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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。
現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか? ほかの人からの評価についても 知りたいです。 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。
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こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。 了解致しました。 > ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。 * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。 * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。 そうすると 言えることは 次である。 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか? (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか? (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。 (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 > (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。 * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 > (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。 この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ > (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。 おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 > (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。 * 独我論が いちばん当たっていると思う。 仰られる通りかと存じます。 > (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.) * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。 はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 > ▲ (同上) ~~~ (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。 * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。 * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。 おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 > (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。 * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。 仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 > (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。 * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。 上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 > (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.) * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。 《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。 フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
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こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > 質問として考えついた内容が だいたい可能性として まちがった方向には行っていないという結果だったのではないかと思います。 もし、お役に立つことがあったとしますならば、光栄に存じます。 >(ぶらじゅろんぬ評)(1) この超越者の規定は 変。《私にとって外部として知覚したもの(事象)》といえばよいのに。 (2) 要らない要素を捨象し要るものを抽象する(抽き出す)ことを《無効の符号をつける》と表わすのはよいとしても でもそこでは《本質》として捉えられるかも知れない要素については 抽き出す つまり私の内部に受け留めて行くのではなかったかと疑われる。 はい。フッサールは述語が多く、また同じ意味の言葉を違った表現で用いたりもしますため、複雑に見えるのは事実かと思われます。ですが、日本語訳の問題もあろうかと考えております。例えば、カント等も日本語で読むよりも、ドイツ語を勉強して、ドイツ語で読んだ方が理解しやすいとも言われています。もしかしますと、英訳版の方が理解しやすいのかもしれません。 そこで、フッサールなのですが、「イデーン」の英訳は、「Ideas: General Introduction to Pure Phenomenology」となっておりました。はっきり申しまして、「英語版の方が理解しやすいのでは?」と、ふと思ったりも致しました。単に、文法的な相違のみならず、言葉のニュアンス等からも、それが言えるのかもしれません。また、カントが日本で普及したのは、大正の頃と言われております。つまり、その当時の述語の日本語訳がそのまま(フッサール等に対しましても)用いられているためなのかもしれません。 > *(4) それは そうだ。知覚したものごとを資料として受け止めるに当たって参考にならないものを捨て なるものを資料とする。当たり前だと思われる。 はい。確かに仰るとおりかもしれません。ただ、主観内での“現象”として捉える、さらには、“真理であるとも言っていない”ことには、当時と致しましては、画期的だったかと推察しております。ただ、“心理学や自然科学”としておりますが、“論理学”が含まれていないのには、注意を要するかもしれません。 > *(5) 《原理》とは 現象学的還元のであると読む。全体として 当たり前だと思われる。 確かに、仰る通りかと存じます。 > *(6) こうなると 独自の行き方があると見られる。だとしても 《理論的に研究する》ことから離れるとは思われないのだが。 《超越的な自然》とは 何も超経験を言うのではなく 《私にとって外部と見られるような自然》のことらしい。 おそらく、これは、「《現象学的還元》を遂行」を強調したいがため、「“超越的な”自然を理論的に研究することを止め」と述べたものと理解してございます。 一方、「《超越的な自然》とは 何も超経験を言うのではなく 《私にとって外部と見られるような自然》」におきましては、仰られる通りかもしれません。 > *(7) 分からなくなった。たとえば そこから資料を取り出す与件について知覚および認識の《作用の外》に置くということか? もともとこれらの与件については 《私にとっては外部にある》ものではなかったか。わざわざまた外に置くのだろうか? はっきり申しまして、きたない日本語かと思われます。以下の文章でじゅうぶんと考えられます。残りの文章は、とにかく、誤解を防ぐためにあえて「それらの措定のすべて」を列記したものと考えております。 「換言すれば 潜在的な措定をもあらかじめ《作用の外》におく。」 > *(8) 独自の《理論的研究》が始まるということらしい。 あらかじめながら《絶対的な固有の存在》という表現は 仰々しい。うたがい得ない《われ》の存在が見い出されたのならそう言えば済むと思われる。 これは、上述いたしましたように、古めかしいい(権威主義的?)日本訳語が残っているせいかもしれません。 > 《純粋意識》と言っても たかが人間の意識ないし存在の基本要素といったところではないのか。 異論はございません。仰られる通りかと存じます。 > *(9) 《独自》と言っても ここまで来ると 特殊すぎやしないだろうか。 いちいち《排去》などしなくても われなる存在の基本要素を取り出すのだと言えば 済むのではないか。 確かに、仰られる通りかもしれません。 > そのようにして それについての思索や把握は出来ようものを。わざわざなんで《残留》させるという形にするのか。 単純に、“残ったもの”を“《残留》”と訳しただけかと考えております。 > *(10) 《何一つ失ったのではなく》――そりゃあそうだろう。もともと抽象という作業をしていただけ。 確かに、そうなってしまいます。 > 《絶対的存在》――よくもこんな表現を使うと思う。人間存在の或る部分と言うに過ぎないと思われるのに。 仰られますように、誇張がみられるやもしれません。 > それを《獲得した》のならば それを見せて欲しい。それ自体は見せられないとすれば それを獲得した状態になれば 何ができるのか? 何が見えるのか? イデア的存在かと存じます。 > その世界観を示して欲しい。つまりは この文章をこの今表わした時点で そのことに留意をしてしかるべきなのだ。読む人をおちょくっている。 誠に申し訳ございません。もはや愚生には何とも申し上げられません。 > *(11) アウスシャルテンは スイッチを切りオフにすることでしょうか。 概ねそういうことかと存じます。ですが、これは訳者の怠慢とも見受けられます。英語では、”disconnect” or “stopping” ぐらいかと思われます。 > ならば あとではオンにすることもあるということなのだろうか。 《正当な表現》であるらしい。 いえ、それはないと考えております。 > *(14) だから それは何? どういう仕方なの? エポケーした後に得られたもの(もちろん、真理とは異なります)は、“通常の仕方で与えられたもの”とは異なる、ということを言いたかったものと考えております。 > *(15) 《与件についてその諸要素をわが判断に従って取捨選択する》と言うだけぢゃん。 身も蓋も無くなりますが、その一言で換言可能と考えられます。 > *(16) ご自由にどうぞ。 上記の日本語訳文とご質問者様のご意見を平行して、考えて参りましたが、ふと次の言葉を想起致しました。 「人を欺くものの中でおそらく最も危険かつ狡猾なのは、脆弱な仮定の上に築かれた複雑でエレガントな数学的方法である」マーティン・リース(ケンブリッジ大宇宙物理学教授) ともすれば、人は、複雑もしくはエレガントな理論により、騙されてしまうものであり、フッサールもまた、そのペテン師であったのではないか? との想いがふと頭をよぎってしまいました。ですが、「このペテンに騙されないようにするには、どうすればいいのか?」との疑問も沸いてきます。そして、おそらく、騙されるのを防ぐ最善の方法は、今のところ、この現象学的還元以外にはないのではないか? とも考えております。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
こんばんは ひどっちさん。無手勝流の質問にご返答をいただきたいへんありがとうございます。 ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。 ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。 * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。 * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分か らない。ただし (1)から出発すると捉える。 そうすると 言えることは 次である。 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》 ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか? (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味 を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられ ている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎ ないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうから その限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは 要らないのではないか? (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要ら ない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であ ろうと考えられる。 (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。 * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざ わざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。 ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。 そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要 を見ない。 (4) しかも《われ在り》が志向的な根元的根拠であるのは 私がリアルな世界と見做している《この》世界に対してだけでなく 私にとってそれぞれ妥当する《イデア的な諸世界》に対してもそうである。 * こうなって来ると 何だかわけが分からなくなる。 そもそも《われ》にとって――そしてそれは 誰にとっても―― 世界は 《いま・ここなる〈われ〉の世界》がすべてであり その世界観こそが 人それぞれに違っていても そのひとつの世 界は 共通であると考えられているはずだ。通底していると見ら れているはず。公理としてのごとく。 そのあと どうしても分けたいというのであれば イデアとリ アルとに区分してみればよい。 《私にとってそれぞれ妥当する〈イデア的な諸世界〉》は 世 界観と言えばよい。 (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為 にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだ けのことを 言ったに過ぎない。 (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに 向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ 在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。 いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。 (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。 * 独我論が いちばん当たっていると思う。 (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.) * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗 黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。 ▲ (同上) ~~~ (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。 * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。 たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込め ないはずだ。保留しよう。 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。 * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対 の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち 《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。 あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろ うか。 (11) 〔・・・〕《世界が存在する》という一般的な呼称は これに付随する精確に観察する意図的な経験の全体(ユニバース)と共に 《あらゆる究極的な すなわち直接的な認識の諸原理の全体》ないしは《普遍学にとって必要なあらゆる経験の全体》を それ自身のうちに包含しているように思われる。 * 《世界》と言えば すでに呼び方だけとしてでも 《全体》である。 その《世界》は そこに繰り広げられるあらゆる出来事を そして その観察結果としての理論をすべて 含む。当たり前だ。 (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。 * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験 世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限 ではない――から。 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するとい う事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識に おいてという前提がついている。 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致さ れてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像において ゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。 (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。 * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響 を受けるというのみ。 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何 の影響もない。 (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.) * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題 だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈 夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。 《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。 ~~~~~~~~~~~~~
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ★ 愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。 ☆ だとすると 《客観》と――同じではないでしょうが―― 相携えてすすむ概念であるように思えるのですが? あい携えてすすんだ結果としては 主観の捉えた認識のかたちとしてあるでしょうから その内容に普遍性が伴われれば 客観であると思われます。 はじめに排去した客観が よみがえるように思われます。 はい、 その内容に普遍性が伴われれば、客観とみなされてくるかと思われます。 排去したはずの客観が戻ってくることも、もちろんありうるものと考えられます。 なお、英訳名は、"Eidetic seeing" (Translator: F. Kersten)となっておりました。 > というよりも 排去したのは 世の中の既成概念や先入見としての《現象》観であって 普遍的な観点というものは 排除していなかった。(はじめにはまだ持っていなかった)。 客観は 作業仮説として想定されているだけの概念かもしれません。だとすると 《 essence 本質》は――客観は別とすれば―― ふつうに類概念または普遍性のことだと思われますが どうでしょう? 仰られますように、客観とは想定されているだけの概念かと考えております。 本質とは、まだ主観内(内省)のできごとでございますので、普遍性をそのまま持つとまでは言い切れない、と考えてございます。 > ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。 ご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます。 > そこで 主観と客観との一致だという見方を出すと どうなるか? 現象学的還元は はじめから主観のほかに客観をも想定していると見られてしまいます。言いかえると 《超越》とは 客観化のことだと。 原則、客観なるものの存在は認めておりませんので、少々異なるかもしれません。 > ☆ 《純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法》は ひとつに エポケーなる操作をおこなって行けば 要らないもの(見方)は捨象されますし たしかに言わゆる本質にまで抽象されて行くと思われますが もうひとつに 現象学的反省を加えて行けば やがてその事象観としてはほかの人の主観と共同化を成せるまでになると見られます。 これが ものごとをどう見るかについて その普遍性を問い求める姿だと思います。 はい。普遍化、さらには、客観化を求める姿勢かと存じます。 > ☆☆(上述) ~~~ ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。 しかももしその本質が 普遍性を持つとするならば もはやそれはやはり誰もがそう見るであろうような客観ないし科学的真実だと見られて来ます。 ~~~~~~~~~ そうでないと 間主観性は そなわって来ないと思われます。 はい。その本質が普遍性を持つという条件がクリアされたならば、もはやそれは誰もがそう見るであろうような客観になりうるものと考えております。 また、仰られますように、(間主観性の十分条件は満たさないかもしれませんが)必要条件かと察せられます。 > でもそうではなさそうなので どういう知解のあり方なのかと考えます。つまり さらに考え続けます。 ★ “知解”かと存じます。「確信」を抱かせるもの・領域といったものかと思われます。 ☆ 確信を抱かせるには 普遍性をともなって間主観性であることを条件とすると思われます。 そういう主観は 類概念や共同主観のほかに どういうかたちがあるか? ここではまだ初期フッサールの概念でございます故、間主観性はまだ出て来ていないかと考えております。従いまして、「確信」を抱かせるのは、主観内において、その現象学的還元を施した本人のみ(自分自身のみ)に限定されるものと考えております。しかし、それらが重なり合って、間主観性が生じるやもしれません。 > 足踏みしていると見られましょうが 必要なステップであるように思いましたので よろしくお願いいたします。 いえいえ。こちらこそよろしくお願い申し上げます。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
今回は ドンキホーテ的質問は不発に終わったかも知れません。 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 質問として考えついた内容が だいたい可能性として まちがった方向には行っていないという結果だったのではないかと思います。 今回はふたたび 原文についてお聞きします。 長い一文から成る文章ですが その文章の中へ 疑問をはさむ形を取ります。よろしくどうぞ。 ▲ (現象学的還元) ~~~ ( a )現象学的還元とは いっさいの超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効(ヌリテート)の符号をつけることである。 *(ぶらじゅろんぬ評)(1) この超越者の規定は 変。《私にとって外部と して知覚したもの(事象)》といえばよいのに。 (2) 要らない要素を捨象し要るものを抽象する(抽き出す)ことを《無 効の符号をつける》と表わすのはよいとしても でもそこでは《本質》として 捉えられるかも知れない要素については 抽き出す つまり私の内部に受け 留めて行くのではなかったかと疑われる。 ( b ) すなわちその超越者の実在と妥当性をそのまま措定しないで せいぜい妥当現象として措定することである。 *(3) というのなら 《無効の符号をつける》と言っても 《妥当現象とし て措定する》ことの中には 要ると思われる要素の取り出しも含まれるという ことらしい。 ( c ) たとえばいっさいの心理学や自然科学など あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず 従ってそれらを 私にとって〔認識批判学〕の手掛かりになりうる妥当的真理の体系としては まだ前提としても 仮説としてさえも 利用してはならない。 *(4) それは そうだ。知覚したものごとを資料として受け止めるに当たっ て 参考にならないものを捨て なるものを資料とする。当たり前だと思われる。 ( d ) 要するにこの原理の本来の意味は この認識批判学で問題になっている事象から離れず ここに伏在する諸問題を全く別の問題と混同しないよう絶えず勧告することである。(『現象学の理念』H.II,6) *(5) 《原理》とは 現象学的還元のであると読む。全体として 当たり前 だと思われる。 ▲ (同上) ~~~ ( e ) われわれは 経験の中で素朴に生活し 経験されたもの ないし超越的な自然を理論的に研究することを止め その代わりに《現象学的還元》を遂行する。 *(6) こうなると 独自の行き方があると見られる。だとしても 《理論的 に研究する》ことから離れるとは思われないのだが。 《超越的な自然》とは 何も超経験を言うのではなく 《私にとって外部と見 られるような自然》のことらしい。 ( f ) 換言すれば 自然を構成する〔*諸作用で〕意識に属する諸作用(現実的な諸作用やあらかじめ示された潜在性の中で実現されうる諸作用)とそれらに付随する超越的な措定を素朴な態度で遂行し かつまたそれらの作用に伏在する種々の動機づけに誘発されて 次々に新しい超越的措定を続行する代わりに――われわれはそれらの措定のすべてを 顕在的な措定はもとより 潜在的な措定をもあらかじめ《作用の外》におき それらを行なわないことにする。 *(7) 分からなくなった。たとえば そこから資料を取り出す与件について 知覚および認識の《作用の外》に置くということか? もともとこれらの与件 については 《私にとっては外部にある》ものではなかったか。わざわざまた 外に置くのだろうか? ( g ) そうすることによってわれわれは われわれ自身の理論的研究の把握のまなざしを 純粋意識とその絶対的な固有の存在へ向けるのである。 *(8) 独自の《理論的研究》が始まるということらしい。 あらかじめながら《絶対的な固有の存在》という表現は 仰々しい。うたが い得ない《われ》の存在が見い出されたのならそう言えば済むと思われる。 《純粋意識》と言っても たかが人間の意識ないし存在の基本要素といった ところではないのか。 ( h ) しかしてこの純粋意識こそ われわれが求める《現象学的残留物 Residuum 》として残留しているものであり この純粋意識は たとえばわれわれが全世界を 従ってあらゆる事物と生物を そしてさらにはわれわれ自身をも含めたすべての人間をも《排去》したとしても あるいはもっと適切に言えば それらのすべてを括弧に入れたとしても それとは係わりなく残留しているのである。 *(9) 《独自》と言っても ここまで来ると 特殊すぎやしないだろうか。 いちいち《排去》などしなくても われなる存在の基本要素を取り出すのだ と言えば 済むのではないか。 そのようにして それについての思索や把握は出来ようものを。わざわざ なんで《残留》させるという形にするのか。 ( i ) 厳密に言えばわれわれは〔この還元によって〕何一つ失ったのではなく むしろ絶対的存在の全体を獲得したのであり しかもこの絶対的存在は 正しく理解されるならば すべての世界的超越を《理念的に実現され整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成している》のである。(『イデーン』H.III,118f.) *(10) 《何一つ失ったのではなく》――そりゃあそうだろう。もともと抽象 という作業をしていただけ。 《絶対的存在》――よくもこんな表現を使うと思う。人間存在の或る部分と言う に過ぎないと思われるのに。 それを《獲得した》のならば それを見せて欲しい。それ自体は見せられない とすれば それを獲得した状態になれば 何ができるのか? 何が見えるのか? その世界観を示して欲しい。つまりは この文章をこの今表わした時点で その ことに留意をしてしかるべきなのだ。読む人をおちょくっている。もっとも ▲ ~~~~~~ しかもこの絶対的存在は・・・すべての世界的超越を《理念的に実現され 整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志 向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成 している》のである。 ~~~~~~~ ☆ ということらしい。そこまでは言っている。 《私にとって外部であった与件が 参考資料として選り分けて行った末には そのうちの基本要素らは 私の内部に整然と互いにその相関性が明らかに見 て取れるように 位置づけられている》ということか。 《われは わが心に世界を捉えた》ということだろうか? ところで その中身は? ▲ (同) ~~~ ( j ) そのつどの諸客観を現象学的に排去する Ausschalten とか それらを働かせないようにするという表現(これは作用や関心を働かせないようにするという言い方と相関的な正当な表現である)を誤解しないよう 用心しなければならない。 *(11) アウスシャルテンは スイッチを切りオフにすることでしょうか。 ならば あとではオンにすることもあるということなのだろうか。 《正当な表現》であるらしい。 ( k ) 現象学的考察者としての私は 存在や価値や目的をもはや普通の意味では所有していないが しかしそれとは別の変様された意味では やはり依然としてそれらを所有しているのである。 *(12) その違いを早くおしえて欲しい。 ( l ) 私に対する妥当性とそのような妥当性に対する私の関心一般から排去されたものも そのために私の意識野から消え去ったわけではない。 *(13) 早く言ってくれなきゃあ。オフとオンとがあると。 ( m ) ただし《自然的な見方で考察し 認識し 評価し 職業に従事する者としての私とは対照的な》現象学者としての私にとって いまやそれは 私を現象学者に変えた〔還元の〕方法によって 通常とは本質的に異なる仕方で与えられているのである。 *(14) だから それは何? どういう仕方なの? ( n ) 私はこの方法を 客観的なものに対しては括弧入れの方法と呼んでいる。 ( o ) われわれは客観を いわばそれを排去する括弧に入れ 一つの符号をそれに付与するのである。 ( p ) すなわち《私はここでは妥当性の承認や 存在や価値への関心などをすべて禁止したい。私はこの客観を これに妥当性を付与する自我の作用の志向的客観としてのみ妥当させ そしてその作用と その作用自身がそのように主題化された客観として措定しているものとに対してのみ関心をもつことにする》という私の意志を表わすための符号を付けるのである。 *(15) 《与件についてその諸要素をわが判断に従って取捨選択する》と 言うだけぢゃん。 ( q ) 私はこのような操作を行なうことによって 現象学的に純粋な主観的なものを獲得し そしてその内部に その主観の作用の単なる志向的客観という 変様された妥当性の形態において 客観を所有するのである。(『第一哲学』H.VIII,110f.) *(16) ご自由にどうぞ。 ~~~~~~
