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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:スーパーフラットってやっぱ天皇制と関係ありでは?)

スーパーフラットの関係性と浅田彰の評価

このQ&Aのポイント
  • スーパーフラットは日本のアートムーブメントであり、日本の消費文化や平面絵画、アニメーション、ポップカルチャーなどを示す概念です。
  • また、スーパーフラットは現代の日本社会の階層性のなさやフラットさをも示すものであり、欧米市場へのブランド戦略やニッチ市場販売の成功例でもあります。
  • 浅田彰はスーパーフラットについて、日本文化の平板化や後のクール・ジャパンを思わせる一種の商標としての側面を指摘しています。

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回答No.8

勿論それでいいと思いますよ。 全体主義ではないし、それで問題ないです。 ただ、今までこの時代にくる課程で、さまざまな規制の置換が あったことは確かです。 例えば、今後、お前の国はどうして高い税金を集めて、そんなに 公安にお金をかけて財政をあっぱくしているんだ。もっとそこは 緩和して自由化すれば、銃もうれてお金もまわるんじゃないか、 人間は自分の命は自己責任で守るべきだ。それじゃあ、全体主義 に片足つっこんでいるようなもんだぞ。弱肉競争の精神でなければ 世界には通用しないぞ。 などと言われて、この国の風土や歴史にもとづいた特質も考えず 丸飲みしない方がいいような気がするんだけどな、というような、 ただの独断的な独り言ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(上記質問の趣旨説明欄) ~~~~~~  村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?  それとも パロディなのか?  それは 例の16億円で売れた・《自己満足》の象徴のようなフィギュア作品を言います。  次が そのたたき台です。歴史的な背景の説明を添えた・フィギュアの心の解明です。     *  フィギュアをめぐる萌えと燃え。  そこには負け組と勝ち組と規定したかたちに現われた階級闘争があるかないか?  たしかに 現代の日本社会としての固有のあるいはそれとして特殊な事情や情況はあるだろうが 問題はやはり通史的に捉えた日本人の社会そして特には 国家の誕生からその展開過程を焦点とする歴史 にその答えを解く鍵があるだろうね。  展開過程と言っても じつは 何にもない。誕生のあとそこで成立したその国家の仕組みが 内部での組み替えは起きたとしても――征夷大将軍や市民資本家が 実権を握るお上になったとしても―― まったくと言っていいほど その体制は変わっていない。  この社会の成り立ちとしては    スサノヲ( S )市民‐アマテラス( A )公民   この連関制である。これは 二階建て構造を有する。そして A 圏における権力と権威の分離をも考慮に入れるなら こうである。   市民社会圏( S )‐〈政府公民圏 ・ アマテラシテ(象徴)〉( A )     * アマテラシテ( amatérasité; amaterasity; Amaterasität ):     アマテラス( amaterasu )公民ないし天皇の抽象名詞化。  アマテラス圏のアマテラス政府は じつはすでにスサノヲ市民政府である。主権者スサノヲによって権力が構成されている。ただし 国家として成り立った《 A - S 連関制》じたいは いささかも変わっていない。  そして アマテラス圏なるお二階さんが スサノヲ市民らによって形成されているにもかかわらず 一般的なクウキないし社会通念としては 相変わらずその第二階なるあたまで立っているかのごとく 逆立ちした連関制である。  けっきょくことは――問題は―― アマテラス圏における象徴アマテラシテを どうするかにある。  そもそも――神話としての伝承によるとは言え―― スサノヲ市民らが もともと平屋建ての社会にあって生活しており そこから第二階をこしらえて アマテラス族をそこに住まわせたのは そのように《くにゆづり》をしたことからだったからである。  どうしてもアマテラス族が――かれらは それはそれは品行方正・学力優秀だったからのようだが―― この世の中を 自分たちにまかせて欲しいと頼みに頼んで拝みに拝んで それにとうとう根負けしたスサノヲらは 社会にも やしろを作ってそこにかれらをまつりあげた。これが くにゆづりだったことに起因する。    スサノヲらにしてみれば あまりにも駄々をこねるゆえに しばらくは特別の場所をあたえたという程度に過ぎなかったかも知れない。ところが 一たん第二階ないしあたかも 雲の上のスーパー・ヤシロなる神棚に腰を据えたが早いか あとは そのまれにみる能力をほしいままに使い切るまでに使いこなすほどに 国家経営にはげんだことになる。権力と権威との分離がなされたあとも このお二階さんとしてのまとまりは びくともしなかった。  結論である。  要するに 駄々をこねる子供から早く人びとと自由に対等に話し合いができるおとなに成って欲しい。千五百年経ったが どれだけ経ってもまだまだ待っているんだぞというメッセージを送り続けていることになる。これが フィギュアのねらいだという読みである。  その思いを大枠として――その解決がなされなけれ人間存在の話としては何ごとも始まらないほどの枠組みとして―― あとはその時代時代のなかでさまざまに文化的・経済的な進展に応じて そのメッセージの具体的な中身が変遷して来ている。反抗と言っても せいぜいが 一揆ていどである。  つまりは現代としては フィギュアもオタクも萌えも――そして 燃えは A-S 連関制におけるむしろ A 圏の側からの応答としてのごとくであるようなのだが―― このメッセージをそれとして体現していると考えられる。  むすび:  アマテラス圏は 社会のどう考えても主役であるしかないスサノヲ圏のスサノヲ市民らに その大政を奉還すべきである。はやくおとなにならねばならない。  権力をただちにスサノヲ圏に返すと 国際関係において チカラの均衡がくづれるおそれがあるとするなら その安全保障のことをも考慮しつつ 大政奉還していけばよい。  おまけ:  だから フィギュアに自分の時間を割く人びとは いわゆる階級関係における権力闘争をしようとしているのではない。日本においては それは 筋がちがう。  逆立してしまった連関制なる二階建ての成り立ちを 風通しのよい・おとなの話し合いができる自由な仕組みに作り直そうと言うのみ。  だから けっきょく自己満足でしかない世界において自己満足でしかない手段によって 心の内なる心の奥の心にうったえている。もともと くにゆづりをしたからには 返せとか下りて来いとか なかなか直接には言いづらい。まして 引きずりおろそうとは していない。心への呼びかけにおさまる。    *  天皇が存在することによって ほかの人びとはすべて平等であって そのぶん社会の風通しがよいから 皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても(*1) 存続している。それゆえ オマージュをささげている。というのか?  それとも このようなそれぞれの立ち場でのそれぞれの自己満足は起きていると思われるが これではやはり風通しはわるいのだ いつまで経ってもよくならないのではないかというパロディなのか?    *1 《皇室(その制度)はたとえ自己満足であったとしても》:これ    は ほかのすべての人びとが平等であると言っても ひとり(ひと    つの家系)は 特別な存在とされている。したがって その設定が    特別視の根拠や理由などについて 社会的な虚構を構成すると    いうような意味において 民族にとっての自己満足でたといあった    としても の意です。   ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《ゆづりあい》の社会であり くにであるのだと。  ゆづりあいが スサノヲ人間語にもとづく市民社会の伝統であると。見倣いたまえと。

