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武田征伐のIF

もしも1582年の武田征伐において武田勝頼が小山田信茂の岩殿城ではなく真田昌幸の岩櫃城に逃亡していた場合、武田家はどうなっていたと思いますか?

みんなの回答

  • nacam
  • ベストアンサー率36% (1238/3398)
回答No.4

数年滅亡が遅れるだけだと思います。 武田家が滅びずに、北信濃・西上野に勢力を維持した場合、織田群の緒将の群も、信濃に貼り付けになり、結局本能寺の変が起きず、武田・上杉とも滅亡したのではないでしょうか。 武田が生き残るためには、武田征伐の時では遅すぎます。 御館の乱の時に、影虎側を支援し、北条・武田・上杉の3国同盟を結ぶことが必要だったと思います。 木曽や穴山が武田を裏切った時点で、既に武田家中は、分裂し、対処できる状態にはなかったと思います。 勝頼の敗因は、御館の乱で、景勝の黄金の誘惑に負けたことだと思います。

noname#145488
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • DieMeute
  • ベストアンサー率70% (571/807)
回答No.3

不確定要素があまりに多いので断言はできませんが、武田家は存続したかもしれません。 ちょっと質問者さんの想定からずれますが・・・ 勝頼が岩櫃城に向かい北上した場合、途中で向かう先を変えたのではないかと・・・ もともと勝頼は越後の上杉に援軍を要請していました。その要請に上杉景勝はこたえ、武田への援軍を北信濃に送り込んでいます。上杉としても武田が滅びた場合、次に織田軍の標的になるのは上杉と判断していましたから援軍を出しました。勝頼は岩櫃城へ向かう途中に上杉軍の事を知る事になり、上杉軍との合流を目指すのではないかと・・・ それに、北信濃(川中島四郡)は、東国でも屈指の一向宗の拠点であり一向門徒の多い地域です。しかも、1570年から10年もの間、信長と石山本願寺が戦った石山合戦において、兵士や兵糧、軍資金を石山本願寺に提供していた地域であり、また徳川家康と戦い敗れた三河の一向一揆宗が逃げ込んだ地でもあります。 武田は信玄の時代から北信濃の一向宗寺と門徒を保護してきており、彼らも武田家に協力してきました。 つまり、もともと北信濃は反織田信長の気風の強い地域であり、武田家への共感の強い地域です。 実際、武田家滅亡後に、この地に織田軍が支配しに来た時、1万人規模の一向宗による一揆が発生しています。 だから勝頼は岩櫃城から向かう先を北信濃に変え、上杉軍と合流するのではないかと・・・ 史実では上杉領に近い武田方の飯山城では上杉軍を北信濃の乗っ取りに来たのではないかと警戒し、城を固守しました。この時はあまりに状況が混沌としており、武田と上杉の間の連絡がうまく行っていなかったようです。 そのため上杉の援軍は長沼城に入っています。 勝頼が北信濃に来たのなら長沼城で上杉軍と合流し、飯山城の禰津常安と海津城の小幡光盛(武田家滅亡の際には上杉に逃れました)や近辺の有力国人衆の市川信房らを味方につけ、北信濃の川中島衆(大室、夜交、西条、窪島)の協力を取り付け、織田軍に対抗する形に持っていく事にしようとするのではないかと・・・上杉勢の加勢は大きい影響があるでしょう。 つまり武田勝頼は北信濃と上野を勢力圏として、上杉軍の支援を受けながら織田軍と北条軍と戦うようになるのではないかと・・・ 上杉としては武田を楯にして織田軍と北条軍と戦うようになるのではないかと・・・ ここで織田軍ですが・・・ 実は状況があまりよくありません。 大軍を動員したのはよいのですが、兵糧不足で脱走する兵が後を絶たなかったそうです。 また、この年の甲斐・信濃の冬は厳冬で積雪も甚だしく、織田信忠の中間だけでも28人が凍死する有様だったそうです。 しかも信濃領内では内紛がありました。かつて武田信玄に破れ国から去っていた信濃守護、小笠原貞慶はかねてから織田信長の元に身を寄せており、武田家滅亡の際は旧領回復を約束されていました。そして信濃領内で武田の家臣となっている旧小笠原家臣の調略を信長に命じられ行っていました。しかし信長はこの約束を破ります。 そして、武田家裏切りで功のあった木曾義昌にその領地を与えます。小笠原貞慶は失意のうちに信濃を去りますが、旧小笠原家家臣は不満であり、木曾義昌と戦になっています。 つまり、織田軍内は兵糧不足で脱走者が続出し季節は厳冬で凍死者も出て、そして信濃領内は内紛で落ち着かない・・・これでは長期戦は難しいものがあるでしょう。 そしてもし、勝頼が北信濃を上杉の援軍とともに固める事ができたなら、織田軍も短期で北信濃を攻略し武田を滅ぼす事はできなかったかもしれません。 そうなれば、織田軍は一旦は矛をおさめ、勝頼に時が与えられます。味方を得る時間ができたかもしれません。 ここで北条を味方に付けるのです。 北条に頭を低くし、御館の乱での敵対を詫び、上野の領地のある程度の割譲を約束します。 そもそも四年前の天正五年には信長は北関東の大名に武田と北条を滅ぼすと呼びかけています。 北条とて絶対に安心できる状態ではありません。武田が滅びた後、次の標的は北条になるかもしれません。 そこを突き武田、上杉、北条による対織田の三国同盟を提案します。 これがうまくいけば、対織田でかなりの力を得る事になるでしょう。 同盟が実らなければ、武田も上杉も厳しい状況に追いやられます。 冬が過ぎ季節が変わり、そして準備万端整えた織田軍が攻勢をかけてくけば、勝頼が持ち堪えるのは難しいかもしれません。 あるいは持ち堪えている間に織田軍内で謀反が起こり状況が変わるかもしれませんが・・・。 ただ、勝頼が敗北したとしても、どこかに逃げ落ちる可能性は有りかと。旧信濃守護の小笠原家の人達のように、落ち延び命を永らえたりする事は珍しくありません。そして子孫がどこかの大名に仕えて家名を存続させたという事例も珍しくないので、武田家も存続する可能性は低くないよう気がします。

noname#145488
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

真田表裏比興の者 一族生き残りのためには何でもやったヒトですから、勝頼の負け馬には乗らないでしょう

noname#145488
質問者

お礼

回答ありがとうございます。

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

長篠の戦いで敗れた後の武田は家臣が相次いで支配から離れて行きました。真田を頼らなかったのは武田の支配がもう及ばなくなっていたからで、そこへのこのこ姿を現わせば忽ち首を取られ、これを信長や徳川と誼味を通じるときの手土産にされたでしょう。

noname#145488
質問者

お礼

とすると真田昌幸が武田勝頼の受け入れを表明したのは 勝頼を討ち、真田家の存続を図る思惑があったからということでしょうか? 回答ありがとうございます。

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