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本能寺の変について

本能寺の変について、いくつか知りたい点があります。 主に織田信忠についてなのですが (1)どうして信忠は妙覚寺にいたのか (2)長益(有楽斎)はどうやって脱出して岐阜までたどり着いたのか(脱出経路が特に知りたいです) 【これが特に知りたいです】 (3)畿内に信忠に救援の兵を送れる部隊はいなかったのか (4)なぜ二条御所に篭ったのか(信忠は誠仁親王を脱出させるために二条御所に向かったのでしょうか?光秀は誠仁親王を逃していることから、信忠がいなかったら二条御所に大挙して攻め寄せることも無かったと思うのですが、どうなのでしょう…?) (5)本能寺に明智兵が押し寄せている、との報を受けて二条御所包囲まで、どれほどの時間が経っていたのか (6)家康はどれほどの兵、家臣を連れて堺をウロついていたのか(伊賀越えの前) (7)そもそもなぜ二条御所は誠仁親王に譲られていたのか (8)もし、中国大返しがなければ(つまり羽柴と毛利の停戦)、長宗我部はどんな動きをしていたと思いますか? (9)安土城炎上までの流れを教えてください (10)信長弑虐の報せを聞いた後の蒲生賢秀の行動を分かる範囲でお教えください の、以上の点について知りたいです。 すごく気になります……。 分かる部分だけでも良いので、どんどんお願いします!

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  • fumkum
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回答No.6

(8)もし、中国大返しがなければ(つまり羽柴と毛利の停戦)、長宗我部はどんな動きをしていたと思いますか? 中国大返しが無くても長宗我部の行動は同じだったのではないかと思います。、四国統一が完成したわけでもなく、また再度の四国侵攻作戦は考えられますので当分は四国の統一に邁進したことだと思います。歴史の事実として、天正10年の本能寺の変の時点で四国内で長宗我部に従がっていなかった地域は、阿波と讃岐の一部で、ここを拠点に旧族の三好氏を中心に抵抗を続けていたに過ぎませんが、織田軍の来攻が現実のもとにあったわけで、それに期待して長宗我部氏に対する反抗も強くなっていたようです。しかし、本能寺の変と信孝の四国進攻軍の四散の報が伝わると、抵抗を続けていた者達は弱気になり、長宗我部軍は強気に攻勢に出て、阿波の中富川合戦、勝端城攻めなどで敗れた阿波三好宗家の三好(十河)存保は讃岐に敗走します。また、三好式部少輔は城を攻め落とされ、この時点で阿波はほぼ長宗我部氏の支配に屈することになります。讃岐については、阿波から敗走した三好存保を中心に抵抗を続けますが、これも天正12年に三好存保が拠点とした虎丸城を落とされ、秀吉のもとに亡命して讃岐も長宗我部の支配に屈します。 ただ、中国大返しがなくとも北陸の柴田など同様で、秀吉は中国から兵を引いた=拠点とする播磨まで引いたと思います。引かなければ、対峙している毛利軍と十分対抗できる兵力を有していても、人心の動揺、補給の不安、宇喜多氏の向背の不安などがあって、戦線を維持できなかったのではないでしょうか。その時点で毛利氏と妥協が可能だったかどうかは神のみぞ知るでしょうが、宇喜多領国を中立地帯として、山陽筋は播磨は確保できたのではないでしょうか。 ともかく、毛利と秀吉の停戦・休戦がなれば、毛利氏は長宗我部にとって伊予の領有をめぐる潜在的な脅威ですし、逆に毛利から見ると長宗我部は同じ存在でしょうから、よほどの妥協ができないと、軽々に長宗我部が四国を出て、畿内に攻め込むことはできなかったのではないでしょうか。特に、後年の天正12年の小牧・長久手の戦役で、秀吉、家康共に日本全土を視野に入れた外交戦を展開しますが、この中で長宗我部は家康・雑賀党と結び、淡路・大坂進攻を約しますが、現実には秀吉側の防御策により、進攻することができなかった経緯があります。 (9)安土城炎上までの流れを教えてください。 