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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。  応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?  ほかの人からの評価についても 知りたいです。  というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。  つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。  いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

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noname#143207
noname#143207
回答No.16

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 
> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。
  了解致しました。 
> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
  (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。
   * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。
 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
    * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
    そうすると 言えることは 次である。
  (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?  (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。
  (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?
  (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。
  (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 
> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。
   * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 
  おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 
> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
   * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。
  この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ 
> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
   * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。
  おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 
> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。
   * 独我論が いちばん当たっていると思う。
  仰られる通りかと存じます。 
> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
   * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。
  はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 
> ▲ (同上) ~~~
  (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。
   * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 
 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。
   * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。
  おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 
> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。
  仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 
> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。
   * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。
  上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 
> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)
   * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
     《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。  フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。  表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか?   そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。  前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。  ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~  (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。  * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り  方でしょうか。   たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで  なのだと思われます。   もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい  う可能性は 見ようとしている。   あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か  らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。   とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と  いう存在を基軸にして 理論をつくるか。  (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。  * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /  すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら  れるほどの推論が成されうるとは思えない。   別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない  《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ  って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が  潜んでいるかも知れない。   言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨  ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを  示していることになるかも知れない。   よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい  ると解する。  (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。  * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。   それはそれとして 次へすすむ。  (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)  * さらに次へすすもう。別の段落だ。  ▼ (同上) ~~~~  (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。  * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど  りつくはずだと言おうとしている。  (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)  * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考  えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言  うと それほど確かであるようには思えない。   《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が  世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな  いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし  ていないか。   仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や  社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。   さらに次へすすみたい。  ▼ (同上) ~~~~  (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。  * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを  起こそうという議論に見える。   ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的  にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止  とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて  いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。  (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)  * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか  れていることは 見て取れる。   言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり  着かない。   方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ  とすれば その応用編で勝負となるはずだ。  ▼ (同上) ~~~  (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?  * これが 読者が初めから知りたかったことだ。  (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。  * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に  捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう  としていることは 見て取れる。   その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実  認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと  しているようだ。   それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな  い。  (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)  * 次へすすもう。  ▼ (同上) ~~~  (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。  * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世  界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。  (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。  * パス。  (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。  * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。  (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。  * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう  か?  (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)  * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには  おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが  志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ  うか?   それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて  いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。   他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸  であることに変わりはないと。  ~~~

その他の回答 (65)

回答No.26

取り乱しのことですね。 タブー化されたようですけど、ティアマトはいつからいるんですか? アイオーンというかセフィロトというか 始原から流出して展開したものについて考えてみようかな、と… 河童さんの評判はどのようなものだったんですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  ★ 取り乱しのことですね。  ☆ これは だいたい 自分で整理するものです。  ★ タブー化されたようですけど、ティアマトはいつからいるんですか?  ☆ わたしより前からです。《タブー化された》のですか? 知らなかった。近頃見ませんが。  そう言えば かの人から 2チャンネルで ぼろくそに言われているということを聞きましたし そのスレを読みました。  ★ アイオーンというかセフィロトというか 始原から流出して展開したものについて考えてみようかな、と…  ☆ 何でも構わないはずです。自分が関心を寄せているものがいちばんでしょう。  ★ 河童さんの評判はどのようなものだったんですか?  ☆ 内容は もっとあとで知ったんですが OKヱーヴの良心だということでした。

回答No.25

まさに、あの戦争はなんだったのか?ですよ。 ラテン語の話になったあたりはかなり話としては終盤でしょう。 私がサイトに登録してから、そこに至る一連の過程があったはずです。 だいたいこのサイトにおいては母というのはなんらかのアナロジー、メタファーでしょう。 私にもよくわかりませんよ。一人の参加者がやけに多様していたんでしょうが… なんでしたか、ティアマトがどうとか。 というか過程がすべてなかったことになるのに因果関係が継続するとは奇っ怪な… そういえば過去ログによればブラジュロンヌさんも私より前から登録していたとはいえ途中組みなんですよね。洗礼がどうとかの質問。 それ以前のここのカテゴリーの過去、始原、始まりは何だったんでしょうね? 無限と無しかないんでしょうかね? とりあえず河童さんはいつからいるんだろう…

bragelonne
質問者

お礼

 だから   ★ あの戦争  ☆ って あなたの《取り乱し》のことを言っているの? あるいは もっともっと前の話ですか?  ★ ティアマト  ☆ は その《犯人》のことは分かりましたが 口に出すのもおぞましい。  このサイトで わたしは 途中組ですよ。でも 四・五年になりましょうか。  ★ 洗礼がどうとかの質問。  ☆ ええ。これが デビューです。でもあなたは その質問には参加していなかったはず。あとで 見たのですか?  ★ それ以前のここのカテゴリーの過去、始原、始まりは何だったんでしょうね?  ☆ ええっ? どういう見方をしようとしているのか? サイトの趣旨なら 明らかにされているのではないですか?  河童さんは ふるいですよ。わたしが参加したときには すでに評判が立っていたようでしたから。  いまひとつ焦点がさだまらず。ですよ。

