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スーパーフラットの関係性と浅田彰の評価
- スーパーフラットは日本のアートムーブメントであり、日本の消費文化や平面絵画、アニメーション、ポップカルチャーなどを示す概念です。
- また、スーパーフラットは現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものであり、欧米市場へのブランド戦略やニッチ市場販売の成功例でもあります。
- 浅田彰はスーパーフラットについて、日本文化の平板化や後のクール・ジャパンを思わせる一種の商標としての側面を指摘しています。
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勿論それでいいと思いますよ。 全体主義ではないし、それで問題ないです。 ただ、今までこの時代にくる課程で、さまざまな規制の置換が あったことは確かです。 例えば、今後、お前の国はどうして高い税金を集めて、そんなに 公安にお金をかけて財政をあっぱくしているんだ。もっとそこは 緩和して自由化すれば、銃もうれてお金もまわるんじゃないか、 人間は自分の命は自己責任で守るべきだ。それじゃあ、全体主義 に片足つっこんでいるようなもんだぞ。弱肉競争の精神でなければ 世界には通用しないぞ。 などと言われて、この国の風土や歴史にもとづいた特質も考えず 丸飲みしない方がいいような気がするんだけどな、というような、 ただの独断的な独り言ですね。
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- heart_mind
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便利な世の中になった今となって、他者が介在する情動は ただの動物的欲望と変化してしまった。 そのため、わずかにのこる他者と関連する情動である「人より優位 に立ちたい」、あるいは「他人へのやっかみ」を主なインセンティブ とする弱肉強食的な情動の連鎖を新自由主義はもくろんだのだろう しかしすでに「やっかみ」は「自己の努力不足の結果を否定する行為」 なのだから倫理にそぐわないと認知されているし、労働コストをおさ えようと考える企業にすれば迷惑なことだろう。 努力によりパイ配分を分け与えられた安心な優越感にひたるスキゾサロン に、もし一筋の光明があるとするならば、忘れ去られようとしている たたき上げの公共心をもつ先輩との連携になるかもしれないが、 KYがもっとも嫌いな年代にそれを望むのは難しいのかもしれない。
お礼
いま 【Q:魂】質問での応対に時間を取られています。 ふたつ寄せてもらっていますが お時間をください。(朝からまだ食べていなあい。昼食もありますから)。
補足
ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~ 便利な世の中になった今となって、他者が介在する情動は ただの動物的欲望と変化してしまった。 ~~~~~ ☆ ほんとうですか? というより 情動としての内面的なうごめきは それ自体はむしろ動物的な欲望なのだとは思います。ということは 人間は それを人間として・またほかの人びとがどう考えどう振る舞うかを別としてわたしとして この情動をどう扱うか こういう問題は つねに――人間であろうとする限りで―― ありました。ということは この人間的な扱い方の部分が 無くなって来ているということなのですか? 何ごとも便利な世の中なのだから 情動とその発揮も 便利なかたちになってよいだろうとでも考えているということでしょうか? ★ ~~~~ そのため、わずかにのこる他者と関連する情動である「人より優位 に立ちたい」、あるいは「他人へのやっかみ」を主なインセンティブ とする弱肉強食的な情動の連鎖を新自由主義はもくろんだのだろう ~~~~~~ ☆ だとしたら それは 動物よりも劣ってしまったということでしょうか? 動物の素直さをも捨てて 人間の見にくさのみによって しかもあたかも想像力を駆使して 何かと金儲けをたくらむ。しかし そのとき《やっかみ》を持ちそれを《堂々と》おのれの評論に中に組み入れるという場合もあるようですから どっちがどっちだか 分かりません。両方とも 異なる地点から 同じような銭儲けをたくらんでいる。自分の評論が賛同を得て売れればよいと考えているとしたら そうなる。 ★ ~~~~ しかしすでに「やっかみ」は「自己の努力不足の結果を否定する行為」 なのだから倫理にそぐわないと認知されているし、労働コストをおさ えようと考える企業にすれば迷惑なことだろう。 ~~~~~~ ☆ そうでもありましょうし しかもそうではない一面も出て来る。すなわち 一般にスキャンダルをも売りものとするたくましい商売精神。やっかみを材料としても 商売は出来る。ともくろんでいる。のではないか? ★ ~~~~ 努力によりパイ配分を分け与えられた安心な優越感にひたるスキゾサロン に、もし一筋の光明があるとするならば、忘れ去られようとしている たたき上げの公共心をもつ先輩との連携になるかもしれないが、 KYがもっとも嫌いな年代にそれを望むのは難しいのかもしれない。 ~~~~~~ ☆ KY 世代は そういう好き嫌いがあるのですか? だったら はあとまいんどさんの診断に逆らって まだ脈があるとわたしは考えます。《嫌い》なら まだ広義の愛は 活きています。だいじょうぶです。 たぶん 《美》が―― 美術作品でもスポーツの出来事でも 何やかやでもその一編の美が――現われれば ハッと我れに還りましょう。だいじょうぶですよ。 次へ行きます。
- heart_mind