6月2日巳の刻に本能寺の変の噂が流れ、その後確報が入り、城下は混乱する。武士の中には本国・本領に退去する者も多く、夜になり山崎片家が自邸を焼き、退去。 6月3日未の刻に蒲生賢秀が信長の家族などを連れて、居城の日野城に退去。安土城は一部の留守居役によって確保されるか。 6月5日明智光秀安土入城。城中に貯蔵されていた金銀財宝を配下に配布。 6月8日光秀は安土の留守を明智秀満に任せて上洛。 6月12、13日に織田信雄が安土に進出し、秀満軍と対峙するとの説あり。 6月13日秀満が山崎の合戦の後詰のために安土城を出るとの説あり。 6月14日秀満は山崎の合戦の結果を知り、安土城を出るとの説あり。 秀満安土退去後、織田信雄が入城。 火を付けた者については、諸説ありますが、明智秀満説、織田信雄説、掠奪のための土民・野武士説、落雷などの自然災害説が主要な説です。 秀満説=『惟任退治記』 「又安土明智弥平次在城。聞届惟任敗軍之趣。彼鏤金銀宮殿楼閣。一度焼払之。」 信雄説=『イエズス会日本年報』 原文が見当たらないので要旨ですが、おおよそ「信雄の智力が足らないためであろうか、城の中心部に火を付け、また町にも火を付けた」 (10)信長弑虐の報せを聞いた後の蒲生賢秀の行動を分かる範囲でお教えください 『信長公記』の関連の記述は次の通りです。 「(尾張・美濃を本国とする者は本国に向い、山崎片家は館を自焼して落ちるなど)弥騒ぎ立つ事、小体なし。蒲生右兵衛大輔(賢秀)、此の上は、御上臈衆、御子様達、先づ日野谷まで引き退け候はんに、談合を相究め、子息蒲生忠三郎(氏郷)を、日野より腰越まで御迎へとし、呼び越し、牛馬・人足等、日野よりめしよせ、六月三日、未の刻、のかせられ候へと、申され候。-中略・上臈衆から天主の金銀財宝を取り、火を懸け、退散すべきとの提案を拒否して-退き申され候。」 ただ、移った先の日野城は改修半ばで防御力に欠けるということで、蒲生賢秀は息女を織田信雄のもとに人質として送り、後援を願ったとされ、それもあって信雄は日野に近接する土合まで出兵したとされます。 なお、6月4日に蒲生父子に飛脚により出した書状が残っており、4日の時点で蒲生父子が君達と日野城にいることが家康に知られていることが分かります。 以上、長くなりましたが参考まで。

  • fumkum
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回答No.5

(4)なぜ二条御所に篭ったのか(信忠は誠仁親王を脱出させるために二条御所に向かったのでしょうか?光秀は誠仁親王を逃していることから、信忠がいなかったら二条御所に大挙して攻め寄せることも無かったと思うのですが、どうなのでしょう…?) (5)本能寺に明智兵が押し寄せている、との報を受けて二条御所包囲まで、どれほどの時間が経っていたのか (7)そもそもなぜ二条御所は誠仁親王に譲られていたのか 誠仁親王は正親町天皇の嫡男で、立太子礼は行っていませんが儲君とされ、皇太子に准ずる地位にありました。ただ、実態は皇太子以上で、禁裏に居住する正親町天皇を上の御所と呼び、二条新御所に居住する誠仁親王を下の御所と呼んでいますし、天皇に準じて公卿を当番制にして誠仁親王の二条新御所に詰めさせています。さらに、政務に関しても、誠仁親王のもとで行われることも多いとされ、信長に対する三職推任に関しても、誠仁親王が勅使の公卿と打ち合わせをしたとする史料もあります。 二条新御所ですが、これは信長が、京都に滞在する時に、従来妙覚寺等に滞在することが多かったことを変更して、摂関家の二条家の邸宅を召上げ、そこに京都滞在用の邸宅を築いたのが二条新御所の端緒です。天正5(1577)年には完成したとされます。それを天正7(1579)年に誠仁親王に献上し、信長自身は本能寺を京都滞在中の宿舎として使用するようになります。なお、妙覚寺・二条新御所・本能寺については周囲を堀が囲み、石垣もめぐらされていたとの説もあり、それぞれにある程度の防御設備はあったもののようですが、二条新御所は武家御城とも呼ばれ、防御面では京都内で一番すぐれていたとされています。 