bragelonne
質問者

補足

 それでしたら われわれは すでに通って来た道であります。  ――ご回答をありがとうございます。――  日本人は社会づくりに際して 《くにゆづり》をしたと言っています。西欧の競争型に対しては 対話型であると。  【Q:村上隆のフィギュアは 天皇へのオマージュか?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7238149.html  ☆☆(No.3お礼欄) ~~~~~ ○ くにゆづり ないし 非戦論としてのゆづりあい〔のこころ〕  ☆ これが アマテラス(ないしアマテラシテ)天皇をいただく社会構造を作り上げたところから来ているとすれば それは 欧米人から見ると 異質な社会制度であり その限りでオリエンタリズムであると見られるではないか? こう問い返されるなら 説明を継がなければなりません。  くにゆづり によってスサノヲ市民とアマテラス公民とに分かれたといった《くにづくり》の方程式 これは 競争型ないし闘争型のヨーロッパ社会の社会形態とは異質であると言っても そしてそのことを フィギュアは表わそうとしていると見たとしても それが自虐でもなければ自嘲でもない。このことは すでにいま 添えておかねばならないとは思います。むしろ この謙譲の精神および非戦論の社会づくりは ほこってもよいと思われるからです。  社会づくりの方式にかんして 次の三つに分けます。  (α) 対話型:日本  (β) 競争型:西欧  (γ) 暴君型:アフリカ      (これは スサノヲ市民の側が アマテラス公民に対して その国家     の経営がうまく行かなかったときには 引きずりおろし それだけでは     なく ころしてしまうという意味で 暴君として振る舞う型)  この土地は おれのものだと宣言した者が その所有主だと成る(もしくは 見なされる)というのは 競争に勝ったからだと捉えられます。所有権が確立されていなかったなら 闘争によって奪うという方式になります。    イヅモのスサノヲ共同体は そのときすでに子孫のオホクニヌシが市長でしたが そこへ アマテラス帝国から 服属の要求が来ます。そこは おれの土地だから おれたちに従えと。  じつは その使いは 何度も何人も来ています。そのうちの一人は イヅモのムラが居心地がいいものだから とうとう住み着いてしまって 帝国へ帰らなかったと言います。何年かのちに イヅモの海岸にちょっとは武装した者が来て 服属を迫ります。  オホクニヌシは ふたりの息子の考えにしたがうと答えます。そして じつは 息子のひとりは 非戦論でしたが もうひとりは 〔じつは〕主戦論の持ち主でした。実際にたたかい イヅモから信濃の諏訪まで逃げてそこでころされたとか。  コトシロヌシでしたか その息子とオホクニヌシとは けっきょくくにゆづりをしました。主戦論も非戦論も 人の心の弱さから来る。だったら 殺し合わないほうを採ろうと。  アマテラス側は けっきょく帝国主義的行動をしているのですから 言ってみればヨーロッパの競争型です。そのような方式を相手に迎えた場合にも ゆづるという方式で行動したなら 対話型だと考えられます。対話を拒否され 有無を言わさずの暴行を受けたのですが でも対話型をつらぬいた。  したがって 《人は人に対してオオカミである》やあるいは《万人の万人に対するたたかい》といった自然状態を オホクニヌシないしスサノヲは 想定していない。その自然状態は放っておくと 共倒れになり皆殺しになるからというので 国家というそれとしての絶対的権力を秩序維持のために設定したという社会契約説 これも おそらく日本人は採らないでしょう。なじまないでしょう。国家のお二階に 暴れん坊は追いやりつつまつりあげつつ 社会全体の秩序をおもんじた。    * スサノヲこそが 暴れん坊だと誰れもが見ているし そのように   書かれてもいますが おそらくその場合には 二つの側面において見る   必要があるかと考えます。    スサノヲ市民は スサノヲどうしのあいだでは けんかをし合うとい   うこと。それほど仲が良い。しかも《和を以ってとうとしと為して》い   る。    もうひとつの側面は ヨコの関係ではなく タテの関係では はじめ   は――という意味は スサノヲのミコトその人に限っては―― じつは    その実の姉のアマテラスオホミカミに対して 姉さんがまるでかれを取   り合わなかったとき 神の宮にくそをしただの 皮を剥いだ馬を機織り   家に投げ込んだだのと大暴れをします。    スサノヲが 亡き母のところへ帰ると言って 姉のアマテラスのとこ   ろに暇乞いに来たとき 姉は これは弟のスサノヲは わが権力を奪い   に来たに違いないと言って 女ですが武装して待っていたと言います。    この信頼関係の破綻 人間不信に際して スサノヲはしたい放題のこ   とをして 暴れました。    そのあとは いっさいおとなしくなりました。オホクニヌシなどは    まるで その兄さんたちに数々のいじめに遭っても 反抗することなく   しかもその難を切り抜けるという行動をつらぬきました。もっとも 兄   たちをしのいだあと 近隣のムラを襲うという挙にも出ていますが。  こうして 競争型社会においては その社会でのアマテラス公民とスサノヲ市民とのあいだは その連関制が けっきょくこれも競争・闘争型になるようです。A-S 連関制がその上下が回転(レヲ゛リューション)します。そして対話型社会では この回転は ないようです。くにゆづりのあと ゆづりっぱなしです。  そのような対話型社会における人間の生活態度ないし生活実感 これをフィギュアに表わすなら マイ・ロウンサム・カウボーイなる姿になるであろうと考えた人間がいた。のだろうか?  こういう問いです。  ~~~~~~~~~~~~

その他の回答 (40)