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すこし整理したいのですが。 情動とは(他者との関係において発生する欲望)であり、けっして充足しない するものではない(ずれ感が残る)。 便利な社会構造の変化により他者との関係がなくとも、充足してしまう欲望に かわってきた。 もしかしたら、これを浅野氏は資本の幼児化といっているのかもしれない。 それとは別に、オタクは作品に込められた物語を消費して欲望の充足しようと するが、これは情動(他者との関係の欲望)といえるのだろうか。なんらかの バーチャルな倫理感(スノビズム)をともなっているのだが、ちょっとよく わかりません。 資本の幼児化はもう少し調べてみないとわかりません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 だとしたら ○ 情動とは 特には両性の関係として起こるものであり 性愛関係ではあるが その交わり(もしくは 声をかけること)に到るまでのこととして捉えられたものであり それとして起こる情欲の発動といったところでしょうか。 ★ ~~~~ 情動とは(他者との関係において発生する欲望)であり、けっして充足しない〔し〕 するものではない(ずれ感が残る)。 便利な社会構造の変化により他者との関係がなくとも、充足してしまう欲望に かわってきた。 もしかしたら、これを浅田氏は資本の幼児化といっているのかもしれない。 ~~~~~~ ☆ 《資本主義の幼児化》とは このような事態を言っているのかも分かりません。まだ分かりませんが その中身について 微妙に違った感覚がありますので そのことに触れます。 ○ ~~~ 情動は そのみづからの要求をどこまでもつづけるとは思えない。 ただし その欲求がつづくかぎりでは 《他者との関係がなくとも 充足してしまう》とも思えない。 ~~~~~ ☆ 微妙というよりも よく分からない領域であると考えられます。 情欲が昇華するといったことはありうると考えられていますね。情動も いつまでも その欲求を人に突きつけ続けるとも思えません。 ★ それとは別に、 ☆ ということですから 別としなければならないことですが 次の事態は おそらくそのまままさに情動とは別だとわたしも見ます。 ★ ~~~~ それとは別に、オタクは作品に込められた物語を消費して欲望の充足しようと するが、これは情動(他者との関係の欲望)といえるのだろうか。なんらかの バーチャルな倫理感(スノビズム)をともなっているのだが、ちょっとよく わかりません。 ~~~~~~ ☆ 《作品に込められた物語を消費して欲望の充足をしようとする》ことは 情動とは別だと見ます。両方が別々にありうるという意味です。 ★ なんらかのバーチャルな倫理感(スノビズム)をともなっているのだが、 ☆ ということで 別の行動だと見ます。 ★ 情動(他者との関係の欲望) ☆ はそれとして ある。と言わなければならないと考えます。 ★ 資本の幼児化はもう少し調べてみないとわかりません。 ☆ 同じくです。
- heart_mind
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話がまた脱線してしまいました。(いつもそうなんだけど) 「サブカルに見る社会問題の警鐘」についてですが、 最近の一つの例として「右傾化した若者たちの花王不買運動」があり ました。これは、「グローバル化によるエムアンドエーへの反発」の 内在化の曖昧さ回避の行動という認識をしています。 つまりエムアンドエーによって、企業は設備投資コストを欠けずに 他社の経験からくる知的財産や技術を得ることができます。 これがグローバル化の評価すべき面だと考えられていると思いますが。 これを批判的立場でとらえるとすると、ます、人間を育てる機会を のがしてしまい、そこから発生する負の連鎖による社会コストは膨らみ ます。また、全体からみた知的財産や技術は成長して膨らむどころか、 縮小していく方向に進みます。 技術や知識の融合をこころみたところで、深い部分で融合されなければ (つまり損得抜きな信頼関係において共通の目的を目指すことができるか ということですが)、また、その目的そのものが、そもそもサロン的目的化 してしまわないかという面もあります。こういう傾向が加速すると、さらに 社内が機能独立化していき、目指す目的がますますみえにくくなってしまい ます。 かつては、個人の逃走としていたオタクの「サブカル」は、逃走への受け口 としての機能は変わることなく、いまは逆に社会状況の変化による孤立化から、 バーチャルな共同体を求めて、悲壮感を伴ったゼロから集団の熱狂に変貌し つつあるのかもしれません。
お礼
はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ かつては、個人の逃走としていたオタクの「サブカル」 ☆ ということだったのですか? なら例の浅田彰が『逃走論』を著わしたのですから そのかんがえの線で来ているのでしょうか? わたしはまったく知りませんでした。 ★ オタクの「サブカル」は、逃走への受け口としての機能は変わることなく、いまは逆に社会状況の変化による孤立化から、 ☆ 《孤立化》していたのですか? じつは 【Q:《オタク》は 他者性を避けているか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5021239.html を問うたことはありましたが――これは 大澤真幸の議論に接してのことでしたが―― あとは テレビで《電車男》を見たくらいで 何も知りません。 ★ 〔* 孤立化したあと〕バーチャルな共同体を求めて、 ☆ この《バーチャルな共同体を求めて》というのは もともとあったのではなかったですか? コミケとか言った集まりがあったと聞きましたが? あるいは同人誌をつくっているのだとか。 ★ 〔* 孤立化したあと〕バーチャルな共同体を求めて、悲壮感を伴ったゼロから集団の熱狂に変貌しつつあるのかもしれません。 ☆ まづ ★ 悲壮感を伴ったゼロ ☆ これが《孤立化》のことですか? 何だか追い詰められていたかのように響きますが? それが ★ 集団の熱狂に変貌しつつあるのかもしれません。 ☆ 何ですって? 