さて、二条新御所が誠仁親王に献上された理由ですが、はっきりとしたことが分かっているわけではありませんが、次期天皇を取り込む、誼を通ずるということだと思います。正親町天皇の譲位を信長側が言いだしているために、正親町天皇を排除することを目的としたとするような論調を見かけますが、当時の朝廷では、院政があることが本来の姿であるとの認識があります。しかし、室町・戦国時代には譲位に伴う新天皇の践祚・大嘗会などの即位の費用を捻出することができず、譲位ができない=院政が開始できない=新天皇が即位できない状況にあり、誠仁親王が儲君で准天皇、正親町天皇が准上皇という形で、譲位・即位を経ない、実質的な院政状態にあったとも言えます。 『信長公記』に、信長の切腹に続いて、次のような記述があります。 「三位中将信忠、此の由きかせられ、信長と御一手に御なり候はんとおぼしめされ、妙覚寺を出でさせられ候ところ、村井長春軒父子三人走り向かひ、三位中将信忠へ申し上げ候趣、本能寺は早落去仕り、御殿も焼け落ち候。定めて是れ(妙覚寺か)へ取り懸け申すべく候間、二条新御所は御構へよく候。御楯籠り然るべしと申す。これに依りて直ちに二条へ御取り入り、三位中将信忠、御諚には、軍の巷となるべく候間、親王様、若宮様、禁中へ御成り然るべきの由、仰せられ、心ならずも、御暇請なされ、内裏に入り奉り、爰にて僉議区(せんぎまちまち)なり。引き取りて退かれ候へと、申し上ぐる人もあり。三位中将信忠御諚には、か様の謀叛によものがし候はじ。雑兵の手にかかり候ては後難無念なり。爰にて、腹を切るべしと仰せられ、御神妙の御働き、哀れなり。左様ところに、程なく、明智日向が人数着き懸け候。」 この記述によると、信長を救援しようと信忠が妙覚寺から突出すると、京都所司代で、本能寺の周辺に邸宅があったとされる村井貞勝は走ってきて、本能寺はもう落ち(信長は死去したことを暗示)、明智軍はこちらに向うだろうことと、二条新御所は「御構へよく候(防御がよい)」として、立て籠もるのがよいということで、二条新御所に入ったことが記載されています。 二条新御所には誠仁親王父子が住んでいるわけですから、親王に御退去願うことになります。信忠が二条新御所に立て籠もらなければ、二条新御所は明智軍に攻められることはないわけで、親王は本能寺の変のとばっちりを受けたとも言えます。なお、親王退去については明智軍との了解がついて、まず親王が午前8時頃(公家の日記などからの時間で、親王に付き従っていた当事者の公家もいたので割と正確であると考えられます)に退去され、退去後すぐに戦闘が開始され、9時頃には終了したとされます(その他、正午頃に戦闘が終了したなど多くの説があります)。仮に二条新御所に明智軍が到着した時間が、親王が退去するための交渉や実際に移動にかかる時間も考えて7時30分頃と仮定できるのではないでしょうか。また、『信長公記』の記述から見ると、二条新御所に移ってから、軍議の時間があったようで、脱出の時間はとれたように思えます。 本能寺の方は、寅の刻(午前4時頃)頃、または夜明け頃に明智軍が本能寺に突撃したとはされます。変当日は、旧暦天正10年6月2日で、新暦の6月21日にあたります。現在の京都市の6月21日の日の出は、4時43分だそうです。『信長公記』には、「(明智軍が」桂川打ち越し、漸く夜も明け方に罷りなり候」とあり、桂川を渡ったあたりで明け方早くですので、それから本能寺まで移動して、包囲の陣立てをする時間なども考えると、攻撃の開始は夜明け頃になるのではないでしょうか。フロイスの『日本史』では、「明智は天明前に三千の兵をもって同寺を完全に包囲してしまった。」としています。 また、クーデターですので、信長を取り逃がすことの無いように本能寺の周りを取り囲み、人物の見分けがつきやすい夜明けを待って攻撃を開始したと考えられます。とすると、おおよそ5時前に攻撃に移ったことになります。信長の周りには諸説ありますが100名以下の武士しかいなかったとされます。大軍の明智軍の攻撃を受けて長時間持ちこたえることは難しいでしょうから、1時間ほど後の6時頃には戦闘は終了したものと考えられます。ことによると、もっと早く終了したのかもしれません。 