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信長の兵力動員数とは?
- 信長の兵力動員について教えてください。
- 信長の征服戦争における兵力動員数は、対大名と対宗教勢力では規模が違うようです。
- 何か理由があるのでしょうか?戦略思想の違いでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
一つは信長の支配領域が順調に広がり動員可能兵力が増えていることを表しているといえます。 もう一つは叡山と長島攻めと叡山攻めですが、これは攻撃側とはいえ遠征とは言いがたいです。信長の支配領域内での戦争です。遠征戦ではだいたい10万石あたり3000程度の動員がなされますが、防衛戦などで根こそぎ動員をかけたらその倍近くの動員が可能です。おそらく地元の宗教戦争の場合、相手の兵力にされる前に自分の兵力として取り込む、食糧の調達が可能、外敵の攻撃にも近くなので迅速に対処可能といった理由で根こそぎ動員をかけてから望んでるのかもしれません。 ただ越前攻めの10万はいくらなんでも史実より過大に思えます。
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- lv48
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野戦と攻城の違いで、工兵の数と日数が変わります。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%8D%AC 当時の資料は信憑性がありません。もしかしたら、延べ人数の合計かもしれません。 力攻めをする場合は、籠城側の数倍~10倍の兵が必要とも言われ、攻める側に相当な犠牲が出るので、野戦以上の兵力を動員します。
- あずき なな(@azuki-7)
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宗教戦争では 信長が「門徒側(つまり宗教側)に付いたら一族郎党皆殺しにする」と脅したため びびった兵士はみな信長についた と言う話もあります さらに 「坊主共滅し暁には勲功抜群の者褒美は意のまま」と部下にゲキを飛ばしています つまり「坊主達を滅ぼした時には その戦いで抜群の働きをした者には欲しい褒美を何でもやろう」と言ったわけです そなん事言われたら 農民雑兵はこぞって集まるでしょうw だって 下手すりゃ大名にもなれるってものですから
- eroero4649
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まず当時の兵力動員数は信頼に足るべき資料が少なく、その兵数は推測の域を出ないことを申し上げなければなりません。質問者さんなら「んなこたア分かってらァな!」といわれてしまいそうです。しかしそれを差し引いても10万という兵力動員はあまりに多すぎる気はします。その実態は「10万(と誇張したくなるほど)の大軍」なのではないかと思います。 ただそれにしても、対宗教戦争では通常より多く動員されていたという点はあったかもしれないですね。おそらく質問者さんの質問のキモもそこだと思います。 まず大きな理由として、外征作戦か内線作戦かというのがあると思います。 当時の軍隊は、遠征にかかる費用は武士の自分持ちでした。現代の雇用形態に例えれば委託契約みたいなものです。武士を大工さんにするならば、棟梁が連れてくる職人さんの費用も、移動の自動車代も全部棟梁持ちです。だから遠い場所に行くとなったらそれだけ費用がかかるわけです。それは呼ばれる武士にとっても負担ですし、おいそれと動員をかけるわけにもいきません。経費は自分持ちだったので、武士側も断る権利は持っていたのです。大阪に近い辺りの中小大名が朝倉攻めくらいならまだしも、信濃まで行くとなると負担も相当となります。 また外征作戦となると、兵站(小荷駄)の負担も大きくなります。昔の日本軍は現地調達をアテにしていたので、それが上手くいかないとしばしば飢餓に襲われたのですが、信長はそんなアホではないので兵站の限界を超える動員はしませんでした。信長は理系脳でしたから兵站能力から逆算して動員する兵数を決めていたのではないかと思います。 大阪や伊勢長島を攻撃するときは、どちらも近隣には信長に従属するもののまだ直轄には入っていない中小から零細といっていい規模の大名たちが多くいましたから、これらの軍勢を動員できたのだと思います。 また信長の戦いの中で、信長を最も苦しめたのは浅井長政でも武田信玄でもなく、一向宗だったと思います。これらの宗教勢力はまさにゲリラ・テロリスト軍みたいなもので、叩いても叩いても湧いてきます。戦略眼に長けていた信長はそれが分かっていて、個別の軍勢で攻撃しても個々の戦いでは圧勝できても制圧はできないと気づき、大軍勢でスチームローラーのように根こそぎ押しつぶしていかないと制圧できないと大軍勢を用いたのではないでしょうか。現代のアメリカ軍は特殊部隊を使ってイラクやアフガニスタンを制圧しようとしていますが、点と線の確保はできても、面での確保はできずにテロリストの横行に苦慮していますよね。 実際に、伊勢長島の戦いでは最終的に一向門徒を非戦闘員も含めてすべて長島城に押し込んで根絶やしにすることでようやく平定することができました。アメリカもタリバンを制圧したければ圧倒的な大軍でタリバン勢力を非戦闘員ごとどこかに完全包囲して殲滅する必要があるでしょうが、現代では人道上そんなことは不可能ですね。 なお、姉川の戦いでの動員数がそれほど多くないのは、信長は浅井長政に対して野戦による決戦を望んでいたからではないかなと思います。あまり圧倒的な軍勢だと長政は小谷城に籠って出てこず、戦いが長引いたことでしょう。戦いが長引き、確たる戦果を得ないまま撤退を強いられるのが信長にとって政治的に一番マズい状況になります。野戦に引きずり出すには長政をして「これなら打って出れば勝てる」と思わせる必要があります。信長はあえてそのリスクも負ったのだと思います。 また、政治的にもあまりグズグズすることは許されず、朝倉軍が立ち直るより先に決戦に持ち込みたかったので充分な兵力でなくても出撃した、というのもあったかもしれないですね。
お礼
ご回答感謝致します。 なるほど、信長の対宗教勢力戦ではジェノサイドなので二線級の烏合の衆でも、とにかく数を掻き集め損害を顧みず遮二無二殺しまくった訳ですね。逆に対武家に対しては正規戦に引きずり込むために第一線級の小規模に見せかけた精鋭部隊で敵を油断させたわけか・・確か、長篠でも何としても武田軍を馬防柵の前面に引き寄せるために、織田の後方予備軍を勝頼の本陣から見えないよう山影に隠した話を聞いたことがあります。
- mm058114
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戦勝の度に、敵方だった兵を召抱えて行くからではないですか? 信長は、実際問題、そうやって大きくなって行きます。 詳しくないですが、これは、武田、上杉、北条、毛利、長宗我部、島津も同じじゃないですか?
お礼
ご回答有難うございます。 石高が増せば動員能力も上がるのは当たり前のこと。 質問は信長の対大名と対宗教勢力での動員兵数に明確な差があるのは何故かという事。
お礼
ご回答ありがとう。 理に適っていると思います。