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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。
現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか? ほかの人からの評価についても 知りたいです。 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。
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こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。 了解致しました。 > ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。 * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。 * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。 そうすると 言えることは 次である。 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか? (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか? (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。 (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 > (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。 * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 > (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。 この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ > (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。 おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 > (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。 * 独我論が いちばん当たっていると思う。 仰られる通りかと存じます。 > (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.) * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。 はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 > ▲ (同上) ~~~ (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。 * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。 * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。 おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 > (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。 * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。 仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 > (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。 * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。 上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 > (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.) * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。 《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。 フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
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こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ★ 共同感覚 ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。 ○ (共通感覚) ~~~ カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。 (ヰキペ:常識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98 ) ~~~~~~~~~~~~ コモン・センス哲学、いわゆる、社会のなかで人々が共通にもつ、正常な判断力という意味での”常識”と、アリストテレスにまで遡るもう一つの意味、つまり、五感を統合する第六感としての”共通感覚”(異なった種類の感覚を比較したり識別したりしつつ、感覚のすべての領野を統一的に捉える感覚能力のことです)があります。 カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。 > ★ ~~~ 第二章 美的判断の演繹論 ~~~~ ☆ すなわちここで ★ 「構想力と悟性の自由な遊び」 ☆ というときには 《知覚》としての第一次的な感覚にすでに《悟性》が交じっているということのようです。 上の《共通感覚》の場合も 判断力あるいは《感覚の間の比較、関係付け、など》が交じっているとすれば 同じように言わば二次的な認識(知解行為)や判断(意志行為)として 身体の感性から精神のほうでも受け取られている状態を含めて言っているようです。 この点 気になりました。 すごい着眼点かと拝察致しました。もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。 > ★ 美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。) ☆ このように関心のあるときと無いときとを どうして分けたのか よく分かりません。それというのも 美なら 関心を持っていようが・あるいは別の関心を持っていようが・そしてまったく無関心でいようが おのれにとって うつくしいものはうつくしいと感じる。第一次的に 知覚する。とは思うのですが。 まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。 「快なるもの」につきましては、関心が存在してしまいますと、それへの欲求が刺激されてしまい、感覚・悟性が客観性を持つように仕向けられてしまうからだと考えております。この点で、趣味判断は、一切の関心を欠いている(あえて欠如させたとしている)と考えております。 > ★ 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論) ☆ 概念あるいは美的理念などなどは あくまで感受したときの一次的な知覚のあとに二次的に認識や判断をくわえたあとの段階で問題になるというように わたしなどには 思えてしかたがありません。 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。 そして その前提を意識しようとしまいと ひとはおのれの感受する美を 正と負〔および中立〕において感じると思われます。 そこで、カントの意見を述べさせていただきます。 美に「概念」が伴うか否かの問題にはどう対処すべきなかをカントは考えました。以下は、「判断力批判」訳篠田英雄 p.310-317 からの要約でございます。 一般に二つの判断の普遍的原理が対立し合うとき、そこに「弁証論」が生じます。美を例に挙げますと、趣味判断は「概念」に「基づかない」とする立場と、「概念」に「基づく」とする立場とが相対立します。カントは趣味のアンチノミーとして以下のものを挙げました。 趣味のアンチノミー 正命題:”趣味判断は概念に基づくものでない。” もしそうだとすると、趣味判断は証明によって決定されうることになるからです。 反対命題:”趣味判断は概念に基づくものである。”さもないと、他の人達が我々の判断に同意することを要求できなくなるからです。 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。 いかがなものでしょうか。 > そのときには 共通感覚が 果たして その美としての知覚の内容まで 人びとに共通であるのか? どこまで それが当てはまるか? これが 問われると思います。 共通感覚が及ぶ”範囲・程度”と致しましては、そもそも、”共通感覚”とは、(アプリオリに共通して備わっている)構想力と悟性[認識能力]の活動によって、共同体における共通性を作り上げる能力、だと解しますと、共同体内部の人間にコミュニティ能力と共通性を作り上げる個々の感性の二つに依存するものと考えております。 > 一般に その内容もしくは構成の仕方としての中身において 人びとは案外 感覚を共通にしていると思います。 そしてただし 重大なこととして断り書きを添えなければならないのは おそらく人生における意志行為の挫折などの経験をつうじて 人それぞれに美的感覚が違って来ることがある。しかも 極端な・しかしよくあると思われるその違和は 正の美と負の美とが転倒する場合であるかと思います。つまり 美と醜とが 錯綜し互いに錯視される場合ではないかと。 もちろん、主観内のことでござますし、そして、認識作用を担う悟性のみでの”認識・把握”ではございませんため、当然異なってきます。ですが、かような感ずる”感覚”といったものは、ほぼ共通にアプリオリに備わっているものと考えております(程度の差はあるかもしれまえせんが)。 なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 まづ ものごとの把握として第一次は知覚のみという見方は 舌足らずというより まちがっていました。その第一次にも――つまりそこには知覚したものの知覚像(視像や聴像など)だけではなく――その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。 現象の第一次把握:知覚とそれの認識(感性⇒記憶⇒知解) 〃 第二次把握:認識一般として整理(知解行為)と判断(意志行為) すなわち 次のご見解について 上のように捉えたのですが どうでしょう? ★ ~~~ もし、”悟性”のみですと、仰られますように、得られるのは、”認識”のみであり、美といった感覚、感情的なものではないものと考えられます。 では、カントが”悟性”なるものが必要だと判断した理由と致しましては、多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、この「構成力」が自由に振る舞い、”悟性(例えばそれがバラなのかなのか等の判別能力)”との自由な調和・絡み合いが関係すると主張したものと考えております。 ~~~~~ ☆ じつはこの論点については すでに述べたことがありました。 ☆☆ (美の第一次把握と第二次把握) ~~~ 【Q:現代における審美の可能性】その回答No.6です。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html 1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。 2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。 3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。 * イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます。 4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。 5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。 6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。 7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。 * (α)《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》 ~~~~~~ ☆ これらほとんど全部が 第一次の把握だとしてよいと考えます。 そのあと第二次が来ます。なかで (6)の《概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解》 ここから言わばそのことの練り直しにおいて 第二次の把握――分析・検証・認識の整理・そして推論 およびそこからさらに取捨選択をつうじておのれの意志決定をともなう判断を成す――が来ると考えます。 さらにここで 注目しうるのは カントが美には《構成力》があると見ているところです。 ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、 ☆ まづこれまでのように見て来たからには この過程は 知覚につづく《第二次》ですが おそらく大きく第一次把握のうちの段階的な二つ目の作業だと見てよいのではないでしょうか? つぎには ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し ☆ というようにカントは すでにその美としての事象のうちに《多用な直観を統合する能力である「構成力」》を見て取っているようなのですね。黄金比だかどうなのかはよく分かりませんが 《構成力ないし その美の事象を構成する諸要素のかたち・いろ あるいはそれぞれの配置関係やら互いのに対照されあうといったそのあり方などなど》として 美はその事象じたいにおいて人の目にうったえる力をそなえていると見ていましょうか? たぶん 自然のものであれ人為的につくられたものであれ そこには一般に要素ごとの比率とそのつり合い具合いがあるということでしょうか? さてこの一次二次の議論は そこに《イデア》の問題もからんでいます。かくして カントの言い分としては: ★ ~~~~ そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。 私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。 いかがなものでしょうか。 ~~~~~~ ☆ そこですでに大胆(無謀)になって近道を通りますが 次のように考えますので 添削をお願いいたします。 1. まづ厚かましくもですが 先に提出した次の考えにはまだ未練があります。 ○ 概念・イデア・観念は 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積――その知覚像の認識としての――はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。 2. この体験をつうじて獲得された美についての諸概念は 確乎とした――天上の世界におけるイデアとしてのような――《一定の概念》というよりは やはり《構成力》にかかわるその個々の要素をめぐる把握形式のようなものではないか? 3. これを《不定の概念》と見るかどうか? 4. 少なくとも 《構成力》というのは その美的事象が その中のいくつかの要素のあいだの比率を言うのではないか? 5. それだと ある程度一定しますが それは比率もしくは位置関係やその色やかたちなどをめぐる配置具合いを言うのですから おそらくそれ自体が 天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか? 6. わたくしは むしろ真善美の一致という見方をしていますので 《天界のイデア》かどうかを別として 構成力の秘密としての美は 真理や善とかかわりを持つとは推し測ります。(ひどっち=ぶらじゅろんぬのヒラメキの構造(ロゴスの階梯)に関する定理》に立って)。 * ☆ 《快不快》を美をめぐって持ち出すという感覚が いまだによく分かりません。かかわっているとしても 何故この概念を用いて説明しようとするのか? これは 理解できても ピンと来ないというわたしの状態を言ったまでですが。 ★ まず、「美とは快の対象である」ということは、この「判断力批判」においては前提となっていることになっております。 ☆ 《構成力》によって魅惑されるのなら 《快不快》を超えているのではないでしょうか? いえ それは快感という範疇に入ることに違いはないのですが。 ★ なお、カント(1724年 - 1804年)の時代背景を見ますと、美術では、ダヴィッド、ゴヤとほぼ同世代、一方音楽では、バッハの晩年、さらにはほぼハイドンと同じ世代となります。従いまして、「醜いものの中にも美が存在する」といった現代美術には、適応不可能と考えております。 ☆ 通史的に見れば どうなりましょうか? 《構成力》の中身が――つまりは 一般に比率のあり方が―― 逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないでしょうか? それは 一般に意志行為における意志の挫折体験をつうじて 持たれて来るのではないか? と見ますが どうでしょうか? だとすれば カントの理論としての《構成力》や《不定の概念》について その幅が広がりこそすれ 基本は揺るがない。とも思われます。 すなわち 遠く遥かかなたには真善美の一致の見方を望んでいる広いかたちの美的判断にあっては ★ 「醜いものの中にも美が存在する」 ☆ という言い方で捉えるというよりは 《醜悪としての美》の仮説は 大きな概念としての《美》の中で 転倒・倒錯が起きているそのひとつの状態であるのではないか? と見る見方です。 広義の美は 個別の美醜を包含すると。 いささか予定調和の紋切型になってきましたが そうだとすれば 《共通感覚ないし共同主観》の問題にも すんなりと通底している。こう思われます。 ★ ~~~ カントは、このコモン・センス哲学が持つ2つの意味(二面性)に影響を受けてたとされています。 そして、この共通感覚の”感覚”とは、”感情”という意味合いが強いと思われます。 と申しますのも、問題としておりますのは、快・不快といった”感情”かと考えられるからでございます。つまり、「共同性と関わりを持ちながら、同じ”感情”を共有できるのではないのでしょうか? 」とうことかと考えております。 ~~~~~ ☆ つねに我が田に水を引くという質問者のわるいくせが 出っ放しですが でも どうでしょう?