回答No.31

私もそんなに読み込んではないです。 「構造と力」は探してみます。 都会の虚無感は、やっかいな問題をかかえているので しょうか。「おもちゃ」はそうした虚無感がもたらし たものでもあるかもしれません。 人間関係はいつの時代もむずかしいものでしょうが、 補う意味でも自然の生命感を感じることは大事ですね。 負のスパイラルは「おもちゃ」の生産をやめることは できないのかな。 自然環境は本当は子供の遊び場にも、あった方がいいと 思うんだけど、今はこの近所でも難しいようです。 サンデル教授は個人の自由を抑圧しない程度の コミュニタリアリズムじゃなかったでしょうか、 確かそうだった気がするけど。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ コミュニタリアニズム  ☆ はそれじたいが――わたしの瞥見によればですが―― 自由主義に立つものだと考えます。  自由主義が抽象的な原則を規定しそのまま放っておくという状態にあるのを嫌い そうではなく そこからさらに具体的な方途を考えようとするもので その地域やそこでの文化習慣に合わせた施策を得ようとする志向性ではないかと。ご批判を得られればと思います。  ★ ~~~~  都会の虚無感は、やっかいな問題をかかえているので  しょうか。「おもちゃ」はそうした虚無感がもたらし  たものでもあるかもしれません。  ~~~~~~  ☆ そうかも知れません。こけしは ふと思い浮かんだまま出してしまったというのが正直なところです。  ★ 人間関係の問題 / 自然環境の問題  ☆ 留意します。  ○ 『構造と力』  ☆ そう言えば その中には 芸術にかんする評論もあったと思い出しました。何だか分かりませんでした。その後も分からないままです。  ただし 《人間――もしくは ホモ・サピエンス――がこの世界に存在しているというその置かれた条件》について 《構造主義》の考えをも交えて考察しています。その部分は しっかりとしていると思いました。  例の《言語記号の恣意性なる仮説》にもとづく《文化人(ホモ・クルトゥアリス)》説についても解説しています。(全体として 解説以上のことは控えていると言えるかも知れません。たしか解明したところを 《チャート式》で説明しているのだと言っていた)。  つまりは 動物としての人間ではあるけれど じつは すでに《身分け》によって生きる自然人(ホモ・ナトゥラリス)の状態からは まったく別の存在になってしまっているのだという議論です。非自然の世界つまり完全に《言分け》によって生きる別世界に生きることになっていると認めなければならないのではないかと。  ただしそこに但し書きも添えてありました。ほんとうに《自然人》から言わば足を洗って動物とはまったく別の世界に存在しているのか? これに但し書きを添えて まだ言い切れるものではないのだけれどと。  それでも 非自然の別世界を生きるとすれば それは 《ホモ・デメンス=錯乱せるヒト》なのであると捉えています。人間は もともと動物と違う生物存在として現われたとき――《ことば》を持ったとき―― すでに精神の揺れや揺らぎを許容するようになっていると。動物にはそれがない。  わたしの立ち場は 自然人の部分(要素)を その自然本性においてヒトはそなえている と見るものです。コトバの成り立ちがヒトの発声という自然の要因とつながっているといった仮説によって ホモ・デメンス説に反論しています。  あなたも参加しているほかの質問に関連して いわばちょうどホモ・デメンスの部分・その状態を明かす例示になるかどうか を示そうかと考えました。以下です。  ●( M‐1 ) ~~~~~~~  私は次のモンテスキューの言葉が気になっています。というより、私の関係の大部分を集約しているように思います。  >友情とは、誰かに小さな親切をしてやり、 お返しに大きな親切を期待する契約である。  ◆( bragelonne‐1 ) ~~~~~~   ○ (モンテスキューの心の内なる影の声):じつはわたしは 利害関係を超えた――ということは 利害関係に換算すると こちらの持ち出しになってもよいと〔無根拠にて〕思える――あいだがらが 友情としてあると思っていた。けれども・・・かなしきかな 人間よ。   ◆ というところではないでしょうか?   ●( M‐2) ~~~~~~~~  モンテスキューの内面の声は、そのようなものかもしれません。この意味では、彼は純粋な友情を見出したがっていた、ということはできるでしょう。  ◆( br‐2) ~~~~~~~  これ(=M-2の応答としての発言内容)でその定義をふくめて《友情》について了解したのではないのですか?  ●( M‐3) ~~~~~  この程度の説明で、何が了解できるのか、私にはわかりません。可能性がありうるという点について、そうかもしれないね、と言っただけ表面的な同意です。  ●( M‐4) ~~~~  私としては、「偽装された友情」(*)を退け、「本当の友情」と言うべきものを回復する手立てが無いものかと思います。    * 「偽装された友情」:《他者との交流であるというより、     ナルシシズムの延長と言ってよいもの》  ~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 浅田関係で お礼欄の記述をおぎないます。  ○ ホモ・デメンス(錯乱せるヒト)  ☆ この用語は その本人の文章にあります。  ただし  ○ 自然人・文化人 あるいは 身分け・言分け  ☆ などの用語は わたしがここでの説明のために用いただけだと思います。

回答No.30

こけしね。コミュニタリズムにおける自由への封建的圧力へ の注意も忘れてはいけないでしょうね。 浅田氏については、私は名前も知りませんでした。 本当に世間知らずで、すいません。 本も図書館には見つかりません。 今はきっと売ってないんじゃないでしょうか。 日本のポストモダンは資本主義や市場原理に無防備なところ はあったかもしれないけど、リオタールはあらゆるところに 目を光らせていたと思います。(結論はやっぱりぼんやりだけど) 日本の無防備な大衆風土と市場原理が相乗効果になっかもしれ ませんね。きっと何もかも必然だったんでしょう。 きっと資本の幼児化はそういうことじゃないでしょうか。 今の世界の潮流は、やはり市場原理や自由主義に懐疑的な方向 に進んでいると思いますよ。テレビに出てたサンデル教授は、 コミュニタリズムの封建的な面に注意をはらいながらも、 慎重に注意深くリベラリズムからコミュニタリズムへの移行を ほのめかしていましたよね。やっぱり、限界を感じているのは 世界共通ですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ こけしね。コミュニタリズムにおける自由への封建的圧力への注意も忘れてはいけないでしょうね。  ☆ こけしは 玩具が どのように生まれてくるものか。その一端を思いつくままに出したもので それだけのことと思いますが?  ★ ~~~~~  日本のポストモダンは資本主義や市場原理に無防備なところ  はあったかもしれないけど、リオタールはあらゆるところに  目を光らせていたと思います。(結論はやっぱりぼんやりだけど)  ~~~~~~~  ☆ そうなんですか。リオタールは ついぞ読みませんでした。あの時期のフランス思想から得たものは けっきょく乏しかった。あとのほうで リオタールやら読むべき本として挙げられていたけれど 読まなかった。理由もなく。(もう億劫になったということだと思う)。  ★ ~~~~~  今の世界の潮流は、やはり市場原理や自由主義に懐疑的な方向  に進んでいると思いますよ。テレビに出てたサンデル教授は、  コミュニタリズムの封建的な面に注意をはらいながらも、  慎重に注意深くリベラリズムからコミュニタリズムへの移行を  ほのめかしていましたよね。やっぱり、限界を感じているのは  世界共通ですね。  ~~~~~~~  ☆ そうですね。《市場原理や自由主義に懐疑的な方向》は分かりますが 《慎重に注意深くリベラリズムからコミュニタリズムへの移行をほのめかしていましたよね》は いまひとつよく飲み込めていません。その《移行》ということについてです。  《コミュニタリズムの封建的な面に注意をはらいながらも》という側面についてよりも・つまりそれについてはいいとして そもそもコミュニタリアニズムは 自由主義と基本的に違うとは思われません。というのが わたしの印象です。(つまり 深く考えた結果ではなくて 申し訳ありませんが)。  自由主義による思想や政策について よりきめ細かく具体的な生活のあり方について注意をおよぼす。というような捉え方しかまだしていません わたしは コミュニタリアニズムに対して。  サンデルは 自由主義に立つのではないでしょうか?   あと 浅田は若いときに処女作『構造と力』が 思想書としては稀れにみるベストセラーとなって注目されるようになりました。  資本主義の幼児化については まだ分かりません。  今回は このようです。よく飲み込めませんでした。

