確かに第1次蒙古襲来である文永の役(1274年)には、台風は吹かなかったと考えられているようですね。
元と高麗の大軍が対馬・壱岐に襲来し勢いをかって博多に上陸したのは、十月ですが、新暦に換算すると十一月の下旬ですから、台風の吹く季節ではありません。
元の記録を見ると、高麗の船を徴発した元軍が壱岐・対馬を侵略したことは確かだが、後は博多に上陸して、偵察しただけで帰国したことが分かります。戦いは殆どありませんでした。けれども、日本の記録で竹崎末長らが奮戦したことになっているのは、そうでも言わないと恩賞が貰えないからだと思われます。
一旦帰国した元軍は公安四年(1281)、南宋の水軍まで連れて14万もの大軍で襲来します。日本側も博多湾の海岸に石積みを築いて、これを迎え一進一退をを繰り返しますが、元の援軍が到着する閏七月一日に、今度こそ台風が襲って、元軍は壊滅的な打撃を被るのです。
しかし、この時の元軍の行動には謎が残ります。何故、台風が吹いた時あの狭い博多湾に数百隻も終結していたのか。
第一の原因は蒙古人が海戦を知らなかったことです。朝鮮の船を徴発してやって来た訳ですが、朝鮮の水夫の言う通りにすればいいのに、蒙古人の大将が命令する。台風襲来というので、博多湾に全ての軍船が入ってしまったのです。大きな風が吹いた時には、船は港から出るものです。
船と船の距離を離さないと危ないからです。それを逆に鎖で縛って大船団を繋(つな)いだのです。
しかも、朝鮮の船は、前後左右に突起がやたらにある構造です。船と船がゴトゴトとぶつかり合っているうち、錐(きり)で付き立てたように船に穴が開いて、さしもの大船団もほとんど沈没してしまったのです。
また、台風の時は陸に上がって避難するのが常識です。ところが、元軍は全員船に乗っていました。何故かと言うと、彼らが日本にやって来たのは夏で、海岸には蚊がいたからです。
蒙古は乾燥地帯で蚊が一匹もいません。真夏に真っ裸で寝ていても、蚊に刺される心配がないのです。
ところが日本はそうはいきません。博多に上陸して、大宰府まで攻めに行くが、近くまで行ったところで夜になる。暑いから裸で寝ようとするが蚊がいっぱいいて眠れたものではない。睡眠不足で戦うと疲労するから、結局、船の上で寝る。蚊のおかげで彼らは船と大宰府の間を往復ばかりしていた。そうだから、台風が来たときも元軍は全員船に乗っていて全滅したということでしょう。(と言う訳で日本側には被害が無く、元軍にだけ被害があったのは少しもおかしくは無いのです。)
お礼
ありがとうございます。 「蚊」とは新しい見方ですね。考えたこともありませんでした。元の将軍は海戦の経験のある南宋の武将の意見なんて聞く耳持たず、と言ったところだったのでしょうね。日本軍も小船で夜襲をかけたそうですが、 嵐の日に船を出したりはしないでしょうし。 日本軍にしろ、島民にしろ被害の出るほどの台風ではなかった、のでしょう。そう考えます。