※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スーパーフラットってやっぱ天皇制と関係ありでは?)
スーパーフラットの関係性と浅田彰の評価
このQ&Aのポイント
スーパーフラットは日本のアートムーブメントであり、日本の消費文化や平面絵画、アニメーション、ポップカルチャーなどを示す概念です。
また、スーパーフラットは現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものであり、欧米市場へのブランド戦略やニッチ市場販売の成功例でもあります。
浅田彰はスーパーフラットについて、日本文化の平板化や後のクール・ジャパンを思わせる一種の商標としての側面を指摘しています。
村上隆のことをよく知りませんが もし次のような意味であれば 表題のように考えられるのではありませんか?
すなわち あとにかかげる解説の中の次の説明文です。
▲ 現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものである。
▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%88
§ 概要
スーパーフラットという言葉は日本の消費文化独特の浅はかな空虚感をはじめ、日本における様々な時代の様々な種類の平面絵画、アニメーション、ポップカルチャー、ファインアート、キャラクター文化といったものを示すときに村上が使用する言葉である。日本のアートムーブメントであり、欧米に向けられたブランド性をもったアートの現象であり、ニッチ市場販売の成功例でもある。
特徴として、平面的で二次元的な絵画空間を持ち、余白が多く、また、遠近法などの技法をあまり使わないことが挙げられる。これは日本の伝統的な絵画から現代の漫画・アニメにまで共通してみられる、画面の立体感のなさ、平面性、装飾性、遊戯性を示すものであり、
また現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものである。
平面作品だけでなく日本のアニメーション関連の立体作品(フィギュアなど)もこれに含まれる。
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☆ むろん 《現代の》というのは 制度としての身分制が廃止されたことをもって言うのだと見ます。逆に言いかえると 身分制が敷かれていたとしても 権威としては 《おほやけ=公共性ないし普遍性》をになっていたのが アマテラシテ天皇である。一君のもとに万民が平等であるという思想であり建て前である。
しかもこの平等性は 誇って言うこともあれば おそらく皮肉って言うこともある。身分制がその中身として敷かれたのも然ることながら やはりお二階さんは威張っているからには建て前に過ぎないと見られることもあるからである。
でもヰキぺ氏は 《階層性の無さ》と言っている。
この質問の前身は 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか? それとも パロディなのか?】でしたが それを閉めたところ あらたに疑問が起こりました。
くわしい方がいらっしゃれば おしえてください。
なお同じヰキぺ解説の中に 例の浅田彰による評言もしるされています。その内容についてわたしは 批判的なのですが それは どうしてそのような見方が出て来るのかがピンと来ないというような状態での批判的見解であるに過ぎませんので やはりくわしい方がおられれば さらに解説をしてくださいますか?
▲(ヰキぺ:スーパーフラット) ~~~~
§ 評価
浅田彰は渋谷パルコギャラリーで開催された「SUPER FLAT展 at PARCO」とそのコンセプトブックについて、
「日本の伝統美術の中からとくに平面性を取り出してくるのも、それ
をアニメの平面性とつなげてみせるのも、世界市場に向けてのマーケ
ティング戦略に過ぎないことは、言うまでもない。
それを、『自虐史観』(彦坂尚嘉)を逆手にとった捨て身の戦術と言
うこともできるだろう。
さらに問題なのは、それが『自閉的〈村〉空間』(同)に根ざして
いるところだ」
と評した。さらに浅田自身も先行して1987年にアメリカで行った短い講演「子供の資本主義と日本のポストモダニズム」のなかで「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」と発表していたことに触れながら、その講演から13年後に現れた村上隆のスーパーフラット宣言については
「ただ、彼が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいま
は super flat。』と宣言するとき、そこにはもはやシャープなアイ
ロニーは感じられない。
それは、いわば『スーパーフラット』なアイロニー――つまりはナイ
ーヴな自己肯定に基づく、『J-POP』とほぼ同レヴェルでの『Jアー
ト』の自己主張なのだ」
と、日本文化に対する自己言及性や批評性すらも平板化し、後のクール・ジャパンを思わせる日本文化の輸出を目論んだ一種の商標にすぎないことを指摘した。
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☆ この中で
● 『自虐史観』(彦坂尚嘉)
☆ は一応わかっています。前身の質疑応答の中でおそわりました。ただしわたしの感触としては そういう感じ――自虐性や自嘲性――はあまり受け取りませんでした。例の《マイ・ロウンサム・カウボーイ》なる作品についてです。
● 『自閉的〈村〉空間』(同)
☆ についてはまだ知りません。ただこの場合は――つまり日本で《村》という場合は―― まだ経験合理性にもとづく思惟と行為の形式を身につけた近代人の登場して来ない・自己閉鎖的な社会だと推し測られます。
そしてこの評言内容と スーパーフラットとが どのようにつながるのか。これが分かりません。前近代人ならば ふるい慣わしによって生活しており 或る程度は上下の格差があることを前提としているとも思われるからです。
しかしてさらには 次の浅田の評言はどういうことを言っていますか?
