- ベストアンサー
本質直観について
こんにちは。 現象学の本質直観について、 具体的なやり方が 詳しく載っている本があったら教えてください。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
みんなが選んだベストアンサー
カントは経験直観、つまり感覚器官を経由した直観しか認めなかったけど、フッサールは本質諦視とか本質直観が可能であるという。 ベルグソンは、もともと直観を方法の中心に据えているから、当然、本質直観を認める。 ベルグソンは言う、人間の知性は静止したもの、動かないものは知ることはできるが、動いているもの、持続するものは知ることができない、それを知ることのできるのは直観である、という。 では、その直観とは何か? となると、それがよく分からない。 たとえば、運動や、持続の内部に入って、それを体験することが直観だという。 しかし、内部に入るって、いったい何なのか? それを説明しない。 フッサールにとって本質直観は、そんなに難しい方法ではない。 たとえば机の本質といえば、机にはいろいろな形があるが、その中の共通項を抽出してゆけば、机の本質が取り出せる。 つまり感覚器官を経由しなくても、想像力を駆使して、頭の中に机をイメージし、いろいろ変異させてみる。 そしていろいろ変異させて、これ以上変異させたら机ではなくなってしまう、その限界が分かったら、その限界の内側の共通するもの、それが机の本質だ。 実に簡単。 カントにとって感覚器官を経由する直観が経験直観とすれば、フッサールにとって想像力を駆使して、物事の共通項を、最大公約数を抽出すれば、それが本質だということになる。
その他の回答 (2)
フッサール『経験と判断』 という本だそうです。 あとはご自分の経験から、読むべきか否かを判断してください。
お礼
ありがとうございます、チェックしてみます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ▲ 立松弘孝編『フッサール・コレクション』2009 ☆ から引くという横着なやり方ですが コメントをあたえて行きます。 ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。 ☆ そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。 ▲(2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 言えることは 次である。 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》 ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか? (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味 を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられ ている。おそらく経験世界における有限で相対的なもの に過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したの であろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはず だ。この条件付けは要らないのではないか? (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要ら ない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲(3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざ わざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。 ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。 そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必 要を見ない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲(4) しかも《われ在り》が志向的な根元的根拠であるのは 私がリアルな世界と見做している《この》世界に対してだけでなく 私にとってそれぞれ妥当する《イデア的な諸世界》に対してもそうである。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~ こうなって来ると 何だかわけが分からなくなる。 そもそも《われ》にとって――そしてそれは 誰にとっても―― 世界は 《いま・ここなる〈われ〉の世界》がすべてであり その世界観こそが 人それぞれに違っていても そのひとつの世 界は 共通であると考えられているはずだ。通底していると見ら れているはず。公理としてのごとく。 そのあと どうしても分けたいというのであれば イデアとリ アルとに区分してみればよい。 《私にとってそれぞれ妥当する〈イデア的な諸世界〉》は 世 界観と言えばよい。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ▲(5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。 ☆ これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為 にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだ けのことを 言ったに過ぎない。 ▲(6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。 ☆ ~~~~~~~~~~~~~~~ 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに 向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈わ れ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。 いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ▲(7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。 ☆ 独我論が いちばん当たっていると思う。 ▲(8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(以上は 『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.) ☆ 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗 黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。 ▲(9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。 ☆ たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込め ないはずだ。保留しよう。 ▲(10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。 ☆ ~~~~~~~~~~ そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対 の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち 《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。 あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいの だろうか。 ~~~~~~~~~~~~ ▲(11) 〔・・・〕《世界が存在する》という一般的な呼称は これに付随する精確に観察する意図的な経験の全体(ユニバース)と共に 《あらゆる究極的な すなわち直接的な認識の諸原理の全体》ないしは《普遍学にとって必要なあらゆる経験の全体》を それ自身のうちに包含しているように思われる。 ☆ ~~~~~~~~~~~~ 《世界》と言えば すでに呼び方だけとしてでも 《全体》である。 その《世界》は そこに繰り広げられるあらゆる出来事を そして その観察結果としての理論をすべて 含む。当たり前だ。 ~~~~~~~~~~~~~ ▲(12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。 ☆ ~~~~~~~~~~~~ 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験 世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属すると いう事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認 識においてという前提がついている。 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致 されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像にお いてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。 ~~~~~~~~~~~~~ ▲(13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。 ☆ 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響 を受けるというのみ。《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定する と言ったところで 何の影響もない。 ▲(14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(以上は 『第一哲学』H.VIII, 41f.) ☆ ~~~~~~~~~~~~~ その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? そういう 問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。 《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。 ~~~~~~~~~~~ * ☆ 結論:このような《わたし》にとって 本質直観は無理。純粋意識という程度のこと。 《判断中断(エポケー)》という行為をすることに尽きると思われる。
お礼
ありがとうございます、よく考えてみます。
お礼
なるほど、ありがとうございます。