※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:われわれは 魂が去勢されていましょうか?)
魂の去勢は人間の存在論、コミュニケーション論、日本人論の主題であるか?
このQ&Aのポイント
「魂が去勢されている」と感じるときは、コミュニケーションの問題や他の理由による可能性がある。
自己確認のための「自我」の存在が不可解な道筋をたどり、コミュニケーションの妨げになっている。
日本のアマテラス公民圏とスサノヲ市民圏の分断は、自己確認の問題が余分な分裂を生み出している可能性がある。
意思疎通がさえぎられていると感じるとき 人は気力が萎え 怒りも憤りをも通り越して 心が凍った状態になりがちです。
( a ) コミュニケーションの問題――または コミュニケーションが問題――だと見るという場合。
( a-1 ) 父親または母親との話が 実質的に途絶えたゆえ。埋められない溝が出来てしまった。
( a-2 ) 兄弟姉妹または身近にいる人たちとの話が 成り立たなくなっている。
( a-3 ) 学校の先生とのあいだが うまく行かない。
( a-4 ) 職場の上司との関係が もはや人間的ではなくなってしまった。
( a-5 ) 政治家や官僚などのアマテラス公務員との関係がこじれた。
( a-6 ) マスコミとの関係がおかしくなり 相手とのチカラ関係で こちらが不利になってしまっている。
( a-7 ) アマテラシテ天皇との関係が――想像上だとしても―― しっくり行く感じがしない。
( a-8 ) 外国との関係。アメリカ? 北朝鮮? 中国? ・・・
( a-9 ) あるいは 自分自身との関係?
( b ) そのほかの理由や事情によって われらが魂は去勢されているという場合。
( c ) いやいや われわれは魂が去勢などされていない。バカも休み休み言えというご見解の場合。
・・・・
展望としては 人間の存在論ならびにコミュニケーション論そして日本人論といった主題だと考えます。
質問者のたたき台は これまでにおこなった設問の趣旨説明やそこでのやり取りが その内容となるとは思います。ここでは特にはありません。
ひとつだけ取り上げるとすれば それは――最近にも設問したのですが―― 《わたし》の問題です。すなわち ( a-9 )の項目にあたります。
日本語では《わたし》なる存在について その《わたし》のほかにわざわざ《自我》という用語をこしらえて これによって自己の言わば確認をおこなうクセがついてしまったこと。
すなわちそれは 《自我》という用語を持ったことによって 《わたし》が 内部分裂してしまうとは言わないとしても わが自己還帰にとってきわめて不可解な道筋をたどらざるを得なくしてしまっているのではないか?
自己到来すなわち《われがわれに還る》というときのわれは ほかの誰れでもなく《わたしはわたしである》というその我れであることに決まっています。
それを わざわざ《自我に目覚める》だとか 《自我の確立が弱い》だとかといった遣い方において表現するクセがついたことによって 果たして《わたし》は どこにいるのか? どこに行ったのか? といぶからなくてはならない情況を生んでしまった。
こんな《自我》などという自己確認は おそらく日本人には なじみづらい。自我はせいぜいが 自己主張がつよいとか わがままを押し通すとかの意味合いにしか映らない。したがって世の中は 《自我を確立して――アマアガリして・またはアマアガリしたと同じ気分になって――街を颯爽と歩くアマテラス族》とそのほかのスサノヲ市民一般とに分かれてしまった。
これら二分された人びとのあいだで 話が合うかと言えば なかなか合わない。けれどもこのように世界が二分されるというのは ただひとつの原因すなわち《自我》などという用語を 日本語では持ってしまったからではないか? 不必要で余分な分裂であるのではないか?
