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今昔物語集についての質問です。
今昔物語集は、庶民の説話などが含まれるなど、それまでの平安時代の作品と異なるものだと思いますが、何故、そのような違いが生まれたのでしょうか? そのような違いが生まれる理由をご存じの方いらっしゃいましたら、ご教示お願いいたします。
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平安時代の物語と言ふとやはり女流文学・宮廷文学と言ふ物をお考えにならうかと思ひますが、それらの対象者はもちろんのこと平安朝の文化人である貴族やその妻女や女房が享受したと考えられ、同時にそれらは優れた歌詠みでもあつたことは言ふまでもないことです。しかし、同時に『日本霊異記』に見られますやうに貴族層に止まらず一般庶民までも教化しやうとする僧侶も多くあつたと思はれます。その中で時代は末法の世、おまけに民が主となる武家社会を迎えて、この時期こそ下剋上の端緒ともなる時代でもあつたので、貴族達や僧侶の流離が広がつて行つたのであります。しかも、嘗ての律令の国司達は遙任として地方に行かず、もつぱら受領階級(準貴族とでも言ひませうか)が赴任し、中にはその地に止まる者も多く出て参ります。このような知識層が一般庶民まで教化し、鎌倉仏教の前身なりますのが、浄土教の教えであり、説話でもありました。説話は勿論それ以前から一般に流布したもので、おそらくは宗教者が語り広めたものだと思ひますが、それが大きくまた広くなつたのがこの時期であらうかと思ひます。 宗教だけではなく、珍奇な話や哄笑誘ふ話を間に交え、中には儒教や親子の情愛を訴え、または仏の教えを訴えもしたのではないかと拜察されます。たとえば、「仰天おもしろ映像」と言ふやうなテレビ番組が賞美されるように一般民衆もそれを享受していつたのです。 結論を申しますと、平安貴族文化の爛熟とその衰退の後に現れた院政・鎌倉期の庶民文化の萌芽の顕れと見るのがよいやうです。
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- TANUHACHI
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こんにちは。説話文学としての『今昔物語集』が成立したのは平安時代から鎌倉時代とも言われています。それ以前にあった説話文学は『日本霊異記』や『三宝絵詞』などが代表的です。この中『日本霊異記』は奈良時代に薬師寺の僧である景戒(けいかい或いはきょうかいとも読みます)が仏教を庶民に判りやすく講じるために編纂したともいわれ布教活動を目的としたとも考えられます。 奈良時代の仏教は平城京の周辺や斑鳩などの寺院で国家により認定された「公度の僧」が教典の解釈や研究を目的とした存在でありそれは鎮護国家として「国教」の様な存在として位置付けられていました。このため奈良の寺院には「墓園」が存在しないのが普通です。逆に京都の寺院には死者を弔う意味での「墓園」があります。 このため仏教にとって最も必要な民間への普及は主に「私度の僧」として国家が認定しないでの僧侶が専ら普及活動に携わっていたとも考えられます。 さて御質問の『今昔物語集』ですが、民間説話を集めたと同時に依然として仏教の持つ功徳を説明する色彩は色濃く残り、それはこの作品で扱う対象が「天竺(インド)」「震旦(中国)」「本朝(日本)」と空間的に広がるもののその原点は仏教であることに変わりはありません(「本朝」には「本朝仏法部」と「本朝世俗部」の別があります) 平安期においては説話はこの他にも各種の物語たとえば『堤中納言物語』『浜松中納言物語』などがありこれらから収録されたとも考えられる逸話も数多く見られ、『今昔物語集』に収録されている逸話の殆どは創作ではなく先行する他の書物や民間伝承からの引き継ぎと見られています(例えば聖徳太子に関する逸話などはその典型です)。 平安期に代表される女房文学としての数多くの日記や古記録がいわば「私小説」としての身辺雑記的な性格であるのに対し、説話文学の多くはそこに込められた仏教の布教手段としての性質が未だ色濃く残っていたことが特色です。ここに見ることの出来る「因果応報」などの考え方は後の『宇治拾遺物語』や『十訓抄』にも系譜として受け継がれています。
お礼
わかりやすい説明ありがとうございました! 私小説と布教の性質の差ということがわかりました。