最近おぼえた言葉で言えば もとはしづかな《萌え》であったのが 派手な《燃え》に変わったということでしょうか? 変わって来ているということでしょうか? たぶん いまでもどちらもあるのでしょうが 萌えだけでは 存在感がうすいといったことでしょうか? そうしますと ★ 「サブカルに見る社会問題の警鐘」 ☆ は どうなりましょうか。 ★ 最近の一つの例として「右傾化した若者たちの花王不買運動」がありました。・・・ ☆ になるのでしょうか? ★ これは、「グローバル化によるエムアンドエーへの反発」の内在化の曖昧さ回避の行動という認識をしています。 ☆ 要するに 《萌えは萌えとしてよいが ただ黙っているだけでは それもだめだ。行動するのだ》といったところなのでしょうか? ★ ~~~~ 技術や知識の融合をこころみたところで、深い部分で融合されなければ (つまり損得抜きな信頼関係において共通の目的を目指すことができるか ということですが)、 ~~~~~~ ☆ といったことですと 例によってその用語を使うとすると スサノヲ庶民の言葉の通用する世界に根差した信頼関係やそれにもとづく文化でなくてはだめだと。そういう声を挙げはじめた。 ★ ~~~~ また、その目的そのものが、そもそもサロン的目的化してしまわないかと いう面もあります。こういう傾向が加速すると、さらに社内が機能独立化 していき、目指す目的がますますみえにくくなってしまいます。 ~~~~~~ ☆ 小さな集団として内向きでまとまってしまうのもダメだ。内と外との区別〔だけ〕で 自分たちの同一性を見い出すようではまだダメなのだと。 そもそも草の根スサノヲ市民は 進取の気風に富んでいるものだ。誰が何と言おうと言うことを聞かんというくらいに 突き進むものである。小さくまとまるなかれと。 ★ ~~~~~ これを批判的立場でとらえるとすると、 (1) ます、人間を育てる機会をのがしてしまい、そこから発生する 負の連鎖による社会コストは膨らみます。 (2) また、全体からみた知的財産や技術は成長して膨らむどころか、 縮小していく方向に進みます。 ~~~~~~~ ☆ この二点については どうでしょう? M&A によってことごとくこのような弊害がもたらされるかと言うと わたしはそうでもないように思いますが いづれにしても問題はあるだろうといったところでしょうか? すでに育った人間たちが 自分たちのほうから M&A を求め そこまで育てた会社を売り払ってしまい 自分たちはまた 別の課題に取り組むということだってあると思いますし。 おそらく《サブカル》も フタが明けば もっと大胆に振る舞うでしょう。とひとこと多い反応で お応えします。
- heart_mind
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はい、お考えはだいたいわかりました。 何回もありがとうございます。 コンプライアンス不況というのは、やはり新自由主義の言い分だと 思います。メディアの問題は確かにあると思いますが。 規制(お二階さんのとりきめ)というのは、やはり短期的な経済性 だけを考えて決めるものであってはならないと思います。 今これから日本が飲み込まれようとしている市場原理は、必ずしも 長期的な消費者の健康や安全を考えてはいないのです。 利益を長期的に考えるほど普遍的倫理に近づきます。そもそも、 それが法律ですから。 グローバル化が進むと企業は利益を追求するあまり、顧客利益の目線 にたった創造ができなくなります。そうなると市場が読めずに結果 として、ものが売れず労働価値がさがりデフレをまねきとなり、 言い分としてコンプライアンス不況といいたくもなるでしょう。 視聴率が取れないメディアも同じいいわけしてましたよ。 原発問題なんかも考えるとよくわかりますよね。 今の規制の全てが、今の世の中にあっているとまではいいませんが、 こういう時代は特に原理的に倫理的に慎重に考えたほうがいいと思い ますけど。 ながながと、たくさんおつきあいくださってすいません。 勉強させていただきました、ありがとうございました。 いつ閉めてもらってもかまいませんよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 書き込まれている議論は 大政奉還論としてのフタのはづれとは別の 現場に即した技術的・手続き的な各論だと思います。 もちろん細かく短期的な課題に対応するのではなく 長期的な視野に立って基本的な理論を持って大きく対応するべきだとはおっしゃっています。そのご主張には賛成です。賛成ですが その議論にやはり大きくさらにかぶせるようにして このような長期・対・短期のたたかいも フタ取りゲームの結果いかんにかかっているとも見るわけです。 長期的で人間の生活に根差した理論とは やはりスサノヲ人間語を――練り上げつつ磨きつつ――活かした思惟と経験からもたらされると考えます。 だとすると 逆立ちしている A-S 連関制なるフタをはづして 逆立ちの逆立ちを実現すること これが 基本の基本になると思われます。 言いかえると TPP やあるいは安全保障の問題などなどで アメリカと交渉しなければなりませんが そのアメリカを説得することができるというのは もっとも長期の視野をとれば 日本がまづ――おそらく世界に先駆けて――このフタはづしに成功したというときです。 それまでは 言い方を落とすことによってみづからの品格を落とすかたちで言ってしまえば 小手先の議論に終始するのではないか? 討論をし互いの国益をかけてたたかうというパイの配分に過ぎない問題に終わるのではないかと見ます。というより 悪貨は良貨を駆逐するのごとく 《短期》に押し切られてしまうでしょう。 経済の発展にまだ希望がのこっていたときには それでもよかった。そろそろ ★ こういう時代は特に原理的に倫理的に慎重に考えたほうがいいと思いますけど。 ☆ になるかと考えます。 メディアと言えば 先ほど 逆立ちの逆立ちと言いましたが このメディアを洗脳しなければならないでしょうね。つまりは すでに逆立ちによって洗脳されていますから この洗脳の洗脳をしなければならない。