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和歌

天智天皇 秋の田の刈穂の庵の苫を荒み  我が衣手は露に濡れつつ 読み手の心情は本人しか解らない以上 様々な解釈があってしかるべきと思いますが 様々な解釈を読んでもしっくりした解釈にあたないので 私の解釈を見てください 1 背景:これは稲の刈り取りが終わってその刈穂を保管しておく粗末な小屋で刈穂の番をしている貧農民をみて読んだ 2 時節:刈り取りが終わっていることから冷たい晩秋 3 解釈:こんなにみすぼらしい小屋で寝ずにいつも自分たちが食べている米の番をしているのか 申し訳ない それに引き換え 自分は単に懐手が露に濡れているだけではないか

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.2

分かる範囲で一般的な解釈を。 この和歌は現在の研究結果では、万葉集巻10の2178番の作者未詳の 「秋田刈る仮庵-かりほ-を作りわが居れば衣手寒く露置きにける」 の歌が伝承されているうちに天智天皇の作とされ、歌詞にも変化が生じたものとされています。ですから、天智天皇の真作ではない訳ですが、農民の立場でその労働の苦しさを詠んだ歌と解釈されています。 百人一首の天智天皇の和歌なので、web上にも多くの解釈がありますので参考になされと良いと思います。和歌全体を検索にかけると大量にヒットします. http://azby.search.nifty.com/websearch/search?cflg=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&select=1064&q=%E7%A7%8B%E3%81%AE%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%88%88%E7%A9%82%E3%81%AE%E5%BA%B5%E3%81%AE%E8%8B%AB%E3%82%92%E8%8D%92%E3%81%BF+%E6%88%91%E3%81%8C%E8%A1%A3%E6%89%8B%E3%81%AF%E9%9C%B2%E3%81%AB%E6%BF%A1%E3%82%8C%E3%81%A4%E3%81%A4&ck=&ss= http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/001.html http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/100i/001.html http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tennji2.html http://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/14155648.html 授業風になりますが、一般的な解釈を以下で。 *品詞分解 秋(名詞)の(格助詞)田(名詞)の(格助詞)刈穂(名詞)の(格助詞)庵(名詞)の(格助詞)苫(名詞)を(間投助詞)荒(形容詞ク活用の語幹)み(接尾語)我(代名詞)が(格助詞)衣手(名詞)は(係助詞)露(名詞)に(格助詞)濡れ(下二段動詞連用形)つつ(接続助詞) *文法 「を」=間投助詞。「~(名詞)を~み」の構文で、「~(名詞)が~ので」の意味を表す。 「み」=接尾語。形容詞及び形容詞型の助動詞の語幹について原因・理由を表す。「~ので、~から」 「つつ」=接続助詞。反復・継続を表す。「~し、また~しては。~ては~して。~しつづけて」。和歌の最後にある場合には詠嘆の意味を含む。 *語釈 「刈穂-かりほ」=仮庵・仮廬=「かりいほ」の転。仮に作ったいおり。仮に泊まる小屋。仮小屋。後代では、刈穂で刈り取った稲穂の意味になりますが、ここではそうではありません。 「庵-いほ」=「いほり」に同じ。草や木などで作った粗末な仮の家。農事に用いる仮の小屋。 「刈穂の庵」=同じ意味の言葉を並べた表現。 「苫-とま」=菅(すげ)や茅(かや)を菰(こも-粗く編んだむしろ)のように編んだもの。船の覆いにしたり、屋根を葺いたりする。 「衣手-ころもで」=袖 *解釈 秋の田に作った仮小屋の屋根に葺いた草の編み目が粗いので、(そこで田の番をしている)私の袖は、(払っても払っても)しきりに夜露に濡れることだ(なあ) *その他 「刈穂-かりほ」でも説明しましたが、刈穂は刈り取った稲穂ではありません(そのように解釈する考えも一部にはあります)。ですからこの仮小屋も、田を荒らす鹿や猪に対処するものと一般的には解釈されています。 接続助詞の「つつ」で終わっていますが、本来接続助詞は単独で終わることはなく、次に続く語句があるはずです。それが接続助詞で終わること(後の語句は省略されたことになります)により、余情・余韻が生まれます。個人的な考えですが、世阿弥が「秘すれば花」と言ったように、省略があるような形により、和歌の広がりが生まれているように思います。作者は袖が夜露に濡れながら何を思ったのでしょうか。そこにこそ鑑賞する人間の人生経験などのより、多くの考え方が生まれ、文学としての広がりが生じるのではと思います。 他の質問で、「奥の細道」の品詞分解に近々に回答をしたもので、授業風になってしまいました。参考文献にもあたって中立的な解釈をしたつもりです。以上、参考まで。

bgm393
質問者

お礼

参考になりました 中でも天智天皇の真作ではないとされている 知りまませんでした しかしいろいろな解釈をしながら自分勝手な解釈も楽しみながら 昔の人の考えと今の人の考えの違い 共通点 いったい大昔の人の頭の中はどんな頭の中で日々暮らしていたんだろうということは非常に興味のあることですがこれらに近づくためにも和歌の世界は深いように感じます ありがとうございました これからも楽しんでいきたいと思っています

その他の回答 (1)

  • misawajp
  • ベストアンサー率24% (918/3743)
回答No.1

それも解釈 しかし あまりにも現代的意識が過剰すぎる >様々な解釈を読んでもしっくりした解釈にあたないので は 質問者の意識に囚われすぎているため このようなことには受け止めた人の数だけ「正解」が有ります 不正解はありません、が より良い解釈は存在します

bgm393
質問者

お礼

貴重な御賢察 ありがとうございました まったくもって御指摘の通り 出来れば模範解答を伺いたかった 私的には 「受け止めた人の数だけ「正解」が有ります」 に安心し 自由に解釈し和歌に親しんでいきたい

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