仮に6時頃に決着がついても、それから7時30分頃までに1時間30分ほどあります。直線距離で1km程(二条新御所の場所が確定していないので正確には分かりません)。実際に移動する距離としても2km程に1時間30分もかかるとは考えられません。当然偵察、部隊の展開等にも時間を取られることもあるでしょうが、信忠が二条新御所に入ったことが分からず、妙覚寺をめざし、途中から二条新御所に入ったことが分かり進路を変更することに手間取った可能性もあると思います。そのように考えるのは、フロイスの『日本史』に、「彼(信忠)がこの報告に接した時には、まだ寝床の中にいたが、急遽起き上がり、宿舎にしていたその寺院は安全でなかったので、駆け付けた武士たちとともに、近くに住んでいた内裏の息子の邸に避難した。」とあり、信忠は急遽二条新御所に移ったような記述ですので、明智側が移動の情報を掴んでいなかった可能性もあると思います。 また、本能寺攻撃時に別働隊をもって妙覚寺を攻撃したとの説がありますが、『信長公記』や『日本史』の記述を見る限り、信忠が二条新御所に入る以前に襲撃された様子が見えないことです。別働隊の到着が遅れたとの説がありますが、信長襲撃に集中して、信忠については物見だけ、信長と同時に攻撃する計画ではなかった可能性もあるように思います。 ともかく、1時間半程度の時間がかかったことは、桂川渡河から本能寺の攻撃に移るまでの時間と同じぐらいのだと考えられるので、多少手間取ったにしろ妥当な時間であったとも考えられます。 なお、フロイスの『日本史』には、二条新御所での戦いについて、「1時間以上にわたって戦った。」としており、また「信長の世継の息子は、他の武士たちとともに不幸な運命のもとに生涯を終えた。そしてわずか二時間の間に、彼は現世の財宝や快楽と富を残したまま、未来永劫に地獄に葬られるに至った。」とし、戦いの時間の記述に矛盾がありますが、戦闘開始後または二条新御所に入った後、2時間ほどで死去したように記述されています。 (6)家康はどれほどの兵、家臣を連れて堺をウロついていたのか(伊賀越えの前) 30名ほどと言われていますが、それに穴山信君や、信長に付けられた案内役の長谷川竹(秀一)が人数を率いていたでしょうから、50人内外の人数ではなかったかと思います。 さて、家康は本多忠勝を信長との連絡役にしていたようで、当日も家康の上洛の先触れとして忠勝を先行させ、途中で京都から事変を急報するために下ってきた茶屋次郎四郎と遭遇したとされています。

  • fumkum
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回答No.4

(2)長益(有楽斎)はどうやって脱出して岐阜までたどり着いたのか(脱出経路が特に知りたいです) 【これが特に知りたいです】 大久保彦左衛門の書いた『三河物語』に、「小田之源五(織田源五長益)殿と山之内修理(山内一豊の弟の康豊)は狭(さま・はざま)をくぐる、其寄小田之有楽に成。」とあり、二条御所の狭間から、抜け出したとされています(他に水野忠重なども脱出したとされています)。信忠に切腹を勧めながら、自分は助かったと、非常に評判が悪くなったとされ、京童に卑怯として嘲笑されるなど散々の様子で、武名を大幅に下げています。ただ、二条御所落去後、長益は安土を経て岐阜に至ったとされています。ここで、参考になるのが光秀の行動と時間です。 本能寺襲撃後、二条御所を襲撃し、終了したのが6月2日の午前9時頃とされています。その後、4時間ほど本能寺・二条御所で信長、信忠の遺骸を探し、京の市街で落武者狩りをしたとされます。ただ、『信長公記』の信忠、村井春長軒(貞勝)の記述や、京中に宿泊していた織田家臣達の記録を見ると、明智軍が本能寺・二条御所を襲撃の時に、言われるほど厳重に通行を封鎖したようには見えないのです(本能寺を取囲むことは厳重ですが)。明智は本能寺襲撃と同時に別働隊を持って妙覚寺に送ったとされますが、その別働隊の動きがはっきりしません。最初に本能寺を全力に近い形で襲撃し、その後に妙覚寺・二条御所に移ったと考えた方が自然のように思われます。