アマテラス公民圏とスサノヲ市民圏との二階建てなる構造は その歴史も久しい。けれども 元はと言えば 両者はじつは じつの姉と弟どうしである。と神話はおしえる。それが 階層に分かれているとすれば その問題だけでよいはずだ。
《自我》なる問題を余分につけ足してしまっているのではないか? おまけに今ではその検証がなされ得ないと考えられている《無意識》なる仮説も いまなお・どうしてなのか からまっている。
ひとことで言えば アマアガリ・シンドロームと 自我ないし無意識症候群とが からまってしまっている。ほどくにほどけなくなってしまって われわれのあいだのコミュニケーションは 絡みに絡まってしまった。
いざ われこそはゴルディオスの結び目を解くアレクサンドロスなりという方 またはそうでない方 ご見解をお示しください。
お礼
えいちあーるえすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。また 初めまして。 そうですね。 もし《自我》という概念があるとして考えをすすめるなら およそ分析しまとめられたかたちに あるいは なるのではないか? そういう情況に到っているのだと。 しかも この情況は いちど問題が解かれてしっくり行く状態になったとしてもそのあと おそらくつねに現われて来るように思われる。アマテラス公民およびスサノヲ市民のそれぞれあたらしい役者に代わって行っても 次から次へと同じような情況に到る。 なぜなら《自我》は つねにそれ自身の《内省》を必要としているが 人間はそれほど小まめにそのことにかかずらわっていられないというようなズボラなところがあるから。と。 その情況というのは ★ ~~~ 自我の問題はいつでも存在し、それゆえ内省もいつでも必要だが、 その実現する場である社会が、両者の分離と対立を生み、他方の 立場に立ち返る機会と意味を喪失して 元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった ~~~~~ ☆ という状態である。賽の河原での石積みとまでは言わないとしても 元の木阿弥に落ち入るおそれがつねにあるのだと。 なぜでしょう? どうしてなんでしょう? 質問者としてわたしは その理由と原因が ○ 自我 ☆ という用語にある。と考えてみています。なぜなら次のように考えます。 ○(自我という用語は 要らないという問題) ~~~ 1. わたしの《内省》は わたしの思惟や行動について わたしが内に省みることである。 2. わたしの思惟や行動は あくまでわたしがおこなったものである。 3. たとえ仮りに言ってみるとしても エスなる衝動やらそれを抑える超自我やらこれらをまとめる自我が――もし仮りにはたらいたと言うなら そうだとしても―― 考えるのは《わたし》であり それを発言や行動に自己表現するのも《わたし》です。 4. じんかくは ただひとりほかの誰れでもない存在である《わたし》のことである。 5. 表現の自由にともなう答責性(説明責任)を負うのは――自我でもなければ超自我でもなく――この《わたし》でしかありえません。 6. エスが無意識の内にはたらき――魔がさして―― この悪さをいたしました。・・・このように文学が仮りに表現したとしても それは 内省をつかさどる哲学にとっては何の意味も持ちません。仮りにそうだとしても この無意識の動きもエスも 思惟と行動なる自己表現としては《わたし》がおこなうコトであるからです。 7. エスだの無意識だのと言っていては 何を寝ぼけたことを言っているのか? と返されるのが落ちです。 8. ★ 元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった――☆ 《内省》というコトが入っていると まともな命題であるように感じますが じつはこの命題の意味は どこにもない。いま こう言おうとしています。それは あるはずのない《自我》をどういうわけか・どういうかたちにおいてか 扱っているからです。 9. 《自我》などは どこにもありません。あったら 出して欲しい。対立しあうものごとの板挟みになっているとき そこから最終の判断をするのは 仮りに小説家が《自我》という言葉を使ったとしても それは実質は 《わたし》であり せいぜいその細目は《わたしの意志》です。 10. 《自我》と言うと わたしは何だか自分の存在やまた具体的な自分の志向性に気づかされたような感覚を覚えたりするかも知れないとしても それは ただただ《わたしが わたしである》自己到来をまだ果たしていなかったと言うに過ぎません。 