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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。  応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?  ほかの人からの評価についても 知りたいです。  というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。  つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。  いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

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noname#143207
noname#143207
回答No.16

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 
> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。
  了解致しました。 
> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
  (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。
   * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。
 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
    * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
    そうすると 言えることは 次である。
  (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?  (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。
  (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?
  (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。
  (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 
> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。
   * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 
  おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 
> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
   * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。
  この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ 
> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
   * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。
  おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 
> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。
   * 独我論が いちばん当たっていると思う。
  仰られる通りかと存じます。 
> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
   * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。
  はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 
> ▲ (同上) ~~~
  (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。
   * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 
 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。
   * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。
  おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 
> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。
  仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 
> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。
   * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。
  上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 
> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)
   * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
     《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。  フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。  表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか?   そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。  前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。  ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~  (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。  * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り  方でしょうか。   たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで  なのだと思われます。   もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい  う可能性は 見ようとしている。   あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か  らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。   とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と  いう存在を基軸にして 理論をつくるか。  (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。  * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /  すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら  れるほどの推論が成されうるとは思えない。   別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない  《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ  って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が  潜んでいるかも知れない。   言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨  ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを  示していることになるかも知れない。   よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい  ると解する。  (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。  * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。   それはそれとして 次へすすむ。  (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)  * さらに次へすすもう。別の段落だ。  ▼ (同上) ~~~~  (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。  * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど  りつくはずだと言おうとしている。  (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)  * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考  えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言  うと それほど確かであるようには思えない。   《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が  世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな  いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし  ていないか。   仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や  社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。   さらに次へすすみたい。  ▼ (同上) ~~~~  (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。  * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを  起こそうという議論に見える。   ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的  にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止  とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて  いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。  (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)  * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか  れていることは 見て取れる。   言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり  着かない。   方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ  とすれば その応用編で勝負となるはずだ。  ▼ (同上) ~~~  (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?  * これが 読者が初めから知りたかったことだ。  (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。  * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に  捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう  としていることは 見て取れる。   その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実  認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと  しているようだ。   それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな  い。  (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)  * 次へすすもう。  ▼ (同上) ~~~  (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。  * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世  界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。  (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。  * パス。  (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。  * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。  (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。  * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう  か?  (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)  * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには  おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが  志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ  うか?   それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて  いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。   他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸  であることに変わりはないと。  ~~~

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  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.5

> 類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。< すくなくとも現象学の流れでは「明証」は心の中の問題です。外の世界に関わる問題ではありません。意味志向(ノエシス)と充てがわれる意味との統一作用のこと、つまり、意識の流れの上の現出から導きだしたとりあえずの類的なぶれなさ=「理性定立」が可能であることを、意味しています。 だから、類・種・特殊・個の分類をおこなう心による志向的な判断プロセスの結果が、すなわち「明証」です。 お引き写しの文献に関する探究なら、アリストテレスとプラトンの相違について質問を立てられるのが建設的だと思います。アリストテレスがプラトンのイデアをどう扱うのか、ご親切な方が居たら学ぶ機会になるのではないでしょうか。 > リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?< 必要だと話してきた挙句に、これは何かの間違いですか。 リンゴは赤く丸い、赤く丸いはリンゴ、などということの見かけ自体を現象学的還元と考えてしまわないようにと願ってわたしはすでに解説を寄せてあります。 緑やら四角やらということでカテゴリーをくぐり抜けてリンゴの形相たるものに辿りつけるなら辿りついてみたらよろしかろう。 てなことで#2に転載したとおりです。わかりやすくまとめますと以下のとおりです。 経験 ↓現出の同一性 ↓現出の同一性における相関関係の志向性 ↓現出の同一性における相関関係の獲得 ↓類概念の理性定立(明証) 形相の受け取り(本質観取・本質直観)