以下、続編となってございます。 ○ 生活世界についての内容把握および 現象学における展開 「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」から、「生活世界(Lebenswelt)」 まず、「危機」書をフッサール自身、現象学の予備的解釈、事象的歴史的序論と呼んでいます。 ・目的:科学絶対客観主義と超越論的主観主義との開裂を歴史的由来から問いつめること(現象学の課題を確認していくこと)。さらに、超越論的現象学の歴史的意義づけ。 ・危機とは:科学の危機である。ヨーロッパの人間性そのものの危機であるが、物理学的客観主義と超越論的主観主義とが宿命的に対立し、どうしようもない分裂の形をとっていることにあるとしています。フッサールによると、直感的世界の方法的客観化として働く世界の間接的数学化をとおしての全自然の数学化は、自然科学のもつ基本的な”仮説”であると。しかし、この仮説は、いかに確証されても仮説であることにはかわりなく、仮説は無限に仮説であることが避けられず、その確証は無限に進行していくことになってしまいます。そこに自然科学の本質があると言っている訳です。問題は、ガリレイが数学を近世的自然科学の方法として、自然の数学的構成を企てたときに、もとの意味形成的作業へと戻って問うことを怠ったとし、フッサール曰く「ガリレイは発見する天才であったが、隠蔽する天才でもあった」と述べています。 またそれを「わざわい深き怠慢」であると断じています。つまり、理念化の意味基底であった日常的生活世界は、いわゆる客観的科学真理の巧妙な「離縁の衣」を着せられてしまったというのです。理念の衣は、方法であるものを真の存在として受けとらせてしまうというのです。こうした「意味の取り違え」に、われわれはすっかり呪縛されており、さらには、科学的認識をさえ基礎にすれば存在者全て「余すところなく意のままにできる」という信頼がわれわれを支配していると述べています。 ・生活世界:すべての人間の生活に常に自明のものであり,その型式に関しても経験によってなじまれている世界のこと,ようするにわれわれが「生」きている世界のことであります。この生活世界が科学の根源的基盤でもあります。科学者はこの生活世界を「自明」として前提にしているが,この生活世界がどのようなものであるかを明らかにしない限り、科学は基礎づけられない、という訳でございます。 生活世界とは「われわれ」の住む共有している世界,相互主観的な世界のことであります。すると「われわれ」とは生活世界を共有していない生活世界もあることになります。フッサールによると科学は相対主義にならざるをえないのであるが,その相対主義の原因が生活世界の相対性なのであると。以上から、これは科学絶対客観主義に対する批判であると総括することができます。 ・対策:そこで、その発生基盤である生活世界への還帰を第一段階として、次にこの生活世界から、構成的根源としての超越論的主観性に還り問うこと(ただ一つの様式を持つ普遍的エポケー)を第二段階として、還元を二段階に分けたました。 以下に、一例を挙げさせていただきます。 「地球における熱収支の哲学的考察」 http://blog.goo.ne.jp/sasakimc/e/81c5433694661357d390f99b161eb0d7 もし、ICPPの数式を用いたシミュレーションが絶対的に正しいのならば、以下のような矛盾は出てこないかと考えられます。 http://chikyuondanka1.blog21.fc2.com/blog-entry-113.html ○ 《動きあるいはエネルギー》が 西欧思想をつらぬく経糸である 残念ながら、愚生にはわかりませんでした。ただ、E=mc^2 より、エネルギーと質量は等価であり、エネルギーがあれば、そこには質量が生じることになることがわかります(c: 光の速度は一定)。ただ、莫大なエネルギー量になることは事実かと思われます。ヒロシマに投下された原爆では、核分裂の際に、0.68gのみが質量欠損したと言われているため、そのエネルギー量は相当のものに及ぶかと考えられます(光の速度を2乗しておりますから)。 お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
つづきまして ご回答をありがとうございます。 ★ 生活世界 ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。 ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」 ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか? 炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。 でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか? いえ わたしにはよく分かりません。 核分裂のお話も すみません お話をうかがったというかたちにてです。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 以下に、叩き台と致しまして、列記してございます。拙い文章ではございますが、これは愚生の文才の欠缺によるものでございます。 何かございましたならば、ご連絡くださいませ。 ○ カントの美的判断 判断力批判(Kritik der Urteilskraft) ドイツ語で、「趣味」とは、「美しいものの判断能力」という意味があること、さらに、“Kunst”は、芸術と技術の両方の意味があることに留意くださいませ。 また、判断力は悟性と理性の中間能力としています。そして、この判断力とは何を認識する能力なのか? 悟性も理性も、人間の欲求能力や快不快の感情とは無縁の場所で働いています。そこで、趣味、美、崇高なもの等で、判断力は機能するとしています(ただし、ここでは、”美”を中心に述べております)。 趣味判断は全くの主観的なものに留まるとするのが”主観主義的美学”であり、これとは逆に美そのものが存在し芸術作品はこれを現出させると考えるのが存在論的美学と呼んでいます。そして、カントの美学においては、この主観主義的美学(「構想力と悟性の自由な遊び」)と存在論的美学(「美的理念」)が混在しているとされています(ここが問題を幾分複雑にさせております。)。 第一部: 美的判断力批判(主観的合目的性の考察) 第一編 美学的判断力の分析論 第一章 美の分析論 美についての議論ついて、わたくしたちはいくら対象に関する詳細を列挙しても、そのそこから美を判定することができないという前提に立ちます(単なる規則では異なった美に関する芸術について認識できないことから、また、そもそも美的判断を論理的に証明することができないからでもあります)。 また、わたくしたちの“共通感”の前提は、単にわたくしたちの悟性[認識能力]の自由な戯れの結果に過ぎないものと主張し、一方で“趣味判断”を“共通感”の典型的な範例ととらえ、他方でその存在を我々が前提するという認識を伴うものとしてとらえようとします。 この“共通感”が“趣味判断”にどのように関わるのかが、(“客観的普遍妥当性”ではなく)“主観的普遍妥当性”に関わる問題であるかを問うています。 まずその前に、美に関する規則の問題について検討しています。 ・認識判断: 表象としての直観 → 感性を悟性が概念的にカテゴライズする ・美的判断: 表象としての直観 → 構想力・感性の能力発揮 + 悟性の能力発揮 ・美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。) わたくしたちは「快」を感じますが、この快には「関心」を持つ快と、「無関心」な快とかがあるとしています。関心を伴う快とは、「快適なもの」または「善いもの」への関心から得られる快となります。つまり、快をもたらす場合、わたくしたちはそれに欲求能力が働き、その結果、強く関心を抱くことになります(これは、カントの実践理性批判-道徳論との関連性がございます)。 一方、「美しいものへの快」は、「純粋な無関心の快」であるとしています。と申しますのも、これは、それ自体が快をもたらすものであり、そして、この場合は無関心であるため、“欲求能力も一切働かず”、ただ「(快の)判定能力」のみが働くから、というのがその理由です。 ・”構想力[感性の能力の一つ]”と”悟性[知覚・対象把握能力]”の自由な調和: (美とは、概念的なものではなく、主観的のもの。それにとどまらず、普遍妥当性を持つものでもありうる) 上述のように、美は無関心なものであるがため、主観的ではあるものの普遍妥当性なものであるともカントは考えました。つまり、多用な直観を統合する能力である「構成力」が「悟性」を喚起し、そして、これと調和することによって私の内に美がもたらされるとしました(調和である以上は、人により、違いが見られることになります)。純粋理性批判における認識に対し、この趣味判断においては、この(認識作用)ような厳密な支配関係がなく、構想力は自由に働くとしましています。つまり、「自由に働く構想力が悟性を喚起し、そして悟性が概念を用いずに、構想力を合法的な調和の内に置く」という訳です。 なお、趣味判断は無関心であり、さらに“概念”的なものでない以上、この二つの認識能力が調和することによって“趣味判断”を促す所与の表象は“概念”として現れるのではありません。この二つの認識能力の調和はただ単に“主観的な”快・不快という感覚”として表象されます。このような悟性と構想力の調和によって得られる心の状態が「構想力と悟性の自由な遊び(認識作用のような厳密なものではない)」であり、また、“趣味判断”の源泉ともなります。そして、この「遊び」が、趣味判断を規定するアプリオリな原理であり、普遍妥当性でありうる、と主張しています。 ・目的なき合目的性:(”合目的性”を持つものはある種の美を備える。) ある対象がある“概念”を原因としている場合その概念は目的と解します。(例:椅子は「座る」という“概念”を原因として成立しており、これが椅子の目的であります)。このように目的を持つ対象は、“合目的性を持つ”と呼びました。そして、この目的は必ずしも外的なものである必要はなく、その対象を成立させた意思においてある規則に従った表象が認められるならば、それは”合目的的”とされうるとしました(バラに美が備わっていると、私達はそれが合目的に感じます。つまり、合目的とは、美しいという目的・役割を持って存在していると、私達はそう感じてしまうとうことです。機能美。)。 そして、“趣味判断”の対象となるものの“合目的性”は、その対象から与えられる快という心の状態の表象のみに求められるとされ、これを「主観的合目的性」と呼びました。そして、これは“概念”を前提としないため「目的なき合目的性」とも呼びました。そして、この”合目的性”の原理が人に、アプリオリに備わっているとしました。 ・共同感覚:(他のすべての人々のことを顧慮し、他者の立場に自己を置く能力) カントによると、上記のような美的快は必然的であり、万人において普遍的に認められうるものであると主張します。しかし、“趣味判断”は認識判断のように、“概念”を前提としないため、これの必然性は規定された概念から導きだすことはできません(認識作用とは異なります)。そこで、“趣味判断”においては、万人が「共同感覚」を有していると考えました。 第二章 美的判断の演繹論 演繹論として、まず「構想力と悟性の自由な遊び」が趣味判断におけるアプリオリ性であり、これにより趣味判断の普遍妥当性を保証するということを見出そうとしました。そして、その後に芸術論を展開していきます。 美的芸術について 芸術は人間が創造するものでもあります。そして、快が単なる感覚的な享楽であるならば、その芸術は“快適な芸術”であり、構想力と悟性の自由な遊びからもたらされる快を目的とするならば「美しい芸術」であるとしています。なお、カントが問題とする芸術とは、後者の美的芸術における「美しい芸術」であります。 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論) 趣味判断は”一定の概念”には基づかないが、「不定の概念」には基づくとします。そして、この不定の概念は「美的理念」のことだといいます。これは、美を「美的理念 美的イデア」の表現とする考えであります。また、悟性の自由な戯れによる趣味判断が美に結果的に関わるのであれば、その美は美的理念として象徴的に表されるものだとカントは言っています。 字数制限のため、次に移らせていただきます。
お礼
ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 すでに整理しまとめた文章ですので 復唱をしません。 ただ個人的な覚え書きになります。 ★ 共同感覚 ☆ 共感覚( synesthesia )――ものごとに感受するときのクヲリアですとか。ただし 一人ひとりによって異なる――のほかに 検索しがたかったのですが 次の用語で出て来ました。 ○ (共通感覚) ~~~ 西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの『霊魂論』に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησις コイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communis センスス・コムニス)の概念に由来する。 アリストテレスは五感に付帯する感覚があり、それぞれの感覚に共通するものとして共通感覚と呼んだ。 具体的には、感覚の間の比較、関係付け、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがその対象であると考えられた。 ついで、自然法思想の起源をなし、「自然の光」に照らされた理性的判断は「万人の合意 consensus omnium」をもたらすと説いたストア派から、Sensus Communis には現在に通じる、人々の間で共通する感覚・判断という意味合いが発生した。 ・・・ カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの普遍性・伝達可能性を支えるものとされている。 (ヰキペ:常識 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98 ) ~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~ 第二章 美的判断の演繹論 演繹論として、まず「構想力と悟性の自由な遊び」が趣味判断におけるアプリオリ性であり、これにより趣味判断の普遍妥当性を保証するということを見出そうとしました。 ~~~~ ☆ すなわちここで ★ 「構想力と悟性の自由な遊び」 ☆ というときには 《知覚》としての第一次的な感覚にすでに《悟性》が交じっているということのようです。 上の《共通感覚》の場合も 判断力あるいは《感覚の間の比較、関係付け、など》が交じっているとすれば 同じように言わば二次的な認識(知解行為)や判断(意志行為)として 身体の感性から精神のほうでも受け取られている状態を含めて言っているようです。 この点 気になりました。 ★ ・美の無関心性(性質): (美しいものは、それ自体で、快をもたらす。) ☆ このように関心のあるときと無いときとを どうして分けたのか よく分かりません。それというのも 美なら 関心を持っていようが・あるいは別の関心を持っていようが・そしてまったく無関心でいようが おのれにとって うつくしいものはうつくしいと感じる。第一次的に 知覚する。とは思うのですが。 ★ 第二編 美は概念を前提とするかしないか(弁証論) ☆ 概念あるいは美的理念などなどは あくまで感受したときの一次的な知覚のあとに二次的に認識や判断をくわえたあとの段階で問題になるというように わたしなどには 思えてしかたがありません。 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。 そして その前提を意識しようとしまいと ひとはおのれの感受する美を 正と負〔および中立〕において感じると思われます。 そのときには 共通感覚が 果たして その美としての知覚の内容まで 人びとに共通であるのか? どこまで それが当てはまるか? これが 問われると思います。 一般に その内容もしくは構成の仕方としての中身において 人びとは案外 感覚を共通にしていると思います。 そしてただし 重大なこととして断り書きを添えなければならないのは おそらく人生における意志行為の挫折などの経験をつうじて 人それぞれに美的感覚が違って来ることがある。しかも 極端な・しかしよくあると思われるその違和は 正の美と負の美とが転倒する場合であるかと思います。つまり 美と醜とが 錯綜し互いに錯視される場合ではないかと。
- yukiyama50
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雑感です。奇妙なことが続くので… 現象と自我は結びついていると思うのですが 夢を他人に見せられたりした場合、夢は自分の内面的な主観的経験ですので自己形成に大きく関わると思われます。 さらに悪夢など夢見が悪いとぐったりしますので身体にも関わってきます。 つまり夢を誰かに操られると自我が侵犯されてしまいます。 さらに何らかの意図をもって行われていたら人格を矯正されてしまいます… 愉快犯の可能性もありますが… しかし夢を操るのにはまあ、脳でしょうから?身体も操れるのでは?といぶかしんでしまうし、操るのというより介入かもしれないし そもそもありえないことですが… いつにもまして奇妙 ですみません。
お礼
ご回答をありがとう。 こっちぢゃなくて その質問に投げ入れればよいのに。 まづ ★ 自我 ☆ とは何ぞや? と尋ねておかねばならない。分かっているようで 案外 分かっていないはず。 ★ 夢を他人に見せられたりした場合 ★ 夢を誰かに操られると / さらに何らかの意図をもって行われていたら ★ 夢を操る / 操るのというより介入かもしれないし ☆ これは どういう事態を言っているのか? 催眠術にかけられるといったようなことか? いわゆるマインドコントロールのことか? と言っても それが夢にかかわるというのは よく分からないが。 とは言うものの ご自身が これらについて ★ そもそもありえないことですが… ☆ と言っておられる。 さあ いったい何が言いたいのか? それでも まともに哲学の問い求めになりうるようではあります。 ★ 現象と自我は結びついていると思うのですが ☆ これは 《現象》を 《わたし》が経験しそのこと〔もしくは そのことを捉えている自分自身つまり《わたし》〕をわが主観において捉えている。この成り立ちが 骨格として すべてです。そう認識してください。それ以外にあり得ません。 現象のほうにあたかも《わたし》があると思いまどうのは そのことをいろんな意味で愛したからです。その現象〔の知覚〕やあるいはその印象が あたかもわが精神にさえへばりついたのです。そしてそれだけのことです。 それから 次のことは 大事です。肝です。 ★ つまり夢を誰かに操られると自我が侵犯されてしまいます。 さらに何らかの意図をもって行われていたら人格を矯正されてしまいます… ☆ と言っており明らかにちゃんと見ている《わたし》がいるということ。あなたの《〈わたしがわたしである〉わたし》が まぎれもなく――あぁ かみよ あなたは たたえられよ―― 存在している。 ほら 言ってるぢゃないですか。心配しなさんな と。 仮りにあなたが 誰かの奴隷になったとしましょう。ですが その奴隷になったと知っているあなたがいるということです。 仮りにあなたが 人生からまったく絶望したとしましょう。けれども それを絶望だとことばで捉えているあなたじしんが ちゃんといます。世界は それよりほかの在り方をしていません。 人間という存在は ちゃんと保証されています。 何を怖れるのか? きよらかなおそれのほかには おそれはあり得ません。 催眠術やマインドコントロールは ただ心理の問題です。大海である心のおもてに波風が立つというのが 心理としての心の動きです。 たしかに台風や暴風雨がときには起きますが それでどうかなるのですか? いつにもましてエバって ですみません。
