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1956年のポーランド事情について
先日学生時代のノートが出てきました。どうやらフルシチョフ時代の東欧の歴史 を勉強していたらしいのですが、自分で書いておきながらちょっと解らない記述 がありました。 「1956年7月 ブルガーニン首相・ジェーコフ国防相→ソ連の武力介入をまねくかも しれないが党への真の支配を取り付ける為に…」 「1956年9月 オハブら北京を訪問、周恩来らと会談」 ヴァティスワフ・ゴムウカ → この段階で一番国民の信頼を得ていた ロコソフスキー元帥(ソ連軍) → ポーランド系 「1956年10月19日 ポーランド党中央総会→その朝電話が入る→ワルシャワ空港 にもうすぐソ連のトップリーダーが来る…!」 と何故か妙に日付まで具体的に扇情的な書き方をした後、空白になっていて、 その後何がどうなったのか「真の支配を取り付けるために」誰が何をしたのか? オハブって誰?北京で何を話してたのか?10月19日にワルシャワ空港に結局誰か 来たのか?(フルシチョフ?ソ連軍元帥?)来なかったのか、どうなったのか さっぱり結末がわからずとても気になっています。 この授業、話がものすごく面白かったので出ていたのですが、専門でも必須単位でも 無い為か、随分いい加減なノートの取り方をしていて、10年近く経った今、もはや暗号 と化しています。この訳の解らない記述や人物、この時代について、ご存じの方教えて 頂けないでしょうか?
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1956年2月のフルシチョフのスターリン批判により、共産圏の国々では動揺が起こり、反ソ的国民運動の芽が出てきます。 ポーランドでも1956年6月28日から、工業地帯の中心地ポズナニで労働者達が、政治的、経済的要求を掲げて暴動を起こし、国民もこれに同調する空気が生まれます。 この流れを受け、7月頃からポーランド統一労働者党(共産党)内では、チトー主義(脱ソ連・独立共産主義)のゴムウカが台頭してきます。そして10月17日のポーランド統一労働者党中央委員会総会で、ゴムウカが第一書記(党のトップ)に選出され、政権を担う事が、殆ど決定的となりました。 その10月17日の朝、突如としてソ連の指導者達、フルシチョフ、オガノヴィチ、モロトフらが予告なしにワルシャワ空港に到着したのです。また、この時すでにソ連軍戦車部隊がワルシャワに向け進軍を始めていました。 そしてソ連・ポーランド首脳会談が開かれたのです。まだ総会前で第一書記の座に就いていないゴムウカも、この会談に出席しました。この会談でゴムウカはソ連首脳部に、ポーランドは共産圏から離脱せず、ソ連に敵対する事もワルシャワ条約機構を脱退する事もしないと約束したと言われています。 この約束を受けてソ連首脳部はその日のうちに帰国、ソ連戦車部隊も引き返しました。 実際、その後ゴムウカは第一書記に就任した後、農業集団化政策の緩和や宗教の自由など、国民の権利を拡大しましたが、チトーのように、完全な独立をする事はなく、ワルシャワ条約機構からも脱退する事はありませんでした。国民は党指導部が国民の民主化要求をある程度受け入れた為、不満が和らぎ、事態は沈静化していきます。 これが「ポーランド10月の春」と呼ばれるポーランドの事件です。 ロコソフスキー元帥(ソ連軍)は当時、ポーランド軍の総指揮官でした。ポーランド系とはいえ、ロシア育ちでソ連の人間であるロコソフスキーがポーランド軍の指揮をとっている事について、ポーランドの大多数の国民が不満に思っていました。また、このロコソフスキー元帥が反ソ的な動きを見せるポーランド政府を潰す為、逮捕者名簿を作っているという噂が、この当時ポーランド国内で囁かれていました。 なおポーランドでは第二次世界大戦後からそれまでの間、一環してソ連の軍人がポーランド軍の総指揮官を務めています。 1956年9月の中国訪問は、確か、以前に東欧諸国を歴訪した周恩来への返礼的親善訪問と中国共産党大会への出席・見学が目的だと思います。この当時はスターリン批判の結果、どこの国の共産党大会・総会でも百家争鳴状態で国家間の首脳部がその事について、機会をとらえて内密に会談する事が結構あったそうです。 ポーランドの事件とハンガリー動乱の事件は別物であり、関係ないと思います。
