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スーパーフラットの関係性と浅田彰の評価
- スーパーフラットは日本のアートムーブメントであり、日本の消費文化や平面絵画、アニメーション、ポップカルチャーなどを示す概念です。
- また、スーパーフラットは現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものであり、欧米市場へのブランド戦略やニッチ市場販売の成功例でもあります。
- 浅田彰はスーパーフラットについて、日本文化の平板化や後のクール・ジャパンを思わせる一種の商標としての側面を指摘しています。
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勿論それでいいと思いますよ。 全体主義ではないし、それで問題ないです。 ただ、今までこの時代にくる課程で、さまざまな規制の置換が あったことは確かです。 例えば、今後、お前の国はどうして高い税金を集めて、そんなに 公安にお金をかけて財政をあっぱくしているんだ。もっとそこは 緩和して自由化すれば、銃もうれてお金もまわるんじゃないか、 人間は自分の命は自己責任で守るべきだ。それじゃあ、全体主義 に片足つっこんでいるようなもんだぞ。弱肉競争の精神でなければ 世界には通用しないぞ。 などと言われて、この国の風土や歴史にもとづいた特質も考えず 丸飲みしない方がいいような気がするんだけどな、というような、 ただの独断的な独り言ですね。
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- heart_mind
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私もどっちかっていうと、日本的なミーハーなスノビズムには否定的 な考えは持っていないです。マーケットにはきっと好都合だろうし。 大衆的なところがいいところでもあるし。 ただ、今の社会状況を考えると、直感的な外側デザインのいきすぎた 先行は、あらゆるところで破綻の色を見せ初めていないでしょうか。 わたしには市場原理のゆがみとリンクしているように、思えるんだけどな。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 直感的な外側デザインのいきすぎた先行 ☆ ニュース欄を見ていて 例のAKB48に対して芸能界の先輩連が その礼儀の無さにあきれており 苦言を呈していると書いてありました。 AKB48は いまや頂点に君臨しているのだそうですね。 さて 果たして 《直感的な外側デザインのいきすぎた先行》であるのかどうか? この例では わたしは特に分かったという合点を持っていません。でも そういう実際の事情があるのなら 取り上げるにいい例ではないかとは思いました。 でも頂点にあるというのは 何とも分かりづらいです。そのファンたちが ただ熱心だというだけでは そうはならないでしょう。レコード(あれっ CDではなく 何と言えばよいのでしょう?)が売れるには それだけの何らかの良さが買われているわけでしょう? どうなのでしょう? 直感的な外側デザインのいきすぎた先行であるにもかかわらず そのほかに何か良さがあるのか? それとも ただただその直感的に感受されたものが よいというだけで 外面的なだけとしてもそのよい評価を得たというのでしょうか? ★ あらゆるところで破綻の色を見せ初めていないでしょうか。 ☆ どうなんでしょう? これは わたくしには いま 分かりません。政界で 橋本維新の会の前に かつての外側デザイン先行の政治家たちが色褪せて来ているとは思いますが これは もっと前からだとも思いますし。果たして どうなるか? たのしみでもあります。
- heart_mind
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信州いいですよね。 コミュニティ運営の温泉とかいくと、外湯とかは、普通に町営とかで そこに住んでいる人が入る為に運営されていて、外からくる旅人は完全 によそものなんですよね。だからおじゃまさせていただく感覚にならな きゃいけない。旅人はローテーションでお掃除の順番がまわってくるわけ じゃないんだから当然なんですけど。でも、それが理解できていないと 折角疲れを癒しに来たきたのに失礼なところだなってなっちゃう。 本当はそういう体験できるところがそこの良さなんだけど。 別の話で、まったく外見は近代的じゃないんだけど、近代的な運営している 海水浴用の民宿村みたいなところにいった時も、ビジネスライクな対応は、 かえって心地よくて、それがそこの雰囲気をこわしているとは思えなかった。 実際に行った訳じゃない小笠原の話をするのは、やめておくことにして。 情報化社会のせいなのか、なんなのかはわからないけど、 エンターテイメントに毒されているって、いうことはないんでしょうか。 事前の情報がありすぎて、かえって現実的な価値がよくわからなくなる。 一例として、エロ文化をネットで見ると、変わったなあと思いますね。 性の現実なんて即物的で、まったくつまんないものだって、教えてくれ ているみたいです。きっと、それでまったく間違ってないと思うけど、 「つまらない」ってことを本当は知らないはずだった。だから、なんの 生産性もない面倒くさいことをできたんじゃないかと、それでその面倒 くささが意外と本質だったりするかもしれないのに。 何がなんだか、ちょっとまとまらなくなってきました。 すいません。もう少しまとめてきます。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 一例として、エロ文化をネットで見ると、変わったなあと思いますね。 ☆ おそらく《解禁》になってからの変化をおっしゃっているのでしょう。その変化のことをわたしはあまりよくは分からないのですが それよりも何よりも さらに昔とくらべれば 月とすっぽんの変わりようです。 さすがわたしも 戦後すぐの額縁ショーの世代ではありませんが・あるいは汽車のガラス越しに接吻シーンが初めて映画にお目見えしたという世代でもありませんが――それよりはあとですが―― それはそれは 変わったというようなもんぢゃありません。 まぁ けっきょくぜんぶ明るみに出すといったところまで行くのかも分かりません。