回答No.24

ふと過去を思い出して気になったので当時を知る人に訊こうということで… かつて壮絶な戦いというか、やりとりがあったわけですが…私が誰かと結婚したという設定になったではありませんか? その後、別れたのかしりませんがうやむやになりましたが… あれ結局、誰で一体全体なんだったんですかね?去年か一昨年の話のはずですが…とても昔な気がします。ブラジュロンヌさんも当時をしる人としてなにか知りませんか? あと当時のやりとりと現在はつながっているんですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ あと当時のやりとりと現在はつながっているんですか?  ☆ わたしの人格においても心においても いまのところ つながっています。  冷酷になれるぶんも つながっていましょう。  ★ 私が誰かと結婚したという設定になったではありませんか?  ☆ それは あなた自身が 例のさくらこ氏だかのことを 自分から出したのでは?  つまり今回は 一つ前のご投稿のつづきとして ぶっきらぼうです。  いま少し具体的な事例を出して話をすると よいかも。  ★ 壮絶な戦い  ☆ は けっこう何度もわたしはやって来ていますよ。だから どのことを指して言っているのか。はっきりさせてくれると ありがたい。

回答No.23

またまた思うことを少し。 その前に謝罪します。望遠鏡で木星をみた人というのはガリレオのことです。木星をみて地動説を確信したガリレオと望遠鏡を覗いたこともない当時の人たちではもはや生活世界が違ういうことを言いたかったのです。あまりにも舌足らずでした。ごめんなさい。 ※相互主観性の主張におけるズレについて((a)~(d)への回答として) 意志や思考によってどうにもならない直観世界は二重になっているのではないでしょうか?根源的地盤と生活世界の二つです。まず、感覚データから直観(根源的臆見)によって根源的地盤が開きます。他者で言えば、自分と似た身体が見えるという経験です。そのあと、根源的地盤に立ったうえで、感覚データから直観(志向性)により生活世界が開かれます。他者で言えば、似た身体に対して自己投入してしまうとか、コミュニケーションできているといった経験です。この生活世界においては他者に自我があることを確信させられています。その存在を疑うことはできても、確信を取り払うことはできません。そして他者の視点を意識しないと生活世界では確信が得られなくなっています。他者を意識しまいと努力してもどうしようもないのです。 ※真善美について あえて言えば、フッサールは、真(永遠普遍)については分からないので考えたってしょうがない。美(本質直観)については、根源的地盤を同じくしていれば、共通する。善(道徳法則)は各自で自由に自律的に決めて行動できる。といったところでしょうか。非常に乱暴に言えばカントの思想から物自体の概念を取っ払ったのがフッサールだと思います。そこにフッサールの独自性があるような気がします。 そして、各自で自由な善を追求する能力をもって、真(永遠普遍)を追求できると勘違いしたのがデカルト以降の近代科学であって、それは生の経験を覆い隠して本質直観を不可能にした。これがフッサールの危機感なのではないでしょうか。 フッサールはデカルト以前いやプラトン以前に人々が当たり前にしていた世界把握方法を回復しようと思っただけなのかもしれません。そういう意味では独自性は無いかもしれません。あっ、そう思ったのはハイデガーかも? あと、志向性と意志は全く別ものだと思います。志向性は直観であって意志ではどうにもならないものだと思います。どこからともなく自分の意志をねじ伏せるようにやってくる確信が志向性なんだと思います。主観は自分で作り上げたものではないのです。なんらかの力で確信させられている。考えたってしょうがない。どうしようもない。だから独我論ではない。という主張なんだと思います。 以上です。回答になっているでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ていねいにお答えくださりありがとうございます。  れあれるげんさん――それにしても変わったお名前ですね―― お早うございます。  ★ 生活世界  ☆ については まだ原文(翻訳文の選集)を読んでいませんので 明るくありません。  ガリレイと世間一般の人びととは 生活世界においては 相互主観性と言っても 違いがある。ですとか。  質問者のこれまでの理解では 相互主観性を問題にするときは つまりその次元は 根源的な主観においてであるので 人びとすべてに共通性ないし普遍性があると読んでいたのですが そうではないでしょうか?  言いかえると おっしゃるように次元がふたつの階層としてのように分かれている。分かれていて 生活世界の具体的な場では 人びとは互いにその経験や知識の蓄積の違いによって 主観ないし思想は違って来るけれども 根源的な《相互主観性にもとづく超越論的主観性》においては 普遍的に同じ在り方をしているだろうと。  ★ 意志や思考によってどうにもならない直観世界は二重になっているのではないでしょうか? 根源的地盤と生活世界の二つです。  ☆ たぶん 意志によって思考をほどこす理性ないし論理の次元では もはや《直感あるいは直観》とは言わないのではないか?   むろん 根源的な次元における直感イメージおよび直観観想からこそ 理性による思考は来ると捉えます。その意味で 直観世界を広く見たときには その世界が二重になっている。そういうことだと見ます。  ★ ~~~~  まず、感覚データから直観(根源的臆見)によって根源的地盤が開きます。他者で言えば、自分と似た身体が見えるという経験です。  そのあと、根源的地盤に立ったうえで、感覚データから直観(志向性)により生活世界が開かれます。他者で言えば、似た身体に対して自己投入してしまうとか、コミュニケーションできているといった経験です。  ~~~~~  ☆ たぶんそういう順序――すなわち 根源的地盤⇒生活世界という先行後行の順序――を打ち出すことも 現象学のとなえるところなのかと思います。思いますが この場合 どうでしょう まったくふつうに生活日常を捉えてよいのではないでしょうか?  すなわち 世の中には 《わたし》を自称する存在が このわたしのほかにも たくさんいる。その人たちとわたしは交通する(まじわりを持つ)。おそらくこのようなマジワリを持つことになるという《わたし》どうしの関係(かかわり)が 言ってみれば 存在の根源的な基礎を成しているのではないか?  