回答No.29

ブロジェロンヌさんの問題は解決できたのですか。 私の本当の最も気になることは、単純になぜ 現代は「おもちゃ」ばかり生産されるのだろうです。 それが解決されれば、何となく、だいたいのことが解決できるような 気がするのです。私も哲学の本は本当にごく最近なんですよ。 近代のよさがあまり日本のポストモダンに踏襲されなかったこと も原因にはありそうですね。 もし、ブロジェロンヌさんの問題が解決できたということであれば いつでも閉めてもらってかまいませんよ。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ○ 日本は世界の未来かもしれない。  ☆ これなどについては あんがい議論が出たかも知れません。スサノヲ庶民層におけるその生活文化の根強さなどでしょうか。  はあとまいんどさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。閉めるのはいつでもできると思うので そのままにしてありました。【Q:漢字のパクリ】のほうでいそがしかったということもあります。  ○ 《資本主義の幼児化》  ☆ はまだ分かったというところまでは行っていません。  ○ 『自閉的〈村〉空間』  ☆ これなどは 分かったようで その中身については しっかりと捉えないとなかなか使えない命題だと考えます。  ○ 村上隆のスーパーフラット  ☆ について さらに詳しく説明し自分の評価を明らかにする投稿が来るかと思っていました。  ○ 浅田彰  ☆ 論を展開しても よいかと思います。いま 振り返れば。つまりはわたしは その単行本としての作品は読んでいますが 雑誌だとかの評論や特にはいまのような芸術などなどについての評論については知りませんし それらがどのように一般に受け止められているのかも 分かりません。そういう意味でおしえて欲しいとも思います。  ○ スーパーフラットと天皇制  ☆ にかんしては 投稿がない限りで言えば 彦坂尚嘉の自虐史観のほかには評論が出ていないとも思われます。  ★ ~~~~  私の本当の最も気になることは、単純になぜ  現代は「おもちゃ」ばかり生産されるのだろうです。  それが解決されれば、何となく、だいたいのことが解決できるような  気がするのです。  ~~~~~~  ☆ 昔は 子どもの世界だったかも知れません。しかも それにもかかわらず 世界中に或る程度その傾向を広めたということなのですね?  ちょっとこわい話をすれば こけし人形の起こりをご存じですか? 東北地方でその昔干ばつや冷害で米が実らず 年々つづく食糧不足で やむを得ず間引きが行なわれた。その子を思って――つまり その命名がずばり《子消し》だという説とともに―― 子や自分たちの鎮魂のために作ったという話です。  《消す》のをしのびず隠して家の中で育てたところ 座敷にちいさな何か動くものがいると分かってしまったとき これを《福の神》のごとくに扱って《座敷童(わらし)》と言ったという。  人形と《おもちゃ》とは 違うかも知れません。何かそういった人びとの内なる思いがかたちになって表わされるということはあるかも知れません。またそれが 人びとの気持ちに合ったというような。  ★ 近代のよさがあまり日本のポストモダンに踏襲されなかったことも原因にはありそうですね。  ☆ これは よくもわるくも 日本にデカルトはいなかったのではないでしょうか? 一時期のホリエモンくらいでしょう。ですから《ポスト》という規定は わたしには分かりません。と思っています。    そうですね。お答えを見て閉めます。一日くらい投稿がなければ 閉めることにします。

回答No.28

多分、西洋的には、氏子信仰なんていうのは、自然になにも 働きかけることはできない、と思っていると思うんですね。 「それで何が生産されたというんだ。」という理屈でしょうね。 それも一理あると思います。積極的に挑んで征服しようと したから、様々な法則を発見できたわけで、それは決して尽きること のない情熱でしょう。 どちらかというと、快楽的に自然を愛してきた歴史がありますから そういう課題はあるかもしれませんが。 しかし、「魚といもの天ぷら」って、味気ないことこの上ないじゃない ですか。普通だったら、 「どこそこの季節のマダイと北海道産のきたあかりの天ぷら」 とかになるのに、さかなって、それってただの「脊椎動物のカテゴリー」ですよ。 結局は、ただの快楽からは何も生産されないっていう偏見があると思うんですね。 日本のポストモダンはどこかで思わぬ方向に向かったのでしょう。 私ももう少し勉強不足の面を調べることにします。 ブロジェンヌさん。 ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  知らない・分からないと言うと たしかに 拒絶のような印象が現われないとも限らない。  ただし わたしの知らない・分からないは 文字通りですよ。  と言っておいて やはりたしかに  ★ 日本のポストモダンはどこかで思わぬ方向に向かったのでしょう。  ☆ といった主題がぶら下がっており これを追究しているとも思います。そして わたしの場合 フランスにおけるその潮流についてこそ少しは就いてまなんだのですが ついぞ日本の動きについては 知らないまま来てしまっています。  今から十年前ほどからさかのぼって十年ほどのあいだ わたしは 勉強という勉強としませんでした。空白の十年でした。読むのは新聞のみと言ってよいくらいにしていました。(それまでに問い求めて得た内容について その応用は別としてそのものは 問い求め得たと思ったからです。反芻していたと言えば説明し得ましょうか?)  たぶんたとえばその前の前に浅田彰を読んでも すべてフランスの動向のこととして捉えていたというような恰好だったわけです。日本には ポストモダンは無理だとも思っていました。無主体の理論を言うのは あくまで西欧において 《主体》の理論があったからであり それが弱い日本において 無主体説を持ち出してもどうにもならないとさえ思っていました。そのあと まなびを止めていたということは まったく日本のポストモダンについては 知らないし知らないまま来ていると言わなければならない状態です。  ★ ~~~~  多分、西洋的には、氏子信仰なんていうのは、自然になにも  働きかけることはできない、と思っていると思うんですね。  ~~~~~~~  ☆ 土地を囲って自分のものとするといった発想もしくは実際の歴史をめぐって 日本は 草分けの家があり 谷戸の神でしたかがまつられており 言わばその土地の神に従うというようなかたちをも取った。  つまり 早い者勝ちでは必ずしもなく その所有権を獲得したなら その個人ないし家族の自由にしてよいというところへと ただちに単純に行ってしまうものでもない。自然も生きている。  といった議論を思い浮かべていますが もう少しくわしく知らなければなりません。《谷戸の神》ないし土地の神とは 実際にどういう扱いだったのかなどなど まだ詳しくは知りませんから。  【Q:漢字はパクリか】のほうで 動きがあるようです。