もうそこまでたどり着いたのかも分かりません。 ★ ~~~~ 性の現実なんて即物的で、まったくつまんないものだって、教えてくれ ているみたいです。きっと、それでまったく間違ってないと思うけど、 「つまらない」ってことを本当は知らないはずだった。 ~~~~~~ ☆ ただ わたしもミーハーでして アイドルを求めていたりすることもあるようです。そういう気持ちや動きがあるなぁと思います。 ですから ★ ~~~~~~ だから、なんの 生産性もない面倒くさいことをできたんじゃないかと、それでその面倒 くささが意外と本質だったりするかもしれないのに。 ~~~~~~~ ☆ という見方が出されるとき 要らんものは見向きもしないですが やはりおやっと思う場合もあるようです。それにしても 氾濫していると思うのですが 事業としてそれで採算が合っているのですよね。 ★ ~~~ エンターテイメントに毒されているって、いうことはないんでしょうか。 事前の情報がありすぎて、かえって現実的な価値がよくわからなくなる。 ~~~~~ ☆ そりゃあ 子どものときにどのような情況であったかは 影響するでしょうね。インタネットだけを取っても こんなことは考えられませんでした われわれの世代にとっては。 外国語学習なんかは 格段の違いです。昔は ペンパルというコミュニケーションの仕方がありました。エアメールでもヨーロッパやチュニジア(フランス語使用)で一週間かかりました。返事を待ちながら わくわくしたものでした。 ★ 事前の情報がありすぎて、かえって現実的な価値がよくわからなくなる。 ☆ まぁですが まぁ そうなったら成ったで そこからさらに どこかへ突き抜けて行くのでしょう。交流・交通の仕方は 変わっていくでしょうし あるいはその中身が変わって来るのかも知れません。
- heart_mind
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そうですね。観光業が目指す目的は何かと考えればその通りです。 非日常感は間違っていません。 だけど何なのかなあ。何か浮遊して見えたんですよね。 観光ビジネスなんて言うのは、やっぱりどこか近代的なものなんですね。 はっきりした目的があって、そこに設計思想がはめ込まれていく。 民宿客は、どこか家庭的なものを求めていますよね。 そこを目的化した感じのどこかあいまいさの残る近代化が何か変な感じ がしたのかもしれないです。 考えすぎかなあ。 今までだって気にしないでつきすすめば、それなりになりましたからね。 盆栽とか、かわいこぶりっこ文化とか。 すいません。忘れてください。
お礼
そうですね。まづはご回答をありがとうございます。 もしそうだとしたら テレビ局側による演出か あるいは土地の人たちが自分たちの中から独自の演出をしたか その突出ぶりが目に止まったというようなことだったのでしょうか? すごく昔に 信州の大滝村でしたかで一週間ほど民宿に泊まったことがあります。 農家そのままで二階の空いた部屋を 二部屋 貸して住まわせるかたちでした。 家族の人たちは素朴でした。ただし われわれ客に対しては ふつうにビジネスライクに振る舞っていました。 食事は その一帯の民宿が連携してひと所に小屋を建てて食堂としていました。 ですから ほとんどチェックイン・チェックアウトのようなかたちでした。 受験勉強に全部の時間をこちらも費やしていましたから 話し合ったりするひまはなかったのですが。
- heart_mind
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いちばん気になっているのは楽園的な浮遊感だと思います。ポストモダン的 な問題が隠れていそうでしょ。 そして、私たちが旅に求めるのは、ただの楽園ではないということですね。 たぶん自然もただの楽園としてみたいわけではないのでしょう。 その風土のうえに生活する人間があって、歴史があって、そこから、方言 などの特質があってみたいな。ちゃらちゃらと旅にきてるんでしょうが、 おれらはここで根をはって生活しているんだぞという、ちょっとした排他的 な雰囲気が、なんかきっとほしいのかもしれません。 本当に固有種をまもりたかったら、旅人をこさせなければ、まもれるわけ だけど、固有種をまもっているというスタンスの商売ってとこが浮遊して みえるんでしょうね。 きっとでもこれは、たぶんにテレビ側の演出の問題もあるのかもしれない ので、島の人からすれば、そういう風に演出されたんだと言い分がある気 がしますね。
お礼
はあとまいんどさん これは どうも理論の問題と実際の観光のあり方とは どこかで切れているように思えました。 ご回答をありがとうございます。 あなたは 理論を追求なさろうとする。ところが 観光事業のあり方としては 最大多数の最大幸福を目指していて それは ひと言で言えば ○ しばしの楽園における生活もしくは時間 だと思われるのです。 ★ ~~~~~ そして、私たちが旅に求めるのは、ただの楽園ではないということですね。 たぶん自然もただの楽園としてみたいわけではないのでしょう。 ~~~~~~ ☆ こういった見方も出来るでしょうが そこまでは一般の人びとは求めていないし 考えてもいないのではないでしょうか? しばしの休日であり のんびり気分であり その旅の時空間は 別世界であって欲しいのだと思いますよ。 それでも 日常世界にふたたび戻って元気に生活するためという・その英気を養うという目的をも持っていることでしょう。そのためには ★ 楽園的な浮遊感 ☆ でよいということではないでしょうか? 言いかえると 理論の問題は それでも別様に求めようと思えば求め得られるのではないかと想像してみましたが どうでしょう? つまり ★ ~~~~~~ その風土のうえに生活する人間があって、歴史があって、そこから、方言 などの特質があってみたいな。ちゃらちゃらと旅にきてるんでしょうが、 おれらはここで根をはって生活しているんだぞという、ちょっとした排他的 な雰囲気が、なんかきっとほしいのかもしれません。 ~~~~~~~~ ☆ こういった側面のことは まづ友だちになって信頼関係を築いて そのあと語り合ったりすればよいし 案外その土地の人びとも確かにそういう方面のことも考えているかも分かりません。 つまり 二段ロケットとして 旅を捉えるのがよいかも分かりません。 と分かったようなことを述べました。 ★ たぶんにテレビ側の演出の問題もあるのかもしれない ☆ ということであれば さらにさらに土地の人たちも考え合ってあらためて行くかも分かりません。 哲学塾を開いています。おひとりでも どうぞ。いつでも来てください。などという旅のプランがつくられるかも分かりません。