また、二条御所での戦闘が終わるまで、京都内の通行を妨げる動きは弱かったのではないかと思います。ですから、長益が二条御所から逃れ、逃走を図ったとしても、明智軍の囲みを抜ければ、大津方面に抜けることはできたのではないかと思います。ただ、フロイスの『日本史』や公家の日記等を見ると、二条新御所の戦闘が終わった後、京都内で厳重に残党狩りをしたようで、これに四時間ほどかけたとされます。 その後光秀は2時頃(『兼見卿記』)に京都を発ち、4時には瀬田に到着します。ここで、瀬田城主の山岡景隆を味方にしようとしますが、拒否され、山岡は瀬田の橋と城に火を付けて落去します(山岡については『徳川実記』に瀬田の橋を焼いて「追兵を支へ。(家康の)御駕を迎へ賊徒を追払ひつつ。伊賀の闇峠まで供奉せり」となっています)。そのために5日まで瀬田の橋は使えず、光秀は修理を急いでさせています。この5日以降に安土・佐和山(城主丹羽長秀)・長浜(城主羽柴秀吉)城が明智軍の手で占拠されています。逆に言えば、5日までは明智軍の襲撃はなかったことになります。野武士等の略奪などはあったとしても、拠点としての安土・佐和山・長浜城は、5日までは城下や周辺地は別として、城郭は確保されていたことになります。ただ、安土に本能寺の変のうわさが流れたのが2日の巳の刻とされ、比較的早くに噂がながれ、その後京都から逃れた者たち(御下男衆)により、確報が入ったとされ、混乱を極めたとされます。当日の2日には早くも尾張・美濃に本領がある者は家族を率いて退散し(本国を心ざし、思ひ思ひにのかれたり)、夜になると山崎片家が屋敷を焼い(自焼し)て近江国内の本領に引き上げるなどがあり、いち早く武家屋敷が空になりつつあったようです。後述しますが、蒲生賢秀が子息氏郷と連絡を取り、その救援で安土城を退去したのが3日の未の刻とされますので、この段階までは城郭部分は留守居により確実に確保されていたものと考えられます。また、蒲生退去後も留守居の一部は残ったようで、明智軍が来襲するまでは城郭部分は確保されていたものと考えられます(光秀は安土城内の金銀財宝を分配しているので)。しかし、安土城下は早い段階で無政府状態になっていたのかもしれません。なお、長浜城は6月5日に秀吉の妻の寧々(後の北政所)が城を脱出して、伊吹山麓の大吉寺に避難した直後に明智陣営の京極高次等により占拠されたと言われています。 京都から東国、美濃・尾張方面に出る主要街道は、東海道、東山道(山道・中山道)がありますが、東海道は草津で東山道と別れて甲賀の山中に入り、伊勢から尾張に入ります。東山道は草津から北上し、安土近辺を通り、佐和山、長浜から伊吹山麓、関ヶ原を通って美濃へ抜けます。長益が東海道を通るとすれば安土から一旦草津まで戻ることになります。 長益が安土に寄ったとするならば、東海道ではなく、東山道を通って岐阜に戻った可能性もあるのではないかと思います。 特に、東海道筋の伊勢・伊賀は北畠(織田)信雄に支配下ではあっても、伊勢は旧領主の北畠氏系の国人・土豪層、伊賀は伊賀の乱での織田軍の侵入を根に持つ国人・土豪層が多く、本能寺の変をきっかけに一揆が多発し、混乱は光秀敗死後も続いたとされ、信雄も安土救援軍を発しながらも、東海道の宿駅である土合までしか軍を進めることができず、結局日野城に籠城した蒲生氏の後援にとどまっており、その一方伊勢・伊賀内の反乱軍にも対処せざるを得ず、東海道の完全確保は難しかったのではないかと思われます。このことは、家康の伊賀越えと呼ばれる避難行でも、東海道の利用は関-亀山間に留まっていることからも想像されます。(逆に避難行中に、蒲生の日野城籠城の報に接し、書状を届けるなどの史料もあり、意外と移動が可能であった例もあります) ところで、前田利家の嫡子利長(利勝)とその妻である信長息女永姫が、信長に呼ばれて京都に行くために、本能寺の変の当日の2日に近江の瀬田まで行った時に、本能寺の変を聞き、永姫は利長の命で、その場で利長と別れて、前田氏の本領の地である尾張の荒子に行ったとの史料があり、利長はその後蒲生軍または信雄軍(両軍ともに東海道の周辺に存在)に参加したとされますので、永姫は東山道を通ったのではないでしょうか。