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元寇について。
1度目の蒙古襲来の後、鎌倉幕府による高麗遠征計画があったみたいですが、もし実行された場合、朝鮮半島の占領は上手くいったと思いますか? 戦い方、武器、民族の体格が異なる、異国での合戦で勝利できますか? 歴史に「もしも」は許されませんが、答えてくれる方がいれば助かります。
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5世紀ごろ、朝鮮半島に任那という日本領の土地がありましたが、結局周辺諸国の侵略を受けて取られてしまいました。その後豊臣秀吉の朝鮮出兵などがありましたが、成功していないのはご存知の通りです。当時の日本の国力では朝鮮海峡を越えて攻撃することは困難で、当時の鎌倉幕府の力が衰退していたことも考えれば、そんなことはとても不可能でしょう。
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- ichikawa2017
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>朝鮮半島の占領は上手くいったと思いますか? 極めて難しかったでしょう。 鎌倉幕府に先立つ平清盛は日宋貿易で財をなしました。 この日宋貿易で渡航する船の安全祈願に整備されたのが現在の厳島神社です。 厳島神社は海上に鳥居があるように船で参拝することを前提としていました。 このように当時朝鮮半島へ渡海するだけの航海術も造船技術も持っていました。 中国の沿岸や朝鮮半島沿岸を襲っていた倭寇はこの元寇に対する報復だった言われていました。 とは言え半島全域を軍事力で占領するには当時の武士の戦闘方法を根本から変える必要がありました。 当時の武士は騎馬武者が大声で名乗りを挙げ自分の相手を探しそれに答えて出てきた者との一騎打ちが基本でした。 元寇の際にも高麗兵に向かってこれをやりました。 高麗兵はそんなことはお構いなしに名乗り出て来た日本の武士を集団で射殺してしまいました。 日本の弓は長弓で飛距離はありましたが高麗兵の弓は短弓で飛距離は短いものの馬を自由に乗りこなしながら相手に接近して射殺していました。 元寇の際に馬は連れてきていませんでしたが兵装も戦法もそのままでした。 源平時代の末裔である当時の武士にとっては名乗りもせずに戦うのは卑怯者でした。 日本でも集団戦法が用いられるようになった切っ掛けがこの元寇でした。。 集団戦法が普及するには頼朝が朝廷に認めさせた守護、地頭などの地方の下級武士が台頭して主導権を持つようになった南北朝時代まで待つ必要がありました。 戦国時代の末期に秀吉が朝鮮半島に出兵して膠着状態にまで持ち込むことができたのも集団戦法が通常の戦闘方法になっていたおかげです。 ただし、秀吉軍を悩ませたのは明の正規軍よりも民衆によるゲリラ戦でした。 突然物陰から集団で襲い掛かりサッサと引き上げるゲリラ戦法でした。 つまり武器や体格の差ではなく戦闘方法に無理があったということです。
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回答ありがとうございます。 豊臣秀吉の異国派兵でも、大河ドラマではタブー視されてました。竹中直人さんの1996年での「秀吉」でも その記憶があります。 大河ドラマ「北条時宗」のストーリーの中で、1度目の蒙古襲来の後で、異国派兵を主張するシーンがあったので、上手くいくのかなと思いました。 やはり、上手くいかないんですね。 回答ありがとうございました。
- pringlez
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一部の地域についてかつ一時的な占領でいいなら成功の可能性はあった。ただし朝鮮半島全域の占領、あるいは一部の地域の占領でも5年以上ならまず不可能。といったところだと思います。 当時の技術で、海を渡って侵攻するには大きな困難を伴うこと、そして一時的に占領しても蒙古の本国から陸伝いで大援軍がきて殲滅されるでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。 返事が遅れてすみません。 いくつく先は、半島全土をうまく占領できても、大陸の元の大軍に潰される事なんですね。 回答ありがとうございました。
お礼
回答のお礼のコメントが遅れてすみません。 日本の武士団は合戦の歴史だらけで、異国との将兵にも勝る時もありますが、異国の領土の占領と統治の経験がないので、 最後は半島、大陸から追い出されるますね。 回答ありがとうございました。