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > (か) 初めの(あ)のエポケーも もしそうだとすると ひとつに 諸法無我(ものごとに実体なし)を言う側面と もうひとつに 移りゆく世界のものごとをただ捨象するだけという側面・つまりあるいはその《本質》を求めものごとを抽象するという側面 これら両側面が含まれることになると思います。広くそのように扱って行きます。 仰られますように、諸法無我に類似点は見られますが、一応、“自我”は認めているようです。そして、“他我”の存在も成り立つと、そう仮定しています。 > (き) 《純粋意識》への到達!? ~~~~ こういうことかと存じます。つまり、 “自然的態度(客観的な存在(事物・事象)を無批判にそのまま受け容れる態度を)”には、多くの自明性や常識感覚といった先入観・偏見(誤謬)によって構成されているかと考えられます。そういった自明性や常識感覚を喚起する先入観を“エポケー”することによって“本質・純粋意識”を取り出すことができると考えました。 さらにまた、“意識”と“事象(対象)”が同時並行として存在しているものと考え、意識と対象の相関関係を規定する「志向性(意識は常に何ものかに対する意識である)」によって“事象(対象)”の認識が成立するとしたわけでございます。 もちろん、その得られた“本質・純粋意識”が“事象(対象)”そのものである(もしくは、真である)との保障はございません。ただ、[現象学的]反省を繰り返すことにより、ある程度は近づくことが可能としました。 (く) わたしも たたき台を提出します。作業仮説としてです。~~~ > 7. ひとは 身と心である。自然本性として捉えて 心が 精神である。 8. (1) 精神は 自然としてありそれとして秩序である。秩序とは 秩序立った記憶行為のこと。 フッサールの場合、意識なるものに重きを置いておりますが、原則、同じことかと存じます。 > (2) 精神は われにおいて 精神する。これは 大きくは自己到来ないし自己還帰であるが 一般には個別のものごとに即して行なわれる場合を言いそれは 記憶の宝庫から知識や情報を取り出す作業であり 知解と言う。 ただ、この場合、上述しました“自然的態度”をエポケー致します。 > (3) 記憶から知解するときすでに その方向や或る種の力が伴なわれている。いや むしろその作用によって知解しようとしたのでもある。このような志向性は 意志である。知解によって整えられた新しい一編の情報について取捨選択し力として発揮する(つまり自己表現する)ときの判断も 意志である。 意見を等しく致します。 > 9. 一つ目の 記憶なる行為能力は 自己組織化とも言うべき秩序作用と捉えると分かりやすい。ただおぼえるだけというのではなく。 10. 二つ目の知解なる行為能力が 記憶の中から情報を取り出しさらにその情報を整えるというとき 世界についての第一次の知覚や認識は 一たん記憶に入ったからそれを取り出すというかたちを想定している。 11. そのときには すでに三つ目の意志なる行為能力がはたらいて 情報は 方向と力を帯びつつある。そこから向きを決め 情報を伝達したり 情報の内容を行為したりする自己表現が 意志のもとにおこなわれる。 ただ、ここで問題になりますのは、その知覚もしくは認識が正しい(真である)との反省が加わります。 ~~~~~~~~~~~ > (け) 現象学では ひとの表現行為(および世界の現象のすべて)を受け身において捉えるその側面に注目するようである。しかもその受動としての知覚および認識 ないしそれらの意識を さらに意識しようとするということだろうか? 志向性なるものをどう解するかにより、“受け身”か“能動的”かは異なるかもしれません(ただし、後期では「受動性の現象学」を唱えました)。 > (こ) ただし 世界認識の内容(情報の中身)についてか もしくは情報を受けとめている認識のはたらきのあり方(またその構造)についてか それらのいづれか もしくは両方について 純粋意識なる超越論的主観性に到ることを目指す。しかもその主観について 内容として何度も練り上げて行くかたちで 普遍性を求める。 フッサールは、カントのように、人にアプリオリに備わる知覚システムに関しては、あまり言及していなかったかと記憶しております。ですが、後半部分をはじめ、意見を等しく致します。 > (さ) 超越論的主観性は 上の仮説の記憶・知解・意志の三つの行為能力のどこに位置づければ分かりやすいであろうか? “知解”かと存じます。「確信」を抱かせるもの・領域といったものかと思われます。 > (し) それは 知解行為の中核とも呼ぶべき必須の要素としてあるのだろうか? もしそれなら まだその学的方法ないし思想に独自性は見出しがたい。 やはり、エポケーなる操作は効果があるものと考えております。また、知解行為には必須かとは断じかねますが、存在していると思われている客観なるものを、とりあえずは排除し(実際、多くの人は客観が存在すると思っているかと考えております)、純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法は、従来のデカルトのような主客二元論的認識論(主観と客観の一致を保証するため、神の存在、および存在証明が必要とされたといわれています)に比べますと、進歩はみられたものと考えております。 > (た) アウグスティヌスの精神の現象学は カントの精細な批判哲学を持ち得ませんでしたが 精神の成り立ちについては 基本的なあり方としてまだ持ち堪えられるように思われます。 カントの時代になりますと、科学の進歩は飛躍的に認められておりました。実際、当のカント自信も元は天文学者でしたから。 従いまして、背景が異なるため、幾分異なることもあろうかと推察されますが、概ね意味するところは、同じではないでしょうか(アウグスティヌスには明るくないため、自信はございません)。 > (ち) フッサールのアンソロジーからの読みは やはり断片的でした。たとえば ★ 先天的認識=経験によらずとも得られる認識、かと存じます。 ☆ ですが この先天的というのは 自然本性としての精神の三つの能力によってそのまま記憶や知解そして意志による判断などの経験行為ができるという意味に取っていましたから。《所与性》という用語もありましたから てっきりそのような天与の能力のことであろうと。 カントも述語の多い人でしたため、致し方ないものと存じております。 > (つ) そのつてでは 用語の言い方にいくらか疑問を持ちます。トランセンデンタルというのも わが精神の内において何でわざわざ超越しなければならないのかという疑問をいだきます。メタという言い方なら 分かりますが。 もう、これは、この述語の発案者たるカントに聞いてみる他ないと思われます。ただ、日本語でも、例えば、“メタ数学”を“超数学”と訳してございます。 > (て) ★ フッサールが有神論か無神論者かは不明でございます。 ☆ この事情が 定義のための用語の規定に影を落としていないでしょうか。 《本質》というのは 日本語訳の問題ですが どうも《存在 Wesen 》のことのように思われます。意味として《われ》とその《主観》のことのようですし。 愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ドンキホーテの質問をぶつけますと 案外 話は進展し煮詰まって行くかに思われてまいりました。 なお細かくやり取りがつづくと思います。 ★ 愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。 ☆ だとすると 《客観》と――同じではないでしょうが―― 相携えてすすむ概念であるように思えるのですが? あい携えてすすんだ結果としては 主観の捉えた認識のかたちとしてあるでしょうから その内容に普遍性が伴われれば 客観であると思われます。 はじめに排去した客観が よみがえるように思われます。 というよりも 排去したのは 世の中の既成概念や先入見としての《現象》観であって 普遍的な観点というものは 排除していなかった。(はじめにはまだ持っていなかった)。 客観は 作業仮説として想定されているだけの概念かもしれません。だとすると 《 essence 本質》は――客観は別とすれば―― ふつうに類概念または普遍性のことだと思われますが どうでしょう? ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。 しかももしその本質が 普遍性を持つとするならば もはやそれはやはり誰もがそう見るであろうような客観だと見られて来ます。 そこで 主観と客観との一致だという見方を出すと どうなるか? 現象学的還元は はじめから主観のほかに客観をも想定していると見られてしまいます。言いかえると 《超越》とは 客観化のことだと。 ★ ~~~ やはり、エポケーなる操作は効果があるものと考えております。 また、知解行為には必須かとは断じかねますが、存在していると思われている客観なるものを、とりあえずは排除し(実際、多くの人は客観が存在すると思っているかと考えております)、純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法は、従来のデカルトのような主客二元論的認識論(主観と客観の一致を保証するため、神の存在、および存在証明が必要とされたといわれています)に比べますと、進歩はみられたものと考えております。 ~~~~ ☆ 《純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法》は ひとつに エポケーなる操作をおこなって行けば 要らないもの(見方)は捨象されますし たしかに言わゆる本質にまで抽象されて行くと思われますが もうひとつに 現象学的反省を加えて行けば やがてその事象観としてはほかの人の主観と共同化を成せるまでになると見られます。 これが ものごとをどう見るかについて その普遍性を問い求める姿だと思います。 しかるに 現象学では 独自に《超越論的主観性》が得られると言っています。それは 何か? ここでふたたび こうなります。 ☆☆(上述) ~~~ ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。 しかももしその本質が 普遍性を持つとするならば もはやそれはやはり誰もがそう見るであろうような客観ないし科学的真実だと見られて来ます。 ~~~~~~~~~ そうでないと 間主観性は そなわって来ないと思われます。 さらにしかも 人びとは 言ってみれば認識の共和国に住むというよりは ――志向性というからには――心つもりどうしのぶつかり合いや あるいは重なり合い そしてつながり合いをとおしても 共存している。 もし言うとすれば 超越論的主観性は シェーラーの言うそれを《関係性》と読んだうえでの《愛》どうしの喧嘩共和国に住むかたちなのだと思われます。 その限りで それ(純粋意識)は 存在あるいは 現存在の素朴な共存性の素のようだと見られます。 でもそうではなさそうなので どういう知解のあり方なのかと考えます。つまり さらに考え続けます。 ★ “知解”かと存じます。「確信」を抱かせるもの・領域といったものかと思われます。 ☆ 確信を抱かせるには 普遍性をともなって間主観性であることを条件とすると思われます。そういう主観は 類概念や共同主観のほかに どういうかたちがあるか? 足踏みしていると見られましょうが 必要なステップであるように思いましたので よろしくお願いいたします。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 [たたき台: ひどっち解釈] まず、愚生が考えましたのは、次の通りでございます。 ・( c ) 超越的:人間の理解・認識を超えたもの ・( d ) 超越論的:(ざっくり申しますと)高次、つまり、メタレベルからの認識システムを考察すること ▼ (ヰキぺ) ~~~ ( e ) 「超越論的とは、先天的とは異なり「如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識」のことであり、超越論哲学はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。」 ~~~~~~~~~ > ( g ) 《客観》なる存在が実在するとの断定を排去するのはよいとして ではそれが何故《括弧に入れ》られなければならないか? 《超越的存在》が排去されたのなら 何故さらにわざわざ《括弧に入れ》ねばならないか? 「《客観》なる存在が実在するとの断定を排去」=「エポケー」と考えております。つまり、意識の対象は、”意識に現われるがまま”の「現象」として保たれます。そして、純粋意識が浮かび上がります(「現象学的還元」;志向的関係という意識の本質として見ていく純粋化操作を意味するため、”還元”の名で呼ばれます)。そして、残された意識が、”確信”を成立させます(「超越論的主観性」)。 > ( h ) ひどっちさんの( c )とて それは 経験事象に属する《客観》のことと非経験の領域としての超経験ないし神との両方をふくむと見られるのではないか? はい。以上述べましたのは、フッサールの従来説に従ったまででございます。もちろん、これに形而上学的存在をも加えてもよろしいかと考えております(ひどっち案)。 > ( i ) さらに一たん分かったようになるのですが ( d )とてあまりはっきりしません。《現象学的反省を繰り返し》て 段階的に高次の《超越論的主観性》ないし純粋意識に到るというとき それは第一次の知覚ないし認識のあとの第二次以降は すべて高次であり《超越論的》な観点であると言えるのではないか? メタの上のメタ さらにその上のメタ・・・とつづくのではないか? 一例を挙げさせていただきます。 「我々ひとは、対象を、知る・把握・認識する」、これ作業自体がどのような作用により、なされるのかを把握・考察する、といったものかと考えております。 《現象学的反省を繰り返し》て 段階的に高次の《超越論的主観性》ないし純粋意識に到るというとき それは第一次の知覚ないし認識のあとの第二次以降は すべて高次であり《超越論的》な観点であると言えるのではないか? とのご質問につきましては、すべて高次な《超越論的》な観点と考えております。 また、メタの上のメタ さらにその上のメタ・・・とつづくのではないか? と問われますと、確かに、無限大にまで拡張する可能性がございます。ですが、これらをひっくるめて、単純に”高次”としており、メタ・・・とつづくとまでは言っていないかと存じます。 > しかも《客観》を――早く言って――排去しているのなら どこまで行っても《主観》です。 はい、そのようになろうかと考えられます。そして、独我論的認識論に陥るのを防ぐべく、“間主観性”という考えを導入してきたものと解してございます。間主観性も、そもそもは主観の集まりかと考えられます。 > ( j ) しかもさらに ( e )ですが《如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識》というのは 《生まれつきの自然本性の内容(身体と精神。精神の三つの行為能力――記憶・知解・意志――など)》が どういうものであるのか? この問いなら なぜわざわざ《超越論的》と言わねばならないかが 分かりづらい。どうもそうではなく 問いは: これは、おそらくカントの認識論について述べたものかと考えられます。つまり、先天的認識=経験によらずとも得られる認識、かと存じます。例えば、論理学のように経験されずとも導きうる認識が、他の学問、数学等他の科学分野におきまして、可能か否かを論じたものと考えられます。 > ( l ) ところがいまわざと言いかえていたのですが 記事によると 《如何にして先天的認識が可能であるのか》と言っています。自然本性の機能が 如何にして人間にそなわっているか? という問いなのでしょうか? 《根拠》とまで言っているようですから。 いえ、少々異なるかと存じます。”自然本性の機能”、これは、人間が持つ、空間時間的認識能力等、予め備わったもの、を指しているかと考えられます。おそらく、その根拠は不明と考えられますし、カントもそこまでは言及していなかったかと記憶しております。 > ( m ) もしそのようでしたら こうなります。次のふたつの立ち場に分かれる。 (あ) いまはまだ未知だが やがて人間にも科学の力で分かるようになるだろうという立ち場。 (い) 分からないであろうという立ち場。如何にして機能するかは 科学によって分かるようになろうが 《如何にして可能であるのか つまりまたその根拠(なぜ)》については ついぞ分からないであろうと。《なぜ記憶行為がそなわっているのか》は 分からないと思われる。 (あ)は原則否定しております。二律背反(アンチノミー)として、ひとには認識不可能なものがある、としているからでございます。 従いまして、(い)の立場をとるものと考えられます。 > ( n )(い)の立ち場なら その《分からない》ナゾを 《超越者》とわれとの関係において持つかたちとなる。超越者を 《無い神》とした場合にも 同じである。 確かに、カントの場合は、”もの自体”という概念を持ち出してきました。ただ、それは、人間(理性)には認識不可能としておりますが。 > すでに上の( m - い)の立ち場でも議論をすすめてもらっていますので 蛇足になりますが 整理してみました。 もし( a/b/c/d )のように捉えたときには ひどっちさんは フッサールの趣旨もしくは心は どのあたりにあるとお考えでしょうか? かれが何を思っていたのか? デカルトは コギトの命題を提出した反面において 神の存在証明をもおこなっていませんでしたか? フッサールは神をどう処理したとお思いですか? 何だか謎のように思えました。 フッサールが有神論か無神論者かは不明でございます。ですが、カントと同様に、神といった形而上学的なものは、少なくとも、その認識論におきましては可能な限り排除させたかったと考えております(カントは有神論者でしたが)。イデア的対象といえども、あくまで新たな対象性であって、知覚に過ぎないものと考えております。 確かに、ヒラメキ等の問題もあろうかと考えられます。ですが、極端な話ではございますが、誰しもがアインシュタインにはなれないと思うのです。つまり、一種の学の追求・方法手段として、誰にも可能な方法を提示したかったものと考えております。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 今回は 一方でなるほど現象学には それ独自の方法ないし思想がありそうだと感じたものの 他方では まだまだむしろさらに謎が深まったとも感じました。どちらも感じですが。 さらにうかがってまいります。 ★ ~~~~~~ (あ) 「《客観》なる存在が実在するとの断定を排去」=「エポケー」と考えております。 (い) つまり、意識の対象は、”意識に現われるがまま”の「現象」として保たれます。 (う) そして、純粋意識が浮かび上がります(「現象学的還元」;志向的関係という意識の本質として見ていく純粋化操作を意味するため、”還元”の名で呼ばれます)。 (え) そして、残された意識が、”確信”を成立させます(「超越論的主観性」)。 ~~~~~~~ ☆ (お) その中で(う)の純粋意識が浮かび上がるところが まだピンと来ていません。 (か) 初めの(あ)のエポケーも もしそうだとすると ひとつに 諸法無我(ものごとに実体なし)を言う側面と もうひとつに 移りゆく世界のものごとをただ捨象するだけという側面・つまりあるいはその《本質》を求めものごとを抽象するという側面 これら両側面が含まれることになると思います。広くそのように扱って行きます。 (き) 《純粋意識》への到達!? ~~~~ 1. 世界を知覚し そのあと それを意識し認識します。 2. その内容に何か移ろい行かないものがあるか? 実在するものがあるか? と問うた時 ないだろうと答える。(諸法無我ないし空観のようでもあります)。 3. ならば意識したものはすべて 砂が手からこぼれ落ちるように 去って行く。