ご勤務だったので「ほほぉぉ」と思いつつ読んだことがありました。
- YUZURU
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私は実際の地形から考察してみます 桶狭間に実際に行くとなるほど解るのですが、 岡崎方面から進軍してくると、平坦で見通しが利くのは、桶狭間までです。知立方面は沼地で大軍は通れませんので、進軍してくるのは桶狭間方面に間違いなく、桶狭間からは急に、高さの無いでこぼこの丘が続きます、木々が茂り見通しが利かず、道も細いので、輿に乗って来る今川は進軍速度が遅い事もあり、この丘陵地帯の手前で夜営する事は容易に予想されたでしょう、織田軍がこれを急襲する為には、前哨部隊に接触した際に、本体に連絡をされて平地にいる本陣に防御を固められては、勝ち目はありません、よって見通しの利かない低い丘を騎馬で一気に駆け抜け本陣のみを突く作戦をとったのでしょう、この作戦には、たとえ1万の動員力があったとしても、使えるのは騎馬兵のみですから、輜重兵まで引き連れて大移動している大軍とは人数の差は大きかったと思われます。間者や斥候などからの連絡で本陣の位置をかなり正確に把握したいたようですから、この作戦はその夜、急に思いついたとかでは無く、前々から用意周到に準備された一撃必殺の急襲で騎馬兵も信長候自身も士気が高かったと想像できるのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございました。 ただ、騎馬兵でうんうんかんぬんは、当時の日本の馬の体格を考えると、あり得ないのではないかと思います。
- old98best
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説により多少の変化はあるようですが、人数にはそれほど変わりは無いようです。 今川の軍が多いのは、天下取りへ向けてのセレモニーの意味もあり、行軍する事自体にもある程度の目的があったようです。 織田の軍が少ないのは、戦術的な意味が違うからです。 今川軍の数万人を全滅させる事が目的ではなくて、今川義元だけをねらったからです。 また、当時の戦術的な常識として、数万人の軍では数キロの範囲に広がって野営をします。 そのために、今川義元の本陣だけを攻めるにはそれだけの人数で十分だったという理由もあると思います。
- myeyesonly
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こんにちは。 色々なことが言われてるようですが、「つれて行かなかった」ってのもあるかも。 この戦いは所説あっても奇襲戦であったことは間違いなさそうです。 となると、仮に1万人出動できたにしても、そんな多勢でいったらたちまち発見されてしまって袋のねずみになっちゃうでしょう。 しかも奇襲戦では機動力が大変重要ですから、もしかしたら騎馬隊だったかもしれません。 騎馬隊といえば日本一の異名をとる武田信玄の甲州騎馬軍団だって、全部馬じゃないですね。 馬に乗ってるのは特別組織した場合じゃなければ半分から1/3程度でしょう。 さらにおまけに、いくら攻めるからといっても、自分の領地のあちこちににある城や砦をからっぽにはできないでしょう。 実際、信長が清洲城を出陣して桶狭間で戦果を挙げるまでの間に、丸根、鷲津の二つの城?砦?が攻め落とされてます。
- doya
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手元にある津本陽氏の著書によれば、当時の戦国大名の領国支配の形態は、後年の徳川幕府のような封土を全て統治するという形態ではなく、領民中の実力者=地侍と大名間の実力(武力)による主従契約のようなものであった、となっています。 つまり武力でボス(大名)に守ってもらうかわりに、年貢を納め戦の時は兵を出すが、ボスの実力が衰えるとすぐに他の(隣国の)大名との主従関係に切り替える現実的なものであったということです。 質問の通り、桶狭間当時信長は尾張全土の支配、つまり尾張の地侍(土豪)全ての信頼を得ていなかった、尾張内には今川義元、斎藤道三を主人に選んだ地侍も多かったとしており、動員兵力は2500~3000人程度と推定しています。(数字の根拠に関しては、記述無し) 対する今川義元側ですが、甲斐の武田と姻戚関係を結び同盟を強固にし、また東の北条氏とも姻戚関係を結んで三国同盟を成立させました。(お互いの利害関係が一致したことによる) それによって35000人(とこの書物ではなっています)の兵力を動員可能にし、更に北条氏康からは援軍も出ています。 信長の桶狭間の勝因は、忍者による情報収集や調略による信長の作戦勝ちであるとなっています。更に普段は冷静な信長が、死に物狂いになったことによる織田軍勢の士気の向上、急遽編成された不慣れな混成軍である今川側の油断(大軍による慢心)などが重なったものであると書いています。 実際この説が全て正しいかは、よくわかりません。 一般に聞く歴史が本当に真実かは不明ですし、桶狭間の戦いは、上洛を目指す途中の今川義元軍を破ったのではなく、通常の国境紛争であり義元を討ったのは、予想外の戦果であった。義元上洛の件は「信長記」著者の小瀬甫庵が、桶狭間の勝利をよりドラマチックにするために偽ったという説を、聞いたことがあります。小瀬甫庵は「太閤記」の著者でもあります。(参考URLをどうぞ) いろいろな説があって、おもしろいですね。
- kijineko3
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おっしゃる通り、当時の信長の領土は尾張半国程度。 ただ、江戸時代の資料で読んだ記憶があるのですが 動員能力は一万石当たり250人程度だと思います。 (これが、当てはまるかどうかは判りませんが・・・) そうしますと、今川は一万七千五百。 織田は、七千五百ということになりましょうか。 しかし今川は、これを確実に上回ったでありましょう。 なぜかと言いますと、今川は駿遠三の大領主である上に 源氏の名門。当時、既に権威は地に落ちましたが、足利 将軍家に嫡子なき時は、今川が跡を継ぐという伝説を 持った家柄でありました。 かたや、織田と言えば「たわけ殿」と呼ばれ、織田家も 信長の代で終わるだろうと言われておりました。 よって、今川には「ちょうちん動員」が多数ついたもの と思われます。あるいは「勝ち馬に乗りたい」という 近在の中小領主も多数かけつけたでありましょう。 負ければ悲惨です。勝つほうに味方して、自分の身分の 保全を図ろうとしたことは間違いありません。 したがって、二万五千以上は確実におりましたでしょう。 三万とか四万だったかもしれません。 織田は、確かに少ないですね。この理由は、当時の信長は 尾張半国を統一するのに精一杯。しかも、それに至る迄に 親族間(叔父や実弟)との争いを余儀なくされておりました。 それらの対応に、兵力を損耗していたものと思われます。 また、隣国美濃とは休戦状態とは言え、警戒する必要も ありましたでしょう。 それで、それ位の人数だったのではないでしょうか・・・。 桶狭間で、大将義元が討たれた後は、ご存知の通り。 今川本体というのは意外に少なく、保身の為、あるいは 勝ち馬に乗りたい為に従った人々は、愕然としたであり ましょう。そして、もう用はないとも思ったでありましょう。 もともと、利によって集まってきた人々です。負け戦に つきあう馬鹿はおりません。 蜘蛛の子を散らすように逃げ散り、今川家は滅亡への道を 辿ったのでありました。 以上、つたない講釈でした。
- 100Gold
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単なる推測ですが、戦争をしていた織田の田畑は荒れていたのではないでしょうか。 それに比べて、近隣諸国から人質をとって、平和を保っていた今川は豊かだったのだと思います。 一方で、実戦経験の豊富な織田の兵は強かったと思いますし、豊かな今川の兵は弱卒だったように思えます。 勝利の原因は実はこちらではないでしょうか。
お礼
歴史物好きでして、歴史研究家ではないので、原典というか、元素材がそんなにあるとは知りませんでした。