ぎゃくに言いかえると このいま・ここの生活世界が 人間にとって世界のすべてであって そこには 人間の存在観として根源的な――つまりおのおの主観の自由とその自由どうしの対等ないし平等といった――かかわり(関係)がすでに見いだされており その基礎の上に まじわり(交通)がおこなわれているのだ。と。  つねに天の邪鬼に成って 質問者ながら 物言いをつけるなら そう考えられます。  つまり あくまで・どこまでも フッサールないし現象学の独自性を追い求めます。(ないのではないかという憶測をさえ持ちつつあります)。  そのつてでは こう言っておられます。  ★ ~~~~  フッサールはデカルト以前いやプラトン以前に人々が当たり前にしていた世界把握方法を回復しようと思っただけなのかもしれません。そういう意味では独自性は無いかもしれません。あっ、そう思ったのはハイデガーかも?  ~~~~~~    前の議論のつづきですが。  ですから 順序は 根源的地盤から表層の世界へということでなければならない理由が見当たりません。  ★ この生活世界においては他者に自我があることを確信させられています。その存在を疑うことはできても、確信を取り払うことはできません。そして他者の視点を意識しないと生活世界では確信が得られなくなっています。他者を意識しまいと努力してもどうしようもないのです。  ☆ この《自我》という言葉も やっかいです。何でこんな面倒な用語にしたのかと つくづく思います。(そう思ったきっかけは むしろ精神分析のほうでですが)。  《わたし Ich / ego 》ぢゃないですか。だって 《自我が考える。ゆえに 自我がある》とは言わないでしょう。そんな言い方をすれば またまた 客観視の問題になりませんか? 仮りに《自我》という客観的な何者かがあったとしても それをも《わたし》は そのわが主観――つまり記憶と知解と意志の行為――のうちにおさめています。統覚の主体がいます。  ですから わたしは ほかの人びととマジワリを持つ。その人びとも 一人ひとりそれぞれわたしと同じく《わたし》と自称している。そしておそらくその《わたし》が 存在の基礎であり核であろう。その基礎においては 根源的に・あるいは言うとすれば絶対的に 人びとは互いに関係しあっている。カカワリは 《わたし》が根源的であるのと同じく 根源的であろう。  このとき《自我》などというワケの分からない言葉を用いる必要は ないのではないか? あちらでは みな《 Ich / ego / I / ・・・》という自称の言葉で表わしているのに なんでわざわざこちらでは 別の言葉をつかわなきゃならないのか?  質問者からの補足質問として受け取っていただければさいわいです。ぶつぶつ口調は 余計ですが。  ★ 確信  ☆ は 《わたし》の存在形式から来ているはずです。  《わたしがわたしである》という自己同一性が まづ現われます。《わたし》は 数として一だとしますと 1=1 というかたちです。  そこで《〈わたしがわたしである〉わたしが わたしする》 これで 動態としても わが自同律が生きることになります。1x1x1x・・・=1 つまり 1^n=1。  このわたしの自己表現という行為としても捉えられる自己の動態――表現としては 文体とも言える――が 確信の基礎になろうかと考えます。(相対的・経験的あるいは有限であるのですが)。  あぁ わたしは 現象学を無残にも解体しているのでしょうか? いまごろ気づいても遅いでしょうか。  ★ ~~~~   ※真善美について  あえて言えば、フッサールは、真(永遠普遍)については分からないので考えたってしょうがない。美(本質直観)については、根源的地盤を同じくしていれば、共通する。善(道徳法則)は各自で自由に自律的に決めて行動できる。といったところでしょうか。  ~~~~~~~  ☆ フッサールが神について触れないということは これまでにもおそわって来ています。そうなのでしょう。  ★ 非常に乱暴に言えばカントの思想から物自体の概念を取っ払ったのがフッサールだと思います。そこにフッサールの独自性があるような気がします。  ☆ この同じ事態を捉えて そうだとすればわたしは 同じコインの裏表であると見るゆえ 独自性はない。神は 《無い神》と同じです。    まづすでにお示しした《ヒラメキの構図》をごらんになってください。これは 審美眼に関連する質問を挙げてやり取りしていたときに ひどっちさんのご回答内容に刺激されて考えたものです。   【Q:われらが審美眼は 劣化したか】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html  ○ (ロゴスの階層・・・No.8お礼欄) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ☆ この構図にしたがって 回答者さんの真善美論を捉えると こうなります。   ★ 真(永遠普遍):スピリトゥス=ロゴス(α):クレド             (非経験のナゾなる非思考の庭):神   ★ 美(本質直観):インスピレーション=ロゴス(β):異言             :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ   ★ 善(道徳法則):〔* 道徳法則ないし倫理規範としてなら〕              ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性               にもとづこうとする論理  ☆ 善については おぎなわねばならないと思います。おそらくヒラメキとしての善もあるのではないか? 感覚やイメージとしての善もありはしないか?  たとえば妻子(や夫と子)のある相手と恋に落ち入ったとした場合 おそらくむしろ感性は いの一番に そこにはわが愛はないと見通しているはずです。ところが 理性とやらは どう対処すればよいかと合理的にあれこれ考える。感覚のヒラメキが よせと言っているのに それを振り切って裏切り(不倫)をおこなってもよいと決めるは 理性のほうです。  だから 善は ほんとうは むしろクレドの信仰のほうに属している。こう考えます。  ★ 志向性うんぬん  ☆ これは 定義としてその内容を広げて使っておられますね? 直観のことを言うのなら そうなりましょう。(四千字)