(言いかえると 忘却のかなたへ追いやってもよいという見做し――としての世界観――を持つ)。 4. あとに残るのは おそらく意識したというそのはたらきをさらに見つめる意識(われ)であろうと考えられる。これが メタ意識? 純粋意識? 5. このメタ意識〔なる我れ〕は 疑いえない存在なるか? わたしがわたしであるそのわたしとして たしかなものだろうか? 確かなら その意識は 確信だと言える。 6. 果たして どうか? ~~~~~~~~~ (く) わたしも たたき台を提出します。作業仮説としてです。~~~ 7. ひとは 身と心である。自然本性として捉えて 心が 精神である。 8. (1) 精神は 自然としてありそれとして秩序である。秩序とは 秩序立った記憶行為のこと。 (2) 精神は われにおいて 精神する。これは 大きくは自己到来ないし自己還帰であるが 一般には個別のものごとに即して行なわれる場合を言いそれは 記憶の宝庫から知識や情報を取り出す作業であり 知解と言う。 (3) 記憶から知解するときすでに その方向や或る種の力が伴なわれている。いや むしろその作用によって知解しようとしたのでもある。このような志向性は 意志である。知解によって整えられた新しい一編の情報について取捨選択し力として発揮する(つまり自己表現する)ときの判断も 意志である。 9. 一つ目の 記憶なる行為能力は 自己組織化とも言うべき秩序作用と捉えると分かりやすい。ただおぼえるだけというのではなく。 10. 二つ目の知解なる行為能力が 記憶の中から情報を取り出しさらにその情報を整えるというとき 世界についての第一次の知覚や認識は 一たん記憶に入ったからそれを取り出すというかたちを想定している。 11. そのときには すでに三つ目の意志なる行為能力がはたらいて 情報は 方向と力を帯びつつある。そこから向きを決め 情報を伝達したり 情報の内容を行為したりする自己表現が 意志のもとにおこなわれる。 ~~~~~~~~~~~ (け) 現象学では ひとの表現行為(および世界の現象のすべて)を受け身において捉えるその側面に注目するようである。しかもその受動としての知覚および認識 ないしそれらの意識を さらに意識しようとするということだろうか? (こ) ただし 世界認識の内容(情報の中身)についてか もしくは情報を受けとめている認識のはたらきのあり方(またその構造)についてか それらのいづれか もしくは両方について 純粋意識なる超越論的主観性に到ることを目指す。しかもその主観について 内容として何度も練り上げて行くかたちで 普遍性を求める。 (さ) 超越論的主観性は 上の仮説の記憶・知解・意志の三つの行為能力のどこに位置づければ分かりやすいであろうか? (し) それは 知解行為の中核とも呼ぶべき必須の要素としてあるのだろうか? もしそれなら まだその学的方法ないし思想に独自性は見出しがたい。 (す) 横からながめても たとえば純粋理性批判をおこなうそのわれの精神における知解能力のそのまた中核だというくらいであると思われるから。 このとき 意志や記憶が参加していないというわけではない。放っておかれてはいない。けれども そのはたらきを担っているのは 知解能力だという見方です。ですから 認識としての超越論的主観性に 志向性が伴なわれているという見解についても 意志をともなう知解行為だとみればよいかたちなわけですから。 (せ) 言いかえると 《還元》なる行為は ものごとの知解における抽象行為のことであり そこにさらにメタ意識をつけ加えても それは 《精神が精神する》知解行為の最大幅としての自己到来ないし自己還帰のこと――《わたしがわたしである》こと――だと言えるからです。 (そ) さらにその自己到来したわれとは ★《(え) そして、残された意識が、”確信”を成立させます(「超越論的主観性」)》がそのまま見合っています。 (た) アウグスティヌスの精神の現象学は カントの精細な批判哲学を持ち得ませんでしたが 精神の成り立ちについては 基本的なあり方としてまだ持ち堪えられるように思われます。 (ち) フッサールのアンソロジーからの読みは やはり断片的でした。たとえば ★ 先天的認識=経験によらずとも得られる認識、かと存じます。 ☆ ですが この先天的というのは 自然本性としての精神の三つの能力によってそのまま記憶や知解そして意志による判断などの経験行為ができるという意味に取っていましたから。《所与性》という用語もありましたから てっきりそのような天与の能力のことであろうと。 (つ) そのつてでは 用語の言い方にいくらか疑問を持ちます。トランセンデンタルというのも わが精神の内において何でわざわざ超越しなければならないのかという疑問をいだきます。メタという言い方なら 分かりますが。 (て) ★ フッサールが有神論か無神論者かは不明でございます。 ☆ この事情が 定義のための用語の規定に影を落としていないでしょうか。 《本質》というのは 日本語訳の問題ですが どうも《存在 Wesen 》のことのように思われます。意味として《われ》とその《主観》のことのようですし。 間主観性を――まだ知らないのですが―― まだ交じえ得ませんでした。 どうぞよろしく添削をお願いします。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ただちに物言いに向かいます。 (超越論的現象学)〔=No.8お礼欄に引用〕 ~~~~ われわれが超越論的現象学の基盤に立った場合 超越論的経験においては 普通の意味で真の存在であると理解されている《超越的な存在》はすべて排去され 《括弧に入れられて》いる。 (『イデーン』H.V. 76 ) ~~~~~~~~~~~~ ☆ この《超越的な存在》は 早く言えば 神か?――おそらくそうであって 《絶対》ないし《絶対者》を言っていると見てよいはずです。 超越的な存在=客観的存在、と愚生は理解しているのですが・・・ つまり、「意識から独立している超越的存在(客観的対象)がそのまま実在しているという断定をすべて排去され」かと・・・ ですが、この問題につきましては、後述してございます。 > そして 経験科学あるいは経験合理性にもとづいて話をし合うふつうの会話においては その神を―― 一般に言葉として話題として――《すべて排去し 括弧に入れている》ことは ふつうのことです。無神論の場合に限らず 有神論の場合にも まったく同じくふつう一般であるはずです。 はい。経験合理性判断におきましても、また形而上学的考察におきましても、エポケーするのは、自然な発想かと存じます。 > 言いかえると 《われ》と超越者との間には――上の基本的なあり方の限りで―― 明らかな隔てが設けられています。ゆえに 《われは 神を見た》ですとか《われは神の言葉を聞いた。それを語るのだ》ですとかそう言った表現は 文学などの世界に限られて認められているかたちです。 《われ》と超越者(超越的存在)との間には明らかな隔てが設けられているのは、事実かと存じます。ヴィトゲンシュタインではございませんが、「神はこの世界にはいない」と同義かと考えております。 > ★ 一般的には、 超越論的とは、自己の有限性・限界性を認識した上で、その自己の限界を高次の次元から超越しようとすることと、されています。 ☆ すなわち《超越者を括弧に入れていること》と このような《経験思考において言わば次元の高い低いがあること》とは互いに両立するはずです。 まず、愚生が考えましたのは、次の通りでございます。 ・超越的:人間の理解・認識を超えたもの ・超越論的:(ざっくり申しますと)高次、つまり、メタレベルからの認識システムを考察すること 「超越論的とは、先天的とは異なり「如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識」のことであり、超越論哲学はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%B6%8A%E8%AB%96%E5%93%B2%E5%AD%A6 ですが、別段、通説に従う必要もないかと考えられます。例えば、新田現象学や竹田現象学のように、Hidotchi現象学なるものを唱えてもよろしいかと存じます。 つきましては、《超越的な存在》=《絶対者》として、以下、論を進めたく存じます。 > もし定まるという向きは そのおのれが《絶対》であり超越者であると宣言したことになります。つまり その時点で《超越者を括弧に入れている》という前提に みづから 違反したことになります はい。仰られますように、おのれが《絶対》であり超越者であると宣言したことになろうかと考えられます。 > この限りで ですからどうしても 次のような《超越者と経験存在〔の心的現象〕との区別にかんする図式》は必要であり つねに有効である。こう考えます。 ○ (ロゴスの階層) ~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなナゾなる非思考の庭):神 ___【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~ 了解致しました。 > ☆ 無神論者は 《無い神》を想定するからには 《天使が 神と人とのその隔てを仲介し橋渡しをする》ということも無いものと見ているのでしょうが この構図じたいは つねにその心の中で有効であるはずです。そうでないと 理性信仰や科学万能という情況 を呈しさらにはそれをも超えて――もしくは《超越者》をこの経験世界に引きずり降ろして来て―― 世界は経験世界のみだと見なし その見なしにおいて自分はあらたな神であると宣言したことになるのではないか? 実を申しますと、愚生は非常に危惧しております。世界は経験世界だとしかみなせないでおりますと、おそらくひとは虚無状態に陥るのではないか、との危機感がございます。ひとは、何かしらの価値あるもの、信ずべきものを潜在的には求めているものかと考えております。しかし、この世界、また心の中までもが、経験のみに依存すると判断してしまいますと、信ずべきもの、 また逆に確からしいものまでもが失われ、突き詰めますと、虚無主義に陥るのではないかとの危機感がございます。 そして、虚無主義に陥るのを払拭すべく、「自分はあらたな神である」と宣言するようになろうかと思われます。 現代科学は確かに進歩したかもしれません。ですが、実際は不明なことの方が多いわけです(科学が万能であるとは、当然証明されてはおらず、むしろ不確実性が伴うものと考えております)。 また、以下の言葉が印象的でございました。 「しかしその偉大な科学が教えるところによれば、人間は少しも偉大ではない。他の動物とは違って理性的と自負する近代人がその能力を最大限発見した結果得た科学の結論は、人間は他の動物と同様DNA戦略の一環たるタンパク質に過ぎないということであった。人間は有能になることによって無能となったのである。」 http://www.systemicsarchive.com/ja/b/scheler_anthropologie.html からでございます。 > 超越者は 存在するか存在しないか分からないわけですから 人が神は存在しないと見るのも われには神は要らないと言うのも ふつうに在り得ることだとしても みづからが《無い神》になることは出来ない。 はい。超越者もそうでございますが、(絶対的)客観世界の存在もが不明な状況でございます。ただ、間主観性のみにより、それが、存在しているように“思っている”に過ぎないからでございます。 > ひどっちさんが 分かっておられることは言うまでもないことですが・だからこそそのための論陣を張ってもらっているとさえ捉えられるのですが 上のような重箱の隅のほじくりは どこまでも注意していたいし蛇足をつらねたいと 今回 感じました。 愚生も勉強中の身でございますので、人望含めまして、たいしたものではございません。ですが、ご質問者様のご意見、ご見解に対しましては、極力対応して参りたい、とそう思っております。 > 括弧に入れると ★ ~~~~ > ☆ 本質観取ないしその明証性に段階があるということでしょうか? はい。具体的な段階を示してはおりませんが、幾度も、というのが必要なのかもしれません。 ~~~~~ ☆ この《現象学的反省の繰り返し》が 明証性や普遍性の獲得には必要だとなるようです。 ほんとうは ですから 絶対的な隔たりを置いて――相手は絶対としての超越者なのですから――関係が出来ている(つまり 仏性がある・霊がやどる)と言っていたほうが 分かりやすいかとは思われます。 はい。仰る通りかと存じます。正直申しまして、愚生が付記すべきことは全くございません。 > そこのところを あまがっぱさんとひどっちさんとにおそわったマックス・シェーラーは突いたのでしょうか。 確かに意識ないし志向性を言うのですから 本質観取には わが心がかかわっていると言ってもよいはずです。 はい。もちろんそうでございます。 > それにさらに色をつければ 仏性なり霊なりあるいはアートマン(つまりけっきょく霊性)なりが来ますが シェーラーは どうもその志向性なる心を《愛》と呼んだようですね。 これも けっきょく西欧において伝統的な概念ではあるようですが。 「神は人格の中の人格として,知の対象ではなく,個々の人格との愛の相互作用のうちで体験される」との主張から、伺い知れるかと存じます。 アマガッパ様へ ブロック解除の要望を受け入れてくださいまして、厚くお礼申し上げます。 愚生は、「釈迦に説法」を避けるべく、”現象学”ではなく、”仏教”を中心に論を進めて参りたいと、そう考えております。 愚生のとりとめのない駄文もお役に立つことを願いながら、ご回等させていただきたいと思っております。 もちろん、ご都合がおありでしょうから、そこはご質問者様のペースに合わせたく存じます。 それでは、どうもありがとうございました。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
もう少し細かいところでゴタゴタしますでしょうか。《超越》です。 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~ ( a ) 超越的な存在=客観的存在、と愚生は理解しているのですが・・・ ( b ) つまり、「意識から独立している超越的存在(客観的対象)がそのまま実在しているという断定をすべて排去され」かと・・・ ★ ~~~~~ まず、愚生が考えましたのは、次の通りでございます。 ・( c ) 超越的:人間の理解・認識を超えたもの ・( d ) 超越論的:(ざっくり申しますと)高次、つまり、メタレベルからの認識システムを考察すること ▼ (ヰキぺ) ~~~ ( e ) 「超越論的とは、先天的とは異なり「如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識」のことであり、超越論哲学はまさにこうした根拠を問う哲学であると言っている。」 ~~~~~~~~~ ☆ そうしますと――というよりは どうもフッサールにかんしましては 超越は 絶対者ないし神のことではないようですが―― こんどは ( f ) 《客観》とは何か? が問題になりましょうし さらに細かく こう問われましょう: ( g ) 《客観》なる存在が実在するとの断定を排去するのはよいとして ではそれが何故《括弧に入れ》られなければならないか? 《超越的存在》が排去されたのなら 何故さらにわざわざ《括弧に入れ》ねばならないか? ( h ) ひどっちさんの( c )とて それは 経験事象に属する《客観》のことと非経験の領域としての超経験ないし神との両方をふくむと見られるのではないか? ( i ) さらに一たん分かったようになるのですが ( d )とてあまりはっきりしません。《現象学的反省を繰り返し》て 段階的に高次の《超越論的主観性》ないし純粋意識に到るというとき それは第一次の知覚ないし認識のあとの第二次以降は すべて高次であり《超越論的》な観点であると言えるのではないか? メタの上のメタ さらにその上のメタ・・・とつづくのではないか? しかも《客観》を――早く言って――排去しているのなら どこまで行っても《主観》です。 ( j ) しかもさらに ( e )ですが《如何にして我々は先天的認識が可能であるのかその可能性と根拠についての問う認識》というのは 《生まれつきの自然本性の内容(身体と精神。精神の三つの行為能力――記憶・知解・意志――など)》が どういうものであるのか? この問いなら なぜわざわざ《超越論的》と言わねばならないかが 分かりづらい。どうもそうではなく 問いは: ( k ) 《生まれつきの自然本性の内容》が《可能であるのかその可能性と根拠について問う》ということのようですが これが どうして《超越論的》だとせねばならないか? ふつうの学的認識のための問いなのではないか? (答えが出るかどうかを別として)。 ( l ) ところがいまわざと言いかえていたのですが 記事によると 《如何にして先天的認識が可能であるのか》と言っています。自然本性の機能が 如何にして人間にそなわっているか? という問いなのでしょうか? 《根拠》とまで言っているようですから。 ( m ) もしそのようでしたら こうなります。次のふたつの立ち場に分かれる。 (あ) いまはまだ未知だが やがて人間にも科学の力で分かるようになるだろうという立ち場。 (い) 分からないであろうという立ち場。如何にして機能するかは 科学によって分かるようになろうが 《如何にして可能であるのか つまりまたその根拠(なぜ)》については ついぞ分からないであろうと。《なぜ記憶行為がそなわっているのか》は 分からないと思われる。 ( n ) (あ)の立ち場なら その認識作業についてわざわざ《超越論的》という言い方をする必要はないではないか? 第二次・第三次・・・の認識(志向性ないし意味)だと言えば済む。というより 認識を練り直すのは まったくふつうの作業である。 (い)の立ち場なら その《分からない》ナゾを 《超越者》とわれとの関係において持つかたちとなる。超越者を 《無い神》とした場合にも 同じである。 ☆ すでに上の( m - い)の立ち場でも議論をすすめてもらっていますので 蛇足になりますが 整理してみました。 もし( a/b/c/d )のように捉えたときには ひどっちさんは フッサールの趣旨もしくは心は どのあたりにあるとお考えでしょうか? かれが何を思っていたのか? デカルトは コギトの命題を提出した反面において 神の存在証明をもおこなっていませんでしたか? フッサールは神をどう処理したとお思いですか? 何だか謎のように思えました。 ほとんど進展しませんでしたが あと 間主観性の問題やシェーラーの主題を残しています。 * 《先天的認識》は ヒラメキを含みましょうか? 含むようにも思われます。だとしたら 超越論的認識には ヒラメキについての意識や志向性ないしその意味を問う問いが含まれましょう。 だとしたら 直接・間接にあるいは消極的に 神とのかかわりも出て来ましょう。 超越論的現象学の独自性は その点では まだはっきりしません。ほかの哲学一般と同じようですから。