- heart_mind
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ついでといっては何ですが。もしご迷惑でなければ、 おつきあい願いたいおだいがあるのですが。 「素朴さの演出のいやらしさはどうやってのりこえたらいいか」ですが。 私は、個人的に離島が好きなのですが。そぼくで、すれていない雰囲気が 何故かまた行きたくなってしまうよさがあるのだと思います。 民宿の人も客商売があまり得意そうでなくて、そうとう無愛想だったり して、そこがまた素朴でいいところなんですが。 小笠原諸島も今まではあこがれの離島では、あったのですが。 しかし、最近テレビで見ていて、「あこがれ度」が下がってきているのです。 固有生物保護の為に極端に人為的な配慮をしていたり、 フェリーで帰る客に向かって、「いってらっしゃい」と愛を演出するかの ダイビングショウと商魂たくましいエンターテイメントでそれはそれでいいん ですが。 しかしそれに対して、本気に受けて涙を流す客がいると、ちょっとやりすぎ なんじゃないかと、いじわるに思ってしまいます。 こんなこと言ったら、小笠原諸島の人にしたら、悪口にしか聞こえないだろう な、と思うと心ぐるしく恐縮きわまりないのですが。 小笠原諸島の人が見てたら許してください本当にすいません。 しかし、この問題は現代に重要な意味を含んでいると思いましたので、一例と してあげさせていただきました。 もしよかったら、哲学的な問題として、よろしくお願いいたします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「素朴さの演出のいやらしさはどうやってのりこえたらいいか」 ☆ そうですね。 わたしの物指しはやはり スサノヲ人間語とアマテラス普遍語(科学語および人格語)との対比です。 素朴さは S 語であり 《演出》は 少しでも幅広く訴えるものがあるように磨いたり飾ったりすることだとすれば それは言わば A 語化だとまづ思われます。 ところが 《素朴さの演出》とは S 語の生活文化や世界を A 語化しつつ S 語の状態にとどめること。あるいは S 語の状態にとどめつつ A 語化するということになりそうです。 そうは言っても スサノヲ市民の――あるいは庶民と言ったほうが感じが出ますね の――生活信条やそれが現われているところを 際立たせるための演出と言えば それほど奇異でもないようです。 さらにところが――二転三転して―― そもそも S 語文化のよいところは 飾らないことです。なまの魅力として心にひびくものがあるといったことです。 では A 語化をほどこした S 語の文化のよさとは いったい何か? こう考えてみると 確かに一般には ★ 素朴さの演出の ≫いやらしさ≪ ☆ のほうがけっきょく目立つことになりましょうね。 ではそ ★ のいやらしさはどうやってのりこえたらいいか? 答えが出ないですね。だって 矛盾しています やはり。 でも どうなんでしょう。あくまで S 語の世界の中で その A 語化の演出をしているとしたら その S 語としての一生懸命さをみとめてあげる必要があるのでしょうか? あるいは そこまでの余裕をこちらになくさせるほど いやらしさが目立つのでしょうか? 善意に取れば それは 世の流れに流されているだけだとも取れますけれど。・・・ いやぁ もし善意だったなら このようにはっきりと感想をのべて伝えることが いちばんぢゃないですか? 人びとも考えるでしょう。 哲学の命題として取り損ねたかも知れません。
- heart_mind
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いろいろな資料提供ありがとうございます。 公共性のところについては、残念ながら参照不可能でした。 コミュニティからの離脱を夢見て広い世界への冒険を夢見る若者は いつの時代になってもいていいと思います。 それが若い人の良いところですから、そういう人の気持ちの足をひっぱる ことはしたくないですよね。 しかし、現代人をおそう浮遊した不安感は、やはり自然感やコミュニティ の役割がはたすものなのではないかと思えてなりません。 またそれが、停滞した経済を解決する答えに導いてくれるでしょうね。 前近代感覚なくして、構造主義はありえないし、構造主義感覚なくして ポストモダンもありえないといったところですね。 話は変わるんですが、円高でデフレの原因をずっと考えていたんだけど、 世界の億万長者みたいな人にあやつられているのかなとか変なことも考 えたりしこともありましたが、だけど普通に素直に考えると労働価値が さがったことにより、デフレになって、それによってものの価値が通貨に 比べてさがり、そこに為替が反応しないはずもないから、円高になるって いうのが自然な考えかもしれません。良心的なそれなりの規模を持ってい る内需のマーケットが柔軟に反応してくれていたということでしょう。 やっぱり、こういういいところはまだ残っているから、まだまだ捨てた もんじゃないと言うことだと思います。 後は労働価値を上げる為の地に足の着いた設備投資が望まれるのでしょうね。 ブロジェロンヌさんの提供してくれた資料をもとに勉強不足のところをもう 少し調べてみますね。 ありがとうございました。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえいえ。吉本隆明については 若いころいろいろまなびましたが その方向性あるいは志向性は ついぞ分からない。認識論でお茶を濁しているのではないか? などと捉えています。そして その初期ないし中期の著作しか読んでいません。つまり 途中で読むのをやめたということでした。 ですから 批判的な見方をしています。 そのような方向ですすむかなと思ったものですから 出してみました。 いえいえ。これがよいから参考資料として出しますというものではありません。 ちょうどクウキや日本教にちなんで 共同幻想というのが 吉本の言葉であり それが 出て来ました。そのように 概念としては案外いくつか まなんでいますし 鋭いとさえ思います。けれども方向として批判をしていかねばならないものと思っております。 と正直にお応えしておきます。 経済は 経済学など役に立たない情況になって来ているという人もいるようですね。 経済学という考え方に合わせてしっかりとまなぶことはむしろ放棄して来ていますので そうなのかなと思うものの 対案はないありさまですので かなしいかな 何とも前へすすみません。とほほ。