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  あまがっぱさん。ですが ますます分からなくなりました。今回はその疑問をぶつけるかたちになります。  今回の焦点は ふたつです。  (1) 一方で 類的概念というからには 普遍性を目指しているはず。ただし他方では その明証性は 主観内面にとどまると言う。この両者のあいだの絡み具合いは どうなっているか?  (1-1) 事実としての証拠や論理としての根拠を どこまで求めて 普遍性を目指すというのか?  (1-2) すべては主観にまかせられているのか。だとしたら それは 類概念であるかどうかは 可能性としてつねに うたがわしくなるが それでよいのか?  (2) 現象学的還元によって得られる〔意識ないし志向性をおびた〕本質とは けっきょくわが主観において持たれるヱクトルとしての言葉(=概念=理念=イデア)のことか?  (2-1) ただしそれなら つまらない。その果実をリンゴと言うから 《リンゴ》という言葉が リンゴの形相であり それへの向きや力(ないし動き)を帯びた純粋意識だということになる。のではないか?     *  ★★(回答No.2)( a ) 【現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。  ☆ ですね。そうして  (2-2) 《分かる》ということにもすでに 心の動き・志向性が含まれると見たほうがよいでしょうか?  (2-3) ただしそうだとしても すでに《リンゴ》という言葉は存在している。そのリンゴという言葉が 類概念だというのであれば 自同律であり 学的推論としては堂々巡りのようでもある。  ★★( b ) それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。  ☆ ここにも疑念が湧いて来ます。  (2-4) 《リンゴという物の現出》が 《同一性を保つ》とはどういうことか?  (2-4-1) 時間的にだとしたら それはわづかの時間でしかない。それとも腐って来ても それは 大きく同一性の中の小さな変化だと見ましょうか?  (2-4-2) たとえば《リンゴの木に成る実》という内容が 同一性か? だとしたらそれは その木を《リンゴ》と呼ぶという言葉の存在(およびその使用慣習)からみちびき出している議論であるに過ぎない。  (2-4-3) すでに触れましたが 丸いかたちが おおむね同一性を持つと見られましょうが 色は 赤いのも薄緑のも黄色いのもありますから 色での識別は無理。つまり言いかえると 色がいろいろであるのに 類概念を――同一性の持続として――成り立たせるものは 何か?  ★★( c ) こうした経験〔=( a )および( b )〕に構造を見出していこうという学問です。  ☆ おそらく  (1-3) 普遍性ないし類が類であることの中身 けっきょくこれは――経験科学であるからには―― 主観の共同性としての 一般性を言うものとは考えます。それでよいか? (人間の能力による限り そこまでのことで満足せざるを得ないと考えられる)。  ★★( d ) 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。  ☆ 分かりません。ここまでの(1)と(2)およびその系の質問が持たれます。  ★★( e ) ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】  ★( f )~~~~~  すくなくとも現象学の流れでは「明証」は心の中の問題です。外の世界に関わる問題ではありません。意味志向(ノエシス)と充てがわれる意味との統一作用のこと、つまり、意識の流れの上の現出から導きだしたとりあえずの類的なぶれなさ=「理性定立」が可能であることを、意味しています。  ~~~~~~~~~  ☆ 次は おねだりの問いになります。  (3) ノエシスは 人間の知覚作用として 大きくは《記憶》という精神のはたらきに属すと思うのですが それに《意志》のはたらきをも加味していましょうか?  (3-1) つまり《意味志向》は ひとつに《意味の認識》としてすでに《知解》という精神の第二のはたらきにもかかわっているようですが それはひとまづ措いておいて 《志向》というからには すでに心つもり・心指し(志)として意志行為でもある。こうでしょうか?  (3-2) つまり《理性定立》という判断をともなう意志行為にまで ノエシスが及んでいましょうか? これはいくらかおかしく思いますので 確認をお願いしたいと思います。(つまり つづく問いです)。  ★( f-1 ) 意味志向(ノエシス)と充てがわれる意味との統一作用のこと  (2-5) この意味志向の《意味》も充てがわれる意味の《意味》も それは一般にことばで表わされると見ますが それは 一般に言う《定義》のことを言うのか? それともただ単に《リンゴ》ならリンゴとしての《言葉》のことか?  (2-6)=(3-3) たとえば《リンゴの木に成る果実》だと言うとしたら それは確かに《意味志向》であるが これをもノエシスと言うのか? 言いかえると ノエマで考えるなら 丸いかたちや 色や 食べたときの感触などなどが ノエマでありそのときの知覚作用を ノエシスと言うのではないか?  (2-7) 言いかえると この意味志向と意味とを統一する作用が必要だとすると それはすでに《知解》というはたらきにおける認識行為であるのではないか? 意味を確定させるのなら すでに《意志》というはたらきにおける判断行為でもあるはずだ。ノエシス・ノエマは そこまで範囲が広げられているのか?  (2-8) つまり上の(2)の命題が肯定されるのなら 現象学という別個の学を立てる意味はまだ見いだせない。つまり  ★( f-2 )とりあえずの類的なぶれなさ=「理性定立」  ☆ という場合には これは 学としてでなくとも 誰もが認識や意味の確定の作業においておこなっているふつうの過程である。ではないか?  ★( f-3 )すくなくとも現象学の流れでは「明証」は心の中の問題です。外の世界に関わる問題ではありません。  ☆ 《外の世界に関わる・関わらない》というときの中身が 定かには つかみかねます。  (1-4) いくら《心の中の問題》だとしても 類概念として捉えようというからには ほかの人の心の中とも共通のものがあることが 必須です。感性や精神において何ものかが互いに通底しているとか あるいは持たれた主観内容がほかの人びとと共同化しうる(常識となりうる)とかいうことが 必要でしょう。これっていうのは 《外の世界とかかわっている》のではないですか?  (1-5) つまり 《言葉》とは そういうものです。人びとの心を――或る程度の同一性を持ったものとして――つらぬく共有物です。つまり  ★( g ) アリストテレスとプラトンの相違 / アリストテレスがプラトンのイデアをどう扱うのか  ☆ の問題は この概念=形相=ことば からすれば 別件ではなく イデアそのものが主題になっていると推し測られるのだけれど そうではないのか?     *  なお問いを残しますが 何から何までを一挙にというわけにも行きませんから ここまでをお尋ねしたいと思います。  なお回答No.3に あまがっぱさんへの呼びかけが書き込まれています。質問者としてMCであるとするなら――つまり 主観の志向性を最小限にとどめて類概念において振る舞おうとすれば―― そのことにいちど触れて お伝えの仲人になることまでは 成すべきエチケットだと見ました。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.4