回答No.27

「リビドーが動物的欲望の充足に変化した」という理論 のくつがえしを試みてみたいと思いますね。 1+1=2っていうのは何なんだ。 っていうスレがでていますよね。 単語がさきか文法がさきかメタかというちまちました西洋哲学 より、もっとざっくりだけど、ラディカルにダイナミックに 考えた人がいましたよね。 自然へ挑みのリビドーがイメージ化させ抽象化させ記号化させ 人間のコミュニケーションに入り込んだと。 だから原始以来の記号はくつがえすことができないし。 マスターベーションが自然への挑みでないとどうしていえるのか。 偶像を生み出して氏子信仰を崇拝する行為はまさに挑みの爆発で はないか。 立つことができない草食男子の虚無感が、今現代においても オタクカルチャーでそれを爆発させているではないか。 立つことができない男は、抽象化させた偶像を作りだし、 同じように女も、抽象かさせた偶像を作りだし、 それはいつでも原始にかえることができる、または帰りたいと いう情熱ではないのか。 これでくつがえさせることができましたよね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  中間のご返答です。  ★ ~~~~  「リビドーが動物的欲望の充足に変化した」という理論  のくつがえしを試みてみたいと思いますね。  ~~~~~~  ☆ ということは リビドーは われわれの身と心にとって人間的なその生きる動態そのものとしての充足である。という命題の証明なのでしょうか?  ★ 自然へ挑みのリビドー  ☆ リビドーは おおきく人間の自然本性のうちの――身と心の総体としての――欲動のようなものだとすれば むしろ《自然》としてのチカラもしくはハタラキだとも見られます。   でもこのリビドーが 自然に対して挑み 記号などの文化をもたらした原動力である。ということなのでしょうか?  そこんところなど まだよく飲み込めていません。  ゆっくり考えたほうがよいのでしょう。というわけで わたしにとっても しばしおあづけです。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄を承けて継ぎます。  まづひとつ疑問があります。   ★ 立つことができない草食男子の虚無感が・・・  ☆ 世に言う《草食系》というのは 要するにナンパをしないという意味ではないのですか?  さて 欲動ないし本能でしょうか リビドー論。  どうも誤解しているかも知れないのを覚悟して――申し訳ありませんが―― 応答してみます。  ○ 人間は 動物にそなわる本能は おおむね 壊れていると言われており その意味するところに関する限りで 《自然》からも離れている。このとき 果たして原始の自然とも言うべきかたちの――それも含まれると思われるごとく――人間性は 消えてなくなってしまったのか?  ☆ この問いに対して そのとおりだという見解が出されているが それは一概に決められないであろうと論じられた。こう捉えてみました。  本能がこわれており その状態にあっては人間は じつは言葉を持ったそのときから すべてが――動物の世界がひっくり返るかのごとく――《非自然》すなわちその意味での《文化》なる状態に入ったのだ。こう説くのは ソシュールの《言語記号の恣意性》説をさらに応用して打ち立てた丸山圭三郎の理論です。    動物は みづからにとっての世界を 一般に本能によって《身分け》というかたちで知って生きるのだと言います。身の知覚によって 獲物をわが獲物として捉え(認識して) これを食べて生きる。草が毒を含むか否かをも 身の知覚で分ける(つまり その限りで 分かる)のだと。  ところが 人間は 《ことば》をもったその日から すべてが この言葉の世界に入り込んだのであり それは 《身分け》の世界から言わば足を洗い すっかり別の世界に入ったのだと。つまりは そのあたらしい世界とは 《言分け》によって生きる場であり したがってそれは《非自然= つまり 文化》一色の世界なのであると。  ★ ~~~~  自然へ挑みのリビドーがイメージ化させ抽象化させ記号化させ  人間のコミュニケーションに入り込んだと。  だから原始以来の記号はくつがえすことができないし。  ~~~~~~  ☆ このくだりをわたくしなりに解釈すると 上のようになりました。  しかるに このような《文化人 ホモ・クルトゥラリス》であっても あたかも《身分け》が出来るかのような原始自然の状態を願うものだということであろうか?  ★ ~~~~  マスターベーションが自然への挑みでないとどうしていえるのか。  偶像を生み出して氏子信仰を崇拝する行為はまさに挑みの爆発で はないか。  立つことができない草食男子の虚無感が、今現代においても オタクカルチャーでそれを爆発させているではないか。  立つことができない男は、抽象化させた偶像を作りだし、  同じように女も、抽象かさせた偶像を作りだし、  それはいつでも原始にかえることができる、または帰りたいと  いう情熱ではないのか。  ~~~~~~    言語記号の恣意性なる説では 言語記号すなわち個々の《ことば》が 互いに何らの自然的かつ論理的なきづなを持たないと言います。すなわち ここでも言葉の世界は 非自然でありその意味での文化(ないし 人為)の世界なのだと。  これに対して 批判をしたのは ぶらじゅろんぬくんです。  言葉は その発音において ヒトの発声のあり方という自然と 断絶しておらず つながっていると論証しました。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html  【Q:name と名前 は同じ発想か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5761266.html  ☆ 二つ目のほうでは あなたがお相手してくれました。  論文というには まだ不備があるのですが かなり批判として迫っていると思います。  ★ ~~~  1+1=2っていうのは何なんだ。  っていうスレがでていますよね。  ~~~~~  ☆ 【Q:現象】のそれですよね? じつはまだこれは よく分からないのです。解説して欲しい。    こんな感じになりましたが 世の中 試行錯誤で行くこととします。  