回答No.22

えっそういう解釈なんですか? もっと深刻に受け止めていました…。 目や胃が慢性病になってボロボロになるほどWikipediaを読み続けた意味や甲斐や苦労はなんだったんだろう。 そんなことしていなければもっと楽しく明るく健康的に皆さんと哲学談義できたのにな… あと二、三人謎の関係者がいるみたいなんですけど結局なんのことかわかりません。 アブラハムと三人の天使的なメタファー

bragelonne
質問者

お礼

 ゆきくん お早うございます。ご投稿をありがとうございます。  だけど すまん。覚えてない。  思い出すのは たとえば あなたが お母さんのことをしきりに出して 謎めいたことを言っていたこと。  総督ピラトに対するイエスの答えにつきそのラテン語文をめぐって なんぢゃらかんたら言っていた。そういうふつうのやり取りのその中に お母さんが どうのこうのと頻りに言っていた。  お母さんがこれこれこうだから 何かをできないとか お母さんがあれそれこう言うのだが それはどういう意味かとか。  こちらはわけが分からない。訪ねても 答えない。    そうそう そのラテン文をめぐって とうとう あなたは ラテン語の辞書を買うことになりましたね。  よく照らし合わせてみると 同じ辞書で 新旧のちがいだけだった。ところが わたしの旧いのには ひとつの意味が 欠けていた。うんたらこうたらやり取りしていた。  そんな思い出は甦るけれど   ★ あと二、三人謎の関係者 / アブラハムと三人の天使的なメタファー  ☆ と言われても にわかには 記憶がよみがえりません。  深刻な様子は分かったけれど ますます すまん よく分からないとこたえるしかない。  わたしは ここまで冷酷になれます。