ポルピュリオスのことは知りませんが、お書きのことはアリストテレスのカテゴリー論の焼き直しでしょう。 アリストテレス(b.c.382-b.c.322)は形式論理学をうちたてる過程で概念における包摂-被包摂関係を洗い出し、類概念とそれに属す種概念を説いています。そして、類のほうが種よりもintensionが小さいことにも注目しています。どのようなものであるかの徴表があれこれ多様に存在しなくなるために小さくなるわけです。たとえば、「円はなめらかな図形である」と言う場合、円が種概念、図形が類概念、なめらかなが種差ですが、種概念=類概念+種差という構成になっているので、情報内容量として、種概念のほうがintensionが大きいわけです。人間と動物なら人間のほうがそのようになります。それで、アリストテレスは、intensionの小さい類を指して「本質」をあらわすとみなすのです。 ブラジュロンヌさんがおっしゃりたいのは、フッサールがアリストテレスを確認してみせないで論述を始めたか?ということですか?それは無理でしょう。  フッサールはアリストテレス研究から心的現象の研究に入ったブレンターノを継承する弟子です。また、フッサールの踏み台にはカント解釈・批判があり、カントはアリストテレスから存在論や認識論を前に進めています。 こまごまとフッサールの『論理学研究』とか『イデーン』とかを開いてさしあげたいのはやまやまですが、あいにくわたしは哲学の講義ではなく精神分析学の講義に出ていた人間です。フッサールを学ぶことが目的だったことはなく、フッサールに情熱を注いだこともありません。わたし自身のためでなしに哲学書を開く気が露ほどもありません。 他の疑問についてはまた後日書き込みましょう。とりあえず部分的にお答えまで。

bragelonne
質問者

お礼

 あまがっぱさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いやぁ ますますむつかしくなってまいりました。  ★ ポルピュリオスのことは知りませんが、お書きのことはアリストテレスのカテゴリー論の焼き直しでしょう。  ☆ あぁ そのような事情を知っていたなら まさにアリストテレスを出すことができたことでしょう。  いま 現象学についてわたしが抱くことになった素描は こうです。  1. 必ずしも明証性を求めないが・したがって主観の内で ものごとについての類的概念ないし普遍性〔としてのイデア?〕を問い求めるということ。  2. ポルピュリオスのイサゴーゲーは 心的現象(たとえば特に志向性)などを考慮に入れずに 概念整理として分類論をかいつまんで述べている。  3. ただし このカテゴリア論は アリストテレスにおいてすでに成されている。そこから カントあるいはブレンターノを経て フッサールの仕事がある。  4. 現象についての本質を見究めるというとき そのものへの意識ないし志向性を前提とするが むしろこの志向性のより少ない内容(意識?)をもって 普遍性ないし類としての概念と捉える。(これが 純粋意識?)    *  情けないことにわたくしは アリストテレスについては ほとんどが解説書からの知識です。    イデアがらみだとしますと プラトンの系譜もかかわって来ますし 何だかえらいことになりそうな。  《本質》をこのように――つまり 形而上学としてのように〔も〕――問い求める現象学から サルトルの実存主義は出たのでしょうか?  すみません。初歩的な疑問なのだと思います。  本質を追い求めつつ しかも現象――ないし人間としては 現実存在――について 見つめ続けるといった学的態度もしくは生活態度なのでしょうか?   フッサール論が ご自身の主題であるのではないとのこと 了解しました。  わたくしは 自慢ではありませんが エポケーにつきましては それを応用することに強い関心を示してきましたが そのほかのことについて ついぞよくは知っていません。という事情です。  ブディズムとの関連につきましても さらに明らかになればとわたくしも願っています。