こんばんは、夜分恐れ入ります。ひどっち でございます。 > れあれるげんさんのご見解のうち ○ 《動きあるいはエネルギー》が 西欧思想をつらぬく経糸である。 ○ 生活世界についての内容把握および 現象学における展開 ○ カントの美的判断 こういった主題について(あるいは 任意にそのほかの論点についても〕 評言を添えていただき 全体として前へすすむというようになればよいと思うのですが どうでしょう? 了解致しました。 つきましては、各論につきまして、愚生の叩き台を作成したいとおもうのですが、いかがでしょうか? 最初のエネルギーの項目につきましては、昨今の原発事故の問題でもあり、ホットな話題であること、また、愚生も核医学を現在の仕事としていることから(業務上の守秘義務もございますため、一般論にてお願い致したく存じます)、多少は、言及できるかもしれません。 残りの2つは、現在のテーマとも関連性がございますため、よろしいのではないかと、そう考えております。 それでは、皆様よろしく願い申し上げます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 願ってもないと存じます。 よろしく願い申し上げます。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > そうですね。今回は れあれるげんさんとのやり取りをもって お応えとしたいという横着な思いをいだきましたが いかがでしょう? はい、慎んでお引き受けしたいと存じます。ただ、れあれるげん様のご都合もございますため、皆様のご都合に合わせたいと考えております。 一応、愚生と致しまして、語句の説明、主張の主旨等を担い、基本的には、(以前のことがございますため)中立的立場にて、発言をお許しいただきたく、存じます。 > 今回は むしろ個別具体的な事例をめぐって 説かれていると見ます。 エポケーの基本だとか 現象学そのものとの類似など 基本の認識についても触れていただきましたが 引き伸ばしがたいというようにも受け取りました。 了解致しました。 > さらに進める上では――いまではだいたい フッサールないし現象学の独自性いかんについてに焦点を当てるかたちになって来ていますが―― ちょうど並行してすすめて来た れあれるげんさんとのやり取りを まとめて通過していただくのが よいのではないか。こう考えた次第です。どうでしょう? はい。上述致しましたように、愚生と致しましては、全く異論はございません。 > 身もふたもない言い方をしますが 次の事例は むしろエポケーすべき内容ではないか。こういう見方を持ちます。 ~~~~ ☆ お訊きしたいことは このような《不安》といった個別的な事例はすべて〔と言っていいほど〕エポケーされるべき対象なのではなかったでしょうか? です。 ★ 客観的な意味があるという先入見 ★ 普遍的なものへと練り上げられた本質直観 ☆ どちらも エポケーされるものとしては 同列にあつかわれるのではなかったでしょうか? 《不安》は わたしにとって外部です。自然本性にとって外側のものです。 言いかえると こうです。 ○ 《不安》についての本質直観は それを捨象してよいという結論である。 ただ、実在的な物の本質直観ではその実在性への確信の成立が問題になりますが、一方、抽象的な概念の本質直観では、むしろ様々な抽象概念の”普遍的な本質を意図的に取り出す(練り上げる)”ことが目的となってきます。 そう鑑みますと、”意志・意図的”なるものも関わってくる可能性もございます(抽象的概念に対してのみですが)。 もちろん、両者ともに、主観としての絶対的確信を認めることを出発点としているのは共通でございます。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ○ 《不安》〔* は 《わたし》なる存在にとって外部のことであるから それ〕についての本質直観は それを捨象してよいという結論である。 ☆ これは 舌足らずでした。こう考えます。 ○ ~~~ リンゴのような物体的なもの あるいは不安というような非物体的なもの いづれについても それとしての本質直観はありうる。 けれども 同じくいづれも 《わたし》にとって外部のものごとであるので その《わたし》なる根源的な主観性にまで世界を還元するときには 捨象されるものである。 ただし そのような外部のものごとについての本質直観は それぞれとして普遍性を持つなら 一般に科学としての定義になる。 ~~~~~ れあれるげんさんのご見解のうち ○ 《動きあるいはエネルギー》が 西欧思想をつらぬく経糸である。 ○ 生活世界についての内容把握および 現象学における展開 ○ カントの美的判断 こういった主題について(あるいは 任意にそのほかの論点についても〕 評言を添えていただき 全体として前へすすむというようになればよいと思うのですが どうでしょう?
- rearerugen
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テーマが難解になってきましたが、思うことを少し。 ※神概念について 無意識下においてやってくる直観。意識下であっても意志をねじ伏せるようにやってくる直観。このような直観をもたらす力のようなものを神と呼んでもいいのかもしれません。ハイデガーも初めは人間(現存在)が存在を了解するんだと言っていました。でも、晩年になって、存在が自発的に人間の前に現れるんだ。人間はそれを言葉に置き換えるだけだ。と思想転回しています。ウットゲンシュタインだってそうです。初めは「語りえないことには沈黙しなければならない」などといって、論理実証主義の走りのような思想でした。けれど、後年には世界は「言語ゲーム」であり、なぜそのゲームルールになったのかは分からない。と言っている。この分からない力のようなものを古代の人たちは「神」と言っていたのかもしれません。あるいは古代ギリシア人が学問の基礎とした「驚き」(タウマゼイン)といったものかも。 案外、日本人が素朴に持っている「神様がなんかいるような気がする。よく分からないけど。」という態度が最も純粋な神(神々)への態度なのかもしれません。神の存在は疑うことはできるけど、いるような気がしたこと自体は疑えないのですから。神というのは意識的に頑張って(聖書を読んだり、教会に礼拝に行ったりして)信じるものではなく、なんか確信させられてしまう。そういう存在(?)なのでしょう。 ※《われに還るわれ》について なんか陰陽道のようだと思いました。一者の中の二者。ということでしょうか?なにか運動が起きるには対立する二者が必要。ヘーゲルの弁証法も同じようなことを言ってますね。一者の中に疎外が生まれて二者になる。その二者が対立してより高次な一者に収斂する。その一者にさらに疎外が起きて二者に分裂する。その運動の末に絶対精神へと至る。この絶対精神を取っ払えば、残るのは永遠の運動です。私見で近代西洋思想の骨子といったすべては「エネルギー」に帰着する。 デカルトがアインシュタインを生んだ。とすれば、そのデカルトはアウグスティヌスが生んだことになるのかも。いやもっと昔の方がこんなことを言っています。 「なにもしないときこそもっとも活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りではない。」 カトー ※ブラジュロンヌさんとのやりとり、とてもたのしく勉強になりました。とんちんかんな回答ばかりで申し訳ありませんでした。連休が終わってしまったので、連日のように回答をすることはできなくなりそうです。また時間ができたときに議論に参加させていただければ幸いです。
お礼
れあれるげんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。たのしくなるような文面ですね。 任意に主題を取り上げます。 ★ 「なにもしないときこそもっとも活動的であり、独りだけでいるときこそ、最も独りではない。」(カトー) ☆ 後半については 考えたことがあります。 ○ ~~~ 世界が諸行無常であるならば ひとは 孤独である。 とは言うものの――自分の孤独については身に染みているにもかかわらず―― 相手が孤独であることに気づかない。気づいても何らの心配りもできなかったりする。 そうして 人は互いにわびる。心の行き届かなさをわびる。 わび合いつつも なおも孤独はわが身とわが心をおそう。 身内どうしの親しさのあいだにも すきま風が割って入ってくる。 やがて この《ただ独り》という状態は さびて来る。あるいは わが心に錆びがつく。 このワビとサビの果てにたどり着いたところは? じつにそれは 孤独関係であった。 ひとは どうしようもなく孤独であるが それは 孤独関係なのだとさとった。(相互主観性?) ~~~~~ ☆ 前半は どうでしょう。付いて行こうとしていますが いまひとつです。 ★ ~~~ ※《われに還るわれ》について ・・・ ヘーゲルの弁証法も同じようなことを言ってますね。一者の中に疎外が生まれて二者になる。その二者が対立してより高次な一者に収斂する。その一者にさらに疎外が起きて二者に分裂する。