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石を抱きて野にうたう

ああわれダンテの奇才なく バイロンハイネの熱なきも 石を抱きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず 三高寮歌「人を恋いうる歌」の「石を抱きて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず」は どのような意味でしょうか。よろしく。

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noname#212854
noname#212854
回答No.3

 作者は、旧弊を廃し進取の気心を尊ぶ、というようなつもりで書いたのでしょう。  そして、旧弊の代表としての芭蕉と、進取の気心の代表としてダンテ、バイロン、ハイネを並べてみせたのでしょう.  しかしそれらの文学者は、それぞれの時代や地域を代表する文学者に過ぎないわけですから、並べること自体に無理があります。  ところが、明治期の日本では武士の時代であった江戸期の文化を総否定することが、天皇を中心とする御代の形成に役立つものとされ、近代日本社会の管理者を目指す旧制高校の貧しい学生たちの上昇志向の心と一致したのでしょう。  またしかし、芭蕉の感性が、西洋で市民社会が確立し、自由独立の精神を謳歌するようになる遥か以前の元禄期に、個人の自由独立を明らかに歌い上げていたことは現在では常識と言えるでしょう。 「石を抱きて」「野に歌う」「さび」は、東洋的ないし日本的な詩心の代表的なものとして登場させただけであって、西洋的な詩心としての「奇才」や「熱」と対比してみせただけでしょう。  2回も回答しておいて、無責任かも知れませんが、材料のレベルが低いと高い議論は不可能です。

greendavao
質問者

補足

回答ありがとうございました。本当に勉強になりました。 私のレベルはこの程度で、誠に申し訳ありません。いずれにしましてもありがとうございました。 これに懲りませず、折がありましたらばまたよろしくお願いいたします。

その他の回答 (2)

  • chu-sun
  • ベストアンサー率48% (84/174)
回答No.2

作者の与謝野鉄幹は、生き生きとした生命の輝きを尊ぶ新しい詩歌を模索していた人でした。そのような人ですから 「自分には、神曲を著したダンテのような特別な才能もなく、バイロンやハイネのような情熱的な詩をつくることもできないけれど、人間の愛情や社会から遊離して自然をうたい、それをわびさびと称して省みることのない芭蕉のような旧態依然とした俳句を代表とする日本の詩歌に満足しない。(新しい時代の詩歌を創造しなくてはならない)」 といったところではないでしょうか。

greendavao
質問者

補足

歌詞そのものもさることながら、解説回答いただく方々のお考えそれぞれ、それが私には大いに感じ入るものがあります。放歌高吟して悦に入るは憚りたいところも感じますし、そうかといって開拓者精神は尊ばねばと考えるところもありますし、、、。 現代の歌謡曲のようにある状況を設定して客観的描写をするというより、自己表現の歌詞なのですか。 ときに、もう一点、「石を抱きて野に歌う」はどういう意味でしょうか。 謙遜的に、たとえ中央には非らずとも、矜持を持って、、、ということなのでしょうか。追加回答をよろしくお願いいたします。

noname#212854
noname#212854
回答No.1

 西国の下級武士や京都の貧乏貴族が中心になってすすめられた明治政府の政策は、日本文化の豊かさを知る階級が排除されたため、やみくもに欧米文化を賞賛するばかりでした。  日本の伝統を下位に見なし、欧米文化を上とする、明治政府の政策を寮歌にしたのか、政府の文化政策に媚びたのでしょう。  三高の寮歌も、欧米のブランドものには眼のない、現代日本の女性たちと同じ感性だったのでしょう。

greendavao
質問者

補足

回答ありがとうございます。 その心自体は良くわかりました。私は完全に誤解をしておったと思います。 この「石を抱きて・・、、、」も、「芭蕉の、、、」に掛かる形容節なのでしょうか。 それとも別々の二節なのでしょうか。

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