noname#143207
noname#143207
回答No.3

 こんばんは、ひどっち でござます。  愚生も今から約25年程前でございますが、竹田青嗣氏の著書に接しました。  早速、本題に移らせていただきます。  ”本質取得”と申しますと、どうしましてもイデアとの関連が想起されるものと推察されます。下記の新田氏の文言にもございますような「”相対的” な意識作用から“普遍的”な”イデア的”対象を構築する」という概念が愚生にはございます。    ざっくり申し上げますと、「心的作用から、”理論に先立つ普遍的なイデア的対象”をつかみ取る」といったところかもしれません。 「 形相的還元とよんだ方法とは、 <中略> 「論理学的研究」で説かれた本質直感とともに、伝統的プラトン的イデア視とあまり変わるところがなかった。ただ経験を超えたアプリオリへの一種の経験として、もっぱら本質対象の志向的対象性としての性格が志向的相関関係において強調されているにすぎない。また形相的還元という名称は「イデーン」期以降ではほとんど使用されていない。」 新田義弘著「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として」 p.81からです。 形相的還元(eidetische Reduktion)について  現象学的還元の一つです。因に、現象学の第一段階に位置し、「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」が第二段階となります。  具体的には、個々の事実も、知覚や想像の「自由変更」によって経験的普遍性から本質的普遍性に高められ、経験の影響を受けない本質を明らかにしていきます。このような操作・作業のことをいいます。また、別名「イデア視(Ideation)」とも呼ばれるように、「理念化」することでもあり、文字通り「形相=本質=理念(ほぼ同義でございます)」へ「還元する」ことでもあります。なお、私の個人的な世界での還元を「自我論的還元」とよばれています。  因に、シェーラー(Max Scheler; 1874-1928)でございますが、フッサールから影響を受け現象学を研究し、現象学を倫理学に応用した人物として知られています。 参考: http://en.wikipedia.org/wiki/Max_Scheler  http://www.systemicsarchive.com/ja/b/scheler_anthropologie.html  ---------------------------------------------------------------------------  以下の欄、勝手ながら使用させていただきたく存じます。 ANo.2のご回答者様 アマガッパ様へ 先日は、愚見にご心象を害するような表現が入ってしまい、誠に 申し訳 ございませんでした。その心つもりは愚生にはございませんでした。この点 この場をお借りし、深くお詫び申し上げたいと存じます。  -------------------------------------------------------------------------  何かしらの参考になりましたら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ イデア  ☆ が入って来るのですか。ややこしくなるような予感がします。  ★ ”本質取得”と申しますと、どうしましてもイデアとの関連が想起されるものと推察されます。  ★ 「”相対的” な意識作用から“普遍的”な”イデア的”対象を構築する」という概念  ★ 「心的作用から、”理論に先立つ普遍的なイデア的対象”をつかみ取る」  ☆ さらに  ★ 形相的還元(eidetische Reduktion)〔が〕・・・現象学の第一段階に位置し、「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」が第二段階となります。  ☆ ですか。  ★ 別名「イデア視(Ideation)」とも呼ばれるように、「理念化」することでもあり、文字通り「形相=本質=理念(ほぼ同義でございます)」へ「還元する」ことでもあります。  ☆ なのですね。  ○ 還元して得られた本質 ~~~~  1. ごくふつうの概念としての ことば=意味。  2. 形相と言ってみるばあい。  3. そこに 理念をも捉えるばあい。  4. その概念=形相=理念に 普遍性を求めるばあい。    ・ これは 論理的な明証性を必ずしも求めないという説明と     どう折り合いをつけましょうか?      明証性を必ずしも問わない場合は 別様に 次のように     とらえましょうか?  5. ★ なお、私の個人的な世界での還元を「自我論的還元」とよばれています。  6. ★ ただ経験を超えたアプリオリへの一種の経験として、  ☆ これは 先験的な概念をもあつかいましょうか? 《もの自体》?   7. ★ 第二段階としての「超越論的還元(transzendentale Reduktion)」  ☆ これは 明らかに先験的な《非経験のなぞ あるいは 無根拠》をも視野に入れていましょうか?  8. この第二段階の還元では 究極においてはたとえば《宇宙霊魂 プシュケー・コスムー / 世界霊魂 アニマ・ムンディ》といったイデアにまで突き抜けるのでしょうか?  9. ちなみに 宇宙霊魂なら 梵我一如と同じ構図になると考えます。あるいは 仏性なり神の霊なりと かたちとしては(類型において) 同じだと見なされると思います。  10. (7)あたりからは 特に(9)に到れば すでに非経験との対峙としての非思考つまり信仰に入って行くものと考えますが そこまでは フッサールは言っていないのですよね?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ No.2のやり取りでは ポルピュリオスないしプロティノスらの新プラトン主義が出て来ましたが こうやって《イデア》を持ち出しての説明を受けますと ますますプラトンに近づくのですが そういった親縁性はあると見てよいのでしょうか?  ★ 因に、シェーラー(Max Scheler; 1874-1928)でございますが、フッサールから影響を受け現象学を研究し、現象学を倫理学に応用した人物として知られています。  ☆ 別途 参考サイトを読んでみます。補足欄にてお応えもうしあげます。