- heart_mind
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何かを認識する時に、鏡のように素朴に同化しようとしたり、 あるいは科学的な目で本質を探るように見たりするのだと思い ますが。 現代は、人間に対して前者が欠けていて。 物に対して後者が欠けている気がしてなりません。 自然を見る目も本当は、両者の目が大事な気がするのです。 心を和ませてくれる機能であり、だから資産価値があるし、 環境汚染は人間に害を及ぼすからよくないのだ、とか時には そういう風に考えてみる必要がありますよね。 ですが短期的な経済性にしか着目できずに、人間に関して前者 の認識方法があまりにも欠けていると、思わぬ大きな社会的コスト を払わなければならなくなります。 ペットよりも人間が大事であるというのは倫理に反しないと思うし テーマパークの着ぐるみの中に入っている人は、どれくらいの体力 を要するのだろうかとかは、普通に気になることだと思うのですが。 しかし、少子化問題を子供さえぽんぽん生まれれば経済的をささえる 機能をはたせるなんていう発想は、人間をあまりにも「もの」としか 考えていないんじゃないかと思えてなりません。 人間として生まれてくる子供の心を育む環境は、人手だけの問題なの でしょうか。 何か最近、本当に変ですよね。
お礼
ご回答をありがとうございます。だいじょうぶですか。投稿しつづけても? 世界をどう認識するか? あるいはそこからどう世界を変えるのか? この問題は おっしゃるようにその情況や現場にみづからが立つことも必要でしょうし そうして片や思弁的にでも理論的な認識へと展開して行くことも 大事でしょう。 問題はつまりさらに重要なことはそのとき 互いの見解をぶつけ合うことにもあるかと考えます。コミュニケーションであり 互いの自由な批判という作業過程です。 この自由な批判という意味での《けんか》が あまり見かけられなくなり 物分かりがよくなったのであろうし 人びとはおとなしくなったのだろうと思われます。 発信 というより送信 はするが受信はしないという半鎖国状態で言論活動のようなことをしている人もいますからね。 こんなのを見つけました。ポストモダンの探求に属しましょう。 ○ 【 吉本隆明さんの「世界視線」 】2003-10-07 ~~~~~~ http://www.fsinet.or.jp/~eureka/bookish/bksh_0310a.htm ■ 大澤真幸〔おおさわ・まさち〕「〈ポストモダニスト〉吉本隆明」,『現代詩手帖』2003-10月号 ▼ 理論社会学の大澤真幸さんは,この論考で,いわゆる「ポストモダニスト」と区別された〈ポストモダニスト〉として「吉本隆明」を捉えかえしています.その議論の主軸は,じっさいに文章をよんでいただくとして,ここでは,「世界視線」について大澤さんが出した新しい見解に注目しておきたい. ▼ かつて,文芸評論家の吉本隆明さんは,『ハイ・イメージ論』で,「世界視線」という概念をだしました.無限に上方にあって俯瞰する視線のことで,そこからみれば,この世界のなかにあるどんなものともひとしく距離がとれる,そういう視座とされます.この世界視線は,モダニズムに固有の態度ほかならない.というのは,こうです: •古くからある共同体が(貨幣経済の浸透で)解体され,そこからひとびとが放り出されたとき,もはやかつての伝統ではやっていけなくなる(「ウチではこうするって決まってたもん」「アンタんトコのやり方なんか知らないよ」); •どの伝統も他のひとをナットクさせられない以上,そうした伝統の局所性をこえてつうじる考えが必要になる; •そこで,時と場所をえらばず,すべてのひとがそれにうなづくことができるような普遍性,これをモダニズムはめざす; •いいかえると,そこでは,ローカルな共同体の規範や価値づけは,ぜんぶ相対的なものだと認識されている. ──すべてのローカリティから離脱してそれらとひとしく距離をとる,これはまさに「世界視線」のありかたそのものです. ▼ 「世界視線」についての以上のような理解は,これまでのいろんな論者とほぼ共通しています.あたらしいのは,そこではありません.さて,大澤さんのだしたあたらしい読み方は,こうです: 吉本の議論の重心は,「世界視線」という概念を用いて,現代社会を描写するところにあるわけではない.彼の中心的な論点は,世界視線がたどるはずの運命を描くことである.すなわち,世界視線が,その徹底の果てに内破してしまう,ということを示すことである. (p.132) ▼ つまり,吉本さんは,「世界視線」に到達することをいったのじゃなくて,その不可能をいった.この論点は,たとえば映画『ブレードランナー』についての議論に読み取れるんだ,と大澤さんは言います. 未来のロサンジェルスを描いていると考えられる,その映像には,確かに,世界視線が関与している.それは,空中カーからの映像を通じても,また空中カーをさらに上空から捉える映像を通じても描写される.しかし,その映像には,林立する高層ビル群は映っても,決して背景にある空が映らない.本来,無限遠の上空にある世界視線は,空をも同時に見通すことができるような高さに視点を定めていなくてはならない.ところが,どこまで行っても空を見通すことができず,したがって都市空間をその外部と区別することができるような場所に身をおくことができないとき,世界視線は,視点を定位することができず,結果として,それを都市空間のどことも特定できない場所へと拡散させていくことになる.このような視点の不安定な拡散は,『ブレードランナー』の室内空間の映像の中でさらに強調して示される.吉本は,室内の映像にあっては,内部の家具や装飾品などの配置によって遠近法が異化され,狭い空間であるはずなのに,その中で動く人物などがまるで広場の中で動きまわっているかのような印象が与えられる,と論じている.