また、安土に残っていた織田の家臣も本領である美濃・尾張に下る者が多かったとされます。個別に帰った家臣等もあるとは思いますが、知り合いでまとまって人数をそろえ、本国に落ちた者もあると思います。 長益についても、上記の様に安土に寄っているようですので、東山道を通り、岐阜を目指したのではないでしょうか。また、単騎ではなく、安土を退去する一団と組んで帰ったことも考えられます。 なお、フロイスの『日本史』によると、安土及び周辺部での混乱は著しく、安土にいたオルガンティーノ以下の修道士も、避難行の途中で追剥にあい、船に乗って沖の島に避難しようとすればその船が湖(海)賊の船で、身ぐるみはがされ、最後は明智方により救出され、その主城の坂本城に到着するなどの史料もあります。平野部、湖上でも混乱は当然のことですがあったようです。 ただ、光秀が明智秀満を残して安土を去った後の記述や、光秀敗死後の記述の方がより混乱が激しいような書き方です。 安土を去った後の記述=「彼が去った後の安土では、家々の掠奪、強奪、破壊、それに追剥の跳梁以外は何ものも行われなかった。しかも同地のみならず、堺の市(まち)から五、六日の距離にある美濃や尾張の諸国までが、街道や間道において、また街路や町内で、殺人と強奪に明け暮れる始末である。」 光秀敗死後の記述=「かの八日ないし十日の間に、津の国から美濃国にかけて執行された貴人ならびに他の人々の死については述べ得ないほど(多数)である。ある者は敵であるとの理由で殺され、ある者は家財を取るために、他の者は収入を奪うために。そしてその数は実に厖大で、我らの一司祭は、淀川に沿って来る時に、五百の死体が川下に流れて行くのを目撃したほどである。坂本のこの城を占領するためにはなんらの妨害もなかったので、軍勢はただちに安土に向い、同所から美濃と尾張の国に進み、明智に加担した者は一人残らず生命を奪われた。諸説が一致しているところでは、このわすかの日々に、すでに一万人以上の者が殺されたらしい。」 (3)畿内に信忠に救援の兵を送れる部隊はいなかったのか 1日の行程であるするならば、大坂の織田信孝・丹羽長秀軍が救援軍を送るのに十分な兵力と場所を占めていたと思います。しかし、信忠の率いてきた兵力は諸説ありますが、2000程だと言われています。その内二条新御所に籠ったのが500程度だとされていますので、逃亡が相次いでいることになります。現に織田信孝・丹羽長秀軍も本能寺の変が伝わると、軍勢の逃亡が相次いでおり、救援軍を編成できたのか疑問になります。 また、同じ1日の行程と考えるならば、安土に残る留守部隊となりますが、ここでも本能寺の変が報じられると、上記のように尾張・美濃出身の根本家臣・旗本とも言える武士にも本領に帰る者が続出したことからも、信長が討たれた後に、どれだけの人数が集まったのか疑問です。信長が死んでも信忠が生きていることのプレゼンスがどれだけあるのかは未知数ですが。 それ以外は、明智軍を除けば、明智の組下・与力大名の大和の筒井、摂津の中川・高山・池田・塩河(以上摂津の武将は中国出兵を命じられた者)などが有力武将となりますが、明智との関係もあり、信忠救援に向かうかどうかは分かりません。以上考えると信忠が2,3日二条新御所に籠城できたとしても、救援軍が来る可能性は低いのではないかと思います。やはり、信長あっての織田家ではないかと思います。 ただ、最初に書きましたように、信忠が率いていた馬廻りとも言うべき2000が集まり、結束して行動した場合、または早い段階で京都脱出を図っていたならば、信忠にとっての展開はずいぶん違ったものになっていたのではないでしょうか。

  • fumkum
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回答No.3