bragelonne
質問者

補足

 § シェーラーの現象学   http://en.wikipedia.org/wiki/Max_Scheler  1. フッサールの規定する現象学に 見解を同じくはしなかった。     2. フッサールは 現象学を 厳密な意味で《方法》であると規定したが これに同意せず 思考では得られえない(その意味での霊感としてヒラメキを得る)直観( spiritual seeing )の境位であると見た。  3. 現象一般に限ることなく 《原体験ないし根源的経験 original experience 》なる現象をも想定する。あるいは《経験に先立つものごと( essences or values as a priori )》が 人間に所与として・動態として そなわると。つまりは 経験科学ないし哲学がもとづく経験合理性なる判断基準によって把握される現象に明らかに先立つものごとの領野を想定している。     * ヒラメキ直観より以前の・ただし同じくインスピレー     ションに属するイメージ直感をも視野に入れているのかも     分からない。  4. この根源的な体験なる現象は 経験であるからには その行為主体がいるが その対象としての現象 もしくは 経験じたいは その現象もしくは経験がおのづから起きると見ている。その自然の生起を人は待つのみ。  5. 原体験の起こるのを待つ人間の態度としては 自己が日常に慣わす生活態度( a moral attitude )のことである。また それのみである。と同時に この生活日常の姿勢は――おそらく 他者の存在が想定されることから―― 基本的に《かかわり( love )》と言ってもよい。  6. あらゆる現象との遭遇(仕合わせ)や他者との交通(まじわり)が 世界をかたちづくっているが その世界においてわが人間存在の根底における根源的経験は カカワリ(相互主観性)を基礎とする生活態度において その直感および直観として生起し その現象じたいのほうからわが主観にやってくる。       *意訳しました。英訳文:     Scheler describes the essence of philosophical    thinking as "a love-determined movement of the    inmost personal self of a finite being toward    participation in the essential reality of all    possibles."  7. プラトンのイデアに倣って 原本質( Urwesen / primal essennces of all essences )が想定されるかも知れない。シェーラーのばあいは カカワリ(愛)の問題であるようだ。  8. ただし 概念として認識の対象となって把握しうるというようなモノやコトではないらしい。むしろ 理性は お呼びでないと言ったほうがよい。  9. 原体験を得て それが愛(カカワリ)にもとづくと自覚したあと おそらくやっと 理性や論理がそのことを認識する。それとしてなら 哲学知としても言葉で表わし得る。  10. (勝手に自説を交じえます): 愛に対する概念として 憎しみ( hatred )が立てられているが これは おもしろくない。愛が カカワリなら むしろその対極は 無関心であるはずだ。  11. 言いかえると 憎悪は カカワリを絶やさないなら 大きく《愛》である。敵対関係は 大きく 愛の関係である。なぜなら おそらくそこで人は原体験をあじわうであろうから。  12. けれども カカワリの放棄としての無関心は 端的に言って 死である。もはやそこでは 人間にとっての根源的体験は 得られないと思われる。この死の固定した状態(固定した死の状態)は 一般に悪魔と呼ばれる。そういう人間存在がいるということではなく そういうハタラキが想定されるものと思われる。  ・・・