アマテラス公務員を《われに還らせる》ことと このマスコミの《洗脳返し》と どちらが むつかしいでしょう? どっちもですって? そりゃぁ そうなんでしょうね。凝り固まっているのでしょうね。 こういうときには 《愛》のお話もいいでしょうけれど むしろ《美》が一点突破に有効であるかも知れません。なでしこジャパンの世界カップ優勝も 美といえば美なるひとつの作品でしたね。ただしその運営や人間関係が逆立ちしたままのアマテラス語体制のもとにあるとしたら 一瞬のあだ花に終わるかも知れません。 縄文の火焔型土器には スサノヲ語のいきほひという うつくしさがあると思いましたが あまり賛同を得られませんでした。評判がわるいというのでもないのでしょうか。あるいは おまえ(=ぶらじゅろんぬ)がそれを言うなという牽制が含まれていましょうか。まあ ここまで嫌われたら このままさらに突っ走りますが。 いましばらく開いたままにします。
- heart_mind
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日本においては、階級闘争は成功しないといいたいのです。 違法建築の問題についても、もともとは規制緩和から発生した 問題です。日本は地震が多い国です。 だから他の国にくらべれば自由度は低いですが、しかし風土に もとづく規制という縛りの中でだからできる発想や知恵はある はずなんです、それがコミュニティのアイデンティティです。 空気というのは確かに規制のような役割をしますが、それを 無視したら公共の利益がひっくりかえってしまいます。 国民背番号制には、私も反対です。 今の情報技術をもってすれば、理論的に必要ありませんし、 それよりも、セキュリティ性の高い公共のオフライン物流 システム(郵便)は、今後のネットセキュリティシステムを 構築する際にも補完的役割として重要になるに違いないと踏 んでいます。たぶん年金問題で必要となりそうなOCR技術も そこが一番進んでいるかもしれません。 長期的な展望においても、規制の置換には慎重になるべき だと思います。 今はスピーディーにとかリーダーシップ十分条件論で世論を あおっていますが、それが空気を支配しているのなら、 もっと世論が逆に監視をするべきでしょう。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 日本においては、階級闘争は成功しないといいたいのです。 ☆☆(No.8お礼欄) ~~~~ おまけ: だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。 逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。 だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。 ☆☆(No.8補足欄) ~~~~~ 〔* 欧米のような〕競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。 そして〔* 日本のような〕対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 違法建築の問題についても、もともとは規制緩和から発生した問題です。・・・ ☆ いえ 緩和か規制の強化かの是非やあるいはそもそもの成立の事情について言っているのではありません。強化へと変わったときに どのような要因なり理由なりが取り上げられたかの問題です。中で クウキが大きく取り上げられているという問題です。風土や技術の問題を超えているのではないかとさえ思わせるという問題です。 ちょうどいまその話題についてほかのところで書き込みがあったのをお借りしまして: ○ コンプライアンス不況 ▼ (クウキが法律の改正をうながしたこと) ~~~ 建築基準法改正当時の「空気」については、以下の証言がある。 「法改正にかかわった元慶應義塾大学教授の村上周三・建築環境・省エネルギー機構理事長は国交省不況に対する批判に対してこう反論する。 『姉歯事件の後、国会もメディアも日本中がヒステリックに 建物の安全を求めていた。今になって規制が強すぎだと批判 されるが、皆が規制を求めたあの空気の中でどうすればよか ったのか』 」日経ビジネス2008年5月12日 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 国民背番号制には、私も反対です。・・・ ☆ これは 必要か否かのみを問題としています。必要だとなれば それでもその設置を阻止しようとする黒幕としての力がクウキとなっているのではないかと言っているのみです。必要でないとなれば 忘れてください。筋違いの例示をしたことになりますので。 技術がどうシステムがこうという問題としては取り上げていません。 階級闘争をせずその意味での政治革命をも取らないとすれば どのようにフタがはづれるか? まづクウキとして アマテラス公民の《支配》は終わったとする流れが現われましょう。そうしてさらに このようなクウキとして人びとの共通の理解が得られるというかたちは もう古いという議論が湧き上がりましょう。 そのような過程において 或る時点で どんでん返しが起こりましょう。 あとは しかるべき手続きを踏んで アマテラス圏からスサノヲ圏への《大政奉還》が成し遂げられましょう。 (別にこのようなことを いつも考えているわけではありません。しかるべき経過をたどって あとは成るように成りましょう。自然史過程をあゆむと見ています)。 このフタがはづれなければ リーダーシップ論もへちまもない。このようにさえ考えます。
- heart_mind