11. 人は《われに還る》ことはあっても 《自我に還る》ことは じつは 金輪際ありません。それなのに どう錯乱したか この言葉を使っているし 使いたがっている。 ~~~~~~~~~ ★ 内省により克己できたものが、さまざまな競争に勝ち残ることで社会内で優位な立場を得る すなわち高い評価を受けると"アマテラス公民圏”(?)を得、 ☆ おそらくここには・つまり《内省により克己できた》という事柄には ふたつの類型があると考えます。 ひとつは 自我とは関係なく《わたしがわたしである》自己還帰を成し遂げたふつうにまともな場合です。ふつうに相手の言うところをどこまでも聞く。そうして 自分の考えをも話す。という対話ができるその《わたし》が出来ているという状態です。 そしてもう一種類の類型があると考えます。それこそ《自我》を・ということはおそらく欧米人に見られるような所謂る自己主張を自由に妥当性のある内容を発言するかたちでおこなうその社会性に目覚めたというようなまづ《わたし》をかたちづくったときに ★ さまざまな競争に勝ち残ることで社会内で優位な立場を得る すなわち高い評価を受ける ☆ ということであるかと思われます。 何のことはない。この《わたし》は・つまり《自我》にかかわって形成されると見られるわたしは せいぜいが《声の高い・声の大きいわたし》であるしかないのではないか? つまり押しの強い性格を作り上げたというだけのことではないか? 勉強を人一倍為して おそらく社会に認められるまでは 品行方正なのだと見られます。でも 押しの強い性格を作っただけなのではないか? そうでなければ もっともっと国の全体のことを考えて アマテラス公務員の仕事をするはずではないか? 一部だけが そうしていないのだとしても その一部が 全体を支配しているのではないか? ★ 内省・・・の実現する場である社会が、〔* アマテラス圏とスサノヲ圏との〕両者の分離と対立を生み、他方の立場に立ち返る機会と意味を喪失して ☆ しまうのは おかしい。すでにさとりを開いた人間が また 畜生や餓鬼に堕してしまったのか? ですから ★ 元の課題であるべき自我の内省の本質を見失ってしまった ☆ と言うのとは 微妙に違ってそれは 《自我》を人間形成にかかわる概念として間違って採り入れてしまったことに原因はあるのではないか? ○ 元の課題であるべき《われが われに還る》の内省の本質を見失ってしまった。あるいは ○ 元の課題であるべき《〈わたしがわたしである〉わたしが わたしする》という自己表現の方程式を見失ってしまった。 ☆ のではないか? と言うよりも 《自我》なる用語をただ棄てればよい。だけではないか? わたしがわたしに立ち帰りそのわたしの内にわたしを返り見ればよいだけではないか? ★ ~~~~ 階層の分離により階層内でその性向は深化し、 段上では徐々に自分自身の自我の内省を忘れ、 段下はさらに自我の内省を怠るようになる ~~~~~~ ☆ おそらく《段上》すなわちアマテラス公民圏では たとえ一部であったとしてもその一部が全体を支配するまでにのし上がった状態において 《わたし》の内省を忘れてしまうのでしょう。 《段下》すなわちスサノヲ市民圏では おそらく――中には怠惰な人間もいるでしょうが それよりも問題は ふつうに勤勉でまじめな中間層が―― 上のアマテラス圏の腐敗によって おのれの心をも腐らせてしまっていることに問題はありはすまいか? あるいは 腐敗を取り上げるまでもなく とにもかくにもアマテラス圏は いわゆる無謬性の神話を持っている。持っていた。自分たちは すぐれて《自我》の確立した人間であるからあやまちを侵すことはないという思い込みを持っていた。 この自家中毒のようなアマテラス者の思い込みが スサノヲ市民らにとっては どうすることも出来ないかたちで立ちはだかる垂直壁となっており あるいはまた開けられ得ない重石であり蓋となっていた。 ですから 《自我》よさようなら! 自我なる用語は忘れたい。 そうしてアマテラス者の不可謬性なる神話がくづれて行くなら フタが取りはづされて スサノヲ市民がよろこぶことは元より アマテラス者じしんも 何ものか憑き物のようなものから解放されるのではないでしょうか? 前身の質問でもある次の設問でのやり取りをつうじて 上のような認識を持つに到っていましたので その地点から出発するといったかたちで お応えすることになりました。あしからずご了承ください。 【Q:スーパーフラットってやっぱ天皇制と関係ありでは?】 さらに自由な対話が展開されることを心待ちにします。