noname#143207
noname#143207
回答No.21

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。
  いえいえ。愚生程度の知識ならば、2、3か月もあれば、誰しもがじゅうぶん得られると思われます。 > 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? 
  厳密には、異なるものと考えております。”客観”としての自己の”確信”がどのようにして成立するのか、に関するものと考えております。そして、可能な限り、疑い得ないものを根拠に論を進めていったものとも解してございます。 > そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。  この問題につきまして、後述致しております。 
> ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~
  (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。 
 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り方でしょうか。
 たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信までなのだと思われます。
 もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるという可能性は 見ようとしている。あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考からすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。
 とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》という存在を基軸にして 理論をつくるか。
  「《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り方なのか?」につきましては、少なくとも、当時のフッサールはそう考えていたと察せられます。  とにかく、まずは、疑い得ないものとしてデカルトの言葉をもって来たのかと考えております。  ですが、”無根拠”なるものまでは、生涯に渡ってそもそも言及すらしていなかったと考えております。 
> (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。 
 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの / すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得られるほどの推論が成されうるとは思えない。
  確かに、(”明証”の定義によりますが)一般論としましては、その推論・帰結は厳密ではないものと考えております。 > (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。
  * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたどりつくはずだと言おうとしている。
  確かにもったいぶった表現かと存じます。ただ、一切の認識作用の源は、”主観”に基づくこと、そして、対象の厳密な把握には、棄却、つまりエポケーが必要である、このことは言えるかと存じます。 
> (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)
  * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言うと それほど確かであるようには思えない。
 《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しないか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとしていないか。
  《あらゆる意味付与の源泉》、つまり、《主観》よる体験が、自己における”確信”、”妥当性”の源となることは、事実と思うのですが・・・ 
> ▼ (同上) ~~~~
  (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。
  * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを起こそうという議論に見える。
 ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めていた内容をみちびく直感が おとづれるものである。
  ヒラメキ程の高度なものではなく、単に(表現は仰々しいですが)事故に於ける知覚・確信作用といったものかと考えております。例えば、目の前にリンゴがあったとしますと、その表象を受けとり、リンゴだと”確信”たらしめるのは、ヒラメキ程のものではないと考えられるからでございます。 
> (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。
 それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではない。
  おそらく、こういうことかと考えております。つまり、外界の客観的実在性を確信させるのは、主観内であること、さらにまた、直観による”客観的認識”のことではない(そもそも外部世界における客観的なるものの存在はわかりませんので)、ということかと考えております。さらに申しますと、単に従来の認識方法の逆転的発想を主張したかったものと考えております。 
> (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。
  * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろうか?
  はい、主観は、我一人のみではなく、他者も持っているだろう、とそう解しております。その結果、超越論的相互主観性が生まれるものかと・・・  なお、フッサールは”他者”の実在の”確信”を以下にように根拠付けているようであります。 ・他者の振る舞い ・身体の類似性  前者におきましては、例えば、自分の手にボールペンを持っていたとします。そこで他の人に「これは何か?」と尋ねてみますと、その人は「これがボールペンだ」と言うに違いない。さらにまた、実際にそんな質問をしなくとも、自分は、他者がボールペンを見つめているのを見ることで、ボールペンが実在していることを自明なものとして感じている面がある。この2点を根拠ろしております。  一方、自分は「自分の身体と他者の身体の類似性」および「自分の心と身体の関係性」の面から、他者の身体(心も含みます)には、私と同じような心が存在することを経験上確信しているからくる、を根拠としているようであります。 
> (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)
 * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときにはおのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが志向にとってもその《対象性》を有するというのであろうか?
  他者と”同じ(=同一の)”《対象性》を有する、とまでは言っていないかと存じます。 