- amaguappa
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ひどっちさん、ブロックを解きましたからどうぞご回答をお寄せ下さい。お返事は少し遅れますがご了承ください。子どもの幼稚園選びの季節なのでスケジュールが詰まってしまっております。ではまた後日に。
お礼
いやぁ 多少とも関与したとするならば 仲介者冥利に尽きます。 いろいろありがとうございます。 投稿をありがとうございます。 超越論的主観性は 普遍的であったということですね。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > 1. 《超越論的領域》という言葉で言おうとしているのは 《非経験の領域》であり 神の領域であろうと思われます。次では 《真理》と言っています。 「「Transzendental=超越論的」と「Transzendent=超越的」の二種類があり、混同しやすいが、意味合いは似て非なるものである。」 (Wikipedia 超越論哲学 からでございます) 一般的には、 超越論的とは、自己の有限性・限界性を認識した上で、その自己の限界を高次の次元から超越しようとすることと、されています。換言致しますと、「自分だけにしか通用しない個別的な事情・立場」といった”経験的”な事柄に左右されずに、「誰にでも通用する一般的・普遍的・絶対的な立場」に立ち考えようとすること、と言われています。 仰られますように、確かに、「真理」の語彙が見られます。おそらく、これは「 このようなイデア的統一性における真理について論ずるのが ”論理学” の諸法則であり」とございますように、論理学を基本としている、もしくは、基本として現象学を展開したいもの、と考えております。 > 2.ただし 次の場合の《真理》は 経験またその思考におけるそれであるようにも捉えられます。ということは なかなか全体の素描がつかみにくいようでもあります。 これは、 論理学研究、つまり、初期の著作でございますが、少し誇張が散見されるように見受けられます。この文章のみですと、では何故、(後に)デカルトのコギトを用いたくなったかの理由がわからなくなるのですが・・・ その後、デカルトを持ち出すことになりますが、しかし、その後は一点して、今度は、非デカルト論を展開させていきました。なぜデカルトを否定していったかの理由を以下に述べてございます。 必当然的な(アポディクティッシュな)明証とは、不可疑的な意識として、直接に「事象そのもの」に立つことを意味します。そこで、フッサールはアポディクティッシュな明証としての”経験”とは、いかなるものかを検討することとなりました。ですが、検討している中で、世界の存在といえども、経験を通して推定的であるため、非存在の可能性を払拭しきれない可能性が生じてきた訳です。そうしますと、知覚されたものがそもそも存在しないという可能性が残ってしまい、「世界がある」という命題には拭い去り難い偶有性がつきまとってしまいます。 つまり、世界を切り捨ててしまったことに原因がございます。 > 3. 《超越者》の扱いを いまひとつ掲げます。それを《括弧に入れて》 経験科学であることを目指すと読めましょうか? はい、そのように考えております。 > 4. 本質直観についてです。ヒラメキのことかと思われますが さだかであるとも言い難いです。 直観というよりも、理解、認識に近いと考えております。従いまして、ヒラメキの直後ぐらいに相当するものとおもっているのですが・・・ 自信がございません。誠に申し訳ございません。 > 5. 《アプリオリ》を どう捉えるのか? ただ単に《先験的》でもなさそうに見えるのですが そうでもあるようです。 カントが用いた”アプリオリ”とは幾分異なるように見受けられました。愚生ももう少し勉強してみたいと考えております。 > そして われわれのヒラメキの定理も 参考になろうかと思います。 ☆ 《ことば》を《ロゴス》として言いかえて捉える。 インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ~~~~~~~~~~~~ おそらく、上述してございますように、フッサールの直観は、ヒラメキの直後ぐらいに相当するものかと思っているのですが・・・ > ☆ どうなんですか? どうも次のように捉えると やはり分かりやすいと思えて来ているのですが? はい、仰られますように、極めて独我論的な考え方かと存じます。そして、かろうじてでも客観を成立させるべく、間主観性なる考えが出てきたものと考えております。 愚生は、この間主観性なる概念に魅せられ、現象学に興味を持ちました。 例えば、その一集団のみによってなされる群衆心理およびそこから派生する行動等でございます(以前、ご紹介させていただきました、ポーランドのユダヤ人殺戮事件、ベトナム戦争時のソンミ村大虐殺等でございます)。 > ☆ 唯識派は 仏性を認めないそうですが 類型的にみれば 円成実性の境地はすでに仏性のはたらきだと言ってよいように思われます。超越論的主観性のばあいは 《志向性を持つこと》が 特徴的でしょうか。(ただし この解釈がただしいかどうかは保証の限りではありません)。 仰られますように、類型的に見ますと、そのように考えられるかと存じます。ただ、横山紘一著「やさしい唯識―心の秘密を解く (NHKライブラリー)」には、唯識は仏性を認めない、との言及がございましたため、そのように判断させていただきました。そもそも、世親らは、上座部の方達で、その後、大乗仏教に鞍替えしたものですから、その昔の影響が残っていたものかと推察しておりますが、これはあくまで愚見に過ぎません。 > 独我論的《われ》を想定すると 例の《間主観性》が あくまでおのれの主観の内部における他者とのかかわりを言うという性格を分かりやすく伝え得るかも分かりません。 このくらいに脚色してみないと つぎのご説明の内容も ただ《わたしは わたしおよびそれを取り巻く世界を わたしという存在としてその生きる動態において 見る》と言っているのみで なんでそんな分かり切ったことを言うのだろうといぶかしみたくなるのですが? 誠に申し訳ございません。愚生の文筆力によるものかと深く反省致しております。 > ☆ 本質観取ないしその明証性に段階があるということでしょうか? はい。具体的な段階を示してはおりませんが、幾度も、というのが必要なのかもしれません。 > ただしもしそういうことでしたら ブディズムの ○ 即身成仏 / 即得往生 / 頓悟 / 本覚思想 ☆ の見方とは そのままでは同じではないようにも考えられます。即時に本質直観にいたると言っているはずであり あるいはつまり すでに生まれたときからの自然本性において ただちに《目覚めた状態》に成りうるというのだと思われますから。 愚生も異なるものと考えております。 まず、イデア視という考えは仏教の例えば、諸法無我とは相反する概念かと考えております。また、大乗仏教でもそうでありますように、”空”=縁起、つまりそれ自体”本質性がないもの”を主張しております。フッサールは一応、学の成立のため、”客観”を求めましたが、仏教は全く”相対”の世界であります。 もちろん、仰られますように、フッサールには、仏性に類する言葉も見られません。 > ★ 量子論による認識論との関連性でございますが、量子論によるものは不確定性を訴えた認識論でございますので、どれほどの関連性があるのかは、愚生にはわかりません。 ☆ この趣旨は こうです。不確定性の状態を確定するのは 観測ないし認識によるとするのならば その主体の主観が世界の主役であると言っていませんか? それが 現実世界において どこまで当てはめられるのか? これも残念ながら分かりません。 そうでございましたか。これは愚生には気づきませんでした。観測(視覚)によって、はじめて把握が可能、さらには、その延長上と致しまして、主体の主観が世界の主役、という意味におきましては、共通が見られるかもしれません。 > さてさて 扱う対象世界の幅は広く むしろ広すぎであり しかも要領としてはきわめて素朴に《わが主観》の動態に注目しつづけている。といったところでしょうか? 要するに世界認識ということであり そこに色をつければ《さとり》といったような境地の問題をあつかおうかという出で立ちであるとも思えます。 はい。共通点と致しましては、両者とも、独我論的でございます。つまり、主観の中にすっぽり収まってしまいます。そして、この我が主観世界を主題に論を進めたというのは、共通点かと存じます。つまり、認識論と致しましては、ある程度の共通点が認められる、しかし、本質直観とは、関連性は薄い、とそのように考えてございます。 ------------------------------------------------------------------------- 上記現象学と仏教に関する愚見は 実はアマガッパ様のご質問への回答として用意したものでございます。 残念ながらブロックされておりましたので 今日まで日の目を見ませんでした。もしよろしかったら、投稿させていただきたと思うのですが、いかがでしょうか? もし、アマガッパ様にもご参考となるところがございましたなら、望外の喜びとするところでございます。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 かなり煮詰まって来たのではないでしょうか。 今回は やや細かいことでしょうが・そしてこれまでの〔すでに長い〕問い求めにおけるやり取りで明らかにして来てもいると思われることがらですが 《超越》という概念について取り上げます。 ★ ~~~~~ 「「Transzendental=超越論的」と「Transzendent=超越的」の二種類があり、混同しやすいが、意味合いは似て非なるものである。」 (Wikipedia 超越論哲学 からでございます) ~~~~~~~ ☆ この定義に従って述べるべきでした。それは歴史的にすでに はっきりしているのだと見ます。と同時に この定義はあいまいである こう申し上げねばならないと考えました。 ただちに物言いに向かいます。 ▲ (超越論的現象学)〔=No.8お礼欄に引用〕 ~~~~ われわれが超越論的現象学の基盤に立った場合 超越論的経験においては 普通の意味で真の存在であると理解されている《超越的な存在》はすべて排去され 《括弧に入れられて》いる。 (『イデーン』H.V. 76 ) ~~~~~~~~~~~~ ☆ この《超越的な存在》は 早く言えば 神か?――おそらくそうであって 《絶対》ないし《絶対者》を言っていると見てよいはずです。 そして 経験科学あるいは経験合理性にもとづいて話をし合うふつうの会話においては その神を―― 一般に言葉として話題として――《すべて排去し 括弧に入れている》ことは ふつうのことです。無神論の場合に限らず 有神論の場合にも まったく同じくふつう一般であるはずです。 従いまして 《超越論的》に議論をすすめるというときにも まづ基本的に超越者は括弧に入れられ言わば――無神論のその《無い神》としての超越者にしても同じく――ブラックボックスの中にとどまっています。 言いかえると 《われ》と超越者との間には――上の基本的なあり方の限りで―― 明らかな隔てが設けられています。ゆえに 《われは 神を見た》ですとか《われは神の言葉を聞いた。それを語るのだ》ですとかそう言った表現は 文学などの世界に限られて認められているかたちです。 もしこのような事情に立つとするならば いまの《超越論的》と《超越的》との区別は ほとんど必要がない こう考えられないでしょうか? ★ 一般的には、 超越論的とは、自己の有限性・限界性を認識した上で、その自己の限界を高次の次元から超越しようとすることと、されています。 ☆ すなわち《超越者を括弧に入れていること》と このような《経験思考において言わば次元の高い低いがあること》とは互いに両立するはずです。 括弧に入れているということは――そしてその超越者と明らかな隔てがあるということは―― その隔てがあることにおいて 《われ》はその超越者と関係を持つということでなくては 意味がないことになります。 ★ 換言致しますと、「自分だけにしか通用しない個別的な事情・立場」といった”経験的”な事柄に左右されずに、「誰にでも通用する一般的・普遍的・絶対的な立場」に立ち考えようとすること、と言われています。 ☆ という立ち場が意味をなくします。 すなわちもし《「誰にでも通用する一般的・普遍的・絶対的な立場」》が 超越者との――絶対なる隔てを介しての――関係において捉えられないとすれば それは まったく単なる《「自分だけにしか通用しない個別的な事情・立場」》と変わらないこととなるからです。 次元の違い・その高い低いは あくまで相対的な差異にとどまるということであり どれだけ高次元の判断であってもそれは 人間の相対的なな思考や有限なる判断であるに過ぎないということだと思います。 その相対的な高次元に立つ人間の見解が普及すれば それは 《一般的》になるかも知れませんが その《普遍性や絶対的であること》は 決してその字義どおりに定まったわけではありません。 もし定まるという向きは そのおのれが《絶対》であり超越者であると宣言したことになります。つまり その時点で《超越者を括弧に入れている》という前提に みづから 違反したことになります。 この限りで ですからどうしても 次のような《超越者と経験存在〔の心的現象〕との区別にかんする図式》は必要であり つねに有効である。こう考えます。 ○ (ロゴスの階層) ~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなナゾなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 無神論者は 《無い神》を想定するからには 《天使が 神と人とのその隔てを仲介し橋渡しをする》ということも無いものと見ているのでしょうが この構図じたいは つねにその心の中で有効であるはずです。そうでないと 理性信仰や科学万能という情況を呈しさらにはそれをも超えて――もしくは《超越者》をこの経験世界に引きずり降ろして来て―― 世界は経験世界のみだと見なし その見なしにおいて自分はあらたな神であると宣言したことになるのではないか? 超越者は 存在するか存在しないか分からないわけですから 人が神は存在しないと見るのも われには神は要らないと言うのも ふつうに在り得ることだとしても みづからが《無い神》になることは出来ない。 ★ 《「誰にでも通用する一般的・普遍的・絶対的な立場」》 ☆ これは どこまでも人間の立ち得る経験的な立ち場として 相対的な次元にとどまる。《絶対的》であっても 《絶対者や超越者》の立ち場ではない。あり得ない。 ひどっちさんが 分かっておられることは言うまでもないことですが・だからこそそのための論陣を張ってもらっているとさえ捉えられるのですが 上のような重箱の隅のほじくりは どこまでも注意していたいし蛇足をつらねたいと 今回 感じました。 《本質直観》は あくまで 《神と隔たりを介して関係し合う人間》に起こる現象だと見なければならないと考えます。《神》を括弧に入れてしまっているということ このことは 忘れてはならないものと考えます。 括弧に入れてしまわないなら ブディズムの仏性ないし《さとり》なりクリスチアニズムの聖霊ないしその《めぐみ》なりの人間の境地という主題が――哲学としても―― 加わります。 括弧に入れると ★ ~~~~ > ☆ 本質観取ないしその明証性に段階があるということでしょうか? はい。具体的な段階を示してはおりませんが、幾度も、というのが必要なのかもしれません。 ~~~~~~ ☆ この《現象学的反省の繰り返し》が 明証性や普遍性の獲得には必要だとなるようです。 ほんとうは ですから 絶対的な隔たりを置いて――相手は絶対としての超越者なのですから――関係が出来ている(つまり 仏性がある・霊がやどる)と言っていたほうが 分かりやすいかとは思われます。 そこのところを あまがっぱさんとひどっちさんとにおそわったマックス・シェーラーは突いたのでしょうか。 確かに意識ないし志向性を言うのですから 本質観取には わが心がかかわっていると言ってもよいはずです。それにさらに色をつければ 仏性なり霊なりあるいはアートマン(つまりけっきょく霊性)なりが来ますが シェーラーは どうもその志向性なる心を《愛》と呼んだようですね。 これも けっきょく西欧において伝統的な概念ではあるようですが。 このとき シェーラーは 《神の愛》を 括弧に入れているのか? 課題とします。 ★ 間主観性 ☆ についてなど よいお話をしてもらっています。これへのお応えをさらにおぎない得ればよいと思います。補足欄にて。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > 言いかえると 普遍性を明らかに証拠立て論理立てる根拠は あくまでその人の主観に持たれる範囲内でのものごとに限られる。言いかえると 極端に言えば でたらめでもよい。こうなります。 なるほどその人の主観としての心にとっては混じり気のない《純粋意識》であり得ましょうが それはけっきょくのところ どうでもよい純粋だとなります。 