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自由化の盲点についてですが。 「もっと自由を」と叫ぶ、声の大きさは、既に自由化されているということです。 声の大きさが競争原理である以上、蓋ははずれないのが道理です 若い人には大志を持ってほしいですが、その為にもコミュニティーを持続可能に しておかなくてはならないのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 自由化の問題は――つまり規制緩和にしろあるいはむしろ逆に規制強化にしろ―― いまわたしとしては、まったく考えていません。 その上でご返答しますが わたしの見方は こうです。 ☆☆(No.15お礼欄) 自由化をしようがしまいが 蓋がそのまま覆いかぶさっているなら 情況は変わらないでしょう。 ☆ つまり 自由化と《フタが外れること》とは何の関係もないと見ています。 違法建築でしたか きわめて杜撰な設計やら建築技法やらでひどいマンションの実態が明るみに出た。そのあと 法律順守を声高にさけぶ意見が挙がってコンプライアンスが求められました。その結果 なかなか家やビルが建たなくなった。コンプライアンス不況であると。 これも クウキが支配したそうです。 ぎゃくに コイズミ・エコノミックスによれば 自由化が為されたわけですが これも 経済事実としての後押しもとうぜんあってでしょうが そのようなクウキに世の中がなってしまった。 つまりは 規制の緩和も強化も 社会全体のクウキによって左右される部分がかなり大きい。 言いかえると この《クウキ》が フタです。 スサノヲ市民圏の中から出た意見や思潮の場合でも まづはお二階さんの協議を経てそのお墨付きが得られれば クウキが成立します。上からどうのこうのと言っていることについて 下の人びとの世論が後押しすれば それでお墨付きが得られた格好となります。 つまり スサノヲ市民も 決して放ったらかしにされているわけではないけれど 要はお二階さんの意向にしたがって クウキがかたちづくられ これに人びとは従うことになる。 これは 民主主義的であって よいことのように思われますが 問題は緩和にせよ強化にせよ 行き過ぎる場合です。あるいはまた 行き過ぎない場合でもけっきょく同じように 人びとの協議というときの中身が そのときの勢いつまりクウキに流されてしまうことがありはすまいかという点だと思われます。 あるいは 国民共通番号制などは いくら議論をしても 最後に待ったがかけられる。これは ウラの世界からの黒いクウキではないかとうたがわれます。 既得権益はまもられるべしという黒いクウキは まだ健在であるようです。 こういったフタが 問題だと見ます。 はづれませんか? ★ 若い人には大志を持ってほしいですが、その為にもコミュニティーを持続可能にしておかなくてはならないのです。 ☆ 社会の存続は この今の情況・いまの国家財政あるいは国際関係にあっても同じく国家財政の危機などなどの情況をかかえる段階に来ると フタをはづさない限り 見込みはなさそうだという見立てです。 やがておそらくアマテラス当局は 握っていた操縦桿から手を離すようになるかも分かりません。それでも お二階にとどまろうとするかも知れません。という状態を思うならば フタがはづれないかぎり 突破口は見い出せないと思われます。 スサノヲ市民たちよ くにの経営は きみたちにまかせたいとかれらが言う前に スサノヲ市民らは そろそろおれたちに何もかもをまかせなさいと言ってやるのがよいと考えます。
- heart_mind
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1。はいわば、組織の公共心で 2。はコミュニティーの公共心です 1。の場合は、私企業、公組織とわず、本来は自分達の為ではなく、 顧客の利益を作り出すことを考えなければならないのですが、 前述したように、サロン化する程、それは難しくなるのが道理です。 特に日本の風土は、そうなりがちです。(他の国も追随してくると思いますが) 公組織は公僕精神で自らそれを補っていけばいいのですが(三権分立もあるし)、 私企業もわずかにPL法などの規制がありますが、 フラットな市場に目をリセットすることは、なかなかできないでしょう。 現在も日本の中でも、さらなる自由化を訴える人がいますが。 その全てが自己実現を妨害された閉塞間に反抗している人というわけでなく、 どちらかというと、そういう目的意識を失ってしまった組織への苛立ちをかかえる 正義感の人が殆どではないでしょうか。そして自由化はサロンの目を覚ます力に なるだろう希望をもっているのだと思います。 でも、それは誤りだと言いたいのです。 自由化はサロン化をさらに深刻に進めるだけです。 足下を見えるようにするのが一番の近道だといいたいのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 自然でいいぢゃないか ☆ と《もっと自由に》とは 同じことですよ。特には規制に反対しそれを取っ払おうという意味は考えていません。一般論ないし総論として言っています。そのあとに規制をどうしようかという問題が来ます。 ★★ ~~~~~ ★ ~~~~~~ 若いときに、あんまり変にどっちかに偏って教育しなくても 自然でいいんじゃないかと思ったのです。 ~~~~~~~~~ ☆ 自由に。もっと自由に。もっともっと自由に。さらに自由に。と。 ~~~~~~~~ ☆ つまり ★ 自由化 ☆ は考えていません。いまの議論においてはです。 英語を幼いころから話せるようにするか それともあとでよいと考えるか。この問い求めに際して いづれの方法をも容れる自由で行けばよいのではないかと言ったまでです。 ★ ~~~~ 自由化はサロン化をさらに深刻に進めるだけです。 足下を見えるようにするのが一番の近道だといいたいのです。 ~~~~~~ ☆ 《サロン化》の問題は アマテラス語世界という覆いつまり蓋をどうするかの問題だと見ます。自由化とは別であろうと。 《足下を見えるようにする》のも 蓋を取っ払えばそれで済むとさえ見ています。自由化をしようがしまいが 蓋がそのまま覆いかぶさっているなら 情況は変わらないでしょう。 この《蓋》は おおきく日本という国にかぶさっていると見ますが それだけではなく その規模を小さくした相似形が 組織という組織 集団という集団の到るところに出来上がっている。こう見ます。クウキという問題でもあります。 そのフタが取れれば あとは おのづから スサノヲ市民らは躍り上がって 自由に振る舞うでしょう。けんかしながら 社会をあらためてかたちづくり直して行きましょう。それでおしまいです。現代人が当面する課題としては それでおしまいです。
