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芥川龍之介「地獄変」の娘と密会した人物

芥川龍之介「地獄変」の十三章で大殿様に仕える絵師の娘は、ある夜屋敷で何者かと密会します。 襲われたのか、言い寄られたのか、男か女かも不明で、話者が問いかけても娘は返事をしません。 この人物は大殿様だったのでしょうか? それとも絵師良秀でしょうか? よろしくお願いします。

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回答No.1

『地獄変』には、多義的な解釈を誘うべく、いくつかの仕掛けがほどこされています。というのも、語り手である「堀川の大殿様…に二十年来御奉公」してきた「私」(老侍)は、いわゆる〈信頼できない語り手〉で、好んであいまいな、多義的解釈を可能にする言説を採用しているからです。 良秀の娘が「袿の袖を噛んで、しく/\泣いて居りました」というのも、直前では 「娘の方は父親の身が案じられるせゐでゞもございますか」 といいながら、そのすぐあとに 「大殿様が良秀の娘に懸想けさうなすつたなどと申す噂が、愈々拡がるやうになつた」 と語り、その上で 「元よりさやうな事がある筈はございません」 と打ち消してみせる。さらに 「色を御好みになつたと申しますのは、恐らく牽強附会の説」 「跡方もない嘘」 と重ねることによって、逆に読者の脳裏に疑いを生じさせる。このような語りを持つことによって、『地獄変』という短い作品が、謎と奥行きを備えていきます。 十二から十三にかけては、良秀の娘のエピソードが語られていきます。この「慌しく遠のいて行くもう一人の足音」は誰なのか。 これに関しては、質問者さんもご指摘のように三通りの推測が可能でしょう。 (1)大殿である (2)良秀である (3)それ以外の男性である この十二の最初、事件が起こる前に、まず語り手は 「又一方ではあの娘が、何故かだん/\気鬱になつて、私どもにさへ涙を堪へてゐる容子が、眼に立つて参りました。」 とわたしたちの推理をある方向に誘っていきます。それに続くのがこの文章です。 「初はやれ父思ひのせゐだの、やれ恋煩ひをしてゐるからだの、いろ/\臆測を致したものがございますが、中頃から、なにあれは大殿様が御意に従はせようとしていらつしやるのだと云ふ評判が立ち始めて」 ここまでなら、それに続く事件の中心人物は「大殿」である、と考えてまちがいない、と言えるでしょう。ところが語り手は、その評判をも 「夫れからは誰も忘れた様に、ぱつたりあの娘の噂をしなくなつて了ひました。」 と打ち消してしまうのです。噂をしなくなったのは、それが根も葉もないことだったから、という可能性も生まれてしまいます。反面、それが事実となって、うかつに噂もできなくなってしまった、と考えられなくもない。蓋然性としては(1)が高いかと思いますが、決定的ではありません。 つぎに「良秀」説、これは近親相姦を意味するのですが、この読解では八で良秀が夢を見ながらうなされる場面が「伏線」となっていきます。 「なに、己に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと? 奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ――誰だと思つたら…(略)…誰だと思つたら――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己の娘が待つてゐる。」 来い、来いと招いている「貴様」は、奈落にはおまえの娘が待っているから来い、と言っているようです。この「貴様」も地獄の「異類異形」なのか、それともこの世にいる人物(たとえば「大殿」)であるのか、いくつかの可能性があるかと思いますが、いずれにせよ、良秀の娘は「炎熱地獄」にいる。娘は炎熱地獄に落とされる罪を負っている、と良秀は考えているのです。「炎熱地獄」というのは五戒を破った者が落とされる地獄ですが、「五戒」の中には「不邪淫」も含まれる。 こう考えていくと、「足音」の主は「良秀」であるという解釈も成り立つのです。 さらに、娘には密かな恋人がいた、という可能性もあります。彼を逃がすために「唇をかみながら」という演技をした、という。そうして恋人の存在が「大殿」の知るところとなったために、やがて車の中に入れられることになった、という見方もできるのです。 たとえば十七に 「私と向ひあつてゐた侍は慌しく身を起して、柄頭を片手に抑へながら、屹と良秀の方を睨みました。」 という箇所があります。  この侍は、良秀があばれるのを取り押さえるために柄頭に手を掛けたのか。それにしては立ち上がった良秀を押さえようとはしていません。彼自身、まったく知らず、父親である良秀が事態を了承したものとして、驚き、柄頭に手をかけたのではないのか。 語り手はいったい何のためにこの一言を言ったのでしょうか。 このように、「足音の主」についてはさまざまな可能性があり、逆に決定することもできません。というのも、作品の中にいくつかの空白を作者である芥川が設けており、決定的な読解を妨げているからです。 どうして芥川はそんなことをしたのでしょうか。 芥川の『侏儒の言葉』の「鑑賞」という項目では、このようなことが書かれています。 「 芸術の鑑賞は芸術家自身と鑑賞家との協力である。云わば鑑賞家は一つの作品を課題に彼自身の創作を試みるのに過ぎない。この故に如何なる時代にも名声を失わない作品は必ず種々の鑑賞を可能にする特色を具えている。しかし種々の鑑賞を可能にすると云う意味はアナトオル・フランスの云うように、何処か曖昧に出来ている為、どう云う解釈を加えるのもたやすいと云う意味ではあるまい。寧ろ廬山の峯々のように、種々の立ち場から鑑賞され得る多面性を具えているのであろう。」 「種々の立ち場から鑑賞され得る多面性」というと、映画にもなり、ひとつの言い回しともなった『藪の中』が有名ですが、この『地獄変』においても同様の仕掛けがほどこされています。ですから読者は、自分が思う「真相」を見つけるべく、芥川に「協力」して作品を丁寧に読み直し、伏線を見つけていくことが求められているのではないでしょうか。

yoshinobu_09
質問者

お礼

詳細な解説ありがとうございます。 大変勉強になりました。 多義的解釈が可能な設定になっているわけですね。 再考してみたのですが、良秀が御殿に忍び込む危険を冒してまで娘を襲う等の事は考えづらいです。 父と娘の関係は良好ですし、父にその気があるようには書かれていません。 一方で、大殿様の変節が気にかかります。 娘を気に入って、かわいがっていたのに、どうして急に焼き殺す気になったのか。 大殿様は道理をわきまえ、誰からも尊敬されるタイプの人間で、語られる限りでは、残忍性は持ち合わせていません。 何かきっかけがあったはずで、それはやはり娘とのトラブルが契機となっているのではないかと想像されます。 相手を殺すほど憎んでいるのですから、生きていては困る恥辱か何かの秘密を知られてしまったのだと考えられます。 そうでなければ、娘が別の男と関係を持ったのを知って、怒り心頭に発したためでしょう。 大殿様にとっては娘は罪人であったはずです。 などといろいろなことを考えてしまいます。 この小説は名作だと再認識しました。