ただし、繰り返される[現象学的]反省により、それを克服しようと考えていたようでございます。そして、「事象そのものへ」という立ち返りを常に求めていたのかと考えております。そしてさらに、疑い得ないデカルトの「我あり」に求められたと考えられます。 ですが、この反省の運動は、後になってデカルト的絶対明証の立場を自ら放棄することとなります。また、この明証理論もフッサールの思索の発展の中でその限界が露呈せざるをえなくなっていきます(今回は詳細は述べておりません)。 また、《純粋意識(超越論的主観性)》でございますが、確かに、人間の経験や世界像一般を可能にする第一の原理という意味程度であり、それ以上でも以下でもございません。 > ☆ けれどもこのコギトあるいはその行為主体としての《わたし》なる存在 これも 移ろい行かないとは限りません。わが身とあるいはしばしばわが心も 朽ちて行きます。(《これぢゃ 心がくさってしまう》とか《いや お前よ そんなにくさるな》とか言ったりします)。 思惟について言うなら それはつねにあやまちを侵し得る内容を考えつく程度のものと見ざるを得ないほどです。 意識(もしくは意識する自我)の“存在”は疑いえないものと考えられます。この“疑いえない”を起点に論を進めたかったのかと考えております。と申しますのも、“確実なるもの”とは、極めて限定されるからでございます。このため、諸原理の原理とはなりえない“実証主義”を批判したものかと考えております。 > 《われあやまつなら われあり(シ ファロール スム)》とアウグスティヌスが言ったことから デカルトはコギトの命題をみちびいたと言われていますが もともとは《あやまちに気づいた〈わたし〉は わたしがそれ以上を疑い得ない》と言おうとしたと思います。また あやまちに気づくというときの あやまちをあやまちと認識し得て気づきにみちびくための思惟を デカルトは 突出させた。そういう事情だと見ます。 愚生の記憶によりますと、確かパスカルがこの問題について、デカルト批判したかと記憶しております。ただ、こうとも考えられます。それ以前の例えばスコラ哲学では、「針の上で天使が何人踊れるか?」等の極めて形而上学的な問題が真剣な研究対象になっていたとされています。そこで、デカルトは確実なるものを求めたかったものと考えております(こんな形而上学的なことは分からない、としか言いようがないと考えられます。ですが、当時は真剣だった訳です)。従いまして、現在におきましては、何でないことかもしれません。ですが、その当時では、それなりの役割を担っていたかと考えております。 > とわざと いまの段階で 早とちりを大々的に侵しておきたい気分になりました。 また何かございましたら、よろしくお願いもうし上げます。 > 反省を述べます。 ひどっちさんからおそわった・科学の論拠(論拠とせざるを得ない弱い根拠)の一つとしての《人間原理》が からまっているとは思います。すべては人間の経験することがらを扱うしかないのだという条件。しかもそれを人間の能力とその努力において捉えなければならないという人間の条件。 言いかえると 未経験あるいは経験すべからざること これらについてもその想像は出来るわけで その想像行為は経験であり扱う対象に入るという条件。 前段につきましては、残念ながら、経験に依存するものと考えられます。 後段のいわゆる”仮像”の問題でございますが、カントは否定的でしたが、科学の進歩という点から見ますと、以外と貢献してきたものと考えております。アンチノミーにて、宇宙の果て等は人間理性の認識外としたのですが、これらの研究自体は進んできたかと思われます。 > この人間原理が 例の量子論における命題すなわち 《すべてはその世界が 人間の・そしてわれの認識によって始まる》という命題とどう同じでどう違うか これはあらためておしえていただかなければなりませんが いづれにしましても 人間が経験する世界についての学問であるなら 《コギト(つまりむしろ われ考えるのわれ のほう)》を誰もが疑い得ないことだという前提を置かざるを得ないかも知れません。 わが思惟は 個体としてのわが存在が朽ち果てるとも 類として・つまりは人類としては 人類の存在が続く限りで――人類の発生の以前についても―― いわば世界行為について限りなく探究しこの探究を及ぼしつづけるのだと 人間原理において 言い得るかと思われるからです。これが 反省点です。 前段につきまして、ご理解賜りまして厚くお礼申し上げます。 後段の方につきましては、また後ほど、よろしくお願い申し上げます。 > ★ 《間主観性》〔と言えども わが主観の内にとどまる内容を言うのみだということ〕 ☆ これも 項目を別に立てて説明をいただきました。おおむね普遍性や類概念性の論点にふくまれるかと考えます。つまり明証性が ほんとうの明証性ではない。ほんとうの明証性ではなくとも コギトないし人間原理という或る種の公理にもとづき その主観の内容は どこまでも主観にとどまっても・または人間の一人ひとりの主観であるからこそ 現象学は 科学として問い求めるのだと。 そしてこれは 量子論による認識論ないし存在論と どのように切り結びするのか? (そう言えば ここから ブディズムの議論とも絡み合おうかというところなのでしょうか?) 前段につきましては、ご理解いただきまして、どうもありがとうございました。 量子論による認識論との関連性でございますが、量子論によるものは不確定性を訴えた認識論でございますので、どれほどの関連性があるのかは、愚生にはわかりません。 ブディズムとの関係性につきましては、「現象学とブディズム」、そして「量子論とブディズム」の2つの分野があろうかと考えられます。以下に参考サイトを列記させていただいております。他のものをご希望でございましたら、サイト等をご紹介いただきたく存じます。 現象学とブディズム(唯識派) http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~t980020/Husserl/vol.9_2011/3_Tamaki.pdf (唯識派は、述語が非常に多く、○△数打ちゃあたる、ではございませんが、解釈次第で、適当に言っても、当たってしまうものと思われます。また、仏性を認めないという特殊な大乗仏教でもございますため、愚生には受け付けないところがございます) 量子論とブディズム http://aquarian.cocolog-nifty.com/masaqua/2007/02/post_b933.html (これは、”空”というものを、量子論をたとえとして説明したものかと見受けられます。なお、玄侑氏は、中村元著「釈尊の生涯」の末尾の解説におきまして、中村氏に対する尊敬の言葉を添えていることからも、意見が異なるという訳ではないと察せられます) > ここまで書いて来て 最後にひょっとして大きな論点になるかも知れないことを説明してもらっているのに気づきました。 ★ 間主観性のことを仰っておられるかと推察しておりますが、あくまで、一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを取得していくことにとどまるからでございます。 ☆ つまり ★ 一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを ★ 確信の構造(イデア”的”なもの)だけを ★ 構造だけ ☆ という論点です。 イデア視の目的、それは、多少の誇張も含みますが、ざっくり申しますと、どのように言葉でつかみなおせば、より普遍的な了解が得られていくかを、思考をつきつめて、取り出していくこと、かと。 例えば、「幸福」、「生きる」といった言葉のおおまかな意味は誰でも理解できるでしょうけれど、大体わかってしまうことによって、逆にその本質を見据えることなく、その言葉の表層的なイメージに足をすくわれてしまう危険性もあり得る訳でござます。 > ううーん。だけれど これは 人間という存在(その自然本性)としては みな互いに同じだという前提がありますよね? この構造に還元されるということは それでは どういうことなのか? 一人ひとり違っているということなのか? 間主観性の点から申しますと、この間主観性なるものは、そもそも、他人も自分と同様”自我”を持っているはずだ、という”大前提”に成立しております。 そして、「一人ひとり違っている」可能性はありうるものと考えております。これは誰もわからないものと考えております。 ご参考になれば、幸甚に存じます。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 今回は フッサールの資料集です。断片的なものであることが 玉に瑕ですが これまでの認識をいまいちど確認しつつ 出来ればすすめたいと考えました。 1. 《超越論的領域》という言葉で言おうとしているのは 《非経験の領域》であり 神の領域であろうと思われます。次では 《真理》と言っています。 ▲ (真理の客観的概念)~~~ 真なるものは絶対的であり 《それ自体に》真である。真理は これを判断によって把握するものが人間であれ人間以外のものであれ 天使であれ神々であれ 同一である。 人種 個人および諸体験のリアルな多様性に対立する このようなイデア的統一性における真理について論ずるのが論理学の諸法則であり そしてまたもしもわれわれが相対主義的な混乱に陥っているのでなければ われわれは皆このような真理について論じるのである。 (『論理学研究』LU.I, 117f 立松弘孝編『フッサール・コレクション』2009 p.172) ~~~~~~~~~~~~ 2.ただし 次の場合の《真理》は 経験またその思考におけるそれであるようにも捉えられます。ということは なかなか全体の素描がつかみにくいようでもあります。 ▲ (真理と明証) ~~~ 明証とは真理の《体験》にほかならない。もちろん真理が体験されるのは 一般にイデア的なものがリアルな作用の中で体験されうるのと別の意味においてではない。換言すれば 真理は一つの理念(イデー)であり 明証的判断におけるこの理念の個別事例が顕在的体験である。 しかるに明証的判断は本原的な所与性の意識である。〔・・・〕思念と 思念が思念する自己現在的なもの(セルプストゲーゲンバルト)との一致や 言表の顕在的意味と自己所与的(ゼルプストゲゲーベン)事態との一致の体験が明証であり そしてこの一致の理念が真理である。 (同上書 LU.I, 190f ) ~~~~~~~~~~~~~ 3. 《超越者》の扱いを いまひとつ掲げます。それを《括弧に入れて》 経験科学であることを目指すと読めましょうか? ▲ (超越論的現象学) ~~~~ われわれが超越論的現象学の基盤に立った場合 超越論的経験においては 普通の意味で真の存在であると理解されている《超越的な存在》はすべて排去され 《括弧に入れられて》いる。 そのあとに一つ残留しているはずのものは 固有の本質をもつ《意識そのもの》と 超越的な存在に代わるその超越者の《思念された存在 Vermeintesein 》であり 従ってあらゆる種類の相関者 すなわち思念されたもの ノエーマタ(=ノエマの複数)である。 (『イデーン』H.V. 76 ) ~~~~~~~~~~~~ 4. 本質直観についてです。ヒラメキのことかと思われますが さだかであるとも言い難いです。 ▲ (認識の権利源泉としての直観) ~~~ 現象学的還元と並んで 形相的直観(=本質直観)があらゆる特殊な超越論的諸方法の基本形式であり この両者が超越論的現象学の正当な意味を完全に規定している。 (『デカルト的省察』H.I, 106 ) ▲ ~~~~ 直接《見る(ノエイン)》ということ すなわちただ単に感覚的 経験的に見ることに限らず 一般にどのような性質にもせよ〔見られる対象を〕本原的に与える意識としての見る(ゼーエン)作用は あらゆる理性的な主張の究極的な権利源泉である。 * 《本原的に与える意識としての見る(ゼーエン)作用》のところ 意味が取りにくいですが 引用はまちがっていません。 括弧書きも 原文(翻訳文)です。 この権利源泉が権利を与える機能をもっているのは この源泉が〔対象を〕本原的に与える源泉であるからに他ならない。 われわれが或る対象を完全に明晰に見ているとすれば すなわちわれわれが純粋に見る作用にのみ依拠して しかも実際に見ることによって把握したものの範囲内で 解明と概念的な把握をおこない そしてその上で《その対象がいかなる性質のものであるか》を見ているとすれば (従ってこの第二の見るは新しい様式の《見る》作用である) それを忠実に表現する言表は正当な言表である。 (『イデーン』 H.III, 44 ) ~~~~~~~~~ 5. 《アプリオリ》を どう捉えるのか? ただ単に《先験的》でもなさそうに見えるのですが そうでもあるようです。 ▲ (イデア的なものとリアルなもの) ~~~ イデア学と実在(リアル)学との間には 全く橋渡しの不可能な本質的な違いがある。 前者はアプリオリ的であり 後者は経験的である。イデア学が 《真に普遍的(ゼネラル)諸概念に基づいていることが洞察的に確認されるイデア法則的な普遍的事項(アルゲマインハイテン)》を開陳するのに対して 後者の実在学は事実の領域に関する実在法則的な普遍的事項を しかも蓋然的な洞察によって論定するのである。 普遍概念 Allgemeinbegriffe の範囲も 前者の場合が最低の種差の範囲であるのに対して 後者の場合は 時間的に規定された個物の範囲である。・・・ (『論理学研究』 LU.I, 178 ) ~~~~~~~~~~~~ ちょっと道草のようでもありますが。 そして われわれのヒラメキの定理も 参考になろうかと思います。 ○ (ことばの階層) ~~~ (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?) (δ) 人間のことば ~~~~~~~~~~ ☆ 《ことば》を《ロゴス》として言いかえて捉える。 ○ (ロゴスの階層) ~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~
補足
お礼欄をおぎないます。 唯識論は くわしいことは知りませんが その《三性論》に沿って捉えると 本質直観もあるいは図式的な理解として分かりやすいかも知れないと思いました。 次のような現象学的還元です。 1. 遍計所執性:要するに対象世界〔におけるもろもろの事象を捉える〕 2. 依他起性:そこで事象は 互いに因縁となりつつ起こると見る。 3. 円成実性:《われ》もその事象関係の中に生き動きする存在であるが これは 《超越論的主観性》にまで還元され得ると見る。 ☆ どうなんですか? どうも次のように捉えると やはり分かりやすいと思えて来ているのですが? ○ 超越論的主観性 ~~~~~ (1) まづ敢えて 大雑把に見た独我論が来ると見る。(デカルトの《われ考える》でもよいのでしょうけれど)。 (2) 世界のすべてをうたがう。現実の何もかもが根拠のあるものとは思えないし思わない。 (3) 信用せずうたがう《われ》のみに拠る。 (4) この独我論的《われ》に その究極の相として《超越論的主観性》が見出されると見る。そこにまで現象学的還元が成され得る。 (5) 《わが志向性を持ちつつ 世界とその事象をあるがままに見ている》その主観――円成実性――。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 唯識派は 仏性を認めないそうですが 類型的にみれば 円成実性の境地はすでに仏性のはたらきだと言ってよいように思われます。超越論的主観性のばあいは 《志向性を持つこと》が 特徴的でしょうか。(ただし この解釈がただしいかどうかは保証の限りではありません)。 独我論的《われ》を想定すると 例の《間主観性》が あくまでおのれの主観の内部における他者とのかかわりを言うという性格を分かりやすく伝え得るかも分かりません。 このくらいに脚色してみないと つぎのご説明の内容も ただ《わたしは わたしおよびそれを取り巻く世界を わたしという存在としてその生きる動態において 見る》と言っているのみで なんでそんな分かり切ったことを言うのだろうといぶかしみたくなるのですが? ★ また、《純粋意識(超越論的主観性)》でございますが、確かに、人間の経験や世界像一般を可能にする第一の原理という意味程度であり、それ以上でも以下でもございません。 ☆ この〔独我論的《われ》による・ないし〕超越論的主観性における本質観取に明証性がどれほどあるか? その明証性の不確かさは ★ ただし、繰り返される[現象学的]反省により、それを克服しようと考えていたようでございます。そして、「事象そのものへ」という立ち返りを常に求めていたのかと考えております。 ☆ 本質観取ないしその明証性に段階があるということでしょうか? ただしもしそういうことでしたら ブディズムの ○ 即身成仏 / 即得往生 / 頓悟 / 本覚思想 ☆ の見方とは そのままでは同じではないようにも考えられます。即時に本質直観にいたると言っているはずであり あるいはつまり すでに生まれたときからの自然本性において ただちに《目覚めた状態》に成りうるというのだと思われますから。 ★ 量子論による認識論との関連性でございますが、量子論によるものは不確定性を訴えた認識論でございますので、どれほどの関連性があるのかは、愚生にはわかりません。 ☆ この趣旨は こうです。不確定性の状態を確定するのは 観測ないし認識によるとするのならば その主体の主観が世界の主役であると言っていませんか? それが 現実世界において どこまで当てはめられるのか? これも残念ながら分かりません。 ○ 志向性 ☆ という前提を わたくしは 過大に扱ったかも知れません。ひどっちさんは 超越論的主観性にしてもそれを ふつうに価値(人の意向)中立の状態として捉えておられるかに思われますから。 さてさて 扱う対象世界の幅は広く むしろ広すぎであり しかも要領としてはきわめて素朴に《わが主観》の動態に注目しつづけている。といったところでしょうか? 要するに世界認識ということであり そこに色をつければ《さとり》といったような境地の問題をあつかおうかという出で立ちであるとも思えます。 もう少し問い求めはつづきましょうか?
