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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。  応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?  ほかの人からの評価についても 知りたいです。  というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。  つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。  いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

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noname#143207
noname#143207
回答No.16

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 
> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。
  了解致しました。 
> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
  (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。
   * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。
 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
    * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
    そうすると 言えることは 次である。
  (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?  (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。
  (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?
  (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。
  (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 
> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。
   * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 
  おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 
> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
   * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。
  この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ 
> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
   * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。
  おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 
> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。
   * 独我論が いちばん当たっていると思う。
  仰られる通りかと存じます。 
> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
   * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。
  はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 
> ▲ (同上) ~~~
  (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。
   * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 
 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。
   * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。
  おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 
> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。
  仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 
> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。
   * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。
  上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 
> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)
   * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
     《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。  フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。  表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか?   そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。  前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。  ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~  (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。  * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り  方でしょうか。   たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで  なのだと思われます。   もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい  う可能性は 見ようとしている。   あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か  らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。   とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と  いう存在を基軸にして 理論をつくるか。  (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。  * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /  すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら  れるほどの推論が成されうるとは思えない。   別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない  《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ  って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が  潜んでいるかも知れない。   言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨  ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを  示していることになるかも知れない。   よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい  ると解する。  (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。  * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。   それはそれとして 次へすすむ。  (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)  * さらに次へすすもう。別の段落だ。  ▼ (同上) ~~~~  (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。  * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど  りつくはずだと言おうとしている。  (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)  * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考  えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言  うと それほど確かであるようには思えない。   《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が  世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな  いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし  ていないか。   仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や  社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。   さらに次へすすみたい。  ▼ (同上) ~~~~  (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。  * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを  起こそうという議論に見える。   ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的  にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止  とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて  いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。  (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)  * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか  れていることは 見て取れる。   言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり  着かない。   方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ  とすれば その応用編で勝負となるはずだ。  ▼ (同上) ~~~  (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?  * これが 読者が初めから知りたかったことだ。  (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。  * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に  捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう  としていることは 見て取れる。   その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実  認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと  しているようだ。   それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな  い。  (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)  * 次へすすもう。  ▼ (同上) ~~~  (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。  * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世  界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。  (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。  * パス。  (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。  * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。  (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。  * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう  か?  (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)  * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには  おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが  志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ  うか?   それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて  いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。   他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸  であることに変わりはないと。  ~~~

その他の回答 (65)

noname#143207
noname#143207
回答No.66

 こんにちは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。  愚生の文筆力の稚拙さのため、いろいろな誤解を目泣きましたこと、深くお詫び申し上げます。  おそらくフッサールの主張の大元を辿りますと、誰でもが、可能な方法を提供した、これに尽きるのかもしれません。今は情報化社会でございます。様々な情報が飛び交っております。もちろん、そこでは、発信者にとりましては何かしらの意図があるといってもいいすぎではないものと考えております。  そんなとき、エポケーして、とりあえず自分がかけている”色眼鏡”をはずしてしまい、純粋に対象からの表象を見つめてみる、これはある意味、現代社会でも有用なものと考えております。  とりとめのない話となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。        愚生こと ひどっちは、療養に専念致したく、本日をもって、退会させていただこうと思っております。  誠に勝ってな言い分かとお思いになられるかもしれませんが、他の場所にて、いろいろなことに取り組んで参りたいとそう思っております。  この場をお借りしまして、 bragelonne様はじめ、皆々様には感謝の気持ちで一杯でございます。  また、愚生の駄文をお読みいただきました方々にも、お礼を申し上げたく存じます。  愚生を早く追い出したいとお思いの方々には、これで気が済んだかと。もはや邪魔者はいなくなった訳ですから。  ですが、わたくしにとりましては、いろんな方達とお話でき、とても楽しかったことは紛れも無く事実でございます。  ほんとう、ほんとうに愚生は果報者かと・・・    末尾ながら、お世話になりましたbragelonne様、そして応援賜りました皆様には厚くお礼申し上げます。  どうもありがとうございました。 ひどっち 拝

bragelonne
質問者

お礼

   それでは その理性的な魂がすでに不可変的で永遠の真理を分有し   ているような賢い人を心で考えてみよう。  とアウグスティヌスのえがく共同主観者の像を ここで補足しておかねばならない。(ちなみに 《真理の分有》とは すべてを理性的な魂すなわちアマテラス者精神で 律することではない。律する力を得たということを意味しない)。    その人はその行為をあげて この真理に諮り 真理において為すべ   きであると認識しないことは決して為さず そのため真理に服従し真   理に聴従しつつ正しく為すようになる。このような賢い人が もし心   の耳でひそかに聞く神的な正義の最高の理法に諮って その命令に基   づき或るあわれみの業(わざ)を引き受け 身体を労働によって疲れ   させ 病気に罹り 医者に相談したところ 或る医者からは病因は身   体の乾燥であると言われ 或る医者からは過剰の液であると言われる   なら それらの診断の一つは真実の病因を語り 他方は誤っている。   しかし両者共にただ直接的な つまり身体的な病気の原因に触れてい   るのにすぎない。    しかし身体の乾燥の原因が さらに問い求められ あの自発的な労   働のことが考えられるなら そのとき より高次の病気の原因に到達   したのである。その原因は魂に起因し 魂が管理している身体に影響   を与える。ところが それもなお第一の究極的な原因ではないであろ   う。第一の原因は疑いなく より高いところ すなわち不可変的な知   恵そのものにあったのである。    賢い人の魂はその知恵に愛をもって仕え 言詮を絶して命令するそ   の知恵に聴従しつつ あの自発的な労働を身に引き受けたのである。   かくて神の意志そのものが あの病気の第一原因であると極めて真実   に認められるのである。   〔しかし もし為すべき敬虔な仕事において この賢い人が善き業に   協力する他の人の奉仕を採用するとき・・・〕    (三位一体論 3・3・8)  ここでアウグスティヌスは 《病気にかかる》といったネガティヴな現象を例にあげて アマアガリするスサノヲ者の共同主観行為過程を指し示した。  しかもそれは 方法としてであるだろう。誰も 病気に罹れとは言っていない。必然の王国をわたりゆく愛の王国を例示しようとしている。  《もし人間的なものの支配と管理とが この賢い人びとや神に対して敬虔に全き仕方で服従した人びとの手中にあるなら――この状態はまだ存在していないが―― このような人びとの交わり(革命的な連帯)が存在する家についても あるいは都市 または世界についても考え得る》とかれは考えたことになる。  けれども このような共同主観国というほどの形態的な・或る意味で独尊的な資本関係=やしろの生活については それが《とこしえより据えられて》おり すでに現在するからと言ってのように その実現が 保留されているのだと考えられる。微妙な・また誤解を生むような言い方ではあるが この認識が 神の国の歴史的な進展にかんする後退ではなく 前進なのである。どういうことか。  なぜなら実際 この《賢い人びと》の内なる秘蹟――第一の死の引き受け→復活(ほんとうのアマアガリ。その約束)なる回転――と 外なる模範――必然の王国を含めて他の人びとの協力を採用するという仕事――としての《キリスト・イエス》は 人間として すでに 出現しているからである。  わたしたちは     神の国と地上の国これら二つの国は この時間的な世界にあっては   絡み合い 相互に混じり合っている。(神の国について11・1)  ことを知った。しかも人間キリスト・イエスは     《わたしの国は この世に属していない》(ヨハネ18:36)  と言った。この二つの視点がただしいとわたしたちは考える。そうでなければ 神の国の歴史的な進展(《お前たちは出かけて行き すべての民族をわたしの弟子にしなさい。そしてかれらに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け・・・なさい》(マタイ28:19)は 起こらなかったし 必要ではなかっただろう。  それでは なぜ 《賢い人びとの交わりの存在する家 都市また 世界》の実現が保留されているとわれわれは認識するのか。自由の王国は 必然の王国に取って代わる新しい歴史的な世界なのではなく 《この世に属していない》愛の王国が 同時に《この世》に寄留しつつ この必然の王国をわたるための必要な限りでの理論なのであるというのは どういうことか。  思うに     主(復活した人間キリスト・イエス)は 《私に触れるな。また私   は父の御許(みもと=神の国)に昇っていないから》(ヨハネ20:   17)と言われるのである。それは 接触は いわば認識の目標をつ   くるからである。(三位一体論1・9・18)。  ここで 形態的な自由の王国の認識が 《接触》であり それは 自由の王国〔なる理論体系〕が われわれの信じるべき対象なのではなく われわれの信じているのは 神(もしくはなんなら自己)であるのだからと言われているようなものである。    それゆえ 主は ご自分に向けられた心の目標が 見たものだけを   思うというようにご自分に置かれるのを欲せられなかったのである。   〔しかし 御子が御父の許に昇られることは 私たちの心を満たす直   視の目標が そこで達せられるために御父に等しくあり得るようにみ   られることであった。〕(三位一体論 承前)  と言われる。これは 愛の王国を 自由の王国として経験科学的に理論しようがしまいが 愛の王国(その信仰)に立って むしろわれわれが 後ろ向きに 前進することを促されていることであると思う。  それゆえ 自由な人びとのやしろにおけるかつ資本関係としての連合は 《正義が裁きに変えられるまで》 留保されているのである。それは つねに保留されていると認識するまでに つねに前進を見ているものであり かつそれは すでにその実現を見たかのごとく後ろ向きに 進んでいると解しなければならないのだと思う。  だから 《ここがロードスだ。とべ》と言って 前向きに進むのではなく ましてや前向きに後退する(先送りする)のではなく 《ここがロードスであり わたしはすでに跳んだ》と言ってのように その後の地点に立って 後ろ向きに前進を開始するであろう。      *  勝手ながらにて。  

回答No.65

しばらくぶりに失礼します。rearerugenです。 自分なりに考える現象学を哲学史にそって?整理してみました。 今までの議論の流れに乗った回答ではないのでかえって混乱させてしまうかもしれません。その場合は無視してやってください。何らかの議論のたたき台にでもなれば幸いです。 ※そもそも西洋哲学は観る学問でした。客観世界をただただ観察して存在の発見に驚く。こんなものがあったのか。あんなことが起きるのか。ヒラメキというより発見の驚きや喜びが基盤にあります。 でもガリレオが望遠鏡を通して地動説を立証すると学問に革命が起きます。この立証は決定的なのです。なぜならガリレオはただ観ただけではないからです。望遠鏡を「作って」観たのです。そうしたら、ただ観た世界と全く逆の世界が発見された。 衝撃です。キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在です。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずです。でも望遠鏡を使って観ると肉体感覚と真逆の真実が現れた。それは、人間の観る能力はもちろん、その能力を与えた神の善性まで疑わざるを得ない発見なのです。キリスト教会がガリレオを異様に敵視した理由はここにあります。 そこでデカルト懐疑です。彼はとにかく観るもの、感じるもののすべてを疑って疑って疑いぬいた。そうしたら、「疑っている」という理性の動きだけは疑いえないことを発見した。理性は確実に存在し、なにより神から分け与えられたすぐれものだと。 ここで重要なのは理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点です。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れているのです。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実な主観と当然な客観の一致に悩みに悩むことになります。 この当然の客観世界が初めて疑われたのはニーチェの時代です。ニーチェの「神は死んだ」は形而上に対する信頼が失われただけでなく、客観世界の存在そのものが死んだことを示しているのです。 ニーチェ以前の哲学は客観世界を観て分析するのが仕事でした。真理に満ちた客観世界は現実世界とは別個に存在していて、我々は現実を観て真なる世界を想起し、まねるだけだというプラトン型。または、真理は現実世界にDNAのように組み込まれているから、現実に従って生長していけば、真理にたどりつけるというアリストテレス型。このどちらかに西洋哲学は分類することができました。でもニーチェ以後はそれができないのです。なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのですから。 対策は大きく3つに分かれました。まず、世界は存在しなくても理性の「運動」が在ることは確実なのだから、その因果の流れを分析して人間にとっての利を追求すればよいというプラグマティズム。次に、理性の考える仕組み「論理」を分析すればよいという分析哲学。そして現象学です。 現象学は客観世界の存在をとりあえずエポケーします。客観世界なんてないと決め付けるのではなく、一時的に判断を停止します。そして、世界があろうとなかろうと、どちらにしても我々がその存在を感覚として感じているという事実は疑っても疑いえないことに注目するのです。デカルトは感覚の正確性、その真なる世界を見抜く精度を疑いました。でも、客観世界の存在を一度判断停止にすると、その正確さはどうあれ「感覚がある」ということ自体は確実だという点が浮かび上がってきます。我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えたのです。 この感覚の集まりこそ超越論的主観(純粋意識)なのです。超越論的主観はすべてを感じ取らなくても感じた部分から全体を類推します。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越します。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのです。ヒラメキといっていいのかもしれません。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界なのです。顕在だけの超越論的主観の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージです。 さらに、確信した存在にはぴったりの言葉が、これまた言葉の部分的集まりから超越してきてその存在を主張します。この言葉がぴったりだよと。これが本質直観なんだと思います。 ニーチェ以後、客観世界を失った西洋哲学は観ることをやめてしまった。「世界を観て考えて」行動していたのに観ることをやめてしまった。その後はただ「考えて」行動することが正義となった。考えて行動して考えて行動して…。まるで自分の精神パターンや考え方を探っているようだ。永遠の自分探し。そこから学べることは理性が「できる」ことだけであって「なぜ生きるのか」「なぜ世界は存在するのか」については何も学べない。 思考は自分の中だけの対話です。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。 フッサールなら言うでしょう。客観世界の存在が信じられないだって?だったらそんなのエポケーしてしまえ。感覚を信じてみたらどうだね?世界があろうとなかろうと、感覚があること自体は疑えないだろう?それを「観たら」どうかね?そして「観て」学びたまえ。そうじゃないと生きる意味は発見できないよ。と。