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.2

以下叩き台としてご利用ください。 フッサール、シェラー、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナスの読者からの反応は考察のお役に立つと思います。 それから、竹田の学生や読者がどういう反応を示されるのか楽しみです。 手抜きですみませんが、愚拙の設問のお礼欄で複数回書きましたので転載させていただきます。 http://okwave.jp/qa/q7011950.html 【「事物があると経験できる」から「経験すると事物があらしめられる」へ切り替えるときに(還元)、何かを意識するのではなく流れそのものである意識が志向性を保っていたり同一性の定立を目指していたりするという特質をもって何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】 【現象学では、リンゴの個々はどれも違う筈なのにどうしてリンゴってわかるんだろう?(類概念に昇華される)ということに注目しますね。それからもう一つ、わたしたちがリンゴを前にしているときの現出が、意識の流れの上で(=時間)やたらに変化しないで同一性を保っているということを重視します。こうした経験に構造を見出していこうという学問です。 微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】 【現象学って経験しかみつめないんです。それで、時間をみつめることになったり、志向性そのものを見つめることになったり、意識や認識をみつめることになってしまうんです。】 【赤は色覚だから見る体験ですが、例えば熟し実や夕焼けや花を見て経験するカテゴリに関連付けされ、見ている意識の持続においてぶれなく現出してくるので、存在として認識した像を結ぶことができるんでしょうね。初めにあったものごとのことなんてわかりませんでしょう、現象学では。】 【知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず、経験の対象について一個別的なものにとどめず、総称的な全体概念を把握できるということなんです。】 【たとえば、シャツのボタンが、あなたの知っているボタンの具体物一つ一つであることを棚上げして、 ボタンという形相と結びついているということ、 あなたの知らないボタンがどれほど無数にあるか知れないのに、存在するボタンの全てを一つずつ確かめなくても、ボタンをわかっていること、 これが、全体の明証性を問わずにいられる本質観取という出来事です。 そして、さらに言えば、経験において時間の過程であるボタンの現出がずっと同一のボタンでありつづけるための志向性があること、これが本質観取という、明証なき実在の知覚の事態です。】

bragelonne
質問者

お礼

 催促してしまってすみません。ご回答をありがとうございます。  竹田青嗣が そんなにかかわっているのですか。  シェラーという名が ヰキぺには見られない名ですね。  いちど目を通しているご文章ですが あらためてまなびますので まづは前もってのお礼の言葉を申し述べるまでとします。  ありがとうございます。