- amaguappa
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まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。 明証を扱うのはデカルトと、ブレンターノそしてフッサール以後の現象学です。そして現象学が追求した明証の意味とは、類がプロセスを踏んで出来上がることなのです。この構造的機能以外の何でもない(心理学・精神医学・脳科学へ赴くものなのだ、、、)ということが受け入れ難い場合、まわれ右をして神学や中世の哲学へ向かったほうが楽しめると思います。 ブラジュロンヌさんの感性ですと、現象学ではなくて、中世のいわゆる【普遍論争】に興味をひかれるでしょう。普遍は存在するかというあれです。一応詳しい内容を確かめるために哲学用語辞典をひらいてみました。そこには、発端はポルフュリオスの『アリストテレス範疇論入門』に提起されていると書いてあり、プラトン、アリストテレス、カトリック教会、三位一体、風としての声、概念実在論、へと話が延びていました。 それからまた、プラトンのイデアとアリストテレスのイデア、カントおよびヘーゲルのイデー(理念)とを学びわけることが、疑問の整理に必要だと思います。 ブラジュロンヌさんの感性はデカルトの時代に馴染んでいる思いますが、カントのイデー(理念)まで学習の駒をすすめるとよさそうです。カントにおいては、イデー(理念)は理性的推論(悟性的判断に対して)によって導き出されるものだからです。 カントは、イデー(理念)とは認識にとっての目標だといい、フッサールはそのようなイデー(理念)を「実現不可能な十全的明証」とし、数学の漸近線になぞらえます。 それから、現出の同一性とは、瞬間的時間を問題として、今しがたも今もこれからも、見えたものが時々刻々イコールで結びつくということです。このように結び付けられる働きただそれのみによって(同一化統合)、対象の知覚経験が成り立っているということです。 ブラジュロンヌさんの口から主観の共同性といった言葉が出てしまうのは、かなり視点がくいちがっているためです。まず、みんながリンゴをリンゴと分かるという話ではまったくなくて、1人の人間にとって、リンゴの物自体があるからリンゴを見る経験をするのではないという話です。今しがた黄緑の表皮に斑点のあって丸く、たった今へこんだ一方からは軸のようなヘタが突き出し、まさに今へこんだもう一方は尻の穴のような形であり、ああ「これは、、、何かな」と今しもこれから対象が結節するであろう、という話なのです。 この先には、記憶、想起、連合、類型にかかわる言語の諸問題があり、それゆえに現象学は、精神医学、認知心理学、認知科学、脳科学に吸収されている学問なのです。 「現象学の本質直観とはなにか」と検索する方々が今後いた場合にお役に立つと思い、投稿しました。 あとはひどっちさんとお楽しみください。
お礼
あまがっぱさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 このたびは ひょんなところから この質問へのご投稿を 実質的に申せば 依頼することになってしまい お手数をおかけしました。お世話になりました。 哲学カテの質疑応答という見方をしてみるならば もっとも傲慢になり心を鬼のようにして高ぶり尽くしてものを言うとすれば その哲学談義としての内容は ここのところ きわめてとぼしくなって来ております。 これは 初歩の談義をけなしたり蔑んだりしているのではなく――なぜなら 何ごとにも萌芽には それがみづみづしい新鮮なちからを宿すというだけではなく 見方としてのような内容としてなら じゅうぶん高く飛んで伸びてゆく翼のちからを持っていると見られることが少なくないからですが―― それにしても 世界の最先端を行く談義もあってしかるべきというものです。 (その意味では 学問のため ひいては日本の復興のためと――ついでにのようでしたが――申しました)。 ▲ 厳密な学 ☆ といった表現〔だけ〕をフッサールについて記憶していますが その観点から 次のように最後にですが(お答えを要請せずに) お尋ねしてみます。 ★ まず定義として、類という概念は形式論理学における概念であり、類とは普遍のことです。 ☆ 問い返しになります。 1. この命題について真であると判断なさったその根拠は どこにあって それは何なにか? 2. 《類》あるいは《普遍》という言葉ないし概念の普遍性は どこにあってそれは何か? 3. 形式論理学の 科学行為としての・そしてまた人間存在にとっての 有効性・明証性は どこにあって何であるか? ☆ これについて 答えは《ない》。言いかえると 相対性の世界においては 有限なる証明しか出来ないのだと思われます。 斉一性の原理あるいは人間原理 これらに――経験的な真としての公理にもとづき――寄りかかってのように 科学行為はおこなわれるのだと。 現象学について 初めからこのような批判的な見方をしていたわけではありません。また それゆえにも 中身がどうもあいまいであると分かって来たときには 怒りを押さえることができませんでした。 だいたいこんなところでしょうか。 具体的な主題や論点について さらに見直してみて必要だと思ったところは 補足欄にておぎなうこととします。 図書館の本をきょう早いうちに返しに行きたいものですから ここまでをしたためます。ひどっちさんへも お応えはきょうおそくなりますが よろしくお願いします。 * ご訪問になるみなさんのために: ○ 斉一性の原理 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6%E3%81%AE%E6%96%89%E4%B8%80%E6%80%A7 ○ 人間原理 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E9%96%93%E5%8E%9F%E7%90%86 (この内容を わたしはひどっちさんとのやり取りにおいて かなり勝手に解釈して述べていたようです。そのゆえにもかかげます)。
補足
★ 普遍論争 ☆ には興味がないのですが――たぶん その名前だけのことだと見てもよいと思っていますが―― 絶対としての普遍について どうもフッサールも触れてはいるようですね。 つまり むろん 神の問題です。 《超越論的領域》のことであり それを《括弧に入れて》言わば仮象としての言葉で代理するかたちで まづは捉え扱うのだと。 ▲ (超越論的領域) ~~~~ ( a ) 超越論的問題の発見によって初めて 世界すなわち現実の世界および可能的な世界一般と超越論的主観性との区別が可能になる(そしてこの区別によって初めてラジカルな哲学が始まりえた)のであり ( b ) そしてこの超越論的主観性は 世界の存在の意味を自己の内部で構成する主観性として 世界の存在に先立つものであり 従ってまた世界の実在性を 自己の内部で顕在的および潜在的に構成された理念として 完全に自己のうちに保持しているのである。 ( c ) 確かに 世界のうちにあらかじめ与えられているすべてのもの 換言すれば《それ自体としての存在》を主張して現われるすべての超越的なものについての 普遍的な判断中止と超越論的‐現象学的還元とによって初めて 具体的な超越論的存在領域が開示され そしてそれと共に構成の諸問題 とりわけ《括弧に入れられた》超越が《超越論の手引き》として機能することによって展開される構成の諸問題への道が開かれたのである。 ( d ) 次いで 超越論的に還元された自我の内部で行なわれる《他者》の構成の解明は 現象学的還元と超越論的領域を超越論的相互主観性(超越論的自我全体)へと拡大させる結果となった。 (『論理学』 FTL.237 立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.140-141 前身は『世界の思想家19 フッサール』1976) ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 1. 《超越論的主観性》( a )は わたしの理解では 《ヒラメキ――イメージ直感および観想(理論)直観――》のことだと見ます。あるいはさらにその奥の《非思考の場》です。 2. これが《世界の存在に先立つものであり》( b )というのは 非思考の信仰がと言わずとも(つまりそれは ブラックボックスに入れておくとすれば) 直感および直観のヒラメキが 理性ないし思考に先行するということだと見ます。 3. そのときの《理念》は おそらく《ヒラメキ》と《理性ないしコギト》とのあいだに位置するのかも分かりません。 4. 《〈それ自体としての存在〉を主張して現われるすべての超越的なもの》( c ) これが《理念》やあるいは《まだなお混沌とした状態にある直感イメージ》のことを言っていると。 5. つまり《それ自体としての存在》は 最も奥にあるとされる《もの自体》のことではないようです。 6. ( d )で《自我の内部に〈他者〉が構成される》というのは つまりは《超越論的相互主観性(超越論的自我全体)》と言っているところは 何ともまだ分かりかねます。 ☆ この本 つまり立松弘孝編『フッサール・セレクション』は さわりの部分を断片的に編んだもので きわめて横着な読みであることをおことわりしておきます。きょう図書館から借りて来たばかりです。 ですから 《絶対としての普遍》については フッサールにおいてもまんざら捨て去られているものではないということ そこまでの確認に成り得るかと思います。この覚え書きをおぎないました。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ○ 還元して得られた本質 ~~~~ 4.その概念=形相=理念に 普遍性を求めるばあい。 ・ これは 論理的な明証性を必ずしも求めないという説明と どう折り合いをつけましょうか? 明証性を必ずしも問わない場合は 別様に 次のように とらえましょうか? ご質問の趣旨が愚生にはわかりづらかったのですが、明証性につきまして、フッサールは以下のように述べております。 [明証性の定義] 「明証とはすべて、存在するものあるいはある様態で存在するものを、「それ自身」という様相において、それゆえ、どのような疑いも排除するような完全な確実性において、そのもの自身をとらえることである。だからと言ってそれは、明証的なものが“後になって”疑わしいものとなる、あるいは、感覚的な経験の例で分かるように、存在すると思われていたものが仮象と判明することになる、といった可能性を排除するものではない。このように、明証を持っていたにもかかわらず、疑わしいものになるとか存在しないかもしれないとか、そうした事態になる可能性が開かれていることは、”明証の働きへの批判的な反省”によって、いつでもあらかじめ認識することができる。」 「デカルト的省察」第一省察 p.39からです ですが、いつまでたっても辿りつくことがないという疑念が持たれます。ここで最終行にある”明証の働きへの批判的な反省”が重要になり、より確かで普遍的な、学を基礎づけうる明証(真理という意味ではございません)の可能性を示唆しています。 しかし、フッサールは学の基礎付けとして世界存在の明証は不十分である、と述べてもいます(後述)。世界はあくまで「感性的経験の持つ明証において」与えられているのであって、「存在すると思われていたものが仮象であることが判明することもありうる」とも述べています。 上記のことから、ANo.5のお礼欄のご質問(1-2)に繋がるものと考えられます。 つまり、「可能性として疑わしくもなる」、と解せられます。 そこで、世界よりもさらに根源的な(誰もがそうだと言わざるを得ない)明証として何が考えられるのか。それこそがデカルトのコギトである、という訳です。世界の存在がたとえ仮象であったとしても、それは私が持つ現象として存在している。すなわち。その「私」は疑いえないであろう、という訳でございます。 「客観的世界の全体は私にとって存在し、まだにそれが私にとってあるがままに存在するようになるのは、この意識の生においてであり、この意識の生を通じてなのである。世界内部のすべてのもの、すべての時空的な存在が私にとって存在するとは、私にとって通用している、ということを意味している。しかもそれは、私がそれらを経験し、知覚し、想起し、なんらかの仕方で思考し、判断し、価値づけをし、欲求し、等々をすることによってなのである。これらすべてをデカルトは、周知のように、我思う(コギト)という名称で呼んだ。世界とは、私にとって、そもそもそのような我思う(コギト)において意識され、私にとって通用しているような世界以外のなにものでもない。世界は、その普遍的なおよび特殊的な意味と存在の効力全体を、もっぱらそのような、思うことから得ている。 <中略> 私がこの生の全体を眺め渡す地点に立ち、直進的に世界を存在するものと捉える存在信念の遂行をすべて差し控え、眼差しをもっぱらこの生そのもの、世界についての意識へと向けるとき、私は自分を思うことの純粋な流れを伴った純粋な我(エゴ)として捉えることになる。」 「デカルト的省察」第一省察 p.49からです > 6.★ ただ経験を超えたアプリオリへの一種の経験として、 ☆ これは 先験的な概念をもあつかいましょうか? 《もの自体》? おそらく、この文章での意味合いとしましては、例えば、ヒュームにより衝撃を受けたカントが、如何にして経験を超えたアプリオリなものを求めたのと類似しているものと考えております。それは、経験(論)のみとしますと、普遍的科学の可能性が否定されかねないからでございます。従いまして、ここでは、単に”アプリオリ”に重点がおかれているものと思われます。 > 7.★ 第二段階としての「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」 ☆ これは 明らかに先験的な《非経験のなぞ あるいは 無根拠》をも視野に入れていましょうか? 8.この第二段階の還元では 究極においてはたとえば《宇宙霊魂 プシュケー・コスムー / 世界霊魂 アニマ・ムンディ》といったイデアにまで突き抜けるのでしょうか? 9.ちなみに 宇宙霊魂なら 梵我一如と同じ構図になると考えます。あるいは 仏性なり神の霊なりと かたちとしては(類型において) 同じだと見なされると思います。 10.(7)あたりからは 特に(9)に到れば すでに非経験との対峙としての非思考つまり信仰に入って行くものと考えますが そこまでは フッサールは言っていないのですよね? 「超越論的還元=超越的還元」ではないため、視野には入れていないと考えられます。 元来、フッサール自身は、形而上学的なものは極力除外して、 厳密に学問的な理性批判の唯一可能な目標を追求していったことからも、それが示唆されます。 ---------------------------------------------------------------------------- 以下、差し出がましいのは承知の上で、回答させていただきます。もちろん、皆様のご批判をも慎んでお受けしたいと、そう思っております。 アマガッパ様は愚生よりも知識に富み、さらに頭脳も明晰であるため、不必要かと思いましたが、あくまで、ご参考として、述べさせていただきました。 > (2) 現象学的還元によって得られる〔意識ないし志向性をおびた〕本質とは けっきょくわが主観において持たれるヱクトルとしての言葉(=概念=理念=イデア)のことか? 少々、異なるかもしれません。 現象学的還元の基本としまして、例えば赤くて丸いものが一定の形で自分の意識に生じている場合には、だれでも、リンゴが自分の前に存在することを確信せざるをえなく、自分もそうだし、ほかのひともきっとそうに違いない(絶対的な確証は存在しくてもです)、そして単に自分の確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを適切に取り出していくことにあります。 > (2-2) 《分かる》ということにもすでに 心の動き・志向性が含まれると見たほうがよいでしょうか? はい、そうのように考えられます。本質”直観”とは申しますが、方法的操作性を含むので、つまり過程性を含むため、把握・理解(《分かる》)といった方が適切かと思われます。そう鑑みますと、すでに《分かる》といった時点には、心の動き・志向性が含まれていると考えられます。 > ★★( c ) こうした経験〔=( a )および( b )〕に構造を見出していこうという学問です。 ☆ おそらく (1-3) 普遍性ないし類が類であることの中身 けっきょくこれは――経験科学であるからには―― 主観の共同性としての 一般性を言うものとは考えます。それでよいか? (人間の能力による限り そこまでのことで満足せざるを得ないと考えられる)。 少々、異なるものと考えております。間主観性のことを仰っておられるかと推察しておりますが、あくまで、一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを取得していくことにとどまるからでございます。 それでは、どうも失礼致しました。