回答No.26

「実務にいそしめない」って言った教育カテのもと先生という人は、 確か「子供のいじめ問題」にわずらわされたくないというようなこと を言っていたと思いますが。変だと思いませんか、実務とはいったい どっちなのかって話ですよ。知識を増やしてスキル上げてより優秀な 先生といわれることが真の目的なのか、現実の子供とのコミュニケー ションで問題に突き当たったときに何が問題なのかをよく理解したいが 為に、スキルを上げたくなるのかという、本末転倒におちいって真の目的 を失い欠けているというのは、それはどこの組織でもきっと同じような 状況だと思いますよ。 そして、それは個人の問題ではないと思うんですよね。 ブロジェロンヌさんのいう「空気の問題」だと思いますよ。 そのふたをあけるには、競争に軸足が行きすぎているインセンティブをもう 少し、別の方向に変換するようにしないと、結局は全体的な生産性はあがら ないんじゃないかということです。 大企業が注目しないような、下請け中小企業は実は外国企業からの需要は多い とかそういう話だって、足下がぜんぜんみえていないってことじゃないですか。 本当にいいんですかね。

bragelonne
質問者

お礼

 温泉のごとく湧き出して来ますね アイディアと言いますか問題提起と言いますかが。  ご回答をありがとうございます。  分かりました。そして 今度も やぶにらみからの一つの視角をのべて 問題解決に向かうことが出来ればと思います。  けっきょく ひとつの見方として 膿は出してしまわないと なかなか あたらしい情況は生まれがたいですね。  そこがわるい ここがいけないと――まづは問題を取り出して そのあとは―― 解決策をいい意味でもわるい意味でも作文して それをおしつけるとか それにみながのっとろうとまじめに進めるとか そういう方策では 埒が明かないのかも分かりません。  いい意味での解決策も出されると思いますし たいていの人びとはまじめにそのいい内容を実施に移そうとすると思います。でも いまの社会の経済的かつ共同自治的な情況では それが・それも 空回りしてしまうのかも分かりません。  クウキの問題――アマテラス病(お上意識)によって人びとは骨抜きにされてしまっているかも分からないという問題――と そしてやはり世界経済・たとえばガリ勉のグローバル化の情況なる問題 このふたつでしょうか? この二つの問題情況からして ふつうのまじめでまともな方法が 効かない。    わたくしは 小さいときから 能天気人間で来ましたから こういう状態というのが 分からないのです。なんでそんなふうに あたまの中がモヤモヤ・ワールドになってしまうのか? 何の問題もないのに わざわざ紐が絡みに絡んだ問題情況としてしまうのか? なぜそういうふうに むしろ 見ようとするのか? なぜ わざわざモヤモヤ・ワールドの中へ 入って行きたいのか?   能天気人間というのは 言わばいまの言葉では リセット人間です。いつも白紙状態になっています。  クウキの問題もそうですが ひとつには――けっきょくそのいま向き合っている相手が すでにそうなってしまっているから それを真似てするのですが―― ふんぞり返った姿勢でものを言ってやればよいわけです。  意識の排泄をともなうガミガミ電波は そんなに 憂さ晴らしになりますかねぇ? と言ってやればよいわけです。ときには 下手に出て アース役はつらいよ なあ おいちゃんとでも言ってやる。  キャピタリズムの経済運動は 個人のチカラではどうしようもないですから でもそれでも ガリ勉資本主義は 勤勉が自己目的となった資本の自己運動である。もはや人間たる要素は ほとんどなくなった。いや むしろ 《資本なるもの das Kapital 》が そこの資本家市民さんよ あなたという人間に乗り移った。あんたはそれに成りきった。《キャピタル》が肉となって地上に下り来たった。  (ちなみに こういった内容のアニメなどは 出て来ているんでしょうか?)  クウキの圧力をともにかぶるのも 互いにチカラが分散してわるくないのかも知れませんが もっと自由にしようと思えば 情感の共同性において この《キャピタル人間 ホモ・キャピタリス(ホモ・キャピタリスミー)》の諷刺画や諷刺小説でも書いて それをみんなでいじくればよい。  日本人は諷刺は へたですかねぇ?  学校の先生には もっとおおらかに 余裕をもってと言いたい。それを 学生が言ってやらなくちゃぁ。

bragelonne
質問者

補足

 ★ 空気の問題  ☆ これは 山本七平の『空気の研究』で明るみに出たことと思います。  じつはわたしはこれを読んでいません。ほかの著書は 十数冊読んでいると思いますが。  もともとすでに小学生の頃うすうす感づき そして中学でも高校でも感じていましたが そしてけっして探究したということはまだいっさいなかったのですが この問題には むしろ自分が巻き込まれていたというのが 実際だと思います。  その頃には 《雰囲気》という言葉で捉えていました。雰囲気にのまれるとか 雰囲気に圧倒されるとかいう場合のそれです。  そうして はっきり分かりませんが わたしが二十歳代だったかもう少しあとだったかのときに 山本七平の本が出ました。あぁ 《雰囲気》のことだなとピンと来て しかもそれなら知ってらあと思って ついぞその本を紐解かずに来たという経歴です。変なプライドの所為でしょうね。  けっきょく 人がふたりいるというなら その場は すでに磁場となっている。そしてそこから 二人いるということは どちらかが目線が上になるということを一般に意味し けっきょく上下関係としての雰囲気ないしクウキがただよう。こういう情況だと思います。  例の――それとしては中立的な――情感の共同性が まだ活きていますから クウキの伝播なら たやすくそれに乗って 火を見るより明らかな結果を生みます。  たとえば 欧米人は 人と人が会うなら まづ握手をします。あるいは 軽いキスをします。この挨拶の手段が 日本人にあっては まづ磁場の形成とそこにおける――初めましての場合には 探り探りの――目線のあり方の形成である。  肩書きがすでに分かっていたり だいたいは社会的な身分が見て分かるようにすら日本人はなっていますから 目線の上下関係というのは 探り探りと言っても 複雑でもなければ困難なことでもありません。  むしろおのづと 眼差しをそそぐ側とそそがれる側とに 分かれます。そういう社会力学が すでにじゅうぶん《自然に》はたらいています。これを称して ――まったく気にならないほどでありますから――クウキと言うようです。(と山本も言っていると推察します)。  握手やキスの代わりに クウキ電波のやり取りがある。これが 日本人どうしのあいさつの方式です。これをきちんとおこなうのが 礼儀にかなう社会人だとなります。  むろん 職場でもどこでも あいさつのあとも クウキがその場を支配します。  白紙状態なるリセット人間は なかなか こういう場にはいづらいのであります。いえ こちらは 何でもないのですが 何でもない顔でその場に居続けると 目線が到るところからやって来て おまえの眼差しは 上から目線なのか下のものか はっきりさせろと言うわけです。あるいはつまり すでにこの場では ボス(その場にいない場合でもそのボスの意向を受けた代理たるボス)の目線が決まっているのだから これにあわせよという命令電波がやって来るという寸法です。  つまり 握手やキスの代わりに このようなクウキ電波が 縦横無尽に伝播して来ます。まるで 映画館で映画を見ているようなスペクタクルです。  というようなことですかねぇ。  