bragelonne
質問者

お礼

 〔つまりは アマテラス精神とスサノヲ身体との二元論だとでも見てしまったのでしょう。〕  一般的には ヒトの自然本性(身と心――心つまり精神は 記憶・知解・意志の三つの行為能力――)とそして もし言うとすれば 非経験の領域としての《霊》が来ます。   * cf. 【Q:魂の存在について】回答No.5   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5762930.html  経験世界にある身体と精神とは 分けたとしても 二元とは言わないはずです。旧くはマニケーイズムの善悪の――善神と悪神との――二元論がありますが そしてこの二元論が あり得ない議論として典型だと思われます。善と悪とが相容れないなら 根源(非経験の領域つまり神)がふたつあるとは考えられません。互いに対等であるなら 善と呼んでも悪と呼んでもまったく変わらないことになります。  身と心が そんなふうに相容れないふたつの根源でありましょうや? と言いますか  もしそうなら どちらもけっきょく二つにして一つだということにもなります。  デカルトは 歴史に必要だったとは思わないのです。  ★ ~~~~  ここで重要なのは理性の確実性の発見はもとより、理性が向かう客観世界の存在をデカルトは露ほども疑っていない点です。疑いぬいたのは、もっぱら観る「能力」の方であって、観る世界の存在自体は当然のものとして受け入れているのです。そしてデカルト以後の西洋哲学は確実な主観と当然な客観の一致に悩みに悩むことになります。  ~~~~~  ☆ 心身二元論のほかにこの《主観と客観世界との分裂》というのは どうも解せないのですが どうなのでしょう? むしろ一体だと見る系譜もあったのではないかと。  ☆☆(上記§ 2) ~~~    ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)が《われ》に宿る。    ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)    ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》    ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。      《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。    ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》  ~~~~~~~~~~~  ☆ つまりは 経験世界における《主観と客観との分離》はあり得ても それらを覆い包む《かみ》の想定は 活きていたのではないかと単純に思われます。ですから決して 永遠の決裂としての溝を見ているのではないと考えられるにもかかわらず わざとその乖離をもっぱら探究したかったのでしょうか?  だって 《確実な主観》が得られれば そこから《客観世界》を見るわけですから 出来るところから科学認識を行なって行けば 問題ないと思われます。  客観世界がもし《絶対》だとでも思い込んでいたとしたら それはおそらく非経験の《かみ》と経験世界(そのイデア化・偶像なる神)との錯視であるに過ぎない。  と考えるその理由は 例のニーチェの《神は死んだ》なる宣言にあります。その《絶対なるものの相対世界への引きずり下ろしという錯視》なる神は死んだ。あるいは《観念の神》のことです。つまりそんなものは はじめから 死んでいます。ただ移ろいゆくものであるに過ぎません。  ★ 〔* ニーチェ以後は〕なにしろ分析すべき対象たる客観世界がないのですから。  ☆ これは まったくと言ってよいほど 《観念》によってあたまが雁字搦めに絡め捕られていると見ざるを得ません。  ☆☆(§ 4) 漂白の人:~~~     心なき     身にも あはれは     知られけり     鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ    ~~~~~~~~~  ☆ この西行のばあいは わびしさの極みにあり《観念》も錆びついてしまっているはずです。かなり《主観》の世界に閉じこもっていますが そろそろ突き抜けつつある。のではないでしょうか? 《タウマゾー あるいは ヤレー(もののあはれからの きよらかなおそれ)》と叫んでいないでしょうか?  デカルトやニーチェは みづから蛸壺のなかに入って行ったのでは?  § 6 あぁ フッサール!?  ★ ~~~  ・・・我々の感覚にはあらゆる存在がその存在を主張してくるではないか。それが真実かどうかの判断はとりあえず不要だ。感覚があるという事実自体は確実なのだから。デカルト懐疑で学の基盤とすべきは理性ではなく、この「感覚」ではないか。フッサールはこのように考えたのです。  ~~~~~  ☆ ただちに批判するなら どうして《身と心》をなおも分けて考える座標しか取り得ないのか?  《あやまつなら われあり》のわたしは 感性であり理性である。あるいは ヒラメキ直観である。分かり切ったことではなかったか? なぜ分割せねばならぬか?  ★ ~~~~~~  この感覚の集まりこそ超越論的主観(純粋意識)なのです。超越論的主観はすべてを感じ取らなくても感じた部分から全体を類推します。顕在している部分から潜在している部分を補って全体へ超越します。この超越する力こそ志向性であり、超越が訪れることこそ直観なのです。ヒラメキといっていいのかもしれません。そして超越により確信が訪れた存在の集まりこそ生活世界なのです。顕在だけの超越論的主観の上に、潜在部分を含んだ生活世界が覆いかぶさるイメージです。  ~~~~~~~~  ☆ 《わたしはある》のわたしは 感性からの情報を得ましょうし それらを認識したものを概念としていわば純粋化することも出来るかも知れません。場合によっては――神あたえたまうなら―― ヒラメキを得て その純粋意識なるわれをも超えて しづかにわれと世界を見つめるわたしに成っていることが出来るのではないか。  その境地にあるわたしには やがてさまざまな生活世界の地平が見えて来る。それは § 5における《(三位一体なる神とひとと社会とについての図解)》に示すごとく 世界の分業=協業するそれぞれの分野について 《ものの見えたる》境地に到ることを示すであろう。《潜在・顕在》のあり方が 《地平》の問題としてあるかも知れないとしても。    かくして――あぁ フッサールよ――  ★ さらに、確信した存在にはぴったりの言葉が、これまた言葉の部分的集まりから超越してきてその存在を主張します。この言葉がぴったりだよと。これが本質直観なんだと思います。  § 7 フッサールよ フッサールよ  ★ ~~~~  思考は自分の中だけの対話です。一者の中の二者の対話。「観て」考えることをやめると、ただ「考える」だけだと、ただ自分で自分を見つめるだけになってしまう。自分に何ができるかについては学べるかもしれないが、自分がなぜ生きるかは学べない。だから「観る」ことを忘れてはいけない。  ~~~~~~  ☆ 《かみをおそれることが 知恵のはじめなり》。これは かみを信じよとか言うためではなく 《すべてをエポケーしてしまえ》と言っていまいか?  ★ ~~~~~  フッサールなら言うでしょう。客観世界の存在が信じられないだって? だったらそんなのエポケーしてしまえ。感覚を信じてみたらどうだね? 世界があろうとなかろうと、感覚があること自体は疑えないだろう? それを「観たら」どうかね? そして「観て」学びたまえ。そうじゃないと生きる意味は発見できないよ。と。  ~~~~~~~  ☆ えっ? まだエポケーし足りないですって? だったら《ヤレー ハ・エル。(われかみをおそれる)》もしくは《われもののあはれを知る》に就きたまえ。《世界》も《見る》じたいをもエポケーしちゃってさ。  ふところに抱かれつつ。聖なる甘え。究極の完全なるエポケー。だいじょうぶ。《心なき身にも あはれは 知られけり》。どん底にこそ 限りなき愛が・・・。知の原動力として。世界大のいづみ。  たいへん失礼しました。

bragelonne
質問者

補足

れあれるげんさん こんにちは。ようこそ。ご回答をありがとうございます。  § 1 余分なことですが 《 atman 》の語源は?  あまがっぱさんの質問【Q:本質観取と仏教】( a )への投稿でわたしは 《息 breath 》としています。  *( a )http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7011950.html 回答No.1  つまり次の資料( b )などにもとづいていますが そのあとに掲げるウィキペ( c )では 《最も内側( innermost )》なる意味が原義だと言います。  ▼( b )( Online Etymology Dictionary: atman ) ~~~ http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=atman&searchmode=none  1785, from Skt. atma "essence, breath, soul,"  from PIE *etmen "breath" (a root found in Sanskrit and Germanic, cf. O.E. æðm, Du. adem, O.H.G. atum "breath," O.E. eþian, Du. ademen "to breathe").  ▲( c )(ウィキペ:アートマン) ~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3   [概要] 最も内側 (Inner most)を意味する サンスクリット語の Atma を語源としており、  ~~~~~~~~~~  § 2 現象学は 東西と古今にわたる哲学思想の原点をめぐって展開されているか?  コギト(思考)だけに限らず インスピレーション(直感および直観のヒラメキ)をも扱い なかんづくその《主観》の扱いは 《わたし》とは何か? である。つまりは存在論であることにおいて世界史を 思想の原点として つらぬいている。か?  《存在 ないし〈わたし〉》は 古代には 《かみ》一般とつらなって捉えられた。このつながりは――絶対的な隔たりを介してのつながりは――現代にまで インスピレーションという見方に残る。   ☆☆上記( a )を参照されたい。    ・プシュケー・コスムー(宇宙霊魂)が《われ》に宿る。    ・=アニマ・ムンディ(世界霊魂)    ・主宰神ブラフマンとアートマン我との一体(梵我一如)    ・諸法無我ととなえつつ《無い神》の想定による世界についての空観(縁起共生)    ・その空観のまま 人(有情)には仏性というアートマン霊が宿るとした。    ・《あなたは 神の霊の宿る神殿である》    ・《エフヱフ アシェル エフヱフ》      =《 〈 I am. 〉――that is who I am.》。      《〈わたしはある〉 それがわたしだ》。    ・《ヤフヱフ》=《 He makes be. 》。      《かれ(神)は〔われと世界を〕あらしめる》(一訳例)。    ・《イムマ・ヌー・エル》=《 With us 〔 is 〕 God. 》  § 3 タウマゼイン:《観る――驚く》!!  タウマゾー(おどろく)は タウマイ(見る・見つめる・不思議がる)から来ているそうです。  けれども――よく引き合いに出すのですが―― 雨の落ちる暗い空から光を発し大きな音をとどろかせるなら そりゃあ昔の人びとは 《かみ》だと思ったことでしょう。  ただ良いほうに解釈しようとしただけなのか分かりませんが この神鳴りという現象は――あたかも現象学的還元をほどこすなら―― われらが生活の糧である米を成らせる力だと見た。稲光であり稲妻なのだと。つまりその光の射すことによって 光と稲とはつるむのだと。かくして神鳴りを 稲つるび( b ∽ m ;さびしい∽さみしい)と呼んだ。  《タウマゼイン》には おどろきのほかに 実質的に言って ヒラメキも伴われていてよいと思いますし あるいはその前にやはり《おそれ》があり得たはずです。《神をおそれること(イーラフ;フォボス)は 知恵の初め》とさえ言われました。  § 4 タウマゾー(われ見る / おどろく) ―→ファロール(われあやまつ)―→コギト(われ考える)―→?  その以前に ともかく世の中を見渡して 逆に言えばおどろきを重ねた結果 それらの驚きを超えて わが身とわが心を捉える。わが存在を見つめる。そこで 《エフヱフ アシェル エフヱフ》あるいは《すでに何ものかナゾの力によってあらしめられたわたしは ある》を得て その表現のかたちが来ていたかとも思います。  あるいはさらにその前には ただ《行け。親の里を去って 行け》という言葉を受けた《行くわれ》がいるかも知れません。  その前には 素朴に《われ かみをおそれる(ヤレー ハ・エローヒーム)》が来ていたかも。  あるいは ただ《あはっ!》と言って世界を知る《もののあはれ》が来ていたかも知れません(*)。すべてをエポケーしたところには――ワビ・サビに到達したところでは―― むしろ神々しきわれが見出されたこともあるかも知れません。《所を追われ 漂白する神(人)》。これは 人の存在じたいが社会からエポケーされた(もしくは 自分からエポケーした)事例であるかも分かりません(**)。  確かに《タウマゾー》から発しているように思われます。   * cf. ( d )【Q:日本語とはどういう言語か。】    その趣旨説明では 《あはっ》もしくは《はー》という息の音   ないし声から 言葉つまりは自己表出と自己表現が生まれたと見   るその過程を仮説しています。    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6422669.html     ** 漂白の人:~~~     心なき     身にも あはれは     知られけり     鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮れ    ~~~~~~~~~  § 5 デカルトを出すなら クリスチアニズムについてその神学を明らかにせねばなるまい。  キリスト教という組織宗教が・つまりローマ教会などの団体が出す見解と 聖書が伝える信仰ないし神学とは 区別せねばならないと考えます。  ★ キリスト教徒にとって人間は神に似せて創られた存在です。だから人間の肉体感覚には真実を見抜く力が当然に宿っているはずです。  ☆ 《真実を見抜く力》とは何か? 経験世界の事象がすべて その人間による事実認識というかたちにおいてである限りは 知り得るということでしょうか? あるいはその事象や現象が 神の秩序としてあるはずだといったことを言おうとしていましょうか?  経験合理性にもとづき 事象認識とその思考は限りなく続けられていくと考えます。神の秩序にかんしては 知り得たとしてもそれは ヒラメキ直感においてのみだと考えられます。それ以上・それ以外のことを含むというのは クリスチアニズムではないと言ってよいのではないでしょうか?  つまりもしそうなら 間違った内容としてのキリスト教教義を前提としていて 人びとはこれに振り回されていた。ただこれだけのことだと見ます。  ◆ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。  ☆ この内容を図式において示したものです。  ○ (三位一体なる神とひとと社会とについての図解) ~~~~~~~~~  光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ)  三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神)  ____________________________   スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A )  ____________________________  身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志)  ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓)  [S者/S圏]  個体・・・・・・・・・・・・家  族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛)  社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治)  経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 )  政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓   [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓  社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 )   〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あとは――つまりこの図式は 《志向性》として中立な認識ですから―― 人それぞれの意志行為がどうあるか といった問題だと見ます。  つまりは アマテラス精神とスサノヲ身体との二元論だとでも見てしまったのでしょう。  