▼ 「資本主義の幼児化」によって「日本の子供のポストモダニズムこそ世界の未来を先取りする」
最後に 次の評言については 別の意味でそのとおりのように質問者は思っていますが 果たしてどうでしょうか?
▼ 彼(=村上隆)が『日本は世界の未来かもしれない。そして、日本のいまは super flat。』と宣言するとき・・・
☆ つまりは 上に触れられていた《資本主義の幼児化》というのは 分かり難いのですが こちらの命題そのものとしては いまこの質問における天皇制の問題からしてかかわりがあり それだけにとどまらず 天皇制というかたちに社会形態をおさめさせた古代日本人の知恵がひそんでいるのではないか。こう考えるからです。
○ 日本は世界の未来かもしれない。
☆ これは 社会が対話型として成り立っており その中の一部分の――のちにアマテラス公民となるそれはそれは優秀な――人びとが 自分たちに社会の経営を任せてくれと言って来たときに そのまま《くにゆづり》をしたというスサノヲ市民たちの思想(生活態度)が 世界の未来であろうと予感されるからです。
社会にも神棚をこしらえて そこにアマテラス公民を住まわせた。つまり二階建ての造りとした。お山の大将に成りたいと言って聞かないものだから そのおねだりに《くにゆづり》した。
その結果 国家の権力者あるいは権威としての特別の存在――《おほやけ》――をまつりあげつつ しかもそのほかは 公地公民であってみな平等だという・建て前だけとしてでものスーパーフラット社会。
果てさて 村上隆とは関係ないところへ脱線してしまったでしょうか? そうでもないでしょうか?
○ スーパーフラット・村上隆・アートの世界と社会との関係・資本主義・天皇制 そしてこれらをめぐる浅田彰・彦坂尚嘉・・・
☆ これらを解きほぐしていただけますか?
お礼
☆☆(上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~~ 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか? それとも パロディなのか? それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。 次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。 * フィギュアをめぐる萌えと燃え。 そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか? たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。 展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。 この社会の成り立ちとしては スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民 この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。 市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A ) * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ): アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。 アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。 そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。 けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。 そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。 どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。 スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。 結論である。 要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。 その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。 つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。 むすび: アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。 権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。 おまけ: だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。 逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。 だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。 * 天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか? それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか? *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が 特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった としても の意です。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ゆづりあい》の社会であり くにであるのだと。 ゆづりあいが スサノヲ人間語にもとづく市民社会の伝統であると。見倣いたまえと。