- heart_mind
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公共心なんていうのは、本来は他人への共感みたいなもので 「そんなことしたらかわいそうだな」とか、誰もがもってい るものが、視野が広がるにつれて少しづつ広がりをみせる様 な、ごく自然な感情からはじまるわけなんだけど。 1。ある共通の目標の為にという、近代的スポーツ的公共心 2。コミュニティの為、村社会的公共心 現代は二極化が進み社会も混乱してますから、本来は 1(外側の公共の利益の為)に近くならなければならないはずが、 2(内側の利益)に近くなってしまったり 2(足下の内側の利益を考えなくてはならないのに) 1(自己実現的に外側にばかり目がいってしまったり) とちぐはぐになっていますし、今は特にこういう時代ですから、 若いときに、あんまり変にどっちかに偏って教育しなくても 自然でいいんじゃないかと思ったのです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そのとおりだと思いますよ。 ★ ~~~~ 公共心なんていうのは、本来は他人への共感みたいなもので 「そんなことしたらかわいそうだな」とか、誰もがもってい るものが、視野が広がるにつれて少しづつ広がりをみせる様 な、ごく自然な感情からはじまるわけなんだけど。 ~~~~~~ ☆ 仲間であることの感じから始まって その仲間意識――これは fellow-feeling などとしてA.スミスか誰かの書物にも出ていたと思います――となり 友情あるいは愛情という概念として持たれ さらに抽象化されて倫理規範にまで高められる。つまりは スサノヲ人間語から アマテラス学術語へと抽象化されるのだと見ます。自然から 非自然としての文化へと。 ○ 自分のして欲しくないことは 人にもするな。あるいは 自分のして欲しいと思うことを 人にもおこなえ。 ☆ といったごとくに。 ただし このアマテラス学術語ないしアマテラス人格語は けっきょくあくまで抽象化した概念とすでになってしまっているしろものなのですから それを知っているからと言って 立派な人間が出来たわけではなく むしろ知ったばっかりに その知識〔のみ〕を重要視してしまいがちでもあります。 他我が 社会性においては 愛であるとか何とか言っていますね。精神的充足が大事だとか何とか。こんなことは 小学生でもいちどおぼえれば誰でも言えることです。アマテラス普遍語を知識として持つことくらいは 序の口です。 したがって 慈悲とは どういう経験現実であるのか? とか 愛とは どこまで人間にとって実践しうる意志行為であるのか? などという問いを わたしたちは一人ひとりがおのれの文体としてかたちづくって行くしか道はないものと考えます。それぞれ考えもあり方法もあるでしょう。またその成果を このような質疑応答の場でも提出しあって 互いに啓発していけばよいのだと考えます。 それを 紋切型の説教で回答するなどというのは もってのほかです。 次の一点に対しては 反対します。 ★ ~~~~ ・・・本来は 1(外側の公共の利益の為)に近くならなければならないはずが、 ~~~~~~ ☆ このように当為の議論として話をすすめると なかなか自由な意見が出なくなってしまいます。もともと アマテラス人格語は いわばただの骨格を示しているだけだとも考えられるわけですから――抽象化された結果ただ骨だけを示しているに過ぎないとも捉えられるわけですから―― 一人ひとりが実地に肉づけをして行かねばなりません。つまりは やはりスサノヲ人間語として・スサノヲ人間語の基礎に立って 肉づけをしなくてはなりません。 つまりは これこれのはずなのに そうはならなかったというような事例は もともと出て来てあたりまえだとして構えていなくてはならないと思われます。 つまりは いつでも 一から始めればよいという覚悟でいるとよいのではないでしょうか? スサノヲ人間語は どこまで行っても ふんぞり返ることは出来ないように出来ているようです。 昔 積み木くづしということが話題となりました。アマテラス科学語ないしアマテラス人格語〔だけ〕で建てた城は 砂の城だというわけです。一から始めなければならなくなります。 そういう意味合いにおいて ★ ~~~~ 若いときに、あんまり変にどっちかに偏って教育しなくても 自然でいいんじゃないかと思ったのです。 ~~~~~~ ☆ の意味を捉えています。 自由に。もっと自由に。もっともっと自由に。さらに自由に。と。 スーパーフラット状態は あんがいその素地が成っているのではないかと考えます。
- heart_mind
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時代という川の流れに、飲み込まれていくのは運命 の様なものですが、しかしそうであれば「公共心」は 相対的なものであるから実社会で身につければいいこと ですが、人間の基礎の減価償却しない部分については、 やはり大人の責任だと思いますよ。 だからどっちかっていうと「実学」に傾くのも反対です。 外国語も会話重視は反対です。読み書きヒヤリングは前倒し できるし、国語文法とのタイミングに併せて文法の方がいい 気がするんですけど、どうなんでしょうね。 できれば、子供の時代は尊敬して信頼できる他人の大人と 出会えた方がいいと思うんですけどね。 なんか、かわいそうですよね
お礼