回答No.25

アイデアは、公共心(内外の利益)と積み上げたスキルからで るものですよね。生意気さは、公共心をもった生意気さに変わ っていかなければならないし、公共心は顧客に向けた公共心に 軸足がなくてはならない。そのためのスキル不足を補っていか なえればならないはずだけど、それは、ある程度ラフな関係の 中で経験をつむことでしか得られないはず。 得意分野は得意な人にというのは、まさに中間管理職の重要な 雑務ですよ。 ライバル心が向上心になるのはいいことですが、今の現状だと それが、公共心をもったライバル心になるのは難しいでしょう。 人材を育てることは、公共心からくるものですが。 大きく国内に目を向けて、そういう機会にめぐまれない若者が 増えることを問題にしないということは、公共の利益を生産物 に反映できないってことになります。 やっぱり駄目ってことですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回は やぶにらみからのご返答です。  ★ 公共心(内外の利益)  ☆ といった概念は あやまちうるスサノヲ人間語から出て来たものでないと なかなか 相手も自分もしっくり来ず心で納得いくものにならないと思います。  アマテラス科学語やアマテラス人格語は いいことを言っているのですが その中身はなかなか土地を潤し根に水をやるまでには到らない場合があります。  誰もが同じく認識すると言われる科学語だって 社会科学や人文科学では やはり学者によって仮説が違って来たりします。人格語の場合は 口先と腹の中とが違っていても そのとうとい倫理規範を表現することが出来ます。  《公共心》だって 同じだという場合があります。うわっつらのことだけに終始するような場合です。  ということは 若い内は どしどしやりたいことをやらせるのが――余裕のゆるす範囲ででしょうが――いちばんだと考えます。  あやまち得て おのれの考えと欲求の丸出しのかたちでのスサノヲ人間語を どこまでも追求させるのもよいと考えます。  つまりは おのづと自己教育になるという意味です。自分で自分をおしえることになる。そこから 他者を容れた普遍的な内容を問い求める共生のための公共心も 養われて来ましょう。  ということは 高校生までにおいてそういった訓練やらの経験を積んでおくとよいということかも分かりません。  ★ ~~~~  ライバル心が向上心になるのはいいことですが、今の現状だと  それが、公共心をもったライバル心になるのは難しいでしょう。  ~~~~~  ☆ なんで人びとはこんなに内向きになってしまったのでしょう?    われわれは 魂が去勢されていましょうか?  

回答No.24

若者の就職率はどうなるんでしょうね。 一生懸命勉強してパイをもらえた人は、内面は若者だからスキゾ だと思いますが、外面はきっと違うでしょうね。 「パイの分配」とかここでよく見るそういう言葉は、やっぱり せっかくもらったパイを離したくないともとれますよね。 賢い若者は、「無知の無知」を悟られないように、努力を怠らない でしょうが、経験による「無知の知」は「無知の無知」をさらすこ とでしか得られません、だけど、そうするとパイを手放してしまうか もしれない。こういう負のスパイラルが考えられます。本当は、得意 な分野は得意な人に任せようっていう大らかさも必要なんだろうけど 若いときはまだそんなことまでは気が回らないのが普通だし本当は初め の頃はそれでいいんだけど、生存競争が激しければ、ずっとそういう 社内モラトリアム状態はつづくだろうし。「実務にいそしめない」って いう、もと学校の先生の言葉も、きっと内側のスキルにばかり目を向け ざるを得ない環境だってことじゃないでしょうか。 なんか、こういう話ばかり聞くと本当に競争原理だけが生産性をあげ るとは、かならずしもいえないんじゃないかと私には思えてくるんだ けど、もうどうしようもないんでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  雇用の問題ですね。  完全雇用というのは 一定程度の失業率がある状態だとは思うのですが  ★ 若者の就職率はどうなるんでしょうね。  ☆ ということは おおきな問題なのでしょうね。これからというときですから。  一品種大量生産において見込み生産かつ販売という体制だからでしょうか 経営方針を市場の変化に応じて変えなくてはならない。それにつれて 雇用についても調整することがある。  ということで  ★ ~~~~  なんか、こういう話ばかり聞くと本当に競争原理だけが生産性をあげ  るとは、かならずしもいえないんじゃないかと私には思えてくるんだ  けど、もうどうしようもないんでしょうか。  ~~~~~~  ☆ に行き着く。と言ってしまえば身も蓋もなくなるようなのですが。・・・  実際に  ★ 生存競争が激しければ  ☆ といった情況をわたしは 知らないと言いますか 現場から離れて来ていますから なかなかいいお応えを返せないでいますが 次のようにそういった情況からは 《負のスパイラル》が生じているのでしょうか?  ★ ~~~~  賢い若者は、「無知の無知」を悟られないように、努力を怠らない  でしょうが、経験による「無知の知」は「無知の無知」をさらすこ  とでしか得られません、だけど、そうするとパイを手放してしまうか  もしれない。こういう負のスパイラルが考えられます。  ~~~~~~  ☆ とんちんかんなことを話題にしますが かつては ライワ゛ルを持ったというとき そのライワ゛ルどうしは あんがい友情というような感情をも持っていたようだと思います。  《競争》は おおいにするのですけれど。そして蹴落とすことさえあったかと思いますが 負けたほうも 言わばそれでも互いに自由で対等であるという関係を保つ。だから握手して 別れる。またあらたに 離れた状態であっても別のかたちで競争を始める。  つまりあるいは われわれがそういう人間関係のあり方を想い描いていた。かのように思います。  けっきょく《パイの分配》は 一度や二度失敗してもまたあらたな分配の中に入って行けると思っていただけかも知れませんが。  ★ ~~~~  ずっとそういう  社内モラトリアム状態はつづくだろうし。「実務にいそしめない」って  いう、もと学校の先生の言葉も、きっと内側のスキルにばかり目を向け  ざるを得ない環境だってことじゃないでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ そうなんですか。《実務にいそしめない》で 生存競争としての人間関係が人びとを覆っているのでしょうか。  ★ 内側のスキル  ☆ って そういった内面における葛藤のようなことをいつも処理していなければならないそのための方法でしょうか?  つまりもっと言えば 人と人との関係が そんなにうわっつらだけのものになってしまっているのでしょうか?  ★ 一生懸命勉強してパイをもらえた人は、内面は若者だからスキゾだと思いますが、外面はきっと違うでしょうね。  ☆ つまりスキゾなんですか? 外面はきわめて社交的である。しかし 内面は何を思っているか分からない。つまり 互いの競争ばかりがあたまにあるから あとで何が飛び出して来るか分からないといったような?  ★ ~~~  本当は、得意  な分野は得意な人に任せようっていう大らかさも必要なんだろうけど  若いときはまだそんなことまでは気が回らないのが普通だし本当は初め  の頃はそれでいいんだけど、  ~~~~~~  ☆ なのでしょうね。つまり《おおらかさ》。武士は食わねど高楊枝 ですかね。むかし やせ我慢の説というのもありました。  ★ 経験による「無知の知」は「無知の無知」をさらすことでしか得られません  ☆ ぜんぶ《無知》でいいぢゃないですか。どこまでも無知なんだでいいぢゃないですか。互いにそう言い合っていけばいいぢゃないですか。ここでも。(OKWaveでも)。  問題提起を受けての答えになっていない返事になってしまいましたが。