補足
それでしたら われわれは すでに通って来た道であります。 ――ご回答をありがとうございます。―― 日本人は社会づくりに際して 《くにゆづり》をしたと言っています。西欧の競争型に対しては 対話型であると。 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7238149.html ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ ○ くにゆづり ないし 非戦論としてのゆづりあい〔のこころ〕 ☆ これが アマテラス(ないしアマテラシテ)天皇をいただく社会構造を作り上げたところから来ているとすれば それは 欧米人から見ると 異質な社会制度であり その限りでオリエンタリズムであると見られるではないか? こう問い返されるなら 説明を継がなければなりません。 くにゆづり によってスサノヲ市民とアマテラス公民とに分かれたといった《くにづくり》の方程式 これは 競争型ないし闘争型のヨーロッパ社会の社会形態とは異質であると言っても そしてそのことを フィギュアは表わそうとしていると見たとしても それが自虐でもなければ自嘲でもない。このことは すでにいま 添えておかねばならないとは思います。むしろ この謙譲の精神および非戦論の社会づくりは ほこってもよいと思われるからです。 社会づくりの方式にかんして 次の三つに分けます。 (α) 対話型:日本 (β) 競争型:西欧 (γ) 暴君型:アフリカ (これは スサノヲ市民の側が アマテラス公民に対して その国家 の経営がうまく行かなかったときには 引きずりおろし それだけでは なく ころしてしまうという意味で 暴君として振る舞う型) この土地は おれのものだと宣言した者が その所有主だと成る(もしくは 見なされる)というのは 競争に勝ったからだと捉えられます。所有権が確立されていなかったなら 闘争によって奪うという方式になります。 イヅモのスサノヲ共同体は そのときすでに子孫のオホクニヌシが市長でしたが そこへ アマテラス帝国から 服属の要求が来ます。そこは おれの土地だから おれたちに従えと。 じつは その使いは 何度も何人も来ています。そのうちの一人は イヅモのムラが居心地がいいものだから とうとう住み着いてしまって 帝国へ帰らなかったと言います。何年かのちに イヅモの海岸にちょっとは武装した者が来て 服属を迫ります。 オホクニヌシは ふたりの息子の考えにしたがうと答えます。そして じつは 息子のひとりは 非戦論でしたが もうひとりは 〔じつは〕主戦論の持ち主でした。実際にたたかい イヅモから信濃の諏訪まで逃げてそこでころされたとか。 コトシロヌシでしたか その息子とオホクニヌシとは けっきょくくにゆづりをしました。主戦論も非戦論も 人の心の弱さから来る。だったら 殺し合わないほうを採ろうと。 アマテラス側は けっきょく帝国主義的行動をしているのですから 言ってみればヨーロッパの競争型です。そのような方式を相手に迎えた場合にも ゆづるという方式で行動したなら 対話型だと考えられます。対話を拒否され 有無を言わさずの暴行を受けたのですが でも対話型をつらぬいた。 したがって 《人は人に対してオオカミである》やあるいは《万人の万人に対するたたかい》といった自然状態を オホクニヌシないしスサノヲは 想定していない。その自然状態は放っておくと 共倒れになり皆殺しになるからというので 国家というそれとしての絶対的権力を秩序維持のために設定したという社会契約説 これも おそらく日本人は採らないでしょう。なじまないでしょう。国家のお二階に 暴れん坊は追いやりつつまつりあげつつ 社会全体の秩序をおもんじた。 * スサノヲこそが 暴れん坊だと誰れもが見ているし そのように 書かれてもいますが おそらくその場合には 二つの側面において見る 必要があるかと考えます。 スサノヲ市民は スサノヲどうしのあいだでは けんかをし合うとい うこと。それほど仲が良い。しかも《和を以ってとうとしと為して》い る。 もうひとつの側面は ヨコの関係ではなく タテの関係では はじめ は――という意味は スサノヲのミコトその人に限っては―― じつは その実の姉のアマテラスオホミカミに対して 姉さんがまるでかれを取 り合わなかったとき 神の宮にくそをしただの 皮を剥いだ馬を機織り 家に投げ込んだだのと大暴れをします。 スサノヲが 亡き母のところへ帰ると言って 姉のアマテラスのとこ ろに暇乞いに来たとき 姉は これは弟のスサノヲは わが権力を奪い に来たに違いないと言って 女ですが武装して待っていたと言います。 この信頼関係の破綻 人間不信に際して スサノヲはしたい放題のこ とをして 暴れました。 そのあとは いっさいおとなしくなりました。オホクニヌシなどは まるで その兄さんたちに数々のいじめに遭っても 反抗することなく しかもその難を切り抜けるという行動をつらぬきました。もっとも 兄 たちをしのいだあと 近隣のムラを襲うという挙にも出ていますが。 こうして 競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。そして対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。 そのような対話型社会における人間の生活態度ないし生活実感 これをフィギュアに表わすなら マイ・ロウンサム・カウボーイなる姿になるであろうと考えた人間がいた。のだろうか? こういう問いです。 ~~~~~~~~~~~~