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- alpha123
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オハブはポーランド大統領か。党書記長でもあったかな。彼を追い落とした勢力(ゴムウカなど)が党書記長や政府に就いたので社会主義擁護派や共産党員は危機意識持ったでしょう。 1956年ハンガリー事件のときのことがら。 10月19日 フルシチョフ、ワルシャワ訪問(ワルシャワ条約機構軍の本拠地) ここに行く前にチトーにも会ったはず。 10月21日 ゴムウカ党書記長に(ポーランド) 10月24日 ハンガリーでソ連軍と反革命軍の交戦 (直前まではデモと混乱はあってもソ連兵と市民の関係は悪くなく戦車に市民乗せて広場に行ったところまでは両陣営の見解一致) 発砲が起き市民は死に戦車に火炎瓶攻撃あった。 (突発的な出来事とはいえない。「真相」は各説あるが証拠に乏しい) ブルガーニンはソ連首相。スターリン後の第一副首相、1955年フルシチョフ権力掌握(第一書記)、はじめはフルシチョフとともに平和共存策推進でユーゴスラビアやインドやアフガニスタンとの友好実現。国内政策でフルシチョフと異なる見解持つ。モロトフ(スターリン後副首相)ら「反党グループ」が1957年フルシチョフ解任はかったとき(幹部会では解任多数派、フルシチョフは軍部やKGB組織と組み中央委員を軍用機で招集、中央委員会総会では逆転勝利>これはのちの軍発言力増大>自滅の芽です)。解任に賛成したのでのちにフルシチョフに追放される(1960年年金生活入り)。
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回答ありがとうございます。 10月19日に来たのはやはりフルシチョフなんですね。ではゴムウカはフルシチョフの 肝入りで党書記長に就任し、その結果オハブ(当時の大統領?書記長?)は失脚したと いうことでしょうか? ブルガーニンがソ連の首相ならなんで私は「ソ連の武力介入をまねく…」とか書いてる んでしょうね。てっきりポーランド人かと…。 そしてこのフルシチョフのワルシャワ入りがどうして関係ない国の「ハンガリー事件」 と関わってくるのでしょうか?そのあたりもご存じなら教えていただけませんか?
- mk2007
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ワルシャワ蜂起と言うポーランドで起きた事件に関するものと思われます。
お礼
回答ありがとうございます。 ワルシャワ蜂起は1944年とありますのでどうも違う事件のようです。 けどソ連が自分の都合のイイ政府を作りたいから敢えて支援しなかったらしい…ので 全く関係ないって話でもなさそうですね。
お礼
回答ありがとうございます。なんかようやく解ってきました。 ゴムウカはフルシチョフの肝いりどころか、当時の反ソの代表格みたいな感じで 選ばれたんですね。雰囲気的に「ソ連から離れてウチはウチでやりたいなぁ」って ノリだったんでしょうか。でもフルシチョフとしては「いくらウチがスターリン批判 したからって浮かれてんじゃないぞ」って突然来たと。オマケに軍まで来るとすれば ゴムウカとしてはユーゴほど強気には出れないですね。頼りの自軍はソ連人がトップ だとすると動きようもない。(これは本当に腹立たしい。というか自軍の意味が無い) 「10月の春」は基本的には失敗(頓挫?)って事なんでしょうか。ソ連軍が介入せず、 ある程度の民主化は手に入ったから「引き分け」でしょうか。 しかしソ連って本当に「大国」だったんですね。やりたい放題じゃないですか。現在の ロシアが「もう一度大国に」という野望を持つのも解るような気がします。