こんにちは 本能寺の変については諸説入り乱れて定説というべきものはありません。良質と思われる史料を中心に拾ってみましたが、その史料をどのように考えるかもいろいろと説があります。一応質問された内容についてあたっててみましたが、文が長くなってしまい、また読みづらい点も多々あると思います。さらに独自に類推した部分もありますので、以下あくまでも参考ということで。 各質問に回答する前に、主に織田信忠についてなのですが、前提として。 信忠は、1576年に織田家の家督を譲られ、織田家の当主の座にいました。ですから、織田家という枠組みの中で見れば、信忠は当主、信長は隠居の立場にありました。その時に、織田の本拠地とも言うべき尾張・美濃を支配を任されたとされています。また、家督以前から信忠のもとには織田家の旗本的な武士を中心に織田家最大の戦力が配下に結成され、織田の本拠地とも言うべき尾張・美濃を中心に予備軍的な存在と共に、美濃東部を作戦正面に、対武田攻略戦の担当者とも言うべき位置にもありました。そのために、武田家滅亡戦には、総大将として出陣し、最大の功績者と言ってよい戦果を挙げています。その結果逆に甲斐一国支配を任された河尻秀隆のように、配下の武将が論功行賞で武田旧領地の支配を任され、現地に駐屯したために、信忠配下の戦力の低下を招いたとも指摘され、京都入洛時の戦力が2000名ほどだった原因の一つであったとの指摘もあります。この2000名については、織田家の精鋭であり、信長、信忠の馬廻・旗本・警護部隊の性格が強い部隊だとされています。ただ、本能寺の変の時には一か所にまとまって宿営していたのではなく、京都市内に散らばって宿泊していたために、本能寺・二条新御所の戦闘に間に合わなかった者もいたとされます。中には本能寺には間に合わず、信忠軍に加わって戦った者もいたとされます。また、市中に宿泊していたことを幸いに、逃亡した者も多く、そのために信忠のもとには500名程度(諸説あり)の兵力しか残らなかったともされています。ただ、馬廻り2000は少ない人数でもなく、これが結束して市街戦に投入できたならば、展望も違ったのではないでしょうか。 (1)どうして信忠は妙覚寺にいたのか 『信長公記』などを見ると、5月14日に「三位中将信忠卿、御上洛なされ、ばんば御立ち寄り、暫時御休息のところ、-中略-其の日、安土まで御通り候ひキ。」とあります。当日は家康が穴山梅雪と、武田征伐、論功行賞の礼として安土に参向する途次で、同じ番場宿の仮殿に到着している(出立は翌日)状況です。また、5月21日に家康が安土から京都に上洛しますが、同日の『(山科)言経卿記』に信忠が同伴したとあります。その後信忠は妙覚寺に入っています。これ以降本能寺の変までの10日余り信忠は妙覚寺に滞在を続けます。 14日から21日までは信忠と家康と同一的な行動をとっているようにも見えますが、安土での家康への饗応の記録を見ると、信忠の同席は見えないので、6月2日までの時点では、信忠は家康の警護的な立場であったようにも見えます。また、堺見物の時には、織田信澄、丹羽長秀が接待を信長に命じられたこともあり、家康が京から堺に向った5月29日から、堺から京に上る予定の6月2日までは、警護は信澄・丹羽に任されたとも考えられます。 ただ、下記の5月14日以降の信長、家康、信忠の行動・予定について見ると、信忠の行動について2つの考え方ができるのではないかと思います。一つは、信忠は家康と堺、大坂に行き、信長と合流して6月4日に淡路に渡り、四国派兵軍の信孝・丹羽軍を指揮することが当初の予定であり、秀吉から報告があった毛利軍・備中高松城の状況から、急遽予定が変更され、中国・毛利攻めが先行、もしくは四国よりも重要視されるようになったようにも見えます(「御動座なされ、中国の歴々打ち果たし、九州まで一篇に仰せつけられるべきの旨、上意にて」)。となると、信忠は京都で信長を待ち、信長と一緒に中国地方に出陣する予定であったとも考えられます。 今一つが、もともと信忠は京都に滞在する予定であり、家康の滞在中はその警護をし、信長の京都到着後は信長の警護も兼ねて京都に滞在し、その後一緒に大坂、淡路に渡る予定であり、京都滞在は予定の行動であったとするものです。ただ、京都以降の目的地が中国地方が主になったということで、目的が変更になったとも考えられます。 また、6月2日の京都には、織田信長、信忠父子以外に、家康、穴山、そして前田利勝(後の利長)とその妻の信長三女永姫が集まっている予定であったようで、家康、穴山については、さらに奈良に行く予定もあったようです。