その運動の末に絶対精神へと至る。この絶対精神を取っ払えば、残るのは永遠の運動です。私見で近代西洋思想の骨子といったすべては「エネルギー」に帰着する。 ~~~~~~ ☆ 少し分かったように感じます。ありがとうございます。 《モノはコトだ》という命題にちなんで次のように考えたことがあります。おなぐさみになりましたなら さいわいです。 ☆☆ 〔日本の神(神々)〕 ~~~~ モノはコトです。( e = mc^2 ) モノは どちらかと言うと 質料・身体であり コトは エネルギ・精神にかかわります。 いにしえのわれらが祖先は この二つの側面から ひとや神を捉えたようです。 モノ(物)―――もの(者)―――――オホモノヌシ(大物主) コト(事・言)―みこと(美言・命・尊)―ヒトコトヌシ(一言主) ↓ ↓ ↓ 自然・社会・・・・・ひと・・・・・・・・・・・・・・かみ この範式において 次の図式も得られます。 モノの木――――――ねこ(根子)――――――生命の木 日の移り行くコト――ひこ・ひめ(日子・日女)――日(光源) 参考:【Q:神道を神学するにあたっての手法はなんですか?】回答No.7 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6862707.html ~~~~~~~~~~~ ★ ※神概念について ☆ その内容全体に共感し ほぼ同感いたします。 ★ 案外、日本人が素朴に持っている「神様がなんかいるような気がする。よく分からないけど。」という態度が最も純粋な神(神々)への態度なのかもしれません。 ☆ 少し筋が違うのですが 次を連想しました。 ◆ (アウグスティヌス:自己の認識ないし自己到来) ~~~ そこで 精神は不在なものとして自己を認めようと問い求めないで 自己を現在するものとして認めるように心を配れ。・・・ もし精神が よく知れ( cognoscere )とは何か また 汝自らを( te ipsum )とは何か ということを知らないなら 汝自らをよく知れ という命令を聞いても いかにして そのことを気遣い得るであろうか。 しかし 精神が この二つのことを知っているなら〔* つまり 言葉を使い言葉で話し合えるのなら〕 自己自身を知っているのである。 ・・・ 汝自らをよく知れ とは 汝の顔を見よ と人に言われるように語られるのではない。顔を見ることは鏡においてのみあり得るのである。私たちの顔そのものは私たちの視界からは不在であるから。それは私たちの視力が向けられ得るところには存在しない。 しかし 精神に 汝自らをよく知れ と語られるとき 精神は 汝自らを という言葉を理解するその瞬間に 自己自身をよく知るのである。精神は自己に現在しているからこそ自己自身をよく知るのである。 (三位一体論 10・9) ~~~~~~~~~~~~ ☆ その自己到来の瞬間の以前にもすでにわたしは わたし自身を じつは 知っていたし それだけではなく わたしはわたし自身を愛して来ていた。じつは わたしはわたし自身を けっして知らなかったわけではなく じつに 愛して来なかったわけでは断じてない。 といったことも書いているようです。 おそらくこの自己還帰は ★ 日本人が素朴に持っている「神様がなんかいるような気がする。よく分からないけど。」という態度 ☆ のもとに 自然にふつうにおとづれる。ということかと思われますが いかがでしょう。 エポケーというのは 白紙への還元にもなりましょうか? タブラ・ラサでしょうか。 ★ あるいは古代ギリシア人が学問の基礎とした「驚き」(タウマゼイン)といったものかも。 ☆ きよらかなおそれ 是非これをも同時につけくわえていただけないでしょうか? わび・さびの果てには この畏れが来ると思います。あるいは ★ 一者の中の二者 ☆ のうちの初めの一者においては もともと このきよらかなおそれがあった。かくて 一なるわたしの限りなき自乗の過程。 それが核となって 超越論的主観性をかたちづくると見るのですが?
- yukiyama50
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久しぶりに気が荒くなっています。 他のカテゴリーでの出来事です。 人が真剣に質問しているのに茶化して馬鹿にするユーザーばかりでした。 哲学カテゴリーで酷い罵倒を受けてしかも話が通じないので 他のカテゴリーに非難していましたが大同小異でした。 このサイトはなんなんですか? 運営は何を考えているんですか? もううんざりです。 相談しても精神病行けの一点張り。 役立たずもいいところ。 本当に頭にきました。 発露する場所が無かったので ブラジュロンヌさんの質問で投稿することを お許しください。 大阪の方も申し訳ありません。
お礼
そうかい。 ★ 茶化して馬鹿にする ☆ 投稿が わたしに対しては 今ではほとんど消えてしまいました。 えばって言っているのですが 昔は ひとつのわが質問に百件ほどの投稿が寄せられるとしたら その中で どうでしょう 三分の一ほどは アラシでした。 要するに バカに対しては それを上回る大バカにならないと 話はおもしろくありません。つまりわたしに対するアラシ投稿は はじめはバカ丸出しのわたしの返答に対しておもしろがって寄って来ていたのです。 つまりそうやって遊んでやっていたら ほとんどみな消えてしまった。 ご参考に。 ご投稿をありがとう。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > でしたら もともと問題は 《客観と主観とに分ける》のはどうしてか といったところにあったということになると思うのですが? これは、おそらく、デカルトの主客二元論が大きな位置を閉めて知多物と考えております。 > 言いかえると フッサールの切り口があたらしいとのことですが それはあくまでふたつに分けたうえで どうするかを考えたわけだと思われます。 なぜ分けなければならないか? という切り口は なかったのでしょうか? ただ、こうとも考えられます。今日私達も”客観的”、”主間的”なる言葉をよく用います。であるならば、私達がそうであると思っている(信じている)客観的なるものが、如何にして確信として瀬尾率するのかを理論付けた、こいう意味かと考えてございます。 以下、お忙しいところ、引用賜りまして、厚くお礼申し上げます。 > ◆ (アウグスティヌス:精神が精神する) ~~~ ・「精神より表出されるから 精神の似像であり 言葉である」 例えば、目の前のリンゴが幻想であるのか実在するのか、それは不明です。リンゴの像が源として与えられ、直観されているということ、さらには、「リンゴが見えている」ということだけは絶対に疑えないかと。これが「リンゴがある」という認識の”正当性”を付与するもの、源泉であるということ。 さらには、知覚には必ず様々な概念等が含まれておりますが、それは言葉によって表わされうることをも鑑みますと、現象学とは、類似点は見られるものと考えられます。 > ◆ (承前 / 愛) ~~~~~~ 今度は、ご質問者様の言葉から引用させていただきます。 ・「精神が精神して 自己の知としての知解が生まれる。」 例えば、頭が痛い。ずっと、いつまでも痛み続ける。この連続性という具体性が、私の連続性、つまり私の同一性を確信させるもの、とフッサールは述べております。 志向性、つまり、「意識は常に何かについての意識である」という意識の構造,さらには超越論的主観が対象に意味を付与する作用機能という面がございますため、あまり能動的意志といった意味合いはないものと考えております。 一方、 ・「志向性を 広義の精神ないし《わたし》のうちにそなわるものと見ておけば そこに知解行為がかかわっているのであるからには 知解ないし認識の主体と客体とは もともと《わたし》のもとに統覚されている。」 につきましては、(指向性におきましては触れません)現象学に酷似しているものと察せられます。 なお、余談ではござますが、”広義の精神ないし《わたし》のうちにそなわる”は、カントのアプリオリに備わる認識機構を想起させられました。 > ◆ (アウグスティヌスのエポケー) ~~~~ ・「むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない。」 これは、まぎれもなく、エポケーであろうかと存じます。 ・「この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻印されて たとい その事物が不在のときでも その似像は思惟する人々に現在するのである。」 実在的なものでなくても同じことが言える。例えば「不安」等のような抽象概念についても、そこに客観的な意味があるという先入見をエポケー可能であります。すると、「不安」の客観的な意味ではなく、意識に直接現われた意味を考えることで、その本質を抽出することが可能になり、そして、この直観された本質はさらに普遍的なものへと練り上げることが可能であるとしています。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。今回は れあれるげんさんとのやり取りをもって お応えとしたいという横着な思いをいだきましたが いかがでしょう? 今回は むしろ個別具体的な事例をめぐって 説かれていると見ます。 エポケーの基本だとか 現象学そのものとの類似など 基本の認識についても触れていただきましたが 引き伸ばしがたいというようにも受け取りました。 さらに進める上では――いまではだいたい フッサールないし現象学の独自性いかんについてに焦点を当てるかたちになって来ていますが―― ちょうど並行してすすめて来た れあれるげんさんとのやり取りを まとめて通過していただくのが よいのではないか。こう考えた次第です。どうでしょう? 身もふたもない言い方をしますが 次の事例は むしろエポケーすべき内容ではないか。こういう見方を持ちます。 ★ ~~~~ ・「この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻印されて たとい その事物が不在のときでも その似像は思惟する人々に現在するのである。」 実在的なものでなくても同じことが言える。例えば「不安」等のような抽象概念についても、そこに客観的な意味があるという先入見をエポケー可能であります。すると、「不安」の客観的な意味ではなく、意識に直接現われた意味を考えることで、その本質を抽出することが可能になり、そして、この直観された本質はさらに普遍的なものへと練り上げることが可能であるとしています。 ~~~~~~~ ☆ お訊きしたいことは このような《不安》といった個別的な事例はすべて〔と言っていいほど〕エポケーされるべき対象なのではなかったでしょうか? です。 ★ 客観的な意味があるという先入見 ★ 普遍的なものへと練り上げられた本質直観 ☆ どちらも エポケーされるものとしては 同列にあつかわれるのではなかったでしょうか? 《不安》は わたしにとって外部です。自然本性にとって外側のものです。 言いかえると こうです。 ○ 《不安》についての本質直観は それを捨象してよいという結論である。 ☆ と。
