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信長包囲網について質問
- 信長包囲網形成時の金ヶ崎の退き口について、京での待ち伏せや供回りの少なさについて質問があります。
- 信長包囲網の檄文が家康に送られなかった場合、拒否した理由やメリットについて知りたいです。
- 上杉家への檄文送付や上洛の記憶、関東管領就任などについて質問があります。また、上杉家が信長包囲網に加盟した場合の意見を聞きたいです。
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まず金ヶ崎で信長が極めて僅かな兵で退いたというのは後世の創作でしょう 信長には馬廻が随伴していたはずです 馬廻といってもある程度有力な親衛隊ともいうべき部隊で 後に天正四年天王寺の戦いで光秀や細川藤孝らが本願寺・雑賀衆数万の包囲を受けた時に 信長は僅か三千の馬廻のみ率いて包囲を突破、光秀らを救出して反撃して本願寺勢を駆逐したぐらい強力な部隊です それに織田は全力を対朝倉遠征軍に加えていたわけではありません また上杉が第一次対信長包囲網に参加できたかどうかですが 元亀年間では無理でないかと… まず上杉と徳川が対武田で同盟関係にあり それに織田が加わった形であることと 何より上杉と一向衆は激しい対立関係にあったことです 上杉の一向衆に対する反発は織田と一向衆の対立よりかなり古く、謙信の父親の時代からの積年の恨みがありました 実際、信玄が徳川領に攻め込んだ1572年に謙信自ら親征して越中・加賀一向衆を激しく攻撃しているほどです (間接的に織田の対本願寺戦略の支援になるでしょう) 上杉が一向衆と和睦するのは上杉が越中を完全制圧し 織田が加賀を制圧し、加賀を本願寺の影響下から排除してからです また徳川が織田を裏切ることはないでしょう 徳川の武田に対する不信感はかなり大きいものですから
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- lv48
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いろんな物語があって、真実は誰にもわかりませんが、まともな説を紹介します。 (信長公記は秀吉が書かせた捏造物語。信長記はさらに脚色したファンタジー小説。その他資料も伝聞記で妄想日記) 将軍足利義昭の名で越前の朝倉義景に上洛を命じて、応じない態度を反逆と宣伝し、若狭の武藤討伐に名を借りた朝倉牽制。 名目は若狭攻め、将軍のお墨付きをもらった連合軍。 朝倉攻めではないので浅井に報告する必要はない。 浅井の主力と長政は参戦していません。一部の家臣が不穏な動きをしただけ。 猜疑心から裏切りと騒がれたのでしょう。 当初の目的を果たしての凱旋中、予想外の朝倉の反撃にたまたま秀吉、池田勝正、明智光秀徳川家康が遭遇。 秀吉にしてみれば武勇伝は大げさに盛る筈で、実際の金ケ崎撤退は有力武将も死んでいない、大事ではなかった。 このころの将軍はまだ信長を頼っていて、信長包囲網はこれより後の時代ですが、これを第一次信長包囲網とする方が、話を膨らませて面白く出来るので、いろいろな説が生まれるわけです。
- eroero4649
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#2です。Wikipediaでも第一次信長包囲網については義昭の関与について一言もありませんね。私も寡聞にして第一次信長包囲網の背後で義昭が暗躍していたという話を読んだ記憶がないです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%8C%85%E5%9B%B2%E7%B6%B2 浅井長政が信長を裏切ったのはある意味当然といえば当然だと思います。だって、越前が陥落したら長政の領地は信長領に包囲される形になります。しかも、長政の領地は信長の本拠地である岐阜と京都の中間地点に存在するので、信長から見ると「なんか邪魔だ」ってことにもなるでしょう。その時点となると浅井軍と織田軍の戦力差は圧倒的になる上に、織田軍は浅井領を南北から挟み撃ちできます。 後に織田信長は、徳川家康に対して長男の信康を武田と通じていたと難癖をつけて切腹を命じますよね。信長ってそういう人です。信長包囲網のときに家康が反信長連合に加わったらジエンドになったと思うので、信長にとっては家康は命の恩人のはずですが、だからといって甘い顔をするようなお人好しでは天下はとれないんですな。 