noname#143207
noname#143207
回答No.64

 こんにちは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 
> ☆ それでは デカルトは どの思想的系譜から来ているのか? と問いたいという意味合いを この質疑応答の中ほどあたりから質問者としてながら 持ち出して来ていましたでしょうか。
 古代も案外 重要です。全体観がありましょう。  はい。もちろん、アリストテレス等も含まれます。通史としての全体観も重要かと考えております。 
> あるいはつまり フッサールのあとの思想の継承や批判についても 出来れば大筋においてでよいから明らかにして把握したい。ということは すでに現代・現在のわたしたちの――ということは ヨーロッパだけではなくアジア諸地域を含めた世界史という大きな諸系譜のなかにあっての――観点からも捉えたい。こういうことでした。
 ですから早とちりもしくはチョンボの危険を冒してでも いちど《心身二元論》というのは 要素に還元しすぎたところからのチョンボであったに過ぎないという物言いをも差し挟みたい。こういう心つもりです。
  そうでございましたか。納得致しました。 
> ★ ~~~~~
 例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。
 また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。
  ~~~~~~~
  ☆ 今ではこの論争・確執は 問題にならないという見方も出来ませんか? 
 仏性は けっきょく霊性のことであり 神の霊がひとに宿るという見方と同じものだと考えます。しかももしこの仏性を認めないとしても そこには 《無い仏性=無い霊=無い神》が代わりに想定されているということにしかならない。つまりは ヒラメキ(インスピレーション)をめぐるロゴスの階梯の仮説にもとづけば まったく同じ類型において 互いに別々の信仰形態を成している。こう見るなら 議論は終わっている。と考えます。
  ”仏性”は仰られる通りかと存じます。ですが、過去の諸賢人達の激論・分派を鑑みますと、やはり、彼ら大先輩達には、頭が下がる思いでございます。  ただ、”空”につきましては、やはり、上座部からの批判は今でも見受けられるように思えました。 参考:アルボムッレ スマナサーラ著「般若心経は間違い?」宝島社 (但し、賛否両論が激しいようではあります。主に、空論 → 虚無主義 → 神秘主義 だとしているように見受けられました。ですが、愚生はこれを否定致します。)
 
> これらのわたしの物言いは 哲学史や研究史をおろそかにすることになるというお叱りを受けることかと思います。じっさい この当人であるわたしの状態をかんがみれば そのとおりです。  いえいえ。愚生は別段、何とも思っておりません。 ただ、哲学の歴史を鑑みました時に、「哲学もけんかであった」というのは、ある意味、史実かとも考えております。 
> ただし 誰もが研究者であるわけではありません。おろそかにしているのではないのです。素人の見解にも耳を傾けてもよいのではないかというのみです。茶の木畠に落ち入っているのではないかと たしかに素人が言うわけですから 聞きたくないかも知れませんが だとするといまでは余計にこちらの物言いは当たっているかに思われます。
  因に、愚生も哲学に関しましては、全くの素人でございます。これは歴史好きかどうかだけの問題かもしれません。 > 竹田青嗣の事例を出しておられたのではないですか? そのあと学者と同じ地位にのぼって同じような道を歩まなければ声はとどかないということでしょうか?
  確かに、その一面もあろうかとは考えられます。文系の場合はどうかははきりとは知らないのですが、理系には確実に存在します。  ただ、竹田氏の場合は、”開かれた学問”を追求し、さらには、優しすぎるとしてカントやヘーゲル解説書もまた非難されることがございますが、現象学の普及をライフワークとして邁進しているのを鑑みますと、今までの研究者とは若干異なるように思われます。 > ドイツ語を読めない者が何を言うかという《褒め言葉》をももらっていますが 生活世界の共同体は 研究者たちをむしろその社会の安寧と発展のために使えばよいわけだと見ます。長年の努力のあとの研究の成果を いともかんたんに市民一般は それは これこれの点でおかしいぢゃないの? と言ったなら その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。
  そんなお褒めの言葉(?)をいただいていたのでしょうか。愚生も、一昔前まではバイルシュタインやアンゲヴァンテ等の情報源もドイツ語でしたので、少々かじりましたが、今は完全に忘れてしまっております。  後段、つまり、「その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。」につきましては、もちろん、意見を等しくさせていただきます。
 
> このフッサールなる主題をめぐって もう少し開いています。  どうもお疲れ様でございました。  それでは、失礼させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。ひどっちさん こんにちは。  ★ アルボムッレ スマナサーラ  ☆ を取り上げます。  ☆☆【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】 No.8補足欄   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html  ☆ ここで スマナサーラは 無神論に立つということを確認しています。  次のところでは その性愛観を扱っています。いづれも まっが( magga )さんという方とのやり取りです。  ☆☆【Q:ブッダの性愛観は 間違っていませんか?】No.6補足欄  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5145751.html  ▲ (スマナサーラ:【47】 不邪淫戒/慈悲の冥想 )~~~~  Q:私自身は現在独身なのですが、この場合、配偶者という相手がいない以上、戒を厳密に守ろうとすれば、性欲を満たすには結婚する以外ないということになりますが、それ以外は果たしてダメなのでしょうか? 例えば風俗にいって性欲を満たす場合はどうなのでしょうか? 或いは、相手が人妻である場合は不倫ですからダメだとしても、相手が未婚の女性で、真剣なお付き合いの過程で、お互いを良く知るために関係する場合には、日本の法律上は一応許されると思いますが、仏教的にはどうなのでしょうか?  A:法律で許される行為の場合は「不邪淫戒」を犯したことにならないのです。仏教の倫理から考えると、性交は「責任」と「権利」の問題になります。完全に独立している二人が「責任」の問題も解決しているならば、性交は道徳的な行為になるでしょう。  しかし、別の視点からいうと、女性の場合は「守られている」という概念があります。昔は女性は、結婚するまで、親に、親戚に守られたのです。いまも社会人になるまで女性を守っているのです。その女性に対する「権利」は守る側にあります。たとえ「守られている」女性の同意があったとしても、その人との性行為は戒律の違反です。  (スマナサーラ:「ブッダの智慧で答えます」(Q&A))   http://www.j-theravada.net/qa/gimon47.html  ~~~~~~~~~~~  ★ ただ、哲学の歴史を鑑みました時に、「哲学もけんかであった」というのは、ある意味、史実かとも考えております。  ☆ ドイツ語の褒め言葉は 例のなな・・・です。    ヒラメキはまだありません。もう少し待ちます。

noname#143207
noname#143207
回答No.63

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 困りました。今回は 合意の成ったもの・あるいは わたしの物言いが哲学史や研究史の系譜に棹差すことから離れすぎとのご指摘その他について 分かりましたとお応えするほかにあまり反応が出て来ません。

 ご心証害してしまいましたこと、深くお詫び申し上げます。  愚生の申し上げたかったことは、哲学の述語云々ではございませんでして、ただ、その思想が生まれたところには、必ずそこには何かしらの背景が存在しているということでございました。例えば、フッサールにしましても、ハイデッガーにしましても、デカルトの心身二元論という大きな”権威”が存在していた訳でございます。  例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。  また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。

> ハイデガーは 割り合いその多くの著書を読みましたし デカルトがどうだこうだは あらためて確認しておくべきかとも思うのですが どうも大げさに言いますと 気が抜けました。これまでには百件の回答などは ざらにこなして来ましたが 根気がなくなったのでしょうか。あるいは正直に言って 現象学は ヒラメキ理論の問題として迎え入れられると評価するものの あとは何だか拍子抜けのところも出てきています。
 一たん休憩がしたいのでしょうか。かも知れません。
  おそらく、今までも百件の回答がございましたが、今回は、回答は愚生のみだったため、単調さのみがあり、緊張感、新鮮味がなかったものと思われます。  もう少し、シャレた言葉が愚生にございましたならば、少しは変わったのかもしれません。ただただ、申し訳ない限りでございます。 
> どうでしょう? 
 この主題についての詰めがまだ甘いぞとか これこれの方面について探究をしておくべきですぞとか そういったことがありましたら 指摘していただけますか?
  いえ。愚生と致しましては、別段ございません。 > いづれにしましても 一たんお休みとしたいと思います。何かありましたら 投稿していただくこととし わたしのほうで何か出て来ましたら 補足欄にて お知らせするというかたちにしたいと思いますが どうでしょう?  はい。何か、おもしろい内容等がヒラメキましたならば、お伝えいただければ、とそう願っております。    それでは、失礼させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  もし早とちりのリスクを冒してでも 全体観を持ちたいという行き方からすれば 次のように反論いたします。  ★ ~~~~~  愚生の申し上げたかったことは、哲学の述語云々ではございませんでして、ただ、その思想が生まれたところには、必ずそこには何かしらの背景が存在しているということでございました。例えば、フッサールにしましても、ハイデッガーにしましても、デカルトの心身二元論という大きな”権威”が存在していた訳でございます。  ~~~~~~~  ☆ それでは デカルトは どの思想的系譜から来ているのか? と問いたいという意味合いを この質疑応答の中ほどあたりから質問者としてながら 持ち出して来ていましたでしょうか。  古代も案外 重要です。全体観がありましょう。  あるいはつまり フッサールのあとの思想の継承や批判についても 出来れば大筋においてでよいから明らかにして把握したい。ということは すでに現代・現在のわたしたちの――ということは ヨーロッパだけではなくアジア諸地域を含めた世界史という大きな諸系譜のなかにあっての――観点からも捉えたい。こういうことでした。  ですから早とちりもしくはチョンボの危険を冒してでも いちど《心身二元論》というのは 要素に還元しすぎたところからのチョンボであったに過ぎないという物言いをも差し挟みたい。こういう心つもりです。  ☆☆(No.61お礼欄) 日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか?  ☆ には 上のような意味合いがありました。分かりにくい表現で ちらっと触れただけになりました。  ★ ~~~~~  例えば、空観思想におきましても、元来は説一切有部を論破するためのものであったかと記憶しております。  また、”仏性”、この言葉につきましても、”仏性”を認めない上座部(昔は小乗仏教と揶揄しておりました)と大乗仏教との確執があったものと考えております。  ~~~~~~~  ☆ 今ではこの論争・確執は 問題にならないという見方も出来ませんか?   仏性は けっきょく霊性のことであり 神の霊がひとに宿るという見方と同じものだと考えます。しかももしこの仏性を認めないとしても そこには 《無い仏性=無い霊=無い神》が代わりに想定されているということにしかならない。つまりは ヒラメキ(インスピレーション)をめぐるロゴスの階梯の仮説にもとづけば まったく同じ類型において 互いに別々の信仰形態を成している。こう見るなら 議論は終わっている。と考えます。  つまりは もし議論は終わっていないという場合には それでもいますでに議論は終わっているではないかという見方を提出して その確執を解きほぐすことは ひとつの道だと考えられます。    これらのわたしの物言いは 哲学史や研究史をおろそかにすることになるというお叱りを受けることかと思います。じっさい この当人であるわたしの状態をかんがみれば そのとおりです。  ただし 誰もが研究者であるわけではありません。おろそかにしているのではないのです。素人の見解にも耳を傾けてもよいのではないかというのみです。茶の木畠に落ち入っているのではないかと たしかに素人が言うわけですから 聞きたくないかも知れませんが だとするといまでは余計にこちらの物言いは当たっているかに思われます。  竹田青嗣の事例を出しておられたのではないですか? そのあと学者と同じ地位にのぼって同じような道を歩まなければ声はとどかないということでしょうか?  ドイツ語を読めない者が何を言うかという《褒め言葉》をももらっていますが 生活世界の共同体は 研究者たちをむしろその社会の安寧と発展のために使えばよいわけだと見ます。長年の努力のあとの研究の成果を いともかんたんに市民一般は それは これこれの点でおかしいぢゃないの? と言ったなら その物言いについて摂るべきものがあればしっかりと耳を傾けてこそ よい学者であろうと考えます。  このフッサールなる主題をめぐって もう少し開いています。

noname#143207
noname#143207
回答No.62

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ★ 現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。
  ☆ 《そこにある Dasein 》というのが 《主体的存在》であり 《〈存在者〉を作り 決める》というのでしょうか?
  厳密には、「[今]そこにある存在 Dasein」というのが、というのが正しいかと存じます。 Da-: here, there, at that time, under that circumstances. sein: to be. 
> ★ さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。
   ☆ それは 《人間》であり 個別に《わたし》だと思います。その《わたし》に自由意志があるという構成で説明するのが 正統ではないでしょうか? 
  はい、確かにそれも一つの方向性かと存じます。ただ、ハイデッガーは、「なぜ、そこに何かがあり、無ではないのか? さらには、むしろ無があるのではないのか? 」という問いかけをしました。従いまして、基本的には、存在論の形態を採っております。  ですが、今までの哲学者とは異なり、ハイデガーはいかなる解答も、また、そもそも解決方法をも示すこともありませんでした(この問いには、そもそも答えられないと考えたのだと思われます)。そこで、ハイデガーは、「意味の問い」として捉えることにした訳です。さらに申しますと、「なぜ何かが存在しているのか」という問いに関しまして、その根拠となる事実を実証主義的に答えようとするのではなく、その意味、つまり「存在の意味」を答えるべき問いと捉えた訳でございます。 
> ★ 自己決定をしながら生きる存在 
 ★ 一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。
  ☆ まったく分かりません。ので 次へ移ります。
  ここは現象学の影響が出ているものと考えております(フッサールの直接の門下でしたから)。つまり、”創造により生じる:自己の主観内によって、表象され、さらに形成される”、といったものかと考えられます。  ただ、フッサールとは異なり、”世界(ハイデッガー独自の解釈が若干見られますが)”の存在をアプリオリに認めているようでございます。もちろん、いやフッサール以上に、科学に対しましては、批判的でございます。 「ハイデガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。」 (Wikipedia ハイデッガー からでございます。) 
> ★ もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。
  ☆ まづ《存在》は 抽象的な概念であるはずです。よって 具象としては 《存在者》になるのではないか そしてそれだけのことではないかと思うのですが 果たして いったいどういうことが言われていましょうか。
  上述の現象学的手法を考慮に入れていただければ、幸いでございます。 
> ★ 例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。
  ☆ こういうことでしょうか すなわち 
 ○ ~~~~~
 わたしは わたしと同じようにヒトとして存在する者たちとともに しかもただしその類的存在でありつつも個別の存在として 生まれて来ており 生きつつある。
 わたしは わたしの考えに沿って意志決定を成して生きている。
 それは わたしをかたちづくっていることだ。
 わたしの自由意志による自己表現そしてその――人生というひとまとめの時空間における――過程的な動態 これは わたしの自己形成であり いわば自己の成就である。 
 ~~~~~~~
  はい。少しばかり、”わたくし”と”周囲の世界”との日常的な関わり方という点を考慮に入れていただければ、その通りでございます。 
> ☆ これは たぶん《出発点 ないし 踏み出し地点》と表わしたほうがふさわしいのでは?
  《原点》は まさにその生活の場としてのこの現実の世界にあるのですが それでも原点は おそらく《人間において互いに関係性を すでに初めに――自然本性として――帯びつつ おのが自由意志によって社会的に独立する主観をかたちづくりその自己表現を重ねながら生きる〈わたし〉なる存在》といったように表わしたほうが。
  非常に難しいところではございますが、「踏み出し地点」というのが最も適切かと存じます。 > この原点は 無根拠にもとづくとも添えたほうが わかりやすいのでは?
 もっと言えば
  ◆ 《生ける現在》 ないし 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》 
 ☆ は 仏性を有するとか神の霊が宿るといったように説明すれば――そしてそれらは 無根拠にもとづくと言っていますから―― 哲学としても問題ないのでは?
  確かに、最終的にはヘルト自身も、フッサールの最後の境位として”神”を持ってきたと解釈しておりますから、それでも問題はないかと思っております。ただ、この生活世界というものを全面的に打ち出したかったのかもしれません(愚見でございます)。 
> ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。
  ☆ 《目的論》にのみ焦点を当てます。
 人は 人生において目的を持つことが出来て 目的論として表現しておくことも出来ますが 目的が初めにあって・また目的論によってこそ 人生をかたちづくるのではない。よしんば 何かの目的が 人生をよみがえらせるまでの力を持ったり 人にゆたかな《生ける現在》をもたらすことがあったとしても それは むしろ順序がぎゃくであって 《無根拠にもとづくつつましやかな生ける現在》が おのおのにふさわしい目的を見いださせたのである。のではないか?
  なぜ 目的〔論〕を先行させようとするのか 汝 ヨーロッパ人よ。
  この問題につきましては、愚生には、わかりません。誠に申し訳ございません。
 