> 《われ》という主題であるならば デカルトだけではなく さらに昔へさかのぼってたとえばアウグスティヌスの《あやまつなら われあり》なる《主観》観があるはずだ。と質問者は 言おうとしています。  従来では、客観が存在するという前提に立脚した認識論でありました。デカルトもそうでございました。しかし、客観が実在するとなりますと、主観と客観の一致がどのようにして成立するかの保証が問題とされてしまいます。結局、デカルトも”誠実な神”を前提とせざるをえず、神の存在証明に取り組まざるを得なくなりました。また、カントにつきましても、”物自体”の概念には、形而上学的意味合いが含まれてしまいます。そこで、客観をとりあえずは横に置き(そもそもあるかないか不明ですので)、論を進めていったのはフッサールが最初であった訳でございます。そして、では客観が確信に至るのは、どいう経路によるものかどうか、この問いに応えていったものと考えております。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 従来では、客観が存在するという前提に立脚した認識論でありました。デカルトもそうでございました。しかし、客観が実在するとなりますと、主観と客観の一致がどのようにして成立するかの保証が問題とされてしまいます。  ☆ こういう問題点だったのですか。  ひどっちさん こんばんは。引き続きお世話になりたいと あらためて 思います。ご回答をありがとうございます。よろしくお願いいたします。  でしたら もともと問題は 《客観と主観とに分ける》のはどうしてか といったところにあったということになると思うのですが?  つまりは 分ける必要はない。なぜいちいち分けるのか? という答えになりませんか?  言いかえると フッサールの切り口があたらしいとのことですが それはあくまでふたつに分けたうえで どうするかを考えたわけだと思われます。  なぜ分けなければならないか? という切り口は なかったのでしょうか?  世界についての見方を客観と主観に分ける分けないにかかわらず 主観ないし《わたし》という存在性――ないし本質――は 説かれていたはずです。その文章をかかげて ご批評をあおぎたいと思います。  ◆ (アウグスティヌス:精神が精神する) ~~~   精神は自己を知り承認するとき この知は精神の言葉であり この言葉は精神に全く等しくかつ同一である。  それは物体の知のような より低い本質の知でもなく 神の知のような より高い卓れた本質の知でもない。  知は それが知るものとの類似を持つ すなわち それの知であるから この類似は知る精神がそれによって知られたものに等しくかつ完全なものである。  それゆえ 知は認識することによって精神に等しくされ 産出されたものは産出者に等しくあるとき 精神より表出されるから 精神の似像であり 言葉である。      (『三位一体論』vol.9 ch.11 中沢宣夫訳)  ~~~~~~~~     ☆ すなわち 精神が精神するとき それとしての知がうまれた。   知解と名づける。   知解において その知が――それとしての主観が―― 精神に等しくあるなら まさしく《わたし》の自同律(自己同一性)としての自己認識である。   これよりほかに わたしもしくは主観の根源は 経験事象に関する限り ない。わたしの本質である。      ◆ (承前 / 愛) ~~~~~~  それでは愛とは何であろうか。似像(にすがた)ではないのだろうか。言葉ではないのであろうか。生まれたのではないのであろうか。  精神が自己を知るとき 自己の知を生むが 自己を愛するとき なぜ自己の愛を生まないのであろうか。  精神は知られ得べきものであるゆえに 自己の知の原因であるなら 愛され得べきものであるゆえに 自己の愛の原因でもある。  その場合 精神が知と愛を共に なぜ 生まないのであるか 言い難い。       (同上 vol.9 ch.12)  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 精神が精神して 自己の知としての知解が生まれる。  精神が自己を愛するとき それはおそらく自己の知解という自己同一性を生むというかたちではなく そのありさまは 次のようであろうか。  すなわち わが存在に関して 知られ得べきものが――つまり精神が――知られたように ただししかも 知る知られるの問題ではなく 〔精神が自己を愛したときには〕 愛され得べきもの――それはやはり精神なのだが――が愛された。  ということは 自己の知解と自己である精神とが等しくあり 自同律であったところから 自己の愛が 発出している。    これが 精神の三つ目の行為能力としての愛であり 意志である。  そのとき 初めの精神は 狭義の精神として 記憶という行為能力である。    認識は 一般的なものごとについても 知解にかかわり 志向性――相関関係ないし意味関係――は 愛ないし意志の問題である。  志向性を 広義の精神ないし《わたし》のうちにそなわるものと見ておけば そこに知解行為がかかわっているのであるからには 知解ないし認識の主体と客体とは もともと《わたし》のもとに統覚されている。精神のうち特には 意志ないし愛のはたらきによる。  認識行為を 知解という第二の要因のみにおいて捉えるなら 主観と客観とにわざわざ分けて捉えることになるのかも知れない。  思考(コギト)は 狭義には知解行為であって 意志行為を含まない。広義には その思考にともなって意志ないし愛が 志向性としてすでに発出している。       ということではないのだろうか?  あとは任意に 認識をめぐっての知解と意志のはたらきを述べたところを引いてみます。  ◆ (アウグスティヌス:知解をめぐる意志のはたらき) ~~~~  〔ところが〕 意志は形成されるべき精神の眼差しをあちこちに運び移して 形成されたものを対象に結ぶ。  意志が内的な表象に全面的に集中し かつ精神の眼差しを感覚の周辺にある物体の現前と また身体の感覚そのものから完全にそらし 内的に見られる似像に深く向けるなら 理性でさえ 外的な物体が見られるのか それともこのような内的なものが思惟されるのか 区別し得ないような記憶から表わされた物体のかたちの似像が見出される。  可視的なものの法外な思惟(おも)いによって誘われ 脅かされる人々は時々 あたかも実際にこのような行為や苦しみのただ中に留められるような声を突如出すからである。     ( vol.11 ch.4 )  ◆ (アウグスティヌスのエポケー) ~~~~  精神は知覚された事物の似像を 自己だけを見つめるために自己から見分け得ない・・・。それらの似像は愛の膠(にかわ)によって不思議な仕方で精神にへばりついている。これが 精神の不純である。  というのは 精神は自己のみを思惟しようと努めるとき それなくしては自己を思惟し得ないものを自己であると思いなすからである。  したがって 精神は自己自身を認識するように命じられるとき あたかも自己から取り去られたもののように 自己を問い求めてはならない。むしろ自己に付加したものを取り去らなくてはならない。  精神は明らかに外側に存在している感覚的なものより内的であるのみならず 魂の或る部分において存在するあの感覚的なものの似像よりも内的である。  動物も 精神の特性である知解力を欠いているとはいえ これらの似像を所有している。そこで 精神はより内的であるから その愛の情念を感覚的なものへ向けるとき 自己自身から或る仕方で外に出る。感覚的なものは多くの意志の志向の跡として精神の中に残る。この跡は 外側に存在する物体的なものが知覚されるとき いわば記憶に刻印されて たとい その事物が不在のときでも その似像は思惟する人々に現在するのである。  だから精神は自己自身を認識せよ。不在なもののように自己を問い求めないで 他のものの上にさまよっている意志の注視を自己自身へ固着し 自己自身を思惟せよ。  かくて 精神は自己をかつて愛さず 知らなかったことがないのを見るであろう。  しかし 精神は他のものを自己と共に愛することによってそれを自己と混同し 或る仕方でそれと癒着したのである。  かくて 精神は異なるものを一つのもののように抱懐することによって 異なるものを一つのものであると思いなしたのである。  そこで 精神は不在なものとして自己を認めようと問い求めないで 自己を現在するものとして認めるように心を配れ。  また あたかも まだ知らないように自己を認識しないで 知っている他のものから自己を区別して知らなければならない。    (三位一体論 vol.10 ch.8-9 )   ~~~~~~~~~~~~~~