- rearerugen
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またまた思うことを少し。 ※根源的地盤から表層の世界へということでなければならない理由 現象学は独我論ではない。このことを示すために直観で開かれる世界が二重になっているのかなと思います。 「認識の地盤」とか「大地」といった無意識に直観が訪れて開く「主観世界」の上に、意識的な直観、他者への配慮をしてはじめて訪れる直観(志向性)によって開く「間主観世界(生活世界)」がある。 現象学は生の経験に還元しますから、どうしても独我論のそしりを受ける。生活世界を開いた意識的な直観(志向性)ならば、どんな生の経験が直観をもたらしたのか条件を探ることはできるけど、無意識な直観はどんな生の経験が直観をもたらしたのか分からない。還元できない。現象学で還元できるのは、意識的な直観(志向性)までだ。他者の存在は無意識下で開かれた根源的なものなので、意識的直観(志向性)では常に他者に配慮せざるを得なくなっている。現象学で還元しているのは、他者も確信しているに違いないと確信して訪れる直観つまり意識的直観(志向性)までなので、独我論でない。 「イデーン」を書いたころのフッサールは世界のすべてを生の経験に還元できる。厳密な学は可能だと考えていたようです。でも晩年「危機」を書いたころは、すべてを還元することは不可能だと考えて「生活世界」という概念を導入したんだと思います。還元しきれない根源的臆見があるようだと気づいたようです。「厳密な学は見果てた」という有名な文句はそのことを言っているのではないでしょうか。現象学的手法を徹底すれば、すべてを個人の生の経験に還元するのですから独我論です。でも還元できるのは間主観的世界(生活世界)だけであって、主観世界(地盤・大地)は還元できないとすれば、独我論ではなくなります。 ※「自我」について 思うにデカルトの方法的懐疑を徹底すると、実は我(自我)は出てこないのではないでしょうか。あらゆる存在を疑って疑い抜いた後に残る疑いえないものは「考えている我」ではなく、「考えている」という思考の「動き」だけです。自我なんて出てこない。存在確実なのは「自我」ではなくて「動き」だけ。常に「変化」があるだけ。「無常」だけが確実に存在する。本当は「我」なんて見出していないのです。だからデカルト以降西洋哲学は自我はどこにあるのかについて喧々諤々の議論を展開しています。フッサールも志向性の集積によって自我が形成されてくる。とか言っています。「我」がないのならば独我論なんかないのか?あれ?むずかしいです。 すべては「動き」「変化」「エネルギー」だというのが西洋近代思想の骨子なんだと思います。「我」じゃなくて。だから、あらゆる存在はエネルギーに変換できるのです。E=MC二乗というやつです。デカルトがアインシュタインを生んだんだと思います。私見ですけど…。 ※真善美論について カントが真善美を分けて考えたので、現象学においても、カトリック教会もように真善美を一括して考えなくてもよいのではと思い、述べたものです。善はヒラメキか?そもそも「我」がどこから来ているのか?自由意志の根拠は?これについて西洋思想は答えているように見えて答えてないと思います。自由の深淵です。でもこれを認めちゃうと自由主義で組み立てられた法秩序に根拠がないことになってしまいます。あまり大声で言えないのではないでしょうか? 以上です。言いたい放題に書きこんですみません。回答になっていればいいのですが・・・。
お礼
れあれるげんさん――まづは ご回答をありがとうございます―― だから 神の哲学も前提として必要になるとわたしは思っていました。 ここらあたりからは もろに質問者自身の見解が出てまいりますが ☆☆(No.23お礼欄の中ほど) 神は 《無い神》と同じです。 ☆ と書いて――あとから この途中の段落に書き込んだのです―― そのあとおぎなうことは しませんでした。(補足欄を使うということまでは しませんでした)。 すなわち ○ 有神論と無神論とは 類型として同じである。それは 思考に非ずの次元において・つまり非思考として 信仰である。神は 有ると言っても 無いと言っても 〔神は〕痛くもかゆくもない。《絶対》とは そういうものだ。 つまり カントの《もの自体》についてフッサールが触れなくても――そしてそのことを 無神論だと捉えるならば―― それでも 両者は 《わが心に非思考の庭が成る》というひとつの類型において どちらも同等に信仰である。 こう言おうとしていました。 このことについても じつはいま 問うています。 【Q:なぜ神を勘違いしたままでいるのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6951345.html 趣旨説明だけでも お読みいただくとさいわいですし 分かりやすいと思います。神の定義を述べて みなさんに問うております。 ★ 自由意志の根拠は?これについて西洋思想は答えているように見えて答えてないと思います。自由の深淵です。 ☆ ずばり 答えは 無根拠です。絶対ないし無限ないし非経験の領域における《かみ》を――それとの関係としては 人間の心における非思考の庭なる動態において―― 《無根拠》と名づけます。 自由意志の根拠は 無根拠です。無神論でも有神論でも 同じくです。 これは ひどっちさんにおしえてもらったのですが 無根拠説を言いかえると 《人間原理》説になると思います。いくらか自分勝手な解釈が入っているかも知れませんが 《相対的で経験的で有限な存在としての人間 しかも類を成している人間 この不確かな存在を根拠とする》という意味になろうかと考えます。 もっと単純に言えば だれもが《わたし》と自称して生きているという事実 ここに自由意志の根拠があります。言葉でしゃべる そして生きる そのことが誰もが《わたしと自称する人間》であることにおいて成り立っているということ ここに根拠があります。 《わたし》の自称という事実のその根拠は 無根拠です。だれもが《かみ》と向き合っているという非思考の場のことです。雲をつかむような無根拠です。 * ですから この《わたし》の自称の普遍性 これは 案外 有効だと見ます。 この類型的な《話す人間》にすでに 相互主観性は宿っています。生活世界が すべてだと言ってもよいはずです。 その世界を抽象すれば 《わたし》に行き当たります。 これは 前回は《わたしがわたしである》という基礎を持ち出しましたが それはただ定義しただけと見られやすいので やはりアウグスティヌスの命題を持ってきたほうがよいと考えます。 ○ われあやまつならば われあり。 Si fallor, sum. これです。あやまちに気づくなら 気づく過程ですでに考えることをしていますし 気づいて《われに還る》瞬間をも持ちますから そこで《わたしがわたしである》を自覚します。この一連の過程における思考の部分を取り出したのが デカルトだと見るわけです。 このアウグスティヌスからデカルトへの移行については 次の回答No.6をごらんください。 【Q:フーコーの『監獄の誕生』と中世の修道院】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4858613.html 《 fallor (われあやまつ;われあざむかれる)》の中に 《 cogito (われ考える)》が含まれるという寸法です。 ですから この絶えず《わたしがわたしする》というように自乗しつつ自己の冪をつくりながら生きる動態としての《わたし》であれば 生活世界においても根源的地盤においても 同じひとつの基軸としてあり そのもとに相互主観性が築かれているからには 独我論に落ち入るきづかいはない。こう思われます。根源から表層へ あるいは表層から根源へ これらどちらの向きであっても 自由自在です。 ★ あらゆる存在を疑って疑い抜いた後に残る疑いえないものは「考えている我」ではなく、「考えている」という思考の「動き」だけです。自我なんて出てこない。存在確実なのは「自我」ではなくて「動き」だけ。常に「変化」があるだけ。 ☆ つまり あやまちや だまされたといった《気づき》があるだけだとも確かに見られます。と同時に おそらく《言葉生活において自称するわたし》がいるからには 《気づくわたし》もいるはずなのです。《われに還るわれ》もいるはずなのです。と思います。 《動き》論のつてで こう述べておられます。 ★ すべては「動き」「変化」「エネルギー」だというのが西洋近代思想の骨子なんだと思います。「我」じゃなくて。だから、あらゆる存在はエネルギーに変換できるのです。E=MC二乗というやつです。デカルトがアインシュタインを生んだんだと思います。