> ★  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・
  ☆ という人間の条件ないし人びとの生きる情況は 一人ひとりの《わたし》には百も承知のことであるのだから――裸で生まれて来て 思いっきり人生を生きて やがて土に帰るったあ 百も承知の助なのだから―― わたしたちは このような冗長な哲学を 冗長だとはっきりおしえてやらねばならない。のでは?
  こんなことを申し上げるのは、回答者としましては、非礼の極みでございますが、Wikipedia ”存在と時間”の「存在の意味と現象学的方法」と「デカルト批判と現存在」をご参照いただければ、幸甚に存じます。  つまり、乗り越えなければならない大きな壁(例えば、デカルトの二元論等でございます)が既に存在していた、という点をご考慮に入れていただければ、どうしてこんな面倒なものを挙げなければならないのかも、ご理解いただけるものかと思ってございます。 
> ★ 《匿名性》
  ☆ この能天気の場にこそ ヒラメキ直観のきっかけがあるかも分かりません。それは そこだけを特別視することのほうが 間違いなのでしょうけれど 《匿名性》というような名づけでは どうでもよいと見做しているかに感じられるところがある。のでは?
  まさしく、愚生もそのように考えております。述語の命名方法に関しましては、当地の独特のニュアンス等がございますため、何とも申し上げられないのですが、この場、におきまして、”ヒラメキ(インスピレーションも含みます)”を持って来ましても、何ら問題はないものと考えております。 
> ◆ 自己責任  
 ☆ 反省における自問自答の《自答》のほう・つまり《問いに答える ant-wort 》という意味合いで使っているようですね。見直す・考え直すといった意味のようです。すなわち 日本語訳が おかしいことになるのかも知れません。《明証性》を得て 反省的思惟を責任の持てる内容にすると言っても その明証性は どこまで追究しても 切りがない。つまり相対的なものであるに留まる。
  仰られますように、一般的に用いられる日本語の用例とは異なるようでございます。ただ、
逆に申しますと、相対的なものである以上は不確かなもの、このため、それに対しましては責任を取る、ということかと考えております。 
> 日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか?   これは、自然科学(特に生命科学におきましては顕著でございます)のもあてはまるものと考えております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 困りました。今回は 合意の成ったもの・あるいは わたしの物言いが哲学史や研究史の系譜に棹差すことから離れすぎとのご指摘その他について 分かりましたとお応えするほかにあまり反応が出て来ません。  まづは ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ハイデガーは 割り合いその多くの著書を読みましたし デカルトがどうだこうだは あらためて確認しておくべきかとも思うのですが どうも大げさに言いますと 気が抜けました。これまでには百件の回答などは ざらにこなして来ましたが 根気がなくなったのでしょうか。あるいは正直に言って 現象学は ヒラメキ理論の問題として迎え入れられると評価するものの あとは何だか拍子抜けのところも出てきています。  一たん休憩がしたいのでしょうか。かも知れません。  どうでしょう?   この主題についての詰めがまだ甘いぞとか これこれの方面について探究をしておくべきですぞとか そういったことがありましたら 指摘していただけますか?  いづれにしましても 一たんお休みとしたいと思います。何かありましたら 投稿していただくこととし わたしのほうで何か出て来ましたら 補足欄にて お知らせするというかたちにしたいと思いますが どうでしょう?

noname#143207
noname#143207
回答No.61

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ◆ ところがフッサールにおいては 《自己責任 Selbstverantwortung 》はあくまでも超越論的認識への決断であって 内世界的実践の《自己責任》を必ずしも意味する必要はない。  ☆ 実際の生活日常の世界から一たん離れたところで 相互主観性から要請される責任というものを考えているということだろうか? それは おかしなことだが。  以下の定義から、おそらく自己の”明証”による判断、決断等のみであり、それ以外の例えば、結果責任等ではない、というものと考えております。 ・フッサールの自己責任  たとえば『危機』書の末尾では、「普遍的な自己責任にもとづく生」は理性の自己理解と自己実現を通じてのみ達成されうることが述べられているのだそうです。  そこで、まずフッサールの理性の定義としまして、「理性の領野とは、自我によって遂行された諸作用である」のだそうです。つまり、責任が問われるのも、そのつどの自我によって遂行される”作用”に関してだけとなります。  また、一方では、[作用の]正当化の営みについて語る際に、フッサールは”明証”の役割を強調しているのだそうです。  従いまして、自己責任ろは、明証による(正誤等の)自己理解、判断、決断によってなされるべきものとの関わり、と考えております。 > ◆ それは 究極の《無前提性》に基づいて知を再編しようとする普遍的基礎づけを使命とする 哲学する自我の《自己責任》である。  ☆ たぶん 依然としておかしな話であると思われるが 迂回しつつ《超越論的主観性》を模索しているというのであろう。  上述にて説明させてもらいましたように、 哲学する自我の《自己責任》とは、哲学を探求する上での”自我の明証による決定を通じてなされるもの”と考えられます。 > ◆ ラントグレーベのこの不満を解消させるためには 個体的《現存在》自身に超越論的性格を見いだすことができなければならない。  ◆ ラントグレーベのそのような志向が この点において ハイデガーの《現存在》の規定に依拠していることは明らかである。  ◆ 《現存在》とは 自己自身の《存在の意味》を自身で問うことのできる《存在者》であり まさしくその点において 内世界的な物体的な他の《存在者》とは区別されている。  ☆ 現存在が 自然的態度において《みづからの存在の意味》を問うことがなくても 生活における相手との対話のなかで互いに対立関係を克服していけるように みづからの思想をうちに省みることができさえすれば 《相互主観性》を持ち得て 共同主観をかたちづくることも出来るはずである。その意味では 《物体的な(?)存在者》などは 世の中にいることはあるまい。  現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。  例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。 現存在:(コトバンク 現存在 からでございます) ハイデッガーの用語,Daseinの訳。自己を人間として理解している主体としての存在者。世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)である。 
 > ◆ ハイデガーが《現存在》を 《存在者の存在》を解明するための特権的な手掛かりにしたのは 《現存在》の自問する自己還帰的《超越論性》に着目していたからである。  ◆ しかし ラントグレーベの要求にこたえるために 《超越論的意識》の《自己責任》から《現存在》の《自己責任》への懸隔を埋めるには 理論的な架橋が必要であろう。  ☆ 相互主観性の生起のことではないのか?  上述からもお分かりかと存じますが、超越論的(性)、つまり、一種のメタレベルからの考察と考えられます。 > ◆ それには 超越論的意識の体験流の根源性のなかに 《被投的企投》の原初形態として 《受動的構成》の先行性を見いだすことができるかどうかを検討する必要があるであろう。  ☆ なおもあくまで迂回するという腹積もりであるらしい。  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・ > ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。  ☆ 《超越論的意識の体験流》の《流》に 専門的な意味があるのかも知れない。けれども《匿名性》は おそらく生活日常の対話ないし言語交通におけるおのおのの《主観》がそれだと言いたい。《目的論》を どうしたものか? 観念的すぎまいか。  仰られますように、観念的すぎるかと存じます。  《匿名性》:現象学的方法は、反省の諸作用のなかでのものですが、さらにこの下層には、方法論的に見れば、厳密に「反省」されないものと、ヘルトが定義したようであります。 > ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・  ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?  おそらく、”生ける現在”もしくは、”生活世界”に生きる、ということかと考えております。これらのtechnical temはフッサールの後期の思想のものではありますが、別の観点からしますと、原点ともなる思想とも捉えることが可能かと思われます。  残りの箇所は、また明日にでもご回答致したく存じます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  何とも言い難い思いになります。  まだ出ていなかった術語について解説をいただきました。ありがとうございます。  もっと早く知っておくべきでしたし まだまだ出てくるかも知れませんので そういった初期段階の勉強をしっかりしておくべきではあるのですが まったくそうなのですが ひるがえってみれば そうは言うもののまなんでしまえば どこか――いえ まったくはっきりと――観念的であり冗長でさえあると かえってがっかりするほどでもあります。  《現存在》を取り上げて ドクターにもさからってみましょう。  ★ 現存在とは、主体的存在であると考えられます。つまり、「存在者」を作る、決める存在とも考えられます。  ☆ 《そこにある Dasein 》というのが 《主体的存在》であり 《〈存在者〉を作り 決める》というのでしょうか?  ★ さらには、世界の中で、かような自己決定をしながら生きる存在とも言えるかと考えられます。  ☆ それは 《人間》であり 個別に《わたし》だと思います。その《わたし》に自由意志があるという構成で説明するのが 正統ではないでしょうか?   ★ 自己決定をしながら生きる存在  ☆ は 当たり前ですので その条件づけとしての  ★ かような〔自己決定を・・・〕  ☆ の内容について見てみなければなりません。すなわち《存在者》のことです。存在者を作るという《かような》であるようですから。  ★ 一方、存在者とは、その現存在(人間)の創造によって、生まれるとものかと考えております。  ☆ まったく分かりません。ので 次へ移ります。  ★ もちろん、現存在も、「存在者」ということになります。ですが、「存在者」は、現存在が造っているわけです。  ☆ まづ《存在》は 抽象的な概念であるはずです。よって 具象としては 《存在者》になるのではないか そしてそれだけのことではないかと思うのですが 果たして いったいどういうことが言われていましょうか。  ★ 例えば、自分という存在についても考えてみますと、自分という存在は、当然、存在者であります。ですが一方、その自分という存在者は、自分の現存在が作ったものであるというわけでございます。  ☆ こういうことでしょうか すなわち  ○ ~~~~~  わたしは わたしと同じようにヒトとして存在する者たちとともに しかもただしその類的存在でありつつも個別の存在として 生まれて来ており 生きつつある。  わたしは わたしの考えに沿って意志決定を成して生きている。  それは わたしをかたちづくっていることだ。  わたしの自由意志による自己表現そしてその――人生というひとまとめの時空間における――過程的な動態 これは わたしの自己形成であり いわば自己の成就である。  ~~~~~~~  ☆ まじめにまなばねならないと同時に まなんだ結果 それらは どうもおかしい部分もある。ということを もっともっとはっきりと言うべきではないのでしょうか? 遠慮するなら 自分で自分の手足を縛っていることにすらなる。そういうおかしな部分があるのではないでしょうか? ヨーロッパの哲学思想の中には。  ★ ~~~~~~~   > ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・   ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?  おそらく、”生ける現在”もしくは、”生活世界”に生きる、ということかと考えております。  ~~~~~~~~~  ☆ これは たぶん《出発点 ないし 踏み出し地点》と表わしたほうがふさわしいのでは?  《原点》は まさにその生活の場としてのこの現実の世界にあるのですが それでも原点は おそらく《人間において互いに関係性を すでに初めに――自然本性として――帯びつつ おのが自由意志によって社会的に独立する主観をかたちづくりその自己表現を重ねながら生きる〈わたし〉なる存在》といったように表わしたほうが。  この原点は 無根拠にもとづくとも添えたほうが わかりやすいのでは?  もっと言えば  ◆ 《生ける現在》 ないし 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》  ☆ は 仏性を有するとか神の霊が宿るといったように説明すれば――そしてそれらは 無根拠にもとづくと言っていますから―― 哲学としても問題ないのでは?  ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。  ☆ 《目的論》にのみ焦点を当てます。  人は 人生において目的を持つことが出来て 目的論として表現しておくことも出来ますが 目的が初めにあって・また目的論によってこそ 人生をかたちづくるのではない。よしんば 何かの目的が 人生をよみがえらせるまでの力を持ったり 人にゆたかな《生ける現在》をもたらすことがあったとしても それは むしろ順序がぎゃくであって 《無根拠にもとづくつつましやかな生ける現在》が おのおのにふさわしい目的を見いださせたのである。のではないか?  なぜ 目的〔論〕を先行させようとするのか 汝 ヨーロッパ人よ。  ◆ 根源的萌芽  ☆ は 仏性なり神の霊なりと言わずとも 無根拠――へのきよらかなおそれ――にすでにあると まづひとこと言っておいてから 細かく要素ごとの分析をしていけばよいものを。だってその萌芽を わがメタ主観がいちいち見つけ出さなくとも すでに自己表現をして生きている生ける現在は 生き生きした息吹きにあふれているということだって いくらでもあるんだから。  つまり  ★  《被投的企投》: 世の中に投げ出されていると同時に,自らをその存在可能に向かって投げ出す存在(世界内存在)、このことを言っているだけかと思われるのですが・・・  ☆ という人間の条件ないし人びとの生きる情況は 一人ひとりの《わたし》には百も承知のことであるのだから――裸で生まれて来て 思いっきり人生を生きて やがて土に帰るったあ 百も承知の助なのだから―― わたしたちは このような冗長な哲学を 冗長だとはっきりおしえてやらねばならない。のでは?  というより ヤツらは 一生懸命問い求めている。われわれは その成果を しっかりとわれわれの言葉で消化して行かねばいけない。《被投企的投企》に代わる言葉を模索して行かねばいけない。のでは?  ★ 《匿名性》:現象学的方法は、反省の諸作用のなかでのものですが、さらにこの下層には、方法論的に見れば、厳密に「反省」されないものと、ヘルトが定義したようであります。  ☆ この能天気の場にこそ ヒラメキ直観のきっかけがあるかも分かりません。それは そこだけを特別視することのほうが 間違いなのでしょうけれど 《匿名性》というような名づけでは どうでもよいと見做しているかに感じられるところがある。のでは?  ◆ 自己責任  ☆ に到っては 少なくともその表現は おかしいのではないでしょうか?  ★ ・フッサールの自己責任 ~~~~~~~~  たとえば『危機』書の末尾では、「普遍的な自己責任にもとづく生」は理性の自己理解と自己実現を通じてのみ達成されうることが述べられているのだそうです。  そこで、まずフッサールの理性の定義としまして、「理性の領野とは、自我によって遂行された諸作用である」のだそうです。つまり、責任が問われるのも、そのつどの自我によって遂行される”作用”に関してだけとなります。  また、一方では、[作用の]正当化の営みについて語る際に、フッサールは”明証”の役割を強調しているのだそうです。  従いまして、自己責任とは、明証による(正誤等の)自己理解、判断、決断によってなされるべきものとの関わり、と考えております。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 反省における自問自答の《自答》のほう・つまり《問いに答える ant-wort 》という意味合いで使っているようですね。見直す・考え直すといった意味のようです。すなわち 日本語訳が おかしいことになるのかも知れません。《明証性》を得て 反省的思惟を責任の持てる内容にすると言っても その明証性は どこまで追究しても 切りがない。つまり相対的なものであるに留まる。  日本の哲学思想界は 外国のそれらに振り回されているのではあるまいか? 