回答No.23

そうですね。企業も間接コストよりも直接コストの方に強みがある ところは、積極的にオフィスを地方にうつしたり、IT化を躊躇な く進めている傾向があるようですね。結局、本当はグローバルな視点 でみても、こっちの方が正解なんじゃないかと思います。 そういう現場主義的な面が残っている企業は今後も生き残るだろうから、 法人税とらないで誘致したいぐらいですね。 インタラクティブな考えとは、主に資源やエネルギー視点においてですが 例えば、赤字路線なんかを予約制にして、最適なダイヤを前日とかに決め てしまうとか。道路をメンテナンスしやすい最適なグリッドの資材に標準化 するとか。発電とかも10パーセントは絶対捨てていることと、送電ロス を考えて、最適な規模と分散化を考えるとか。限られた資源であくまで、 常に人間の行動にあわせた最適な効果を計算していくようなイメージです。 バリアフリーもより人間側に近い方(車いす側)で制御すれば、どこだって いけますよね。 そういう意味でも、ブロジェロンヌさんのいうインタムライズムのような 考えは、本当に人間にあわせたグローバル化といえるのかもしれませんね。 若い人には大志をもって経験をつんでもらって、いつでもかえっていいよ みたいなのが理想的なんですけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 積極的にオフィスを地方にうつしたり、IT化を躊躇なく進めている傾向があるようですね。  ☆ あぁ それでやって行けるのなら そのほうが日本にとってはよいでしょうね。雇用が保たれるのなら。    ★ そういう現場主義的な面が残っている企業は今後も生き残るだろうから、法人税とらないで誘致したいぐらいですね。  ☆ そこは ムラと企業との連携であり 話し合いで行くのでしょうね。ただしお偉方に任すというのも だめでしょうね。上前を撥ねることしか考えていない場合は困ります。  そういう場合 どうなんでしょう? たとえば主婦の人たちが そういう交渉に列席してきびしく監査するといったこと。これは うまく行きますか? 主婦たちも丸め込まれてしまうのでしょうか?  ★ ~~~  インタラクティブな考えとは、主に資源やエネルギー視点においてですが  例えば、赤字路線なんかを予約制にして、最適なダイヤを前日とかに決め  てしまうとか。・・・  ~~~~~~  ☆ そうでしたか。自治体どうしの連携のことかと思ってしまいました。ムラ(自治体)もかかわってはいますね。  ★ ~~~~  そういう意味でも、ブロジェロンヌさんのいうインタムライズムのような  考えは、本当に人間にあわせたグローバル化といえるのかもしれませんね。  若い人には大志をもって経験をつんでもらって、いつでもかえっていいよ  みたいなのが理想的なんですけどね。  ~~~~~~  ☆ そうですか。初めてほめられた思いです。

回答No.22

便利さを追求すれば、確かに他者との関係性は薄くなっていくの だろうが、生活コストの圧縮は必須の課題である。 個人的には、そのために、労働者の賃金を押し下げてていくのは 倫理的にも、風土的にも適していない気がします。 中間コストの圧縮やエネルギーに頼った生産性をあげるのが、やはり 望ましいのではないかと。 その為にはエネルギー開発と、分散化とインタラクディブ化によって、 中間コスト圧縮と省エネルギー化を同時に進めて、共同体自治と自然環境 を整えることで公共心を補い、そこから開発された優良なもので外貨を獲得 するというのが、いいんじゃないかと勝手に考えてはみたんですけどね。 どっかにむりがあるかもしれませんね。 ちょっとあきてきましたね。 もうやめますか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。そういうことをも――コスト削減といったことをも――考えていますか。新興国との価格競争では 大事になりましょうが。  もっとも無駄をなくすというのは つねに心がけねばならない。財政危機に面してもいる。  ★ エネルギー開発 / 省エネルギー化 / 自然環境を整える  ☆ これらは 専門家にまかしています。ここでは 回答者のお考えを聞くことに徹します。    ★ 分散化とインタラクディブ化 / 共同体自治  ☆ この課題にかんしては  ○ インタムラ(村)イズム  ☆ という考えを持っています。例のアマテラス公民圏のフタが取り払われる方向において その取り外しがかなう前にも それぞれのムラ(市町村)はすでに 自分たちとしても・また互いの連携においても 経済・文化の両面において交流し協力するという行き方です。  これには 企業をも巻き込んで行かなくてはならないと思います。  そして インタナショナルなインタムライズムにして行かなくてはなりません。  ★ そこから開発された優良なもので外貨を獲得するというのが、いいんじゃないかと勝手に考えてはみたんですけどね。  ☆ いまでは BOP ということが言われ出していますね。ベース・オブ・ピラミッドつまり 低所得者階層も 経済活動の一端を或る程度の比重を占めるまでにになうという経済の連携のかたちです。  ということは あまり外貨の獲得やら利益やらが望めないようなのですが けれどもこの運動は 息の長いものになるかと思われます。そのようにして たとえ大きな利潤があがらなくても 過疎のムラであってもそこに住む人びとが いくらかさらにゆたかで健康な暮らしを送ることができるようになれば それで世界は しあわせになります。その一歩 その一ミリの向上の努力も無視することは出来ない。  それもこれも 国際的なムラムラの連携が どれだけ自由に 人びとの生活基盤において 出来あがって行くかにかかっていましょう。ひとつのムラは 国内はもとより世界各国に 数か所のムラムラと連携することができればよいでしょうね。どないでしょう?