ともかくも、四国出兵と、家康・穴山の来訪の予定に、中国出兵が重なり、信長自身は天下平定の好機と考えたでしょう。 さて、史料に見る甲斐帰陣後の出来事および予定を抜粋すると次のようになります。 4月21日に甲斐より安土に信長帰陣。5月11日までの間に、信孝に四国阿波国参らせられ、御人数御催しなされ(出陣命令)。 5月11日住吉に至りて御参陣。四国へ渡海の舟ども、仰せ付けられ、其の御用意半に候。 5月14日家康番場宿泊。信忠番場立ち寄り、安土へ・ 5月15日家康安土到着。17日まで家康饗応。担当明智。秀吉からの救援要請に、御動座なされ、中国の歴々打ち果たし、九州まで一篇に仰せつけられるべきの旨、上意にて、堀久太郎御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ明智・長岡(細川)・池田・塩河・高山・中川、先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。 5月17日饗応終了。明智中国出陣用意のために安土より坂本に帰城。 5月19日信長が家康のために能を開催。 5月20日信長が丹羽・堀・長谷川・菅屋に家康振舞の仕度を命じる。家康、家老に信長手ずから配膳。 5月21日家康上洛。信忠同。織田信澄、丹羽に大阪での家康への振舞を命じる。 5月29日信長上洛。「御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右次第、罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし。」 同日、家康堺へ。5月は小の月で30日はない。 6月1日。信長本能寺で公家衆等を招き茶会。夜に信忠・村井貞勝来訪。深更に信忠・村井帰る。 6月2日本能寺の変。家康は同日上洛の予定。 6月4日信長大坂?から淡路に行く予定(『寺尾菊子所蔵文書』)。ただし、中国攻めのために、同日京都から出陣予定(『天正十年夏記』)。

回答No.2

二条城には誠仁親王が居ました (本能寺での茶会に招かれ 皇族代表として参加したのです 彼は当時正親町天皇の皇太子でしたので、で妙覚寺を宿所として信忠が護衛に当たったのです) たしかに二条城に籠もって誠仁親王を盾(人質)にすれば信忠は助かったと思います(明智光秀は間違っても皇族に手を掛ける男では無いし) しかし信忠は混乱していたのかもですし 誠仁親王はそそくさと寺を脱出して御所に帰ってしまいました(一説には誠仁親王も事前に光秀の襲撃を知っていたという説もあります) 有楽斎は三法師が脱出する時に一緒に逃げ出しています 一瞬のすきを突いたのか 女に化けたと言う説もあります 実は妙覚寺を攻めたのは光秀の娘婿源三郎秀満で彼は光秀ほど戦が上手くなく 寺を囲んでも完全な包囲では無く 脱出できる隙があったと言われています 脱出してしまえば機内は当時織田領ですから有楽斎ならたやすく岐阜まで逃げられたでしょう 機内の軍の動きですが 四国攻めを翌日に控えた信長の三男信孝は家臣丹羽長秀とともに堺に居ました(一説には家康の監視だったとも言われています) 次男の信雄は本能寺の変を知ると そそくさと安土を出て逃げてしまいます(安土城消失はそのせいです) 家老 柴田勝家は北陸で上杉と交戦中 秀吉は備中高松で毛利と交戦しています 機内に援軍を送れる武将は皆無です 家康が堺見物で連れていた兵は 服部半蔵・本多平八郎・本多佐渡・茶屋四郎次郎の家臣ほか 共周り40人ほどと言われています

回答No.1

妙覚寺に信忠がいたのかは知らないけど、 二条御所に立て籠ったのは 本能寺を見て信忠に合流した手下の なかにアホがいた。逃げられる可能性あったから 逃げ落ちることを提言する部下もいたのに。 親王を人質に取る作戦だったのですが、 裏から逃がして自分は逃げられなくなり 自害と言う結末。 信忠は織田家の正当な主君。 3000は兵士を持っていたから。 秀吉や家康が関わっていたともあるしね。 裏から

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