noname#143207
noname#143207
回答No.60

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > キネステーゼ問題:  ☆ これも そう言ってはすみませんが 当たり前のように思われます。何もからだを動かしていなくても 人は時間過程をたどっています。坐って窓の外の桜をながめているときにも 桜のほうが動いているという側面もあります。風に吹かれれば 花びらが散ります。  こう言ってしまえば、身も蓋も無いのですが、当然のことを言っているかと考えられます。ただ、(影響力の大きかった)デカルトの点的時間性問題を克服すべく、あえて設けた概念かとも考えております。 > こう考えて来ますと ほかの事項では合意に達したか それは当然のことではないかという見方に達したと思われ どうもこの復習の作業は あまり生産的ではないかも知れません。と思えるようになりました。  ある程度理解してしまえば、既知のことを単に言葉をかえて述べているに過ぎない、もしくは、少しばかり内容が付加されたもの、このいずれかになってしまうものなのかもしれません。 > 《自然的態度》のパラドックス問題。主観は 世界の内か外か。  ☆ これにつきましては まだ納得が行きません。  ☆☆ ~~~  逆説はないという見方もありうる。  主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。  主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。  ~~~~~~  ☆ もしこうだとしますと このとき  ★ 対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。  ☆ というその意味は 或る程度において《その対象を わが主観の内に視像や概念像として認識しているというかぎりで 距離を取りつつ――或る意味で――超えたところから見ている》ということでしょうか?   もしそうなら 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。  愚生はそのように理解しております。  ただ、もしかしますと、メルロ・ポンティの「世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界の内に生きることによって定義されるようななにかであり、意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。」との対比を示したかったのかもしれません。 > ★ [人格主義的態度] ~~~~  ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。  ~~~~~~~~~~~~  ふうーう。ややこしいですね。  とにかく、フッサールは考えては、新たな術後を用いていくタイプの人ですので、致し方のないものとして、諦めております。  この“人格主義的態度”を抜きにして、理論分析してしまいますと、自然を誤って絶対化してしまう、との危惧感をしめしているものと考えております。  ○ ~~~~ > 1.自然的態度:日常生活において 自然および社会をそのまま捉えたその認識にもとづき みづからの考えを決めその判断に従って行動するその態度。  “自然主義的な態度”とは、(物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)を意味しております。このため自然と呼ばれうるものはすべて物理的自然に基盤を持っていることとなります。これは、イデーンIIにて述べられている言葉ですが、この対義語である”人格主義的態度”は、その後の”危機”の”生活世界”と同じ意味内容のように察せられます。 > 2.このように定義するなら じつはそのときにもすでに 他者はいます。社会は 人間関係から成ります。おのれの考えとは違った考えをするほかの人間がいるとわたしは知ります。すでに相互主観性の芽は生まれています。  はい。そこでは、相互主観性も生まれるはずでございます。  > 4.ただしもしどうしても《現象学的反省》を 自然的態度は持たないというのであれば それは 思惟をめぐらす主観そのものを 同じ主観が捉えるということをしないと言っていましょうか?   “自然主義的な態度”に基底をおき、《現象学的反省》がなされれば、おそらく、”人格主義的態度”に通ずるものと考えております。 > 5.そうであっても 自然的態度はすでに 相手を主観どうしとして受け留めて互いの考えを突き合わせそれらをまとめようとしていると言える限りで 相互主観性を帯びる。こう考えてよいのではないか?  相互主観性を帯びる、とみなしてもよろしいかと存じます。 > 6.このような日常生活における一般的な自然的態度にかんして そこから 《自然主義的態度》や《人格主義的態度》が出て来るのでしょうか?  対義語としまして、《人格主義的態度》が出てくるようであります。 > 9.人格主義的態度というのは この規範にもとづこうとする考えなのでしょうか? 主義というからには その人格の内容を規定した規範ないし道徳がすでに体系化されていましょうか?  いえ。日常世界に基盤をおくという、”科学主義的自然的態度”とは逆の概念でございあます。従いまして、敢えて申しますと、≪環境世界≫とさまざまにかかわりあいを持つ、といったものかと考えております。 > 10.自然主義的態度は ぎゃくに規範にはもとづかず 経験の積み重ねにもとづきつつ そのつど人格ないし人格関係としての人間関係をかたちづくりつつ 社会をいとなむ。といった考え方でしょうか?  上述”1”をご参照くださいませ。   > (水野:相互主観性の超越論的根拠) ~~~~~~~~~~~ ・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.24-26  ◆(No.57補足欄の再掲) しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性〔*――すなわち 《自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間〉》なる原領域――〕は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。  要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことになる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。  ある意味当然のことを言っているとしか・・・ > ◆ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求は 出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。  ☆ 《次元のメタ性に無関係に》 対話の相手と互いにその見解を明らかにしその異同を確認し 対立点については さらに総合的な見解を互いに模索するということ このことは 暴力によって――つまりは 対話の席を切れて立ったり 相手の言い分を無視したりすることを含む暴力によって――無力にされる。されるけれども その対話の姿勢――相互主観性の保証力――は つねに有効である。暴力という無効のちからが 社会的に有力になっても 有効な態度とその意志は つねに有効である。  中間追求:《物理学的自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間の追求〉》と解しますと、もちろん、根拠たるものを問うものではなく(事実は問うかもしれませんが)、「次元のメタ性に無関係に(超越論的意識へのメタ性の変化なしに)」移動するしかない、と言えるかもしれません。 > ◆ ラントグレーベは フッサールの必当然的な超越論的意識の優位性を 交換不可能な個体の絶対的事実性へ読みかえようとする。  ☆ 《モナドとしての主観》に似ている。  お者られる通りかと存じます。  ◆ ラントグレーベにとって 自己存在の《絶対的事実性》は 対象的カテゴリーのなかで偶然性と対比されるような必然性によって規定することのできない《現存在》の背進不可能な零点の規定であり それは歴史的時間のなかに位置づけられた個体の交換不可能性である。  ☆ たぶん その事象にかかわる《わが主観》がみづからの意志としてえらんだ道を その途中でそれまでの意志内容とは別のかたちに変えることのできないそのときその場の位置関係のことか? 人生において 誰かの連れ合いになるという選択は 互いにそれ以外の道を選択しえない位置関係に ひとを置く。相対世界における出来事ではあるが 意志行為は そこまでの《絶対的事実性》を帯びる。或る人の連れ合いの座を その歴史的時間なる現実を全面的に別のかたちに改めたあとでないと ほかの人が 交替するということは出来ない。  個体の交換不可能性:個体(各人の)の固有性、唯一性、ととらえたのですが、いかがでしょうか。  さらに、フッサールの「自己責任」、さらに前期ハイデッガーにも及んでいきますが、本日はここまでで、お許しくださいませ。誠に申し訳ございません。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 生兵法は怪我の元。新しい術語には警戒してあたらなきゃだめ。というわけで ちょんぼをしでかしました。  ひどっちさん こんにちは。ご回答とご指摘をありがとうございます。  ○ 世界の内と外:  ★ ~~~   ☆ 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。  愚生はそのように理解しております。  ただ、もしかしますと、メルロ・ポンティの「世界が意識や主体の外部にあるのではなく、意識とは世界の内に生きることによって定義されるようななにかであり、意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。」との対比を示したかったのかもしれません。  ~~~~~  ☆ 《意識が世界を知覚するのではなく、意識とは世界を知覚しているようなものである。》 これの意味は必ずしもはっきりしませんが 要は 研究史に就けという問題であるようです。あるいは フッサールの原典から出発せよということのようです。  ○ 人格主義的態度  ★ ~~~  とにかく、フッサールは考えては、新たな術語を用いていくタイプの人ですので、致し方のないものとして、諦めております。  この“人格主義的態度”を抜きにして、理論分析してしまいますと、自然を誤って絶対化してしまう、との危惧感をしめしているものと考えております。  ★ ~~~  “自然主義的な態度”とは、(物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)を意味しております。このため自然と呼ばれうるものはすべて物理的自然に基盤を持っていることとなります。これは、イデーンIIにて述べられている言葉ですが、この対義語である”人格主義的態度”は、その後の”危機”の”生活世界”と同じ意味内容のように察せられます。  ~~~~~  ☆ ややこしいようです。  ○ 自然的態度:思考や判断はおこなうが その主観を見つめる主観(そのメタ性)という考えはしていない。  ○ 自然主義的な態度:精神=物理的な態度(?)。    ★ (物理学的)自然的態度を構成する諸作用の相関項が物理的自然であるという態度(理論的態度)  ○ 人格主義的態度:自然的態度が世界における現象を扱うに際して 身体やものごとの物理的自然としての基盤を問わないかたちを採る。ただし 《反省》をすでに織り込んでいるとすれば 自然的態度から主観のメタ性へと移行している。    ★ “自然主義的な態度”に基底をおき、《現象学的反省》がなされれば、おそらく、”人格主義的態度”に通ずるものと考えております。    ★ 敢えて申しますと、≪環境世界≫とさまざまにかかわりあいを持つ、といったものかと考えております。  ○ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求 / ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求  ★ ~~~~  中間追求:《物理学的自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間の追求〉》と解しますと、もちろん、根拠たるものを問うものではなく(事実は問うかもしれませんが)、「次元のメタ性に無関係に(超越論的意識へのメタ性の変化なしに)」移動するしかない、と言えるかもしれません。  ~~~~~  ☆ それでも――と ただちにわが田に水を引きますが―― 言語交通説では 意識ないし主観のメタ性に直接にかかわりないままに 主観はみづからの中に相互主観性をそなえて 共同主観をもかたちづくりうると言おうとはしています。  《反省》を 主観のメタ性において捉えなくても そうでなくても おのれの主観と他者の主観との異同を認識したあとに その矛盾や対立の関係をおのが主観の内に省みて それを超えようとして次元をあらためるかのごとく まとまった見方をかたちづくろうとする このことに限定したとしても 相互主観性を備えていると見る。  極端な言い方をすれば 相手との見解のあいだの隔たりにかんして単なる《中間追求》をしたとしても それによって 相互主観性の欠如を指摘しきるということは出来ないであろう。《中間追求》――足して二で割る――といった解決策しかなかったという場合は たとえメタ主観を駆使して本質直観に達して思考したとしても 同じ結果が現われることは いくらでもあると考えられる。  ぎゃくに もっと次元の高いところで解決策が見つかるとすれば それは・それも メタ性抜きでの反省においても 得られるはずだという見方です。  本質直観こそが つねにただしく 優位性を保つといった観念には与したくありません。つまりは 無反省においても 直観ヒラメキは 人に起きると考えます。  ○ モナド  ☆ という概念は 扱いよいようで それでよいのだろうかと不安を残すようにも感じられます。(議論を展開しようとしてではありません。感想です)。  ちょうどその個体をめぐってですが:  ★ 個体の交換不可能性:個体(各人の)の固有性、唯一性、ととらえたのですが、いかがでしょうか。  ☆ だとしたら 所謂る存在についての《掛け替えの無さ》のことだと思われます。  ★ さらに、フッサールの「自己責任」、さらに前期ハイデッガーにも及んでいきますが・・・  ☆ よろしくお願いいたします。

