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元寇の役
先日、NHKで元寇の役について放送があり、見ていたのですが、実際にモンゴル軍と戦ったのは九州の武士のような説明があったのですが、その通りでしょうか? 私は、「鎌倉武士が戦った」と聞いていたので、てっきり関東の武士かな、と思っていたのですが…
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>実際にモンゴル軍と戦ったのは九州の武士のような説明があったのですが、その通りでしょうか? 主力が九州在住の武士団でした。 >「鎌倉武士が戦った」と聞いていたので、てっきり関東の武士かな、と思っていたのですが… 鎌倉武士というのは地理的な意味ではありません。 鎌倉幕府と主従関係にあった武士という意味です。 頼朝が鎌倉に幕府を開く以前には荘園毎に治安維持のための武力集団がいました。 元来は朝廷から任命された国司の役割でしたが藤原氏など在京の公家や寺院の荘園内には手が出せませんでした。 この為に荘園内には治安維持のための武力集団がいました。 頼朝がこの荘園内の武力集団を守護地頭として任命して朝廷に認めさせました。 その際に頼朝に忠誠を誓って主従関係を結んだ人を御家人としました。 御家人は関東に限らず全国に在住していました。 頼朝が亡くなった後に幕府の実権を握っていた北条氏もこの御家人を幕府の臣下といて引き継いでいました。 九州にあった太宰府は元々は大陸に対する外交の窓口でしたが、頼朝は幕府の基盤を固めるためにこの太宰府の長官を鎮西奉行として九州の御家人を統制させました。 元軍の来襲に備えて鎌倉幕府は全御家人に派兵を指令しました。 当時の御家人の中には九州に領地を持つ人がいてとりあえず九州の領地に居る武士を出兵させました。 当時大宰府の長官であった少弐 資能は幕府の指令を受けて鎮西奉行として豊後、肥前、肥後、筑後等九州各地の御家人に派兵を命じました。 結果として戦闘に参戦したのは九州在住の武士団だったということです。
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- emaxemax
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回答No.2です。 先ほどの回答は、文永の役(第一次日本侵攻)の話ですが、弘安の役(第二次日本侵攻)では、伊予の御家人・河野通有が負傷しながらも太刀を持って元軍の船に斬り込み、元軍将校を生け捕るという手柄を立てた記録が残ってますので四国の御家人たちも参戦したのでしょうね。 また六波羅探題から派遣された宇都宮貞綱率いる60,000余騎の大軍が北九州の戦場に向けて進撃しましたがこれは間に合わなかったようです。(到着前に元軍が壊滅してしまいましたので)
お礼
なるほど。それにしても6万の大軍とは凄いですね。ありがとうございました。
- emaxemax
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橘守部旧蔵『八幡ノ蒙古記』「軍兵は、太宰小貳、大友、紀伊一類、臼杵、戸澤、松浦黨、菊池、原田、大矢野、兒玉、竹崎已下、神社佛寺の司等に至まて、我もゝゝと、はせあつまりたれは、」(小野尚志『八幡愚童訓諸本研究 論考と資料』三弥井書店 2007年 194頁) とありますので、鎌倉幕府の命令によって九州各地の御家人らがはせ参じて戦ったということがわかりますね。
お礼
ということは、かなり奮戦し、日本を危機から救ったということなので、私達は、九州のサムライに感謝する必要がありそうですね。戦時中も九州の軍隊は最強と聞いているので、九州男児を見直しました。ありがとうございました。
- SPS700
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これは元という外国が日本という国に攻めてきたわけですから、当時の政治の中心、幕府のあった、鎌倉から日本軍の指令が出されたわけですが、 地理的には対馬の領主が戦死し、壱岐などでは住民が盾とされ、指揮官は鎌倉から、兵士は現地調達だったのでしょう。挙国一致の防戦だったわけです。 https://kotobank.jp/word/%E5%85%83%E5%AF%87-60419
お礼
なるほど。そのような状況だったんですか。なかなか興味深いですね。ありがとうございました。
お礼
そうですか。非常に興味深い話ですね。私は、てっきり両役とも台風のお陰で日本は救われた、のような解釈をしていたのですが、あの放送を見る限り、日本、それも、特に九州のサムライが果敢に奮戦したからこそ、今日の日本があるわけですね。そうですか。もう、九州の方に足を向けて寝られないですね(笑)。いやはや、ある種の感動に浸っております。現在の自衛隊でも、九州が最強だと言われているようなので、九州男児に対する畏敬の念を持ちました。ありがとうございました。