回答No.20

現象学と関係あればいいんですが… ネットに暗に頻繁に書かれている文章を自分のことか?と思ってしまう現象に関連した一連の問題です。 やがて名前が変わって、どこかに引っ越して養子?になる。 というものです。 誰のことなんだろう…。なぜ繰り返しこのストーリーが語られるのか?

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  ご回答をありがとう。  なんですって?  ★ ネットに暗に頻繁に書かれている文章を自分のことか?と思ってしまう現象に関連した一連の問題です。  ☆ これは 分かります。あり得ます。  ★ やがて名前が変わって、どこかに引っ越して養子?になる。 というものです。  ☆ 名前が変わるというのは ハンドルネームが変わるということですね?  そのあと  ★ どこかに引っ越して養子?になる。  ☆ これが分かりにくい。誰かの質問につきっきりになるというようなことですか?  ★ 誰のことなんだろう…。なぜ繰り返しこのストーリーが語られるのか?  ☆ 誰かの質問にかかりっきりになって 投稿を繰り返すようになるってことですか? ぐるになるといったように。  そういうストーリーですか?  ううん。何のことなのか?  ゆきやまくん 分からんよお。

回答No.19

またまた思うことを少し。 ※独我論について 他者を捨象しているのではなくエポケー(一時停止)しているだけだと思います。他者の存在を疑うことはできます。でも他者の存在を確信していることは疑うことができません。自分と似た身体が見える。その身体と言葉で交流できているように感じる。こういった現象からその存在を直感(直観)してしまう。自己投入してしまう。この直観は疑うことはできても意志で消し去ることはできない。他者は捨象できないのです。 そして、存在に対する直観について、他者も同じように直観しているはずだという直観がないと、存在に対する直観が訪れない。たとえ他者が直観していなくても、きちんと説明すれば直観してくれるはずだ。意見を異にするのは認識の地盤が違うだけで自分と同じ体験をすれば、直観が他者にも訪れるはずだ。このような確信(直観)があってはじめて存在に対する直観というのは訪れる。だから、独我論ではない。これが間主観性だと思います。どうしても他者を経由してしまう主観。他者を間に挟んでしまう主観です。 カントは、美的判断論で、美というのは、自分だけが美しいと思うだけでは美を感じられない。自分だけでなく他者も美しいと思うはずという確信があって初めて「美しい」と判断できると言っています。だから直観と美的判断は似ているなと思った次第です。 ※本質直観について(現象学が他の哲学と違うところ) 本質は永遠普遍の真理ではない。同じ認識の地盤を持つ他者とだけ共有できるものである。望遠鏡で木星を見た人と見ていない人では認識の地盤が違うので直観する生活世界も違う。望遠鏡で空を眺めるという行為が本質を変えるのです。 他の哲学では思考によって本質を変えられる。真理をより汎用性のあるものに変えられると考えています。現象学では本質は思考では変わりません。行為によって新たな体験をして認識の地盤を変えることで、本質直観が変わってくるのです。このあたりがフッサールの独自性ではないかと思います。 デカルトが思考(コギト)の存在確実性を唱えてから、思考は普遍なもの。思考はみんな同じ。みんなトレース可能。そう考えて近代科学は発達しました。でもフッサールは思考は各自独特なもの。みんな違う自由なもの。共通するのは直観(直感)だけと考えているのではないでしょうか。そしてその直感も共有できるのは、同じような体験をしている人々の間だけ。認識の地盤を同じくする人たちの間だけなんだと思います。 ごちゃごちゃした駄文でごめんなさい。以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 れあれるげんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  独我論が 相互主観性によって打ち破られているということであれば もうそれでいいと思います。いいと思いますが どうも筋道としては 違うのではないか。こういう物言いです。  後ろ向きの論点になりますが ひととおり見ておきたいと思います。  次の文章で言っている内容は 微妙であるようです。  ▼ (フッサール:他我と相互主観性) ~~~  ( a ) 私にとって根源的に与えられているのは すなわち根源的な自己経験によって与えられているのは 私自身の超越論的自我だけであり 他者の主観性が私自身の自己経験的な生の領域に与えられる仕方 すなわち自己経験的な自己移入(心理学でいう感情移入)によって与えられる仕方は 間接的であって 根源的ではないが しかしやはりそれも与えられ 経験されているのである。  ( b ) たとえば過去のものはただ想起によってのみ過去のものとして根源的に与えられ やがて到来するものは期待によってのみそのようなものとして根源的に与えられうるのであるが それと同じように他者はまさに自己移入によってのみ他者として根源的に与えられうるのである。  ( c ) そしてこの意味での根源的所与と経験とは同じものである。(『第一哲学』H.VIII,175f.)     (立松弘孝編『フッサール・セレクション』2009 p.290)  ~~~~~~~~~~  ☆ どうなんでしょう? ( a )とその後の展開とは どう捉えるべきでしょう?  ○ ~~~  ( a )では 《他者がわが主観に与えられるその仕方は 間接的であって 根源的ではないが しかしやはりそれも与えられ 経験される》と言いつつ  ( c )では《他者がわが主観にわたしの自己移入によって与えられるその根源的所与は わが自己経験と同じ》と言うのならば  けっきょくのところ《他者はわが超越論的自我にとって根源的所与である》と言っていましょうか?  ~~~~~  ☆ どうでしょうか?  ○( d ) 他者は 初めから わが主観に与えられている。もしくは むしろ人間としての《わたし》は このわたしにおいても ほかの人びとそれぞれにおいても 同じである。  ☆ このように質問者は自分の見解として考えていますが それと同じかどうかが知りたいところです。  ★ 他者は捨象できないのです。  ☆ こうフッサールも考えたか? これのみです。  そうではなく 自分のわたしを先行させるのであれば――というよりも ほんとうの独我論は その自分だけだと思われますが―― そしてあとで他者のわたしを自分のと同等に捉え扱うというのであれば 独我論の気配が濃い。こう思われます。  そのつてで れあれるげんさんにも 物言いをしてみます。いえ フッサールに対する物言いです。  ★ カントは、美的判断論で、美というのは、自分だけが美しいと思うだけでは美を感じられない。自分だけでなく他者も美しいと思うはずという確信があって初めて「美しい」と判断できると言っています。だから直観と美的判断は似ているなと思った次第です。  ☆ この本質直観が 誰もにひとしく根源的に同じ内容においておとづれるということであれば 簡単に言って いわゆる真善美が やはり人びとには根源的には共通であるという命題に行き着きます。つまりは でしたら フッサールの独自性は ない。こうなりませんか?  ところが 今度は れあれるげんさんへの物言いが来ます。なぜなら  ★ 本質は永遠普遍の真理ではない。同じ認識の地盤を持つ他者とだけ共有できるものである。望遠鏡で木星を見た人と見ていない人では認識の地盤が違うので直観する生活世界も違う。望遠鏡で空を眺めるという行為が本質を変えるのです。  ☆ とおっしゃる。つまりは まづ《望遠鏡で木星を見た》という例示は たとえなのでしょうか?  根源的所与としての超越論的主観性――ないし本質直観――は 決して個別の具体的な知覚経験に応じたその内容を言っているのではない。相互主観性をすでに大前提とするならばです。ということではなかったでしょうか?  なぜなら 真善美の共通性が言われているのですから。木星を見たという経験は 根源的所与の次元にはかかわらないのではないでしょうか?  ★ 望遠鏡で空を眺めるという行為が本質を変える  ☆ というのは むしろエポケーとして捨象しうる知覚経験のことではないでしょうか? それは《われ在り》には 大きくは影響を及ぼさない。  デカルトにしても 《考えるわれを思うわれ》なる存在を言っているはずです。個々の思考や認識の内容ではないはず。  ★ ~~~~  ( e ) でもフッサールは〔* 個別の具体的なものごとについての〕思考は各自独特なもの。みんな違う自由なもの。  ( f ) 共通するのは直観(直感)だけと考えているのではないでしょうか。  ( g ) そしてその直感も共有できるのは、同じような体験をしている人々の間だけ。認識の地盤を同じくする人たちの間だけなんだと思います。  ~~~~~~  ☆ ( e )は エポケーで捨象していいものを言います。  ( f )は 根源的所与であると認められる本質直観を成す内容だと考えられます。相互主観性をも満たしている場合です。  強いてその内容を分析すれば 主観が捉えた対象としては ものではなく むしろ ものの見方・見え方を言っており 主観としては 真善美に通じるその意志(志向性)の核のことだろうと 推し測られます。(質問者が 自分の意見を述べるようになって来ておりますが)。  ( g )は やはり( e )と同じく エポケーの対象になるものと見ます。    どうでしょう? だいぶん突っ込んで述べています。よろしかったら 引き続きお答えください。  

