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元寇における高麗史の記述について

元寇に関する高麗史の記述なのですが、同じような内容で、違う記述が良く出てくるのですが、以下の2つの記述は、出典が違うのでしょうか。 ・「(十一月)己亥(二十七日)東征師還還合浦、遣同知枢密院事張鎰労之軍、不還者無慮 万三千五百余人」 ・「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、 至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」 高麗史に詳しい方で、違いを御存知の方いらっしゃいませんか。

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  • at9_am
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回答No.2

詳しいわけではありませんが。 > ・「(十一月)己亥(二十七日)東征師還還合浦、遣同知枢密院事張鎰労之軍、不還者無慮 万三千五百余人」 これは高麗史28巻 忠烈王ですね。 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991068/222 上記は http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991068/223 このページの右ページ上段の末にあります。 > ・「十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人。」 これも高麗史ですね。高麗史・表87なります。 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991069/385 一カ月違うのは、忠烈王の方は帰ってきたから使いを出して労った際の話であり、表の方は帰ってきた時点の話だからではないかと推測します。 因みに、この帰ってきた軍は12月に都に帰ってきて捕虜の子ども200人を王に献じています。 ちなみにここに出てくる金方慶は列伝もあります。 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991070/124 日本への出兵はこの辺り。 http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991070/128

その他の回答 (1)

noname#224896
noname#224896
回答No.1

>十月、金方慶與元元帥忽敦洪茶丘等征日本、 至壹岐戰敗、軍不還者萬三千五百餘人 こちらの『至壹岐戰敗』この部分に疑問があります. 壱岐・対馬の人々は,兵士ではなく,多くが漁師であった為,元軍に残虐の限りを尽くされたという証拠に,特に対馬には,お墓が沢山あります. 比較して,日付の記載がありませんし,慌てて,誰かが,噂を頼りに書き記したものではないでしょうか. 元軍が博多に進行してきたのは確かに10月です.しかし,1ヶ月のいつに終わったかの記述が無いにも係わらず,死者の数がほぼ正確に記載されているのは,不自然です. ・「(十一月)己亥(二十七日)東征師還還合浦、遣同知枢密院事張鎰労之軍、不還者無慮 万三千五百余人」 こちらの記述の方が信憑性があると私は思います. ---------------------------------------------------- 私は,高麗史に詳しいわけではなく,防塁跡地の直ぐ近くに過去,住んでいたことと,壱岐・対馬を旅行して,『やけに,苔むしたお墓ばっかりだなぁ』という強い印象を受けた者です.

tatubei
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。 壱岐・対馬での戦闘では、『日蓮註画讃』に書かれていたと思います。少なくとも緒戦の壱岐・対馬・松浦地方の戦いでは鎌倉側は負けていると思っています。 すると、「至壹岐戰敗」の記述はどういうことか、と思って質問しました。帰還途中に、また壱岐によって今度は負けたのか? でも島民は残虐の限りを尽くされてほとんど残っていないはず。九州からわたって待ち構えていた武士団がいたのか?(そのような史料はないと思いますが。) なぞです。 「至壹岐戰敗」の記述に疑義があると考えるのが妥当ということですね。ありがとうございました。

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