指揮官の資質、知識にもよるでしょう。
孫子、三国志が日本に伝わっているとは言っても、一般的にどこまで普及していたかわかりませんし、指揮官クラスの武士達が実際にそれを読んでいたか不明です。それに読んだとしても理解していたかが問題です。
孫子の火攻めは火人、火積、火輜、火庫、火隊の五つの攻めからなり、直接的には船を火で焼くとは書いていません。頭の固い人ならば船を火攻めにする事は思いつかないかもしれません。
三国志など遠い国の出来事と、戦の時は忘却していたかもしれません。
ただ、実際には日本(倭)も663年に白村江の戦いで唐・新羅軍の火攻めで400隻もの船を失ったという歴史がありますけど。
というか、鎌倉時代の武士たちは、戦では三国志よりも源平の合戦を思い浮かべるのではないかと思います。
源氏と平氏が戦い、木曽義仲や源義経の活躍した時代から100年も経っていない時代です。合戦の模様や武勇について、武士たちは親から子へ言い伝えているのではないかと思いますし、元寇以前に「平治物語」や「保元物語」などの軍記物語は成立していたとも言われますから、自分達の祖先の歴史に直結するそうしたものを読んでいたかもしれません。
「平家物語」は成立しいたかどうか微妙ですけれど。
だから海戦などは「赤壁」よりも「壇ノ浦の戦い」の方が確実に知られていたのではないかと思いますし、それを念頭に置いて戦ったかもしれません。
また、日本の水軍の船は商船や漁船を徴用したりするもので、本格的な軍船ではありません。ですから戦術も限られてくるし、しかも戦った武士の主力は陸での戦いが本分で、陸上でさえ火攻めは注意を要する特殊な策ですから、不慣れな海上で火攻めを行うまでには至らなかったかもしれません。もしかしたら風向きなどが火攻めに適した方向ではなかったのかもしれませんが。
なお油はエゴマ油の他に魚油というものがあり、これはエゴマ油よりも昔から使われていました。
ところでヨーロッパでは結構、海上で火攻めは行われています。
1666年8月にイギリス海軍はオランダのヴィーラント島とテルシェリング島の泊地に5隻の火船と7隻の小船による攻撃隊を送り込み、オランダの商船170隻と護衛艦2隻を焼き払っています。イギリス本国ではこの大成功した作戦について、作戦を行った指揮官にちなみ「サー・ロバートの焚き火」と呼んで囃し立てたそうです。
1667年にはオランダ海軍によるイギリスへのメドウェイ攻撃があります。この攻撃ではオランダ海軍が10隻の火船を使い、イギリスの戦列艦6隻を焼き払っています。
火船は泊地への攻撃だけでなく、艦隊戦でも使われています。
1672年のソールベイの海戦では艦隊戦の最中に、オランダ艦隊の火船の1隻がイギリス後衛艦隊旗艦を見事にとらえ焼き払っています。
こうした火船による成功例は他に幾らでもあります。さすがに数百隻を一挙に焼き払ったという事はありませんが、小さな成功例は決して少なくありません。
お礼
源平の合戦を思い浮かべるのではないかと ああ!そうですね。確かにそれはわかります。 水軍ではなかったというのが要因のひとつですね。 詳細なお話ありがとうございます。