回答No.18

唐突ですがなにか困っていることはありませんか? なにか私が助けてあげられることはありませんか?

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ えぇ そうですね。  まづは ご投稿をありがとうございます。  そうですね。フッサールにかんしては 主観――あるいは主観を見る主観――を基軸にして その主観の独り善がりであることをどこまでも避けつつ 世界を見るのだという姿勢 これが分かったのですが ではその《主観》観の独自性は どこにあるのか? これがまだ分からない。  あらたな主観哲学であると受け止めたとき その――むしろ――方法は どのように新しく有効であるのか?  だとすると それは おそらくその方法の応用編において勝負が決まるのではないかと捉えたところです。  まづは ここまで来ました。  言いかえると どうもフッサール自身の文章には――それは 方法を述べているのみだとすれば―― その独自性を解く鍵はないのではないか。こういう理解に到りつつあります。  方法として その独自性が分からないというそのわけは ふつうに抽象という作業をして 世界のものごとの本質にたどり着こうとする学的営為はもともとあるはずですし 《われ》という主題であるならば デカルトだけではなく さらに昔へさかのぼってたとえばアウグスティヌスの《あやまつなら われあり》なる《主観》観があるはずだ。と質問者は 言おうとしています。    これらのやり取りをめぐって 交通整理がさらに出来ればよいでしょうし あるいはたとえばフッサールの独自性は すでにそのかれ自身の文章にあるのだということであれば それを示してもらえるなら 言うことなしでしょうね。  エポケーなり還元なりと言ったときに 世界観を求める作業にとって そのすべての作業にわたって 主観の基軸性ということを徹底的に打ち出したというような独自性がありましょうか?  こういったところでしょうか?

回答No.17

思ったことを少し。 ・直観=意志でどうにもできないほどの確信が訪れること ・個別直観=意志でどうにもできないほどに、ある物や概念の存在に対する確信が訪れること ・本質直観=意志でどうにもできないほどに、ある言葉が個別直観した存在を表現するのにぴったりであるという確信が訪れること ※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れない。その地点を探るのが現象学。だから独我論ではない。 ※現象学以外の哲学は思考によって本質(理論)を作り出そうとする。一方、現象学はすでにしてきた思考過程をはぎ取って、思考する前の直感を探ることで本質を見抜こうとする。 ※イデアは思考の産物。一方、本質直観は直感の産物。東洋的。考えてはダメ。他者に配慮しつつ感じるもの。個人的にはカントの美的判断が一番近い概念だと思う。 白熱する議論の中、突然書き込んでごめんなさい。気まぐれで書きこんでしまいました。

bragelonne
質問者

お礼

 れあれるげんさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 〔本質直観は〕 個人的にはカントの美的判断が一番近い概念だと思う。  ☆ このカントについて明るくないので はっきりしませんが 直感および直観としてのヒラメキ――あるいはつまり インスピレーションですね――のことを言っているとのご回答でしょうか?  ただし  ★ 一方、現象学はすでにしてきた思考過程をはぎ取って、思考する前の直感を探ることで本質を見抜こうとする。  ☆ だとしますと 意志による意図的なそして意識的に既成概念やら先入見やらを中断させておこなうヒラメキ行為なのかなと思われて来ます。  人為的なヒラメキ? これはないですよね。  ということは インスピレーションの起こるためのお膳立てを 自分の作業としても おこなっておく。といったことでしょうか?  すなわち  ★ ※一定の条件が知覚されると、どこからともなく確信がやってくる。もはやそれ以上は考えたってしょうがない。思考ではそれ以上遡れない。その地点を探るのが現象学。だから独我論ではない。  ☆ 人間の側の意図的な準備作業とそしてそのあとにおとづれる直観なる現象 でしょうか?  独我論の要素があると思ったのは すべての知覚や認識したものごとについて判断中止するというとき 他者のことをもすでに捨象してしまうというかたちでおのれの主観を打ち出して来るその姿勢に関してです。  これは あとで 間主観性ないし相互主観性という概念を導入して そこに他者を持ち込むかたちを採用しているようです。しかも この他者〔の主観〕は あくまでおのれの主観がおのれの主観のうちに捉えた内容(つまりその相関関係ないし意味)であるようです。その点では 独我論の要素を引きずっているようにも見えるのですが どうでしょう?  なお ヒラメキに関する次の見方は 参考にならないでしょうか?  ○ (ロゴスの階層・・・No.8お礼欄) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~