本来,空間を超越的な外部から捉える視点が,逆に,その空間に内在せしめられ,空間の「どこでもある場所」に拡散していくのである. (Ibid.) ▼ 以上のように,『ブレードランナー』は,ここで,世界視線の達成を示すのではなくて,その挫折を示すものだった,と読まれている.世界視線を志向する,そのことはモダニズムだけど,それはつきつめようとしても結局は挫折してしまう.モダニズムの破産──その自覚と主張は,ポスト・モダニズムとよばれる.こう整理すると,モダンとポストモダンはひとつながりのものだとわかる.けれど,吉本さんは,そういう単なるモダニズム-ポスト・モダニズムともちがうことを言いえていた,と大澤さんは書く.それを〈ポスト・モダン〉と表記し,さらに「真の」という形容詞を冠しています.そして,これは,モダニズムが目指し,ポストモダニズムがしりぞけた〈普遍性〉に到る経路をみいだしている,といいます. ■ さて,途中の議論の組立てをはしょって大澤さんの結論だけを引くと,その「真の〈ポスト・モダン〉」の条件,〈普遍性〉に到る経路は,こういうものだとされます: すなわち,それは,(超越的な)他者が,その他者としての具体的な生々しさにおいて現れることである (p.134) 単に,一般性の水準を上昇させていくということ〔モダニズム〕 によっては,思想の普遍的な妥当性には到達できない〔ポストモダニズム〕. 現れとしての他者に,他者の他者性に,具体的に直面することの内にしか,〈普遍性〉はありえないのだ. (Ibid.) ▼ 以上のような「真の〈ポスト・モダン〉」は,近年,大澤さんが出してきたポイントです[*1].というより,この論考(2002年の12月に口頭で発表したものをふまえる)は,これまでの議論の達成を,あらためて「吉本隆明」の読解にあてはめた応用編とみるべきなのだと思います. ¶ 【関連づけ】文芸評論家・編集者の仲俣暁生〔なかまた・あきお〕さんは,「極西文学論序説~Westway to the World」(『群像』連載中)で,おなじく「世界視線」をとりあげています.そこでは,戦争中の爆撃にさらされた吉本さんの体験に言及しつつ,受動的に焼かれる一方の「地上」<能動的な「爆撃機」<それをみおろしうる「世界視線」,という上下図式がだされる.いま手元に仲俣さんの文章がないので,立ち入って参照できないのですが,大澤さんの言ってることをふまえて,もう一度読み返してみたい. ¶ [*1] おもに,つぎの一連の著述があげられます: •「〈自由〉の条件」(講談社『群像』全24回連載,1999-1月号から2000年12月号まで.) •『共同取材 見たくない思想的現実を見る』(岩波書店,2002.共著=金子勝.⇒bk1) •「〈公共性〉の条件」(岩波書店『思想』全4回連載,2002-10月号,12月号,および,2003-2月号,4月号.) •『文明の内なる衝突』(日本放送出版協会,2003.⇒bk1) 以上のうち,「〈公共性〉の条件」については,藤田伊吹さんによるレジュメが下記ページで利用できます: http://www4.ocn.ne.jp/~quadrant/report/public.html ¶ 【2003-10-11追記】上で言及した仲俣暁生さんが,ちょうど「世界視線」について書かれています. 「ハイ・イメージ」批判〔2003-10-10,12:29〕 url: http://d.hatena.ne.jp/solar/20031010#1065756556 ¶ 【2003-12-05追記】藤田伊吹さんのサイト移転に伴い,上記「〈公共性〉の条件」レジュメのアドレスが変更になりました.下のとおりに訂正します.また,12月5日現在で,旧ページ↑も利用出来ますので,いちおう,そちらも残しておきます. http://xt.fc2web.com/ise/report/public.html トップページは: http://xt.fc2web.com/ (藤田さん,ご連絡ありがとうございました.) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ コミュニケーションを永遠に取り続ければよい。これが ひとつの答えではないか。
- heart_mind
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はい、すいません確認作業をさせてしまって。 ちょっと、あきてきましたね。 よくわからないけど、弱い立場の人を攻撃しだしたのは、何がきっかけ だったんでしょうか。トップならしょうがないとしても、普通だったら、 その人のその立場におく組織のあり方とかが問題にされそうなものだけど 例えば最前線で働く原発作業員の人が批判の矢面にたたされたりとかって いつからなんでしょうか。 新自由主義派も強行採決の時のやりがいの恍惚感を求める人もいれば、 愚直にそれが一番いいんだと考える人もいるかもしれないわけで、 個人を批判する傾向や自己責任論が逆に組織のあり方を問えなくなるん じゃないかなという気がするんですが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ よくわからないけど、弱い立場の人を攻撃しだしたのは、何がきっかけ だったんでしょうか。トップならしょうがないとしても、普通だったら、 その人のその立場におく組織のあり方とかが問題にされそうなものだけど 例えば最前線で働く原発作業員の人が批判の矢面にたたされたりとかって いつからなんでしょうか。 ~~~~~~~ ☆ そんなことになっていますか。世間知らずで ちょっとよく分からず・・・。 ★ 個人を批判する傾向や自己責任論が逆に組織のあり方を問えなくなるんじゃないかなという気がするんですが。 ☆ これは 正論だと考えます。およそ組織であるなら――そして じつは少し伸ばすならば社会であるなら―― その成り立ちや仕組みなどなど構造的な要因がおもな問題だと考えます。 個人の自己表現(つまり そこに行動をもふくむのですが)について それ自体において答責性(説明責任)をともなうことは これも そのまま成り立っているのですが。つまりは 公理としての自由には すでにそれ自体において その表現の自由を発揮した内容についての説明責任がともなっていると。 あきて来ましたか。仕方ありませんね。
- heart_mind