私見ですけど…。 ☆ これにつきましては わたしはいまは保留です。まだ めぼしい議論ができません。ひどっちさんは どう受け止められましょうか? よろしかったら おしえてください。 フッサールの晩年の思想ないし境地についても 留意してまいりますが しゃれた反応は いまは無理です。 ★ 「認識の地盤」とか「大地」といった無意識に直観が訪れて開く「主観世界」の上に、意識的な直観、他者への配慮をしてはじめて訪れる直観(志向性)によって開く「間主観世界(生活世界)」がある。 ☆ この構造を ぜひ《ヒラメキの構造》において取り扱ってくださいませ。理由は 一点。《わたし》を基軸として つながっているかたちになるからです。相互主観性が じつは 混沌とした場に起こると思われるイメージ直感にまで 《わたし》をとおして つながっている。 言いかえると――《自我》が面倒な用語であるのと同じように―― 《無意識》 これもまた扱うのに厄介です。 ですが 《ヒラメキ構造 または ロゴスの階梯》なるひとりの《わたし》の中におさめれば まったく問題ありません。イメージ直感の場は 意識も理性さえも及ばないところであるが ロゴスの階梯の中にちゃんとおさまっていると見れば すっきりします。 (その明証性は 《かみ》という無根拠に頼っています。言いかえると 人間原理という不確かな事実の上にさえも《ロゴスの階梯》が 見通された。こう思われます)。 こういった感じになりましょうか。 かなり出しゃばりで 自己顕示欲の強いおっさんぶりを やはりここでも発揮するようになってしまいました。 ただしこれも それも きちんと問い続けています。その過程です。
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。 前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。 ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り 方でしょうか。 たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで なのだと思われます。 もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい う可能性は 見ようとしている。 あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。 とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と いう存在を基軸にして 理論をつくるか。 (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの / すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら れるほどの推論が成されうるとは思えない。 別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない 《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が 潜んでいるかも知れない。 言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨 ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを 示していることになるかも知れない。 よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい ると解する。 (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。 * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。 それはそれとして 次へすすむ。 (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166) * さらに次へすすもう。別の段落だ。 ▼ (同上) ~~~~ (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。 * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど りつくはずだと言おうとしている。 (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167) * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考 えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言 うと それほど確かであるようには思えない。 《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が 世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし ていないか。 仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や 社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。 さらに次へすすみたい。 ▼ (同上) ~~~~ (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。 * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを 起こそうという議論に見える。 ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的 にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止 とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。 (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273) * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか れていることは 見て取れる。 言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり 着かない。 方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ とすれば その応用編で勝負となるはずだ。 ▼ (同上) ~~~ (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか? * これが 読者が初めから知りたかったことだ。 (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。 * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に 捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう としていることは 見て取れる。 その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実 認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと しているようだ。 それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな い。 (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66) * 次へすすもう。 ▼ (同上) ~~~ (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。 * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世 界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。 (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。 * パス。 (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。 * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。 (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。 * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう か? (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266) * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが 志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ うか? それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。 他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸 であることに変わりはないと。 ~~~