ご回答をありがとうございます。 投稿ほやほやですね。 そうですね。 反応をそのままつづってまいります。ぶっきらぼう丸出しにて。 ★ 時代という川の流れに、飲み込まれていくのは運命の様なものですが ☆ これはですね。この世は 必然の王国というくらいですから 自由にあたらしいことを思いついても 過去からの必然の河の流れに棹差さなければ何ごとも たしかに 実現がかなわないでしょうね。 ただし その必然性というのは あんがい人には分からないものです。何が必然の流れなのか それは長期的にみれば 分からないものです。 《ものの片寄り・曲がり(クリナメン) あるいは ひねくれものの出現》というひとつの道筋もあるやに思われます。 言いかえると 事後的に流れを分析・検証して これこれが必然の道だったと分かるのであって 事前にはなかなか分からないものだとも思います。ベトナム戦争のときに ベトナムの共産主義化は 時代の必然であると言われていました。じじつ北ベトナムの共産党が勝利を博しましたが 経済制度としては 話が違って来ました。コミュニズムという思想は 或る程度まで・或るところまで 歴史の大きな必然の流れだったのでしょう。 そのような意味で あらがい難い流れがあっても それは一時的なものに終わるということもじゅうぶん考えられますし 事前にはなかなか分からないし決めつけがたい こう考えます。 ★ ~~~~ 「公共心」は 相対的なものであるから実社会で身につければいいこと ですが、人間の基礎の減価償却しない部分については、 やはり大人の責任だと思いますよ。 ~~~~~~ ☆ いえ じつは この見解にはわたしは真っ向から反対です。自由にさせればよい。このひと言が わたしの見解です。なぜなら わたしは わたしの文体としてその自己表現の動態を生きている。それこそが 責任と言うのなら責任だと考えるからです。 子どもに対しては まちがったことについては その場でそのつど おしえてやる必要があるとは考えます。身でも心でもおぼえて行けるように。 ★ ~~~~ だからどっちかっていうと「実学」に傾くのも反対です。 外国語も会話重視は反対です。読み書きヒヤリングは前倒し できるし、国語文法とのタイミングに併せて文法の方がいい 気がするんですけど、どうなんでしょうね。 ~~~~~~ ☆ わたしはこの問題については それぞれの考えに従ってやる。つまり やはり自由という見解を持ちます。小さいころから話し言葉で外国語にしたしむのもいいであろうし 文法をしっかりとまなぶという方式もよいだろう。こう考えます。 ★ 「実学」に傾くのも反対です。 ☆ いくらか社会見学や社会体験などなど実地のものごとをまなんでおくのもよいと思いますが この《傾くのは反対》に賛成です。数学や理科一般について 将来あまりかかわらないと思われる場合でも 基礎をまなぶのがよいと考えます。そりゃあ 度量がちがってくると思われますから。 日本語については やはりこの場合は会話は要りませんから 文法をしっかりとまなぶ必要があると考えます。そうすると ほかの外国語の文の成り立ちがよく分かります。日本語は その点特殊であって ほかのどの言語に対してもいわば出発点となっていて 幅広くその応用が効く成り立ちをしていると考えるからです。 (ハ格とガ格の構文などなどですが そしてそのような特徴がこれまでにも取り上げられ論じられて来ていますが そのもっとも納得の行く説明をしたのは まだわたしの仮説のほかに見たことがありません。そのわたしの見解として 日本語の文の成り立ちをしっかりと会得すると 万能鍵のごとくううんと役に立つと考えるからです)。 ★ ~~~~ できれば、子供の時代は尊敬して信頼できる他人の大人と 出会えた方がいいと思うんですけどね。 ~~~~~~ ☆ わたしの喧伝する日本のるねさんすに対してもそうでしたが 悲観的な見解が多いですね。 立派な大人に出会えることは いいことですし あるいはまた たとえ出会えなかったとしても 出会えた場合と同等に大人になって立派な人間になることは じゅうぶん出来ます。心配ご無用だと思いますが どうでしょう? どうでしょう?
- heart_mind
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疲れてきましたね。 誤解させてしまったみたいですが、 そんなに楽観的な先取りじゃないんです。 先取りして破綻するということです。 ですから、もはや若者に公共心なども必要なく 弱肉強食に勝つ為の自己実現の為の教育をあまねく 行き届かせることのみが、大人の残された役割である と認識できればいいということです。
お礼
そうですか。まづは ご回答をありがとうございます。 どこをどう誤解したのだろう? ★ 先取りして破綻するということです。 ☆ もし《先取り》するのは 《弱肉強食》の世の中ではなく ゆづりあいの人間関係であったなら――つまりすでに先取りしてしまっているなら―― それを潜在力としてでも日本は持っているし 培って来ている。 わづかにそれは アマテラスお二階さんという蓋がかぶせられている。蓋を取れば すぐさま 芽吹いて来て 湧き上がるものがある。 ――この展望のどこが どこで 破綻するのでしょう? それとも 世界のほかのくにぐにが日本を見倣うことが出来ずに 破綻するという意味でしょうか? ★ ~~~~~ ですから、もはや若者に公共心なども必要なく 弱肉強食に勝つ為の自己実現の為の教育をあまねく 行き届かせることのみが、大人の残された役割である と認識できればいいということです。 ~~~~~~~ ☆ 分かりません。《公共心》にかんしては 蓋が取れれば 会得するようになるとは言いませんが つまりスサノヲ市民らはテキトウに横着をすると思いますから ただし公共心に大きくはしたがうでしょう。 《弱肉強食》にはならない歯止めが 潜在力としてでも そなわっている。のではないか? したがって ふつうに自己実現を目指すかたちをとることが出来ましょう。 何ら――蓋が取れるかどうかを措いておくなら―― 心配することもないでしょう。 弱肉強食を 言わば信じることがおかしい。こういうことではありませんか? 強固に根を張った伝統的なスサノヲ市民らの生活文化からすれば。 どこでどう違って来たのでしょう?