noname#143207
noname#143207
回答No.59

 前項からの続きでございます。 > それは 科学の《自然主義的成果》によって身体と言語を《説明》するのか それとも その科学的成果そのものが《人格主義的態度》から出発して《理解》されうる意味形成体なのかどうか という《自然的態度》における現象学的区別の検閲をうけなければならない。  ☆ この一文の内容を理解するために 次のくだりを引きます。  ◆(水野同論文 pp.20-21 ) ~~~~~~~  《自然的態度》のパラドックス・・・。・・・〔* それに対して〕フッサールの基本的な意図〔は〕あくまでも《超越論的態度》にある・・・。《自然的態度》をとりつづけるかぎり 主観と世界との間に逆説的関係が現われる。主観は 認識するものとしては世界を対象化する以上 世界の外に位置する。ところが 実践するものとしては主観も世界の内に存在する。・・・    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち ここでもすでに出発点での見解の相違が見られると言わなければならないように思えます。逆説はないという見方もありうると。主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。ただこれだけのことだと こちら側では考えているからです。主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。しかもその主観はその自然本性(≒《自然的態度》)においてすでに相互主観性を宿していると。  「主観は、認識するものとしては世界を対象化する以上、世界の外に位置する」の”世界の外”の表現が微妙かと見受けられます。対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。したがいまして、こんな世界の内部・外部的存在というパラドックスが生じてしまった、と述べているのかと推察してございます。 ・ 超越論的態度:主観を基点として世界をあらためて対象化するという態度 > 超越論的視点を度外視したとしても 個別身体と言語共同体に関する現象学的記述を堅持するためには 少なくとも《人格主義的態度》を放棄することはできない。  ☆ モナド存在としてのわたしが言語共同体をすでにその主観において構成するという視点は 初めの自然的態度にしておわりの本質直観のものでもある。こう言い張っています。《人格主義的態度》の放棄いかんは その見方においてはかかわっていないと。  確かに、以下に概略を示させていただいておりますが、人格主義的態度の重要性は認めますが、超越論的視点を度外視してもよいのかどうかの判断はつきかねます。 [人格主義的態度]  私達が自己をとりまく環境世界のうちで様々な行為をしているとき、私達はすでに理論的な反省以前に私達に共通するところの世界を知っている。この私達が日常採用している態度をフッサールは人格主義的態度と名付けたのだそうです。これは明らかに自然主義的態度と異なるものであり、「人格として生活するということは、自分自身を人格として措定し、意識の面で自分自身が「環境世界」とさまざまにかかわりあい、それらの相互関係に身を置くことである」としています。  ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。 > 超越論性を含まないこのような現象学的基礎学は 新手の《哲学的人間学》といわれている。  ☆ たぶん《新手》ではないと思われる。人間の存在を《コギト》という部分的なハタラキに還元してしまう以前の――古代の――の哲学について見れば 新手ではないと分かるはず。  はい。《新手》は誇張が含まれているかと存じます。 > その代表的旗手はシュッツとワルデンフェルスである。シュッツは 超越論的自我の必当然的固有性の説と 超越論的に構成された私の身体と他の身体との類似性に基づいて他者主観を《移入》によって知覚する説とは 両立しないという。  ☆ この経験的にして相対的な世界について 要素還元の手法によって分析して得られるその究極のものは 《超越論的自我》であるとして想定する仮説じたいは あり得るであろうけれどそこでそれ自体について さらになお《必当然的な固有性》を証明しようとすることは おそらく議論が堂々巡りになると思われる。相対的な事物や事象に その根拠は見つけられないからである。どうしても相対世界を超えた絶対の領域を想定せねばならなくなる。想定したとき それは――人間には分からないナゾであるのだから―― 無根拠だということになる。  言いかえると ただの現象としての《モナド個体》および《言語交通》の説についても けっきょくは 無根拠にもとづくというかたちで 同じ手法ではある。すなわち 《超越論的態度》の放棄や《人格主義的態度》のやはり放棄をしていたとしても その自然的態度は 本質直観にたどり着いたという最終の条件をすでにじゅうぶんに構成していると踏ん張りたい。  仰られますように、《超越論的自我》、それ自体について さらになお《必当然的な固有性》を証明しよう(見出そう)とすることは おそらく堂々巡りになると思われます。  そもそも、この文言の意味するところが不明瞭に思われます(もう少し説明が欲しいところでございます)。 > これは 《自然性》と《超越論性》の階位の差異と 哲学にとっての《超越論性》の不可避性と生存にとっての《自然性》の不可避性とを同時に満足させる場所は 日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり 日常のロゴスの交流点を《原領域》とするならば 学問的ロゴスの導出も可能であろうと考えた結果である。 ☆ たぶん はじめに全体があったと見た結果であろうと われわれの立ち場からは 考えられる。全体とは このちっぽけな存在である《わたし》のことである。その主観である。《ロゴス》と言うと そぐわない側面が出て来るけれど 要するに 社会性としてどうしても意志疎通を図らねばならないヒトなる動物の絶対的条件(与件)としての言語交通のことである。別に《日常のロゴスの交流点を〈原領域〉とする》までもないとは思われる。生活世界は 逃げては行かないし 消えてなくなるものでもない。  仰られますように、「日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり」、これはある意味当然のことを言っているに過ぎないと考えかれるのですが・・・  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 確認などの作業をつづけます。  《自然的態度》のパラドックス問題。主観は 世界の内か外か。  ★ ~~~~  「主観は、認識するものとしては世界を対象化する以上、世界の外に位置する」の”世界の外”の表現が微妙かと見受けられます。対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。したがいまして、こんな世界の内部・外部的存在というパラドックスが生じてしまった、と述べているのかと推察してございます。  ・ 超越論的態度:主観を基点として世界をあらためて対象化するという態度  ~~~~~~  ☆ これにつきましては まだ納得が行きません。  ☆☆ ~~~  逆説はないという見方もありうる。  主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世界を事象として捉える。  主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。  ~~~~~~  ☆ もしこうだとしますと このとき  ★ 対象化する以上は、”その外部から”、という考えがあったものと考えております。  ☆ というその意味は 或る程度において《その対象を わが主観の内に視像や概念像として認識しているというかぎりで 距離を取りつつ――或る意味で――超えたところから見ている》ということでしょうか?   もしそうなら 《内部・外部》という表現が ふさわしくないように思います。  還元や反省は 超越論的だという意味で 世界なる対象を わが主観は《超えている》状態にあるかも知れない。こういった意味合いなのでしょうか?     *  ★ [人格主義的態度] ~~~~   ・・・  ここで、自然主義的態度は人格主義的態度に従属しており、自然的態度が理論的分析をはじめるやいなや自然主義的態度に陥ると、人格主義的態度は忘却されて自然主義的態度が独立性を獲得し、そのことによって自然は不当に絶対化されてしまうこととされています。  ~~~~~~~~~~~~   ☆ ふうーう。ややこしいですね。  ○ ~~~~  1. 自然的態度:日常生活において 自然および社会をそのまま捉えたその認識にもとづき みづからの考えを決めその判断に従って行動するその態度。  2. このように定義するなら じつはそのときにもすでに 他者はいます。社会は 人間関係から成ります。おのれの考えとは違った考えをするほかの人間がいるとわたしは知ります。すでに相互主観性の芽は生まれています。  3. もし自然的態度においてわたしは 考えの違う相手と互いに折り合いをつけようとするとき その考えをめぐらすなら それは 反省的に( re-flectively )つまり内面へ折れ返って おこなっていると言えるはずです。  4. ただしもしどうしても《現象学的反省》を 自然的態度は持たないというのであれば それは 思惟をめぐらす主観そのものを 同じ主観が捉えるということをしないと言っていましょうか?   5. そうであっても 自然的態度はすでに 相手を主観どうしとして受け留めて互いの考えを突き合わせそれらをまとめようとしていると言える限りで 相互主観性を帯びる。こう考えてよいのではないか?  6. このような日常生活における一般的な自然的態度にかんして そこから 《自然主義的態度》や《人格主義的態度》が出て来るのでしょうか?  7. 自然的態度において多かれ少なかれ相互主観性にもとづき あるいはさらに互いに共同主観(いわゆる常識)にも到達しているとき その人びとの思想ないし生活態度は 広く捉えて《人格》を有すると見ることになる。  8. この《人格》は 生活態度ないし思想として ひとまとめに認識したものが出来上がれば その言葉による規定が ある種の仕方で規範にもなる。低次元から高次元まで 幅広い中身をもって いまこの《人格》を考えている。  9. 人格主義的態度というのは この規範にもとづこうとする考えなのでしょうか? 主義というからには その人格の内容を規定した規範ないし道徳がすでに体系化されていましょうか?  10. 自然主義的態度は ぎゃくに規範にはもとづかず 経験の積み重ねにもとづきつつ そのつど人格ないし人格関係としての人間関係をかたちづくりつつ 社会をいとなむ。といった考え方でしょうか?  11. どうなんでしょう いまひとつよく分かりません。  ★ フッサールは、・・・「人格として生活するということは、自分自身を人格として措定し、意識の面で自分自身が「環境世界」とさまざまにかかわりあい、それらの相互関係に身を置くことである」としています。  ~~~~~~~~~~~        *  あとは それほど問題はないと思います。吟味検証していただきました。ありがとうございます。

noname#143207
noname#143207
回答No.58

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 《自我》もんだい: 従いまして 開かれて行って欲しいです。  はい、各分野間には派閥等による独特の閉塞状況が見られます。是非とも見直してを進めていただければと、そう思っております。 > 《間主観性がもともとそなわっている》問題: ☆ ええ 言語能力について触れ忘れていました。記憶・知解・意志の自然本性を 道具としてでしょうか 言語がつらぬいていると思われます。志向性のもとに 意味関係が得られているかたち。 > 生活世界の《いま・ここなること》:  ☆ このことの確認は 重要であるように思いました。  超越論的反省を加えなくても 自然的態度が すでにエポケーを経ているという場合だってあるのだと。  生活世界の根拠は? で 無根拠に行く着くことの確認がありました。  ご賛同いただきまして、どうもありがとうございました。 > 《自我》のほかに 《無意識》なる用語も どうもおかしいという問題:  ☆ 事由と例示は 言わば捨て身で書かれていますので 引用は二度も三度もしないほうがよいと見ました。  愚生も少し言い過ぎてしまったかと思っております。ですが、意見の一致が見られましたこと、とてもうれしく思ってございます。 > 自由意志:  ★ 《わが自由意志による選択と判断》、これは人類の営みの中での基本かと考えております。もし、これらがないがしろにされてしまいますと、人類の営み、歴史、諸賢人からの所産等、全てが消えうせてしまうものかと考えております。  ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。  後ほど、触れる機会があろうかと存じますが、自由意志なるものは愚生が知る限り言及はされていないものと記憶してございます。 > おかげでここまで来ました。今回は 互いにさらなる現象学的還元と反省を重ねつつ 或る程度の合意を見て 共通の見解に達したところが少なくないと思います。  ポストモダンの流行の問題にも触れていただきました。  誠に、光栄に存じます。 > 直前のお礼欄(No.56)でも触れましたが 次の研究書に就いて あらためて主題ないし課題を取り上げしっかりと復習して行ければと考えました。  了解致しました。 > いきなり水野論文から 次のくだりを引きます。No.56お礼欄における《モナド》問題の項を参照ねがいます。 ★(回答No.56) ~~~  (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。  ~~~~~ (水野和久:他者構成の問題) ~~~~   ところが ここで超越論的自我が身体化された自我から区別しても思考可能であるかぎりでは 超越論的自我が超越論的他我を構成するときに 身体化された他我を媒介として要求する必要はないはずである。  ☆ 《超越論的自我》とは 《モナドとしての個人・その超越論的主観性》と解して間違いではないと思います。まづは 《身体》をもエポケーしうるかも知れないという議論のようです。  そうでございましたか。とても勉強になりました。 > この点を追究したマーシュが導出しようとする帰結は 《超越論的自我の構成能力にとって身体化は必然的だ》というのである。 ☆ 質問者としましては 身体と精神とを分ける必要はないという立ち場に立ちます。《わたし》が統覚しています。  仰られますように、《わたし》が統覚していることは事実かと考えられます。と申しますよりも、当然のことを言っているに過ぎないと思われます。 > ただし その身体は所有の対象でもなく 道具的手段でもなく 運動感性(キネステーゼ)的主体である。 ☆ 《わたし》に感性がはたらくと言ってしまえば よいのではないか。  ブッディズムを想起させる表現でございますが(前半部分でございます)、愚生が考えますところは、後半部分のみでよろしいかと考えられます。五感を感ずるシステム(目、耳等でございます)、これらが、道具的手段では“ない”とは断定しかねるからでございます。 ・キネステーゼ:運動を示すギリシア語キネーシス+感覚を示すギリシア語アイステーシス;一例:散歩したとき、バラや桜が、その見え方が変化しても、バラや桜であることには変わりはありません。 つまり、ひとがさまざまな事物を認識できるためには、ひとの側に一種の運動性の要素が備わっている必要があると、考えることができます。 > マーシュのねらいは ここから超越論的自我の観念論的性格を払拭し 自然的相互主観性の日常性へ還帰することにある。 ☆ この原点および出発点として 先の《モナド》説が《言語交通》説と並んで 取り上げられるようです。《生活世界》というからには・またそう言っていても そこに 《存在の原点》も《意志疎通の出発点》も共に同時に宿している。わが主観は 相互主観性をすでに宿すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同体性をも持つと。  仰られますように、「わが主観は 相互主観性をすでに宿すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同体性をも持つ」、つまり、「自然的相互主観性の日常性の重要性を主張することにある。」ぐらいでよろしいのではないか、と思っております。 > マーシュの帰結をさらに徹底化したことになっているカニンガムの戦略は 言語の社会性への着目である。 ☆ 《〈わたし〉と自称するわたしたち》から 日常世界ないし生活世界は成る。この言語交通が 主観における相互主観性の契機を保証している。に通じるか?  断じかねますが、「言語の社会性への着目」につきましては、異論はございません。 > 自我の習慣的持続性を支えるに必要な条件は言語であり 言語は私的ではありえない以上 すでに構成されて通用している言語が話されている当の社会が前提されないかぎり あらゆる自我について語ることはできない というのである。 ☆ へへっ! ついにわれわれの議論に追いついたか。それにしても 《自我》とは いやはや分かったようで分からない。のではないだろうか。  仰られますように、マーシュさんやカニンガムさんも、至極まともなことを言っている、とそう受けとめさせていただきました。 > マーシュはカニンガムの帰結は 身体化と言語的社会性がすべての知の究極の前提であることを確認することであった。 ☆ そのとおり。ところが そこにも落とし穴があるということらしい。次につづく。 > この前提そのものの素朴性に対する超越論的反省は ここではもはや必要とされない。その意味では 彼らの見解は超越論的探究の放棄を前提としている。 ☆ この《前提》は 人間存在の所与そのものであって大前提である。つまりは 超越論的還元および反省を重ねて到ったその本質直観に属する。単なる目の前の日常世界に焦点を当てるに過ぎないという反論だと思われる。超越論的探究に行き詰まったというのであろう。この単なる現象としての生活世界が 無根拠という根拠にもとづくと見るその本質直観があるということ これを見落としてはいまいか?  “前提そのものの素朴性に対する”超越論的反省、とのことでしたら、別段問題はないものと考えておりますが・・・  字数制限のため、次項に移らせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  メルロ-ポンティ問題:  ★ ~~~~    ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。  後ほど、触れる機会があろうかと存じますが、自由意志なるものは愚生が知る限り言及はされていないものと記憶してございます。  ~~~~~~  ☆ そうなんですか。確認するたのしみは のちに取っておくことにします。     *  キネステーゼ問題:  ★ ~~~~~  ・キネステーゼ:運動を示すギリシア語キネーシス+感覚を示すギリシア語アイステーシス;一例:散歩したとき、バラや桜が、その見え方が変化しても、バラや桜であることには変わりはありません。  つまり、ひとがさまざまな事物を認識できるためには、ひとの側に一種の運動性の要素が備わっている必要があると、考えることができます。  ~~~~~~~  ☆ これも そう言ってはすみませんが 当たり前のように思われます。何もからだを動かしていなくても 人は時間過程をたどっています。坐って窓の外の桜をながめているときにも 桜のほうが動いているという側面もあります。風に吹かれれば 花びらが散ります。    *  こう考えて来ますと ほかの事項では合意に達したか それは当然のことではないかという見方に達したと思われ どうもこの復習の作業は あまり生産的ではないかも知れません。と思えるようになりました。  というわけで 気が向いたら・またはもう少し復習の過程を伸ばしておくのがよいと考えましたら 補足欄にて その作業をおこないたいと思います。