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ちょっと整理していいですか。 「おもちゃ(マスターベーションの産物)が少なくなると経済はよくなるのではないか。」 についてですが、私たちの風土は人間どうしのコミュニケーションに関しても、 自然に対しても、「偽装された関係」で、つまり、自然を見て自分の鏡の用に 感じるという性質であり、もともと自然と快楽的にマスターベーションをして いるような風土である。しかし、それをまたそのような性質を持つ公共心で 補ってきた。 なのでやはり「公共心の復活」は、必須条件となるのだが、それには新自由主義的 なかたよりをなおすことと、環境的に自然感をとりもどすことが必要なのだろう。 そうすれば、安易な封建的立場による「間接コストの圧縮否定論」は否定できるし、 人間にあわせた最適な発展も望めるのではないだろうか。
お礼
ご回答をありがとうございます。 《整理する》ということで きちんと受け取るようにしたいと思い 分からないところを尋ねてまいります。 ★ 自然に対して ☆ なら人は ふつうにという意味ですなおになるのではないですか? 素直になれたゆえに そのときかかえている問題がさらにあざやかに思い浮かぶということもありましょうが そういうときには その問題に対処する仕方が分かって来るようになるでしょう。 ただしそのことをも知らないというように現代人は自然を忘れているという意味でしょうか? すなわち忘れたというよりも その自然をも自分の都合のよいように利用しようとする。でしょうか? それが ★ 偽装された関係 ☆ すなわち 何ごとも理性によって特には打算において捉え考えるクセがこびりついてしまっているのだと。 ただし理性によってということは 多少とも普遍性を重んじるという内容をともなう。言ってみれば アマテラス科学語ないしアマテラス人格語にのっとろうとしている。これが 多少とも ★ 公共心 ☆ に通じている。つまりは ★ ~~~~ ・・・もともと自然と快楽的にマスターベーションをして いるような風土である。しかし、それをまたそのような性質を持つ公共心で 補ってきた。 ~~~~~~ ☆ と見る。 とすると ★ 自然を見て自分の鏡のように感じるという性質であり ☆ というのは わたしが初めに述べた《自然との向かい合い〔において ふつうの素直さを取り戻す〕》とは別のことだということでしょうか? もしそうでしたら おそらく次の《おもちゃ》というのは 一般に《観念》の問題だと考えられます。 ★ 「おもちゃ(マスターベーションの産物)が少なくなると経済はよくなるのではないか。」 ☆ 観念とは たとえば人びとがその中に入って群れて生きる組織宗教であり そこにおいて信奉するとされる共同なる観念です。つまりは個人の信仰から遊離した〔広義の〕神であり すなわち ただの《観念の神 ないし 神という観念》であると考えられます。 この観念の神は死んだと わざわざ言わなければならなかったということも 観念にあたまがイカレてしまっている証拠です。なぜなら 観念の神は もともと それとして持たれたときから死んでいるからです。 つまりは きよらかなおそれとして――しかも それは目にも心の目にさえも見えないのですから まぼろしのごとく――かみをいだいている信仰から 言葉としてにしろ概念としてにしろ神を取り出して来たら それは 観念の神です。つまり 正真正銘の かんねん です。 つまり これが 《おもちゃ》です。 つまり 観念であれば 観念の神から始まって〔と一応見ますが〕 何でも観念にしてしまって それとしておもちゃをこしらえることが出来ます。すべて 自慰となり得ます。 十字架 マリアの聖母化・・・ これらすら ひょっとしたら フィギュアになるのではありませんか? 日本人にとっては 社会ないし国としてのひとまとまり自体が おそれなければならない観念の神です。日本教と言います。(これも 空気と同じように 山本七平の造語でしたか)。共同幻想と言った人もいます。(吉本隆明)。 つまりは このおおもとの日本教のもとに 神道も仏教もキリスト教もそして おどろくなかれ 共産主義も すべてそれぞれ各人が 好みによって選んでいるところの――小さくなったかたちにおいてフィギュアのごとき――観念の神となっています。すなわち オモチャです。 むろん神道も仏教もキリスト教もあるいは共産主義・社会主義もそれぞれさらに細分化して宗派に分かれ さらに小さなフィギュアとしての観念の神をいだいています。 と考えるならば オモチャは それぞれの観念の神を 目に見えるようにした――直接に対応するものではないのだろうけれど その――代理物であるかも分かりません。 どの宗教どの宗派にも属していない場合には しばしばペットを飼っています。そうでなくても飼っている場合もありましょうが。したがって この《ペット》にしたところで それを《観念》化して使うならば いろんなモノがペットになります。すなわちオモチャの世界を《ゆたか》にして やがて全部勢揃いすることになるでしょう。 ★ 「おもちゃ(マスターベーションの産物)が少なくなると経済はよくなるのではないか。」 ☆ 余計なモノが要らなくなり そのぶん実質的なゆたかさが増すと思われます。 それにしても 経済は ――理性によってということなのでしょうが その理性もあまり信用するに値しないのか――《観念》によって引っ張られて行くという側面もおおきいようです。観念が GDP をふくらませているようです。
- heart_mind
