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武田信玄に野望があれば天下取りは可能だった?と
よく言われるのは、古い体質から抜け出せないから天下取りは不可能と言うことを聞きますが実際はどうだったでしょうか?あくまでも信玄に野望があればの話ですが。 家督を継いでから30年間一度も外敵から侵略された事がなく平穏だった統治の仕方は西へ更に領土を拡大していっても同様だったと思われます、1573年当時で以下のような状況であったのは事実なのでそこから思考して頂ければ幸いです。↓ ・本願寺と婚姻同盟であった為一揆が起きた試しがない ・鉄砲には興味を示していた、数百艇かかえていたという ・北条や上杉が単独で武田領に侵攻する可能性は低い ・信玄が三河へ侵攻した時点で信長は迎え撃つ準備が十分に出来ていない ・美濃と尾張を制してからの信玄の上洛に逆らうアホがいるとは思えない
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もし、事態が信玄の思うように動けば、実質戦乱を終わらせることができたかもしれません。歴史IFとは「もし・・・だったら」が一つ出てくれば、それに対して何かまた別の出来事が起こるはずです。歴史IFとはそういうものだと思います。質問者さんの「古い体質から・・」はなかなかいい質問ですね。 僕から言えば50:50の確率だと思います。というのも、「古い体質」から抜け出せずに失敗した例があるからです。それが建武の新政だと思います。また、古い体質のままで、天下を取った例もあります。足利尊氏や源頼朝だと思います。1つの武士勢力が天下を取った典型的な例じゃないでしょうか。所々は違いますが、だいたいは同じだと思います。 これを信玄に当てはめると、室町の将軍を操り人形と化して天下を取るか、足利や朝廷、その他諸勢力にうまく言いくるめられて、地方勢力で終わるのか、だと思います。もし信玄が上手く将軍を操ったら天下を取ると思います
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- lions-123
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>武田信玄に野望があれば天下取りは可能だった?と ↓ <前提> 歴史にifを持ち出せば、無限&夢幻的に発想が拡がり、可能性も同じく主体者の意向次第で、データーや仮説や条件を変化させれば→天下取りの与件も高まると思います。 面白いテーマーですが、私は歴史に学ぶ場合に極力、史実を客観的に見たいと思います。 異説や伝説的なものは、人物像や功績等の「スパイス&視点の変化」程度で見たいと思っております。 武田信玄の生涯・天下取りを→推理小説的な興味から見たら・・・ ◇地の利 生国<甲斐>の地理的条件から、当時の天下取り=京都を目指すには遠く、山峡に囲まれ、守るに適し攻め込むには不利であった。 ◇天の利・人の利 当時の時代環境→実父の追放や弟との跡目争いで家内統一が固まっていない前半生、後半生も周囲(北条・今川・上杉・織田)を列強との合従連衡、弱肉強食の中では、信濃経営で精一杯であり、さらに版図を全国に広げるのは、発想も少なく時間(寿命)的にも距離的にも困難だった。 また、京都の公家や幕府、本願寺等との姻戚関係からも、秩序重視の気質が強く下剋上、天下布武の発想は希薄で、幕府や公家からの支援要請に応える形での中央政治(足利幕府)へのテコ入れ&参加を目指していたのではないだろうか。 ◇現実的な悩み・制約 当時は、重臣や一部の幹部を除き、戦力の大半が農民兵(戦時に徴用動員され、農繁期には農民に戻る)であり、戦費の原資は米であった。 従って、田畑を働き手を長期間動員するのは無理であり、物流も人馬中心であり敵地での現地調達は難しく、戦傷者の増加や耕地の荒廃、出来高の減収は戦力ダウンと戦意喪失となる。 それは、たちまちお家騒動、家臣の離反にも繋がるので、専任専従の武士による年間戦争体制が整備される後年の秀吉時代までは周囲を敵に囲まれながら、同時に長期に全国制覇は名実共に無理であった。 戦争→勝利(褒章処遇)→戦利品や見返りの領地糧秣が短期に期待&保証された闘い以外には、止む得ない大義や侵略への防御戦を除き、余り大規模な農民兵の動因や長期出征は、武田信玄の出自・領土の地理的条件・ライバルの存在から難しい。 仮に、彼自身の天下取り野望の有無は別として、人生の終盤において確かにトライし始めたが「三方ケ原の戦い~」現実的には→己自身の負傷や病気もあるが、上杉・伊達・北条に留守を窺われており、2正面作戦どころか四面楚歌状態の中、海を得たいの願望は叶えられてもさらに徳川・織田そして毛利や島津などの西国大名を短期に臣従屈服させる事『天下取り』は出来なかったはずであると思います。
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回答ありがとうございますね。 確かに甲斐一国からスタートして一代で全国制覇は不可能でしょうね。 三河遠州濃尾~近江京及び畿内ぐらいは平定できた事は十分に考えられます。 さすがに甲斐からダイレクトで京へ上洛wwwwなんてのは考えられないでしょうし、やはり信長のように本拠を移転する可能性はあったんでしょうかね。 >また、京都の公家や幕府、本願寺等との姻戚関係からも、秩序重視の気質が 強く下剋上、天下布武の発想は希薄で、幕府や公家からの支援要請に応える 形での中央政治(足利幕府)へのテコ入れ&参加を目指していたのではないだ ろうか。 まあ上洛しようかという時期に亡くなったから京へ攻め上った場合の統治の仕方はあれこれ想像するしか出来ませんけど、私が興味があるのは本願寺との関係ですね、連中が起こす一揆による経済的な被害を避けてきた信玄ですが、版図が大きくなるに連れて両国間の関係に亀裂が入ったりするのでしょうか? 莫大な領土を得た武田に対して簡単に屈服する大名(畿内で)はいても本願寺だけは別なような気がします(笑) それから室町幕府の手助けは無いものと思われます、ほとんど機能もしていない幕府の手助けはさすがにありえないでしょうから、1572年の軍事行動も表向き幕府の要請に応えたという見方をする人も多いですし。
- Syleena
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私は信玄は古い体質の人とは思えませんね。 まぁ、甲斐・信濃等が本拠地と言う事で地理的に侵攻しにくく 拡大しにくい事を考えると野望があったとしても中々実行に移せなかったのでは? 甲相駿三国同盟とは言っても結局は下剋上・・・上洛をしようとすれば後ろから 寝首をかかれる可能性も高い(太原雪斎や北条氏康もしたたかですし) 上杉謙信も強敵でありましたし、上洛よりも謙信との戦が実は楽しいと思ってしまったり 色々あることないこと書きましたが、個人的には土地かな・・・
お礼
回答ありがとうございます。 私もそんなに古い体質の人とは思ってないんですよ、合理的な考えを持った信玄ですから、西上するに連れて、統治するのに邪魔な物そうでない物を区別する能力はあったかもしれませんね。
お礼
どうも回答ありがとうございます。 やはり最後の西上する段階では、一概に天下取りは無理とは決め付けられませんよねえ