bragelonne
質問者

補足

 すみません 不勉強を省みず――もしくは 不勉強であるゆえに―― 大胆な尋ね返しをおこないます。  ご説明にしたがうならば その内容は 例のプロティノスの弟子であったポルピュリオス(234~305以前)の書いた『イサゴーゲー』における分類論(カテゴリア論)と同じであるように思ってしまうのですが いかがでしょう? (新プラトン主義の系譜ですね)。  ▲ (ポルピュりオス:イサゴーゲー) ~~~~~   類とは何か 差異とは何か 種とは何か 特性とは何か 付帯性とは何かを知ることは・・・定義を下すためにも また総じて区分と論証の仕事に対して これら(五つのもの)の考察は有益でありますから・・・手短に いわば入門書(イサゴーゲー)風に・・・試みましょう。   ・・・  1 類(ゲノス)について  ・・・  種を異にする複数のものに対して 何であるか〔という問いに対する答え〕の中で 述べ帰せられるものが 類である。例えば 動物がそうであると。  というのは 述べ帰せられるもののうちで あるものは一つのものだけについて述べられる。例えば ソクラテスやこの人やこのものなどだけについて述べられる。  しかし他のものは 複数のものについて述べられる。例えば類や種や差異や特性や付帯性は 特定の何かにではなく 〔多数のものに〕共通的に帰せられる。  類とは例えば《動物》 種とは例えば《人間》 差異とは例えば《理性的》 特性とは例えば《笑える》 付帯性とは例えば《白い》《黒い》《坐っている》である。  このように類は一方において 複数のものに帰属せしめられ述べ帰せられるという点で ただ一つのものだけに対して述べ帰せられるものとは異なるものであるし  他方において 複数のものに対して述べ帰せられるものに比較するならば  まづ種とは なるほど種も複数のものに対して述べ帰せられるのではあるが しかし種において異なるものにではなく数(* 個・個体)において異なるものに対して述べ帰せられるという点で 異なっている。  例えば人間は種であって ソクラテスやプラトンに述べ帰せられるが この両者は種において相互に異なるのではなく 数において異なるのである。  また動物は類であって 人間や牛や馬に述べ帰せられるが これらは単に数においてだけでなく 種においても相互に異なっている。  次に特性と比較すると 特性はただ一つの種――つまり特性がそれの特性であるところの種――と この種の下の個に対して述べ帰せられる。〔例えば《笑える》は人間という種だけと 個々の人間に対して述べ帰せられる〕のに反して  類は一つの種にではなく 複数の異なる種に対して述べ帰せられるという点で 類は特性と異なる。  さらにまた差異および共通的付帯性と比較するならば この二者が種を異にする複数のものに対して述べ帰せられるけれども しかし《何であるか》〔という問いへの答え〕の中で述べられるのではないという点で 類はこの二者とも異なる。  というのは この二者が述べ帰せられる当のものが――今言ったように――《何であるか》の中でではなく むしろ《どのようなものであるか》の中で 述べられるからである。例えば《人間とはどのようなものであるか》という問いに対して 《理性的な》とわれわれは答えるし また《からすはどのようなものか》に対して《黒い》と答える。  このばあい《理性的》は差異で 《黒い》は付帯性である。他方《人間とは何であるか》と問われたばあいは 《動物》とわれわれは答える。動物は人間の類であった。  かくして類は 複数のものについて述べられるという点で ただ一つの個体だけに述べ帰せられるものから区別され   また種を異にする複数のものに述べ帰せられるという点で 種としてあるいは特性として述べ帰せられるものから区別され   さらに《何であるか》の中で述べ帰せられるという点で 差異および共通的付帯性から区別される。  この両者は 両者が述べ帰せられるところのそれぞれのものが《何であるか》の中でではなく 《どんなものであるか》 あるいは《どのような状態のものであるか》の中で述べ帰せられるのである。  したがって 上であたえられた類の粗描は 少しも余計なものを含まず また欠けたところもないのである。   2. 種(エイドス)について   ・・・     (水地宗明訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~  【現象学では・・・  微分積分的なイメージを持っていただけるといいかと思いますが、時間における現出が同一性を保っているので、赤いとか丸いといった情報ごとの志向的相関が絞られてきて、リンゴの形相という結節点を炙り出すのですね。ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】  ~~~~~  ☆ というようですと 知覚をも引きこんで本質観取すると考えられますが その点ではポルピュりオスの場合 イサゴーゲーなる小冊子では そのことに無頓着のようです。  ▲ (ポルピュリオス 前掲書・まえがき) ~~~~  例えばそもそも 類と種に関して   1. それらが客観的に存在するのか それとも単に虚しい(対応する実物のない)観念としてのみあるのか   2. また存在するとしても 物体であるのか非物体的なものであるのか また〔非物体的であるならば〕離在可能な〔物質から独立して存在しうる〕ものなのか  3. それとも感覚対象の内に これらに依存しつつ存在するのか  という問題については 私は論じることを回避するでしょう。このような仕事はきわめて深遠で もっと大きな探究を必要とするからです。  ~~~~~~~~~~~  ★ ・・・何かの類的全体性へ辿り着くのですが、そういう意識のことを純粋意識と呼んでいます。】  ☆ ポルピュりオスらは この純粋意識と呼ぶこともなく 概念整理のために類・種・特殊・個といった分類論を得ているのでしょうね。  次の知覚の問題にも触れないということのようです。  ★ ・・・ノエマとノエシスの働きによってモデル化されますね。】  ★ 明証なき実在の知覚の事態  ★ 知覚分析的なプロセスを踏んでいて、けっして十全な明証性に届くことがないにもかかわらず  ☆ この中で 《明証性》の問題については 議論が分かれましょうか?  類・種・特殊・個の分類じたいにつていは 明証性をどこまでも求めるのかも知れませんから。分類された一つひとつの概念が 実際にそのものごととどのように対応しているのか これについては 触れないということですから 明証性を問わない。  リンゴは赤く丸いというとき――揚げ足取りっぽい議論になりますが―― 丸くないリンゴはないでしょうけれど 赤くないリンゴ たとえば王林のように熟したあとでも薄い緑のリンゴもありますから 現象学的還元には ポルピュりオスらのカテゴリア分類論は 必要であるように思うのですが これはいぢの悪い見方でしょうか?  もし詳しく細かくみれば フッサールもこうした分類理論についてとうぜん触れているということでしたら どうぞお見逃しのほどをお願いいたします。  * 何だか このような《返り討ち》をねらって ご回答を要請したかたちになったかにさえ見えます。  * 《志向性》が扱われることは おおきな違いでしょうか?  * 《直観》というよりは ふつうの概念整理であるように捉えられます。それゆえにも《観取》といった表現を用いるのでしょうか?  * せっかくの修復にふたたび傷が入るようでしたら 削除しようかとも思いましたが すべては学問のため ひいては日本の復興のためとお考えいただくわけにはまいりますまいか? (でもわたしのこの物言いは すでにいやというほど浴びせられているのでしょうね。わたしが知らないだけで。だとしたら その辺のことをご説明願えるかとも)。  * あぁ 最後の決断としまして 清水の舞台から飛び降りましょう。  