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偽装された友情とは、理性的な関係ということですよね。 相手は何を思っているのだろうと思いめぐらして考えること が重要ですが。 しかし、理性的といっても、こういう感覚は日本においては 前近代からあったと思いますよ。だから、今の時代において そういう人間関係に虚無感を感じているのであれば、社会構造 が原因と思っていいと思います。 考えられるのは、 1つには都市集中型経済によって、現実の生命感が失われた。 2つめは日本の風土と新自由主義のアンマッチにより、 組織の目指すべき目標が見えにくくなった。 2つめによって1つめの原因がより鮮明化されたというべきかも しれません。 そして新自由主義は、1つめの原因を隠れ蓑にしようと、 「便利さの批判」をして、ちょっとパラドックスにおちいってい るようですね。 ジャーナリズムを例にとります。 報道を見て、人間が不快な感覚になったのは、やはり新自由主義 による原因が大きいと思います。 主にそれは「倫理より利益を追求する言動」によるものだと思います。 新自由主義は企業はあまり倫理に縛られずに、顧客がリスクテイクする べきだという考えがベースになっています。 これは、ジャーナリズムの精神とそぐわないはずです。 だから、こういう論調の報道は当然、視聴者は不快になります。 多様化した価値観の社会だから、しょうがないとかっていうのは 新自由主義の教鞭を借りたものだと思いますよ。普遍的な倫理感 はそうは揺らぎませんから。 昔の公害の訴訟は、世論の力が大きかったと思いますよ。 それはやっぱり倫理感をもったジャーナリズムが機能していた からでしょう。 こんな風に、あらゆる組織が公の利益を考えられなかったら、 当然のように顧客は離れてしまいますし、正義感の強い、 あるいは強くなくても若者だったら、組織に属していても 目的が虚無的に思えてしまうでしょう。 組織に属せなかった人は尚更です。 社会構造的に公共性に着目できなくなっているから、マーケット が読めないという連鎖反応には気づいているんだけど、 組織を向いてしまうが為に、本当の組織の利益がみえてこない という苦しいところなんでしょうね。 勿論、そんな中においても今だって頑張っている人は沢山いると 思います。規制がない方が収入は望めるのに規制を呼びかける 弁護士の人や私たちは立場を越えた倫理感を見極めることは簡単 にできるのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 あざむかれたあと それでもその元からいだいていた友情についての理想を 見つけ出してみたいと思い立ったとすれば モンテスキューの内面のあり方について推し測った内容に《表面的な同意》をしただけというのは おかしい。 けれどもそのおかしさは 理性的な打算的なうわべだけの友情にあざむかれたというその事件によってではないであろう。なぜなら 日本でその前近代においてさえ そのような騙し合いは ようく知られていたから。 それよりも おかしい状態が現われるとしたらそれは 現代社会のあり方にある。その社会構造に直面するようになると しばしば人は夢を無くし 虚無感をいだき 公共心を見失いがちである。公共的なことに着目しえなくなっているからである。 とは言うものの 頑張っている人も多い。上辺はうわべだと分かる。そしてうわべをも引っくるめて 世の中の全体を見ている人。欺かれることもあると知っている人。その事件を通過して来た人たち。 理想も現実も引っくるめた全体としての現実 ここに立てば 世の中のたいていのことは見えて来る。はずだ。ということではないか。でしょうか? かの質問者からは わたしは うるさいという理由でブロックされました。
お礼
☆☆(上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~~ 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか? それとも パロディなのか? それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。 次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。 * フィギュアをめぐる萌えと燃え。 そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか? たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。 展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。 この社会の成り立ちとしては スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民 この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。 市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A ) * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ): アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。 アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。 そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。 けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。 そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。 どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。 スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。 結論である。 要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。 その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。 つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。 むすび: アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。 権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。 おまけ: だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。 逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。 だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。 * 天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか? それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか? *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が 特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった としても の意です。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ゆづりあい》の社会であり くにであるのだと。 ゆづりあいが スサノヲ人間語にもとづく市民社会の伝統であると。見倣いたまえと。