お礼
★ ですが、いつまでたっても辿りつくことがないという疑念が持たれます。ここで最終行にある”明証の働きへの批判的な反省”が重要になり、より確かで普遍的な、学を基礎づけうる明証(真理という意味ではございません)の可能性を示唆しています。 ☆ 《明証性》の定義そのものを明らかにしていただきました。そのくだりは引用しませんでしたが こういうことでしたら 還元した先の本質とは 決してつねに普遍性をもった類概念だとは限らないという結論がみちびかれるはずです。 言いかえると 普遍性を明らかに証拠立て論理立てる根拠は あくまでその人の主観に持たれる範囲内でのものごとに限られる。言いかえると 極端に言えば でたらめでもよい。こうなります。 なるほどその人の主観としての心にとっては混じり気のない《純粋意識》であり得ましょうが それはけっきょくのところ どうでもよい純粋だとなります。 このあとデカルトのコギトがみちびかれていますが まづは ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 こんな内容で よくも現象学などとあたらしい学が立てられたものだと あきれるのは まだ素人なのでしょうか? ★ そこで、世界よりもさらに根源的な(誰もがそうだと言わざるを得ない)明証として何が考えられるのか。それこそがデカルトのコギトである、という訳です。世界の存在がたとえ仮象であったとしても、それは私が持つ現象として存在している。すなわち。その「私」は疑いえないであろう、という訳でございます。 ☆ けれどもこのコギトあるいはその行為主体としての《わたし》なる存在 これも 移ろい行かないとは限りません。わが身とあるいはしばしばわが心も 朽ちて行きます。(《これぢゃ 心がくさってしまう》とか《いや お前よ そんなにくさるな》とか言ったりします)。 思惟について言うなら それはつねにあやまちを侵し得る内容を考えつく程度のものと見ざるを得ないほどです。 その思惟という行為じたいが 疑い得ないものだと言っても この思惟が 永遠につづくわけではありません。 《われあやまつなら われあり(シ ファロール スム)》とアウグスティヌスが言ったことから デカルトはコギトの命題をみちびいたと言われていますが もともとは《あやまちに気づいた〈わたし〉は わたしがそれ以上を疑い得ない》と言おうとしたと思います。また あやまちに気づくというときの あやまちをあやまちと認識し得て気づきにみちびくための思惟を デカルトは 突出させた。そういう事情だと見ます。(あやまちに気づくというときには 認識や知解の行為だけではなく 判断としての意志行為が さいごのひと触れを担っているとも考えますが)。 けれども これとても 経験存在なる人間の経験思考という範囲にとどまります。また《わたし》の《わたし》なる存在(それは 動態)についての気づきは それをもうそれ以上はこの世界において疑い得ないと言うわけでしょうが それでもわれわれ人間はじゅうぶんに こすからく――つまり 自由意志を持ちこれの使用をほしいままにしており―― 我れに還った我れの心や思惟に背くことも いともかんたんに行なえるようです。 このような人間としての存在論が いったいどこでこのように退歩してしまったのでしょう? そうではないでしょうか? 現象学について わたくしの早とちりでしょうか? ▲ (★ 「デカルト的省察」第一省察 p.49からです)~~~ 私がこの生の全体を眺め渡す地点に立ち、直進的に世界を存在するものと捉える存在信念の遂行をすべて差し控え、眼差しをもっぱらこの生そのもの、世界についての意識へと向けるとき、私は自分を思うことの純粋な流れを伴った純粋な我(エゴ)として捉えることになる。」 ~~~~~~~~~~~ ☆ 何をほざくか? と言いたいです。このくだりの意味を汲んで 《われ われを思う。ゆえにわれあり( Je ME pense. donc je suis.≒ I think of myself, therefore I am. )》とその後まとめたのは P.ワ゛レリだったということなのでしょうが(史実かどうかを別として そう推し測られるという意味ですが) これも《われあやまつなら われあり》にそのまま連なっていると思われます。退歩でなくとも 同じ地点での足踏みです。(いちいち《純粋》などと言わねばならないことは インチキくさいです)。 志向性を言うならば 《あやまちの気づき》は 大いに主題として明らかにすべきでしょう。認識のための認識という行為を志向しているだけだよなどと弁明するとは 思えません。考えられません。シェーラーが 倫理学を交える観点からフッサールの批判的な承継をしたともおそわりましたが(この点についての評言は 残念ながら 遅れていますとお詫びしますが) とにもかくにも どこが現象学なのでしょう? どこが 学なのでしょう? とわざと いまの段階で 早とちりを大々的に侵しておきたい気分になりました。 反省を述べます。 ひどっちさんからおそわった・科学の論拠(論拠とせざるを得ない弱い根拠)の一つとしての《人間原理》が からまっているとは思います。すべては人間の経験することがらを扱うしかないのだという条件。しかもそれを人間の能力とその努力において捉えなければならないという人間の条件。 言いかえると 未経験あるいは経験すべからざること これらについてもその想像は出来るわけで その想像行為は経験であり扱う対象に入るという条件。 この人間原理が 例の量子論における命題すなわち 《すべてはその世界が 人間の・そしてわれの認識によって始まる》という命題とどう同じでどう違うか これはあらためておしえていただかなければなりませんが いづれにしましても 人間が経験する世界についての学問であるなら 《コギト(つまりむしろ われ考えるのわれ のほう)》を誰もが疑い得ないことだという前提を置かざるを得ないかも知れません。 わが思惟は 個体としてのわが存在が朽ち果てるとも 類として・つまりは人類としては 人類の存在が続く限りで――人類の発生の以前についても―― いわば世界行為について限りなく探究しこの探究を及ぼしつづけるのだと 人間原理において 言い得るかと思われるからです。これが 反省点です。 ★ 《分かる》〔が 志向性に属するということ〕 ☆ 了解しました。 ★ 《間主観性》〔と言えども わが主観の内にとどまる内容を言うのみだということ〕 ☆ これも 項目を別に立てて説明をいただきました。おおむね――少々横着ですが―― 普遍性や類概念性の論点にふくまれるかと考えます。つまり明証性が ほんとうの明証性ではない。ほんとうの明証性ではなくとも コギトないし人間原理という或る種の公理にもとづき その主観の内容は どこまでも主観にとどまっても・または人間の一人ひとりの主観であるからこそ 現象学は 科学として問い求めるのだと。 そしてこれは 量子論による認識論ないし存在論と どのように切り結びするのか? (そう言えば ここから ブディズムの議論とも絡み合おうかというところなのでしょうか?) ここまで書いて来て 最後にひょっとして大きな論点になるかも知れないことを説明してもらっているのに気づきました。 ★ 間主観性のことを仰っておられるかと推察しておりますが、あくまで、一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを取得していくことにとどまるからでございます。 ☆ つまり ★ 一個人の主観内での確信というだけではなく、他の人にとっても同じく言える確信の構造(イデア”的”なもの)だけを ☆ つまり ★ 確信の構造(イデア”的”なもの)だけを ☆ つまり ★ 構造だけ ☆ という論点です。 純粋意識や概念=形相=イデアと言えば その概念内容を意識し志向していると受け取りがちですが――いまのいままで そのように堅く信じていましたが―― 問題は中身のことではなく どのような中身を容れるかにかかわらずその精神の仕組みとしてのような構造のほうこそが それなのだと。 ううーん。だけれど これは 人間という存在(その自然本性)としては みな互いに同じだという前提がありますよね? それとも 自然本性としての神経細胞からさらに 一人ひとりがおのれの自己表現を積み重ねることをとおして おのれにふさわしい神経組織に作り変えそれに即した《確信の構造》をかたちづくるということでしょうか? この構造に還元されるということは それでは どういうことなのか? 一人ひとり違っているということなのか? 神経組織を言っては いけないか? なぜなら ★ 確信の構造(イデア”的”なもの)だけを ☆ だから。 このあとを よろしくお願いいたします。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。 前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。 ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り 方でしょうか。 たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで なのだと思われます。 もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい う可能性は 見ようとしている。 あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。 とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と いう存在を基軸にして 理論をつくるか。 (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの / すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら れるほどの推論が成されうるとは思えない。 別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない 《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が 潜んでいるかも知れない。 言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨 ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを 示していることになるかも知れない。 よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい ると解する。 (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。 * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。 それはそれとして 次へすすむ。 (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166) * さらに次へすすもう。別の段落だ。 ▼ (同上) ~~~~ (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。 * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど りつくはずだと言おうとしている。 (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167) * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考 えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言 うと それほど確かであるようには思えない。 《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が 世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし ていないか。 仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や 社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。 さらに次へすすみたい。 ▼ (同上) ~~~~ (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。 * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを 起こそうという議論に見える。 ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的 にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止 とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。 (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273) * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか れていることは 見て取れる。 言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり 着かない。 方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ とすれば その応用編で勝負となるはずだ。 ▼ (同上) ~~~ (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか? * これが 読者が初めから知りたかったことだ。 (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。 * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に 捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう としていることは 見て取れる。 その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実 認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと しているようだ。 それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな い。 (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66) * 次へすすもう。 ▼ (同上) ~~~ (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。 * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世 界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。 (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。 * パス。 (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。 * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。 (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。 * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう か? (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266) * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが 志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ うか? それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。 他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸 であることに変わりはないと。 ~~~