noname#143377
noname#143377
回答No.1

素人にも大変わかりやすい竹田さんの本によると、どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。 これはどういうことかと言えば、例えば、私がいま聞いているこの音は「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在である」。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音一般」といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものである。この音の前者の側面をわれわれは事実と呼び、後者の側面をその本質と呼ぶ。もっとわかりやすく言えば、私がある個物を見る。この個物はそれを私が今ここで経験しているものとしては事実である。ところがこの個物はある言葉で呼ばれうる、電車の音とかピアノの音とか。この言葉それ自体が含む普遍的規性、それが「本質」であると。 要するに現象学でいう「本質」とは言葉(それによって形成される何らかの理念)のいみのことであると。

bragelonne
質問者

お礼

 あさひさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~  ○ どんな事実も必ずそこに本質を含み、したがってある本質として観取され、記述される、という。  ○ 〔事実があって そこに本質がある〕。  ○ 要するに現象学でいう「本質」とは言葉(それによって形成される何らかの理念)のいみのことであると。  ~~~~~~~~  ヰキぺを参照しても 《本質直観》の項目はまだなく 《現象学》についても フッサールについての項目は 部分的な記述があるのみです。  ▲ (ヰキぺ:現象学) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6    § フッサールの現象学    フッサールの目標は、「事象そのものへ」(Zu den Sachen selbst!) という研究格率に端的に表明されている。つまり、いかなる先入観、形而上学的独断にも囚われずに存在者に接近する方法をフッサールは求めたのである。その過程で、フッサールの「現象学」の概念も修正されていった。下記においては、フッサールを活動時期によって1.前期 2.中期と 3.後期の3つに分け、各々の時期に考案された主要な概念を取り上げて叙述する。  §1 前期(記述的現象学)~『イデーン』前まで~   1900年前後のヨーロッパにおいては、学問が自己の整合性・論理性のみから展開していく一方で、特に数学・論理学の領域で、心理学主義・生物学主義的な、心理的現象から論理を基礎付けようとする思想が席巻していた。心理学主義とは、あらゆる対象の基礎を心理的な過程に基づけようとする試みである。数学の研究者から出発したフッサールの関心も、心理学から、論理・数学を基礎付けようとするものであった。  フッサールは、大学で約2年間師事したフランツ・ブレンターノの「志向性」(独: Intentionalität) の概念を継承したとされる。ブレンターノにおいて、「志向性」とは「意識」が必ず相関者(対象)を指し示すこと、言い換えると「意識」とは例外なく「何かについての」意識であることを意味する。ブレンターノ自身は、志向性の概念を心理作用の分類に用いただけであったが、フッサールは、「意識」がまず存在し、その後で対象が確認されるのではなく、「意識」と相関者(対象)が常に相関関係にあるという志向性の特徴に着目した。  §2 純粋経験=志向的体験  §3 現象学的還元(超越論的還元及び形相的還元)   日常的に、私たちは、自分の存在、世界の存在を疑ったりはしない。私たちは、自分が「存在する」ことを知っているし、私の周りの世界もそこに存在していることを知っている。この自然的態度を以下の3点から特徴づけ批判する。   1.認識の対象の意味と存在を自明的としていること   2.世界の存在の不断の確信と世界関心の枠組みを、暗黙の前提としていること   3.世界関心への没入による、意識の本来的機能の自己忘却  このような態度の下では、人間は自らを「世界の中のひとつの存在者」として認識するにとどまり、世界と存在者自体の意味や起源を問題とすることができない。このような問題を扱うために、フッサールは世界関心を抑制し、対象に関するすべての判断や理論を禁止する(このような態度をエポケーという)ことで意識を純粋な理性機能として取り出す方法を提唱した。  §4 超越論的主観性  §5 ノエマ/ノエシス  §6 後期(発生的現象学)  §7 生活世界  §8 キネステーゼ(運動感覚)  ~~~~~~~~~~~  ☆ 本質とは ことばの意味のことだという場合には それほど難解ではなく またほかの哲学との違いもあまりないように見受けられます。  よって もう少し質問を開いていようと思います。あしからずご了承ください。