bragelonne
質問者

補足

 水野和久論文を取り上げ これまでのやり取りにおける探究をさらに検証します。No.57補足欄からの続きです。  ◆ (水野:相互主観性の超越論的根拠) ~~~~~~~~~~~     ・・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.24-26  ◆(No.57補足欄の再掲) しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性〔*――すなわち 《自然的態度のなかで醸成される〈対話的中間〉》なる原領域――〕は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。   ☆ 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことに   なる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれ   ば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。  ◆ 超越論的関心の欠如に由来するたんなる中間追求は 出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。   ☆ 《次元のメタ性に無関係に》 対話の相手と互いにその見   解を明らかにしその異同を確認し 対立点については さらに   総合的な見解を互いに模索するということ このことは 暴力   によって――つまりは 対話の席を切れて立ったり 相手の言い   分を無視したりすることを含む暴力によって――無力にされる。    されるけれども その対話の姿勢――相互主観性の保証力――   は つねに有効である。暴力という無効のちからが 社会的に   有力になっても 有効な態度とその意志は つねに有効である。  ◆ 対話の中間追求だけでは暴力を制するメタ性をもつことはできない。かくして 人間学的な知〔*――モナドとしての主観および共同体といった思想――〕も対話的中間も 超越論的メタ言語を代行する資格はないといわなければならない。   ☆ 《超越論的メタ言語を代行する》ことがなくても 本質直   観はあり得ると見るのである。    《汝みづからをよく知れ》ということばに触れて そのまま   本質直観に到るという寸法である。    その《わたし》は 《超越論的主観性》と同じく 《相互主   観性》を持ち得ていると。    ただし そうは考えない場合 次のごとく課題を引きずると   いう議論である。  ◆ 残された道は フッサールのテクスト群のなかから 可能なかぎり一貫した形で超越論的志向を《読み出す》ことである。その典型をわれわれはいま ラントグレーベとヘルトに見いだすことができる。   ☆ 議論に就こう。  ◆ ラントグレーベは フッサールの必当然的な超越論的意識の優位性を 交換不可能な個体の絶対的事実性へ読みかえようとする。   ☆ 《モナドとしての主観》に似ている。  ◆ ラントグレーベにとって 自己存在の《絶対的事実性》は 対象的カテゴリーのなかで偶然性と対比されるような必然性によって規定することのできない《現存在》の背進不可能な零点の規定であり それは歴史的時間のなかに位置づけられた個体の交換不可能性である。   ☆ たぶん その事象にかかわる《わが主観》がみづからの意   志としてえらんだ道を その途中でそれまでの意志内容とは別   のかたちに変えることのできないそのときその場の位置関係の   ことか?     人生において 誰かの連れ合いになるという選択は 互いに   それ以外の道を選択しえない位置関係に ひとを置く。    相対世界における出来事ではあるが 意志行為は そこまで   の《絶対的事実性》を帯びる。或る人の連れ合いの座を その   歴史的時間なる現実を全面的に別のかたちに改めたあとでない   と ほかの人が 交替するということは出来ない。  ◆ ところがフッサールにおいては 《自己責任 Selbstverantwortung 》はあくまでも超越論的認識への決断であって 内世界的実践の《自己責任》を必ずしも意味する必要はない。   ☆ 実際の生活日常の世界から一たん離れたところで 相互主   観性から要請される責任というものを考えているということだ   ろうか?     それは おかしなことだが。  ◆ それは 究極の《無前提性》に基づいて知を再編しようとする普遍的基礎づけを使命とする 哲学する自我の《自己責任》である。   ☆ たぶん 依然としておかしな話であると思われるが 迂回   しつつ《超越論的主観性》を模索しているというのであろう。  ◆ フッサールにあっては この《自己責任》は 共時的には《超越論的相互主観性》として 通時的には《超越論的目的論》として遂行されるのである。   ☆ 《共時的には》 迂回しつつも やがて《相互主観性》を   持つことになると言うのだろうか?     《通時的には》 きわめて無責任な議論である。人間の究極   の《目的》が 究極においては 面倒を見ると言おうとしてい   るか?    ところが ただし:  ◆ 私の超越論的自我が他の超越論的自我とともに形成する超越論的共同世界の形成過程は 知の基礎づけの目的論的達成過程を意味するだけであって 現実世界の時代状況のなかで人類全体の究極価値が実現されてゆく歴史過程を意味するのではない。   ☆ 迂回という条件を除けば 無責任である。  ◆ それだけにかえって フッサールの《超越論的目的論》はラントグレーベの不満を解消しきることができなかったように思われる。   ☆ そりゃあそうだ。  ◆ ラントグレーベのこの不満を解消させるためには 個体的《現存在》自身に超越論的性格を見いだすことができなければならない。   ☆ そうすれば《通時的》にも 相互主観性の風が 即時にで   はなくても そのうちに個体の主観に吹き込まれるというのだ   ろうか?  ◆ ラントグレーベのそのような志向が この点において ハイデガーの《現存在》の規定に依拠していることは明らかである。   ☆ よく分からないが そうだとしよう。  ◆ 《現存在》とは 自己自身の《存在の意味》を自身で問うことのできる《存在者》であり まさしくその点において 内世界的な物体的な他の《存在者》とは区別されている。   ☆ 現存在が 自然的態度において《みづからの存在の意味》   を問うことがなくても 生活における相手との対話のなかで   互いに対立関係を克服していけるように みづからの思想を   うちに省みることができさえすれば 《相互主観性》を持ち   得て 共同主観をかたちづくることも出来るはずである。    その意味では 《物体的な(?)存在者》などは 世の中   にいることはあるまい。  ◆ ハイデガーが《現存在》を 《存在者の存在》を解明するための特権的な手掛かりにしたのは 《現存在》の自問する自己還帰的《超越論性》に着目していたからである。   ☆ すでに冗語が目立つように見える。もう少し行こう。  ◆ しかし ラントグレーベの要求にこたえるために 《超越論的意識》の《自己責任》から《現存在》の《自己責任》への懸隔を埋めるには 理論的な架橋が必要であろう。   ☆ 相互主観性の生起のことではないのか?  ◆ それには 超越論的意識の体験流の根源性のなかに 《被投的企投》の原初形態として 《受動的構成》の先行性を見いだすことができるかどうかを検討する必要があるであろう。   ☆ なおもあくまで迂回するという腹積もりであるらしい。  ◆ ヘルトの仕事はまさに 超越論的意識流の《匿名性》のなかに 《超越論的相互主観性》と《超越論的目的論》の根源的萌芽を発見することにあった。   ☆ 《超越論的意識の体験流》の《流》に 専門的な意味   があるのかも知れない。    けれども《匿名性》は おそらく生活日常の対話ないし   言語交通におけるおのおのの《主観》がそれだと言いたい。    《目的論》を どうしたものか? 観念的すぎまいか。  ◆ ラントグレーベの解釈を正当化するためにも ヘルトの掘り下げが必要であったのである。   ☆ そうかも知れないが なかなか遠い迂回路であるかと   思われる。    このあと 次のようにつづけられている。追わないが。  ◆ ヘルトはフッサールの原点に帰る。その原点とは 《私の根源的に流れる生き生きした現在 meine urtümlich strömende lebendige Gegenwart 》である。・・・   ☆ 生活日常の場に戻ったということではないのか?   ~~~~~~~~~~~~~