だからそれを考えれば、朝倉亡き後の浅井に対して何か難癖をつけて取り潰そうとするのではないかと警戒するのは戦国時代を生き抜くためには当然考えなければならない危機管理です。 それを踏まえると、織田軍の主力が金ケ崎の辺りで決起したというのは作戦的には実に絶妙なんですよ。まだ朝倉軍は崩壊していないし、主力が敵地に入っていましたから、挟み撃ちするには絶好です。だけど挟み撃ちができなかったのは、浅井軍が動員されるのに時間がかかったからだと思います。信長は朝倉征伐を長政に黙っていましたから、おそらく信長もそこを読んで浅井家が混乱している先に朝倉軍を撃破すれば浅井家も「朝倉軍もやられたから今から決起してももう手遅れ」となるという賭けに出たのだと思います。 あと第一次信長包囲網が始まった、つまり浅井長政が信長を裏切ったとき、徳川家康は金ケ崎で信長と一緒にいました。この時代の家康と信長の関係はドラえもん抜きのジャイアンとのび太の関係で、「なんか長政が裏切ったらしいんで、俺は単独で撤退するね、じゃあね!」とだけいわれて、何が何だか分からないうちに危うく敵中に孤立させられるところでした。 また上杉謙信についてですが、信長が朝倉討伐を始めた頃の上杉領は、越中(富山県)の支配権はまあせいぜい東半分程度といったところで、朝倉領との間には今の石川県があるわけですが、この当時の石川県は「一向宗門徒パラダイス自治領」で、上杉家の支配も朝倉家の支配も拒否する地域でした。つまり仮に謙信公が援軍を出そうと思っても出せないんですな。 上杉謙信公におかれましては後に石川県にも攻め入るわけですが、ここにあった七尾城ってのがすっげー固くて何度も攻略に失敗しているんです。謙信公がこの七尾城を攻め落とせたのは、信長が朝倉征伐を始めた元亀元年から7年後の天正5年でした。 まーなんだ、ゲームでもマンガでも何でもいいから基礎的な知識をつけときんさい。中1英語が分からんのに中3英語の質問をされるとこのように説明が長くなりますんでな。
- eroero4649
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第一次信長包囲網って、浅井長政の裏切りによって始まったもので、足利義昭は檄文とかは書いていないと思いましたが、違いましたっけ? 第二次信長包囲網は足利義昭の暗躍によって生まれましたよね。 第一次信長包囲網で足利義昭が暗躍したというソースをおしえてください。
補足
あ、そうなんですか…知らなかったです…。すいません、知識不足な物で…。 となると、浅井家の裏切りは将軍家の関与は無く、何らかの他の理由があって裏切った、という事でしょうか…。 となるともう一つ不思議に思うのは、本当に朝倉家の友誼を重んじて裏切ったのでしょうか? 父を強制隠居に追い込む程の利己的な思考の持ち主がそんな理由で我が身を危険に晒すとは思え無いのですが…。
- あずき なな(@azuki-7)
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1 無理でしょう 当時の義昭はいわゆる「幕府軍」というものを持っていませんでした まぁ共回りとか護衛の兵はもちろん居ますが 合戦を出来るような組織的な兵力を義昭は有していませんでした 自ら挙兵せず「信長包囲網」を作って諸大名に戦わせたのはそのためです それに信長の退却があまりに早すぎて、義昭が行動する前に信長は退却を終えて体制を整えていたようですし 2 家康の元にも書状は届いていたようです しかし当時の家康の情勢を考えると足利につくメリットは皆無な気がしますが? まだ武田・上杉は健在ですし織田家の庇護が無ければ徳川家は存続出来ないような状態です 信長にしてみれば皮肉にも武田家が家康への抑えになって 家康は離反しなかったと言えると思います 3 ん? 上杉謙信も信長包囲網には参加してますが? 足利義昭の「信長打倒せよ」の激に呼応した諸大名は 本願寺・毛利・武田・上杉・浅井・朝倉です
補足
1と2については深く納得致しました。 すいません、3については説明足らずで… 確か上杉謙信は濃越同盟(すいません岐越同盟は間違いでした)なるものを結んでおり、それは確か1576年まで続いたと記憶しております。 その後一向宗との同盟により、濃越同盟は消滅。打倒信長を掲げ、手取川で衝突するのですが、 確か信長包囲網は第一次から第三次とまで分けられているはずです。 本当に知りたかったのは第一次信長包囲網の時点では(つまり初期)上杉謙信には声を掛けなかったのでしょうか? 言葉足らずで申し訳ありません…。
お礼
ありがとうございます。 すいません…つい最近歴史について勉強を始めたもので…がんばります(`・ω・´)ゞ