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天文20年(1551年)の出来事ですが…
合っているでしょうか? 1 13代将軍 足利義輝が三好長慶の暗殺を画策 2 長尾景虎は兄の後を継いで国をまとめていた 3 諏訪を手中に収めた武田信玄が信濃を狙う 4 毛利元就は一族を率いて勢力を拡大中 大内義隆陶氏の謀反にあい自害 5 うつけと呼ばれた織田信長が天下取りの第一歩を踏み出す 違っていれば訂正お願いします
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1 13代将軍 足利義輝が三好長慶の暗殺を画策 天文20年3月7日伊勢貞孝宅で暗殺未遂事件が発生しているが義輝の関与を証左する資料はない 天文22年3月奉公衆の上野民部大輔細川刑部少輔らが流寓中の細川晴元に内通して長慶暗殺を計画するという事件が発生 したことから確定的ではあるが 確証はなかった 2 長尾景虎は兄の後を継いで国をまとめていた 家督相続は天文17年12月30日父子の義による 天文19年2月28日足利義輝から白傘袋と毛氈の鞍覆の使用を許される。 天文20年1月坂戸城を攻め8月和議が成立し越後統一に成功 4 毛利元就は一族を率いて勢力を拡大中 大内義隆陶氏の謀反にあい自害 9月1日長門深川の大寧寺にて大内義隆自刃。享年45。 天文19年までに次男元春を安芸吉川氏当主・三男隆景を備後小早川氏当主とし両川体制確立 吉川興経を謀殺 井上元兼を一族郎党粛清 陶晴賢の臣江良房栄を謀殺 5 うつけと呼ばれた織田信長が天下取りの第一歩を踏み出 天文20年3月3日に家督相続が有力だが 天文18年3月3日であるとの説も有力視されている
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- Verhalten
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良く調べていますね。 1は記録自体がおかしく、 進士賢光は遺恨があり手傷を負わすが失敗して即自害す とありますが、 その「遺恨」自体が詮議の記録ではありません。 また、延べ2回に渡っていますが、理由の記述がありません。 ので、 >足利義輝が暗殺を画策した。 間違いではありません。 >違っていれば訂正お願いします 上記を見れば明らかで 古文書も本と同じでして、読み解くと言う部分が必要です。 間違ってはいませんが、 他の訳(違うと言う意見)も読み、大いに参考にする。 これが最も重要な学問です。 大寧寺の変は良く調べています。 長尾景虎も名前が良く変わるのに良く調べ、当てています。 >うつけと呼ばれた織田信長が天下取りの第一歩を踏み出す これも人によっては全く違う説のはずです。 同様に、砥石崩れの翌年に砥石城を攻略したのを「信濃を狙う時期」は危険な解釈です。
お礼
ありがとうございました
- TANUHACHI
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大筋では間違ってはいませんね。この様な事象を具体的に辿るならば『後鑑』『史料綜覧』をめくれば関連史料とその典拠を求めることは可能です。
お礼
調べてみます
- mekuriya
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出来事というよりも、有力な諸大名の主観的動静レポートといった感じですが、大筋では、そう間違ってはいないと思います。 歴史学というより歴史ドラマの基本設定みたいな歴史観にも思えますが、まあそれでもいいかなって感じです。
お礼
ありがとうございました
こんにちは。 調べ直してみました。 4番ですが、陶隆房の謀反によって大内氏が滅亡しますが、 陶隆房の後ろで糸を引いていたのは毛利元就のようです。
お礼
ありがとうございます
- izuhara
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3ちょっと違いますね。諏訪は天文11年に攻略していて、この年までに上田原の戦いを経て、小笠原氏を追っています。天文20年は、真田幸綱が砥石城を攻略した年ですから、信濃の過半を制圧しつつあった状況です。 あとは、とくに問題ないと思います。 強いて言うなら5は、信長が家督相続したに過ぎませんから、当時「天下布武」を目指していないことを考えれば、天下取りの第一歩と評価すべきなのかな、と思います。
お礼
3は そうですね 北信濃と書くべきでした
こんにちは。 1番はどうしても不明なのですが、2番と3番は合っていました。
お礼
ありがとうございます
こんにちは。 1~3は不明です。 4番・大内氏を滅亡させたのは守護代陶晴賢達と記されており、 毛利元就が関与していたかは微妙です。 5番・織田信長の父信秀が病死し、家督を継いだのは 天文20年(1551年)で間違っておりません。
お礼
ありがとうございました
お礼
参考になりました ありがとうございます