noname#143207
noname#143207
回答No.57

 前項からの続きでございます。 > もしよろしければ 次の考え方について再度吟味していただけないでしょうか?  微力を尽くしたく存じます。 ☆(No.53お礼欄) ~~~  § 12 生活世界は つねに目の前にあります。 > 煮詰めた議論としましては 目の前の生活世界において《わたし》と自称しつつ互いに意志疎通をおこなっている人として 《わたし》は それぞれ互いにとって《自己》であり《他者》であると言えます。《〈わたし〉という自称が指し示すその存在》は と言いなおしたほうがよいかも知れませんが このような社会的な《わたし》どうしの関係 これが 生活世界であるとも言えまいか?  生活世界の基本はその通りかと存じます。 > その意味は――このような言語交通という切り口から世界や事象を見ることの意義は―― 《わたし》においてすでに主観でもあり 言うとすれば客観でもあるかたちになっている。誰もが みづからの《わたし》において そう見止めるかたちになっている。  はい。《わたし》においてすでに主観であるものの、同時にまた無自覚にも客観をも形成している、誰しもがそのようにみなしている、と考えております。 > そのうえで 自分とは違う存在として《わたし》を自称する者を 他者と呼ぶことにすればよい。そのような共通項としての《わたし》をわざわざ《自我》だのと呼び変える必要は生じていない。そんなことをしたら かえってややこしくなりはすまいか? だってこのように考えることをしているのは 《わたし》なのだから。それともわたしの脳の神経細胞のどの部分かを突き止めなくては 納得しないのだろうか? それを《自我》と名づけて 自我大明神としてたてまつるというであろうか。  ~~~~~  原則、“わたし”、“わたくし”、よろしいかと思われますし、それでじゅうぶんかと考えております。確かに、仰られますように、脳神経のどこかにその意識部分等を探り当てたいという人たちもいようかと推察されます。これは諸説あるようでございますが、意識なるものを全て、物理(反応・信号)に還元できるとは、今のところ考えられていないようでございます。 > ○ ~~~~  他者は わが個体(つまり自分なる存在)と ヒトとしての自然本性において通底しており 《わたし》という自称行為を 言語習慣として・しかもおそらく社会生活にとって必須のコミュニケーション行為として 共有している。  そのうえで おのおのの自由意志による思惟および行動についての取捨選択とそこにおける判断 これを――自由という基礎のうえにであるからには――異にしうるという存在およびその共存のあり方をしている。  しいて言うのなら 自己のわれと他者のわれとは 共通我と非共通我とを持っている。  ~~~~~~ ☆ こう言わなければならないのではないか? 《非我》と言っただけでは 分かりづらい。  その通りかと存じます。《非我》、これはおそらく学術用語なのかもしれません。ただ、この語彙が、日常化してしまい、全く異なった意味合いを持つことは懸念してところでございます。 > なぐり書きのところがあるかと思いますが 考えてみれば これだけ批判している場合には ていねいに表現すると かえっておかしな印象がついてまわります。  つまり よほど腹に据えかねて 企むところがあるのではないかと見做され疑われるおそれが 出て来ます。これを回避するためにも 独り語りのごとく きつい表現にて 批判を表わしています。  波風を立たせようと思ってなら こんなきつい捨て台詞のような言い回しはしなかった。赤き血の流れていることだけは 示したかった。・・・  実を申しますと、愚生も真剣に回答させていただきました。これは、デリダらによるフッサール批判、さらには、竹田批判に肩入れしてしまった愚生の過去に対する反省によるものでございます。振り返ってみますと、今でも印象に残っておりますのは、フッサールだけというありさまでございます。竹田氏は確か在日の方で、その当時は一文芸評論家に過ぎませんでした。そして、病的なまでに「ロゴス中心主義」、「差延」等の陳腐な言葉の繰り返しをしていただけのポストモダニズム(ニーチェとフッサールの焼き直し+自然数論の一部分に過ぎないものです)に対して、竹田氏は批判を唱えた訳でございます。ですが、浅田や柄谷らからは、現代哲学を理解できない無能力者として小馬鹿にされていました。そこで、今回、過去の自分の反省を致したく、尽力してみた次第でございます。    いつもながらではございますが、最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 おかげでここまで来ました。今回は 互いにさらなる現象学的還元と反省を重ねつつ 或る程度の合意を見て 共通の見解に達したところが少なくないと思います。  ポストモダンの流行の問題にも触れていただきました。  直前のお礼欄(No.56)でも触れましたが 次の研究書に就いて あらためて主題ないし課題を取り上げしっかりと復習して行ければと考えました。   ◆ 新田義弘・常俊宗三郎・水野和久編著:『現象学の現在』        (世界思想社 1989)      序 / 現象学における《思惟の事象》についての所感:新田義弘      I 現象学の方法と目標   1 現象学の方法論:水野和久     ○ 構成/超越論的態度/他者構成/相互主観性   2 学問論としての倫理学:常俊宗三郎     ○ 多様体論   II 経験的世界の構造   1 経験の基礎――根本の輪郭 :小川侃     ○ 現出性と地平性   2 時間と存在をめぐって――生き生きした現在の謎と内‐存在論    の試み:斎藤慶典     ○ 反省の構造/《生き生きした現在》(《生ける現在》)         3 身体――受肉せる主体:宮原勇     ○ 《私の身体》ということ/人称的自己身体意識   4 鏡と眼差し――自己意識の現象学のために:魚住洋一     ○ 引き裂かれた自己   5 地平――世界生の動的構造:工藤和男     ○ 志向的対象の地平/経験の地平/生世界の地平性地平志向      の機能/地平の創設   III 現象学の諸問題   1 対話における言葉について:品川哲彦     ○ 言葉の意味のイデア性話し手・聴き手の異他性・/対話的      存在としての人間   2 芸術作品:梅原賢一郎     ○ 音楽における身体の抑圧・身体の発見/絵画における身体      の抑圧・身体の発見/・・・      3 人格と価値:湯浅慎一     ○ 人格の時間性/人格的同一性とその自己性/人格の絶対価値      と社会性/人格・明け開け・価値/人格・交わり・自由   4 生と責任――現象学における遂行と自己責任:谷徹     ○ フッサール現象学における倫理的問題の位置づけの変遷     5 現象学と社会の危機理論――危機の概念と批判の概念:引田隆也     ○ 《理性》批判――カントとフッサール/生活世界と理性の危機   6 歴史的世界の基底――歴史を歴史化するもの:伊藤徹     ○ 《いまなお何のための歴史学か》/歴史を歴史化するもの     * ○ のしるしのあとの項目は 引用者が勝手に拾ったものです。  いきなり水野論文から 次のくだりを引きます。No.56お礼欄における《モナド》問題の項を参照ねがいます。  言語交通における《わたし》どうしの関係 これとしての社会 こういう切り口とは別に 《モナドとしての〈わたし〉 そしてその主観としてのモナド共同体》といった切り口が提出されたとのくだりです。  ★★(回答No.56) ~~~  (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。  ~~~~~    ◆(水野和久:他者構成の問題) ~~~~   ところが ここで超越論的自我が身体化された自我から区別しても思考可能であるかぎりでは 超越論的自我が超越論的他我を構成するときに 身体化された他我を媒介として要求する必要はないはずである。    ☆ 《超越論的自我》とは 《モナドとしての個人・その    超越論的主観性》と解して間違いではないと思います。     まづは 《身体》をもエポケーしうるかも知れないとい    う議論のようです。  この点を追究したマーシュが導出しようとする帰結は 《超越論的自我の構成能力にとって身体化は必然的だ》というのである。    * マーシュ:Marsh, J., " An Inconsistency in Husserl's Cartesian Meditations" in: The New Scholasticism, vol.LIII, 1974, N.4        ☆ 質問者としましては 身体と精神とを分ける必要はない     という立ち場に立ちます。《わたし》が統覚しています。  ただし その身体は所有の対象でもなく 道具的手段でもなく 運動感性(キネステーゼ)的主体である。    ☆ 《わたし》に感性がはたらくと言ってしまえば よいの     ではないか。  しかもキネステーゼ的身体は習慣性によって自己同一的持続を支えている。    ☆ 《わたし》がであろうと 物言いをおこなう。  マーシュのねらいは ここから超越論的自我の観念論的性格を払拭し 自然的相互主観性の日常性へ還帰することにある。    ☆ 質問者の物言いにおいては 《生活世界が 初め(非     反省的態度)においても途中(超越論的還元および反省     を加える過程)においてもおしまい(本質直観が得られ     る瞬間)においても わたしの目の前にあり それは常     に大前提である》です。      とにもかくにも 《わたし》はすでに《生活世界》で     もあるということであろうし そこにはすでにわが主観     が 他者と自然本性において通底しているといった意味     で相互主観性をも宿しているとも見ている。      これは 原点ないし出発点だと思われる。意志疎通に     とっても出発点であり 人間存在がその基底において     《わたし》としてあるために最低限必要な条件という意     味で原点であると。      この原点および出発点として 先の《モナド》説が     《言語交通》説と並んで 取り上げられるようです。      《生活世界》というからには・またそう言っていても     そこに 《存在の原点》も《意志疎通の出発点》も共に     同時に宿している。わが主観は 相互主観性をすでに宿     すかのごとく備えており 共同主観を形成し得て 共同     体性をも持つと。  マーシュの帰結をさらに徹底化したことになっているカニンガムの戦略は 言語の社会性への着目である。    * カニンガム: Cunnnigham,S., Language and the Phenomenological Reductions of Edmund Husserl, The Hague, 1976    ☆ 《〈わたし〉と自称するわたしたち》から 日常世界    ないし生活世界は成る。この言語交通が 主観における相    互主観性の契機を保証している。に通じるか?  自我の習慣的持続性を支えるに必要な条件は言語であり 言語は私的ではありえない以上 すでに構成されて通用している言語が話されている当の社会が前提されないかぎり あらゆる自我について語ることはできない というのである。    ☆ へへっ! ついにわれわれの議論に追いついたか。    それにしても 《自我》とは いやはや分かったようで    分からない。のではないだろうか。  マーシュはカニンガムの帰結は 身体化と言語的社会性がすべての知の究極の前提であることを確認することであった。    ☆ そのとおり。ところが そこにも落とし穴があると     いうことらしい。次につづく。  この前提そのものの素朴性に対する超越論的反省は ここではもはや必要とされない。その意味では 彼らの見解は超越論的探究の放棄を前提としている。    ☆ この《前提》は 人間存在の所与そのものであって    大前提である。つまりは 超越論的還元および反省を重    ねて到ったその本質直観に属する。     単なる目の前の日常世界に焦点を当てるに過ぎないと    という反論だと思われる。超越論的探究に行き詰まった    というのであろう。     この単なる現象としての生活世界が 無根拠という根    拠にもとづくと見るその本質直観があるということ こ    れを見落としてはいまいか?    *  一たん休みます。(補足欄へ)。    

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄から続きます。  水野論文も 承前となります。  ◆ (水野:他者構成の問題) ~~~~~~~~~~~     ・・・新田義弘ほか編著:『現象学の現在』 pp.22-24    しかし〔* カニンガムが 言語習慣といった事象を取り上げそれに拠ってそのような日常の現象としての生活世界を前提とすることに関して そこに見られる・〕《超越論的態度》の放棄を度外視しても 〔* その〕マーシュやカニンガムの素朴な前提は いまひとつの現象学的フィルターを通過しないかぎり 一般的に承認されうるものとはなりえない。   ☆ たぶん 出発点で 見解の違いがあるからだろうと思われ    ます。言語交通ないしそれの行なわれる生活世界を前提とす    ることは すでに超越論的還元を経たあとの本質直観として    得た内容だと見る見解がありうると こちら側は言い張りま    す。  それは 科学の《自然主義的成果》によって身体と言語を《説明》するのか それとも その科学的成果そのものが《人格主義的態度》から出発して《理解》されうる意味形成体なのかどうか という《自然的態度》における現象学的区別の検閲をうけなければならない。   ☆ この一文の内容を理解するために 次のくだりを引きます。   ◆(水野同論文 pp.20-21 ) ~~~~~~~    《自然的態度》のパラドックス・・・。・・・〔* それに    対して〕フッサールの基本的な意図〔は〕あくまでも《超越    論的態度》にある・・・。     《自然的態度》をとりつづけるかぎり 主観と世界との間    に逆説的関係が現われる。主観は 認識するものとしては世    界を対象化する以上 世界の外に位置する。ところが 実践    するものとしては主観も世界の内に存在する。・・・    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち ここでもすでに出発点での見解の相違が見られ   ると言わなければならないように思えます。逆説はないという   見方もありうると。    主観は世界の内にあり そのように主観みづからを含めた世   界を事象として捉える。ただこれだけのことだと こちら側で   は考えているからです。    主観は主観じしんの内外を合わせた世界全体をあつかう。し   かもその主観はその自然本性(≒《自然的態度》)においてす   でに相互主観性を宿していると。  自然科学と社会科学の成果によって 精神物理的な自我論をキネステーゼ的身体論の背後に予想する立論は 現象学的方法からの二重の後退になるからである。   ☆ われわれは――と勇みこんで―― すでにじつは初めの《自   然的態度》(つまり反省をおこなう以前の態度)においてすで   に白紙の状態にあると言う。そこに 予備的な道しるべとして   も事後的な後づけとしても じつは 何らの理論を用意してい   るわけではない。    《身と心から成る人間存在としての〈わたし〉》を捉えるこ   とのみから出発する。そこでは 一方で個体としての社会的な   独立性にかんがみ モナドとしてのわたしを捉えそのとき同時   にすでにモナド共同体性をも見ようとしている。    他方では 《わたし》たちの言語交通のならわしを捉えてそ   こにすでに 単位体の主観は 互いに主観であると同時に客観   (他者の存在とその主観を見止めざるを得ないというほどの意)   でもあると見る。    キネステーゼは この《わたし》の機能である。そして《自   我》と呼ぶほどの何かを見ようとしていないし そんなものは    《わたし》を離れて存在するものではないと言っている。  超越論的視点を度外視したとしても 個別身体と言語共同体に関する現象学的記述を堅持するためには 少なくとも《人格主義的態度》を放棄することはできない。   ☆ モナド存在としてのわたしが言語共同体をすでにその主観    において構成するという視点は 初めの自然的態度にして    おわりの本質直観のものでもある。こう言い張っています。     《人格主義的態度》の放棄いかんは その見方においては    かかわっていないと。  超越論性を含まないこのような現象学的基礎学は 新手の《哲学的人間学》といわれている。   ☆ たぶん《新手》ではないと思われる。人間の存在を《コギ   ト》という部分的なハタラキに還元してしまう以前の――古代の   ――の哲学について見れば 新手ではないと分かるはず。  その代表的旗手はシュッツとワルデンフェルスである。シュッツは 超越論的自我の必当然的固有性の説と 超越論的に構成された私の身体と他の身体との類似性に基づいて他者主観を《移入》によって知覚する説とは 両立しないという。   * シュッツ: Schütz, A., Das Problem der transzendentalen Intersubjektivität bei Husserl, 1957   ☆ この経験的にして相対的な世界について 要素還元の手法   によって分析して得られるその究極のものは 《超越論的自我》   であるとして想定する仮説じたいは あり得るであろうけれど   そこでそれ自体について さらになお《必当然的な固有性》を   証明しようとすることは おそらく議論が堂々巡りになると思   われる。    相対的な事物や事象に その根拠は見つけられないからであ   る。どうしても相対世界を超えた絶対の領域を想定せねばなら   なくなる。想定したとき それは――人間には分からないナゾで   あるのだから―― 無根拠だということになる。    言いかえると ただの現象としての《モナド個体》および   《言語交通》の説についても けっきょくは 無根拠にもとづ   くというかたちで 同じ手法ではある。    すなわち 《超越論的態度》の放棄や《人格主義的態度》の   やはり放棄をしていたとしても その自然的態度は 本質直観   にたどり着いたという最終の条件をすでにじゅうぶんに構成し   ていると踏ん張りたい。  シュッツの人間学的解釈に対してワルデンフェルスは 生活世界の現象学の登場が超越論的主観性を撤回する理由にはならないとしながらも 独我論の解消法は 観念論か生哲学かのいづれかをとるしかないと考えている。   * ワルデンフェルス: Waldenfels, B., Phänomenologie in Frankreich, 1983   ☆ つづくところを聞こう。  《私の内( mein Innnen )》から世界構成へ進む道は ラディカルではあるが観念論であるのに対して 《世界的外部( das Weltliche Außen )》から出発する道は 人格主義的ではあるが自然的な立場へ帰る道である。ワルデンフェルス自身は みづからの学問的原領域を 《自然的態度》のなかで醸成される《対話的中間( das dialogische Zweichen )》に見いだそうとしている。   ☆ つまり どうしても要素還元をした上でなければ 議論に   (学問に)ならないと思っている節がある。     われわれは 《自然的態度》そのままでよいと考えるが    そ《のなかで醸成される〈対話的中間〉》という立ち場がある   という。それは 次である。  これは 《自然性》と《超越論性》の階位の差異と 哲学にとっての《超越論性》の不可避性と生存にとっての《自然性》の不可避性とを同時に満足させる場所は 日常のロゴスの交流のなかにしか見いだされないと考えた結果であり 日常のロゴスの交流点を《原領域》とするならば 学問的ロゴスの導出も可能であろうと考えた結果である。   ☆ たぶん はじめに全体があったと見た結果であろうと わ   れわれの立ち場からは 考えられる。全体とは このちっぽけ   な存在である《わたし》のことである。その主観である。    《ロゴス》と言うと そぐわない側面が出て来るけれど 要   するに 社会性としてどうしても意志疎通を図らねばならない   ヒトなる動物の絶対的条件(与件)としての言語交通のことで   ある。    別に《日常のロゴスの交流点を〈原領域〉とする》までもな   いとは思われる。生活世界は 逃げては行かないし 消えてな   くなるものでもない。  しかし ワルデンフェルスがいかに対話的ロゴスを原点にしようとしても 素朴にロゴス的な仕方で自然的態度へ還帰することは 結局 自然的態度以外への関心(超越論的関心)がないことを意味している とアギレはいう。   * アギレ: Aguirre, A., Genetische Phänomenologie und Reduktion, 1970   ☆ この批判の意味は 次のように水野によって説明されてい   る。  しかしひとたび現実のなかに暴力が登場するや たちまち中間性は対話相互の間のロゴス的中間から 対話と暴力との力の中間へ移動せざるをえなくなるであろう。・・・出現しているものの根拠を問うのではなく ただ眼前にあるもの相互の間の中間追求へ次元のメタ性に無関係に移動せざるをえないからである。   ☆ 要素に還元したあとの《中間》であれば そういうことに   なる。《全体》――《わたし》である――がはじめに置かれていれ   ば その中で暴力も大きく言語交通の内に捉えられよう。    *

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