補足
それでしたら われわれは すでに通って来た道であります。 ――ご回答をありがとうございます。―― 日本人は社会づくりに際して 《くにゆづり》をしたと言っています。西欧の競争型に対しては 対話型であると。 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7238149.html ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ ○ くにゆづり ないし 非戦論としてのゆづりあい〔のこころ〕 ☆ これが アマテラス(ないしアマテラシテ)天皇をいただく社会構造を作り上げたところから来ているとすれば それは 欧米人から見ると 異質な社会制度であり その限りでオリエンタリズムであると見られるではないか? こう問い返されるなら 説明を継がなければなりません。 くにゆづり によってスサノヲ市民とアマテラス公民とに分かれたといった《くにづくり》の方程式 これは 競争型ないし闘争型のヨーロッパ社会の社会形態とは異質であると言っても そしてそのことを フィギュアは表わそうとしていると見たとしても それが自虐でもなければ自嘲でもない。このことは すでにいま 添えておかねばならないとは思います。むしろ この謙譲の精神および非戦論の社会づくりは ほこってもよいと思われるからです。 社会づくりの方式にかんして 次の三つに分けます。 (α) 対話型:日本 (β) 競争型:西欧 (γ) 暴君型:アフリカ (これは スサノヲ市民の側が アマテラス公民に対して その国家 の経営がうまく行かなかったときには 引きずりおろし それだけでは なく ころしてしまうという意味で 暴君として振る舞う型) この土地は おれのものだと宣言した者が その所有主だと成る(もしくは 見なされる)というのは 競争に勝ったからだと捉えられます。所有権が確立されていなかったなら 闘争によって奪うという方式になります。 イヅモのスサノヲ共同体は そのときすでに子孫のオホクニヌシが市長でしたが そこへ アマテラス帝国から 服属の要求が来ます。そこは おれの土地だから おれたちに従えと。 じつは その使いは 何度も何人も来ています。そのうちの一人は イヅモのムラが居心地がいいものだから とうとう住み着いてしまって 帝国へ帰らなかったと言います。何年かのちに イヅモの海岸にちょっとは武装した者が来て 服属を迫ります。 オホクニヌシは ふたりの息子の考えにしたがうと答えます。そして じつは 息子のひとりは 非戦論でしたが もうひとりは 〔じつは〕主戦論の持ち主でした。実際にたたかい イヅモから信濃の諏訪まで逃げてそこでころされたとか。 コトシロヌシでしたか その息子とオホクニヌシとは けっきょくくにゆづりをしました。主戦論も非戦論も 人の心の弱さから来る。だったら 殺し合わないほうを採ろうと。 アマテラス側は けっきょく帝国主義的行動をしているのですから 言ってみればヨーロッパの競争型です。そのような方式を相手に迎えた場合にも ゆづるという方式で行動したなら 対話型だと考えられます。対話を拒否され 有無を言わさずの暴行を受けたのですが でも対話型をつらぬいた。 したがって 《人は人に対してオオカミである》やあるいは《万人の万人に対するたたかい》といった自然状態を オホクニヌシないしスサノヲは 想定していない。その自然状態は放っておくと 共倒れになり皆殺しになるからというので 国家というそれとしての絶対的権力を秩序維持のために設定したという社会契約説 これも おそらく日本人は採らないでしょう。なじまないでしょう。国家のお二階に 暴れん坊は追いやりつつまつりあげつつ 社会全体の秩序をおもんじた。 * スサノヲこそが 暴れん坊だと誰れもが見ているし そのように 書かれてもいますが おそらくその場合には 二つの側面において見る 必要があるかと考えます。 スサノヲ市民は スサノヲどうしのあいだでは けんかをし合うとい うこと。それほど仲が良い。しかも《和を以ってとうとしと為して》い る。 もうひとつの側面は ヨコの関係ではなく タテの関係では はじめ は――という意味は スサノヲのミコトその人に限っては―― じつは その実の姉のアマテラスオホミカミに対して 姉さんがまるでかれを取 り合わなかったとき 神の宮にくそをしただの 皮を剥いだ馬を機織り 家に投げ込んだだのと大暴れをします。 スサノヲが 亡き母のところへ帰ると言って 姉のアマテラスのとこ ろに暇乞いに来たとき 姉は これは弟のスサノヲは わが権力を奪い に来たに違いないと言って 女ですが武装して待っていたと言います。 この信頼関係の破綻 人間不信に際して スサノヲはしたい放題のこ とをして 暴れました。 そのあとは いっさいおとなしくなりました。オホクニヌシなどは まるで その兄さんたちに数々のいじめに遭っても 反抗することなく しかもその難を切り抜けるという行動をつらぬきました。もっとも 兄 たちをしのいだあと 近隣のムラを襲うという挙にも出ていますが。 こうして 競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。そして対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。 そのような対話型社会における人間の生活態度ないし生活実感 これをフィギュアに表わすなら マイ・ロウンサム・カウボーイなる姿になるであろうと考えた人間がいた。のだろうか? こういう問いです。 ~~~~~~~~~~~~