お礼
☆☆(上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~~ 村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか? それとも パロディなのか? それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。 次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。 * フィギュアをめぐる萌えと燃え。 そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか? たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。 展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。 この社会の成り立ちとしては スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民 この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。 市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A ) * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ): アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。 アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。 そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。 けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。 そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。 どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。 スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。 結論である。 要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。 その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。 つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。 むすび: アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。 権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。 おまけ: だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。 逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。 だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。 * 天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか? それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか? *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が 特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった としても の意です。 ~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《ゆづりあい》の社会であり くにであるのだと。 ゆづりあいが スサノヲ人間語にもとづく市民社会の伝統であると。見倣いたまえと。
補足
それでしたら われわれは すでに通って来た道であります。 ――ご回答をありがとうございます。―― 日本人は社会づくりに際して 《くにゆづり》をしたと言っています。西欧の競争型に対しては 対話型であると。 【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7238149.html ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ ○ くにゆづり ないし 非戦論としてのゆづりあい〔のこころ〕 ☆ これが アマテラス(ないしアマテラシテ)天皇をいただく社会構造を作り上げたところから来ているとすれば それは 欧米人から見ると 異質な社会制度であり その限りでオリエンタリズムであると見られるではないか? こう問い返されるなら 説明を継がなければなりません。 くにゆづり によってスサノヲ市民とアマテラス公民とに分かれたといった《くにづくり》の方程式 これは 競争型ないし闘争型のヨーロッパ社会の社会形態とは異質であると言っても そしてそのことを フィギュアは表わそうとしていると見たとしても それが自虐でもなければ自嘲でもない。このことは すでにいま 添えておかねばならないとは思います。むしろ この謙譲の精神および非戦論の社会づくりは ほこってもよいと思われるからです。 社会づくりの方式にかんして 次の三つに分けます。 (α) 対話型:日本 (β) 競争型:西欧 (γ) 暴君型:アフリカ (これは スサノヲ市民の側が アマテラス公民に対して その国家 の経営がうまく行かなかったときには 引きずりおろし それだけでは なく ころしてしまうという意味で 暴君として振る舞う型) この土地は おれのものだと宣言した者が その所有主だと成る(もしくは 見なされる)というのは 競争に勝ったからだと捉えられます。所有権が確立されていなかったなら 闘争によって奪うという方式になります。 イヅモのスサノヲ共同体は そのときすでに子孫のオホクニヌシが市長でしたが そこへ アマテラス帝国から 服属の要求が来ます。そこは おれの土地だから おれたちに従えと。 じつは その使いは 何度も何人も来ています。そのうちの一人は イヅモのムラが居心地がいいものだから とうとう住み着いてしまって 帝国へ帰らなかったと言います。何年かのちに イヅモの海岸にちょっとは武装した者が来て 服属を迫ります。 オホクニヌシは ふたりの息子の考えにしたがうと答えます。そして じつは 息子のひとりは 非戦論でしたが もうひとりは 〔じつは〕主戦論の持ち主でした。実際にたたかい イヅモから信濃の諏訪まで逃げてそこでころされたとか。 コトシロヌシでしたか その息子とオホクニヌシとは けっきょくくにゆづりをしました。主戦論も非戦論も 人の心の弱さから来る。だったら 殺し合わないほうを採ろうと。 アマテラス側は けっきょく帝国主義的行動をしているのですから 言ってみればヨーロッパの競争型です。そのような方式を相手に迎えた場合にも ゆづるという方式で行動したなら 対話型だと考えられます。対話を拒否され 有無を言わさずの暴行を受けたのですが でも対話型をつらぬいた。 したがって 《人は人に対してオオカミである》やあるいは《万人の万人に対するたたかい》といった自然状態を オホクニヌシないしスサノヲは 想定していない。その自然状態は放っておくと 共倒れになり皆殺しになるからというので 国家というそれとしての絶対的権力を秩序維持のために設定したという社会契約説 これも おそらく日本人は採らないでしょう。なじまないでしょう。国家のお二階に 暴れん坊は追いやりつつまつりあげつつ 社会全体の秩序をおもんじた。 * スサノヲこそが 暴れん坊だと誰れもが見ているし そのように 書かれてもいますが おそらくその場合には 二つの側面において見る 必要があるかと考えます。 スサノヲ市民は スサノヲどうしのあいだでは けんかをし合うとい うこと。それほど仲が良い。しかも《和を以ってとうとしと為して》い る。 もうひとつの側面は ヨコの関係ではなく タテの関係では はじめ は――という意味は スサノヲのミコトその人に限っては―― じつは その実の姉のアマテラスオホミカミに対して 姉さんがまるでかれを取 り合わなかったとき 神の宮にくそをしただの 皮を剥いだ馬を機織り 家に投げ込んだだのと大暴れをします。 スサノヲが 亡き母のところへ帰ると言って 姉のアマテラスのとこ ろに暇乞いに来たとき 姉は これは弟のスサノヲは わが権力を奪い に来たに違いないと言って 女ですが武装して待っていたと言います。 この信頼関係の破綻 人間不信に際して スサノヲはしたい放題のこ とをして 暴れました。 そのあとは いっさいおとなしくなりました。オホクニヌシなどは まるで その兄さんたちに数々のいじめに遭っても 反抗することなく しかもその難を切り抜けるという行動をつらぬきました。もっとも 兄 たちをしのいだあと 近隣のムラを襲うという挙にも出ていますが。 こうして 競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。そして対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。 そのような対話型社会における人間の生活態度ないし生活実感 これをフィギュアに表わすなら マイ・ロウンサム・カウボーイなる姿になるであろうと考えた人間がいた。のだろうか? こういう問いです。 ~~~~~~~~~~~~