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仏教は一神教か
仏教は一神教か
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- agripapa
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堕落して 葬式仏教だと巷では言ってるがww ・
- agripapa
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ということになっている。。 ほんとかどうかは知らない ・
- agripapa
- ベストアンサー率0% (0/46)
まったく。。 何遍同じこと言わせるんだって感じ ななちゃんが気にかけて心配してるからだからな。。 そのものを見ようとしてはいけない っていうことの意味を軽く考えているんじゃないのか? そして 語りえぬことにたいしては沈黙しなければならないということのように 釈尊はさとりを開きそこに至る道のみを説いたと伝えられる さとりを開きそこに至るということ そのこと自体にある意味があるのである 仏教の本質はさとりを開く事を願い さとりに至るということから始める知行一致を志向する実践の哲学である ・
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ひとのみちさん お邪魔をつづけます。 もし ○ 信仰――非経験の領域について それは経験世界を超えたところというただの想定なのだけれど しかも想定のかぎりで これを非思考において受け容れるという経験行為―― ☆ を問うていないのなら それは 哲学であったりいわゆる形而上学の問題におさまります。このことが肝心です。 すなわち ではブッダは 十難(ないし十四難)についての無記を その難問が形而上学の事柄であると捉え 形而上学に過ぎないから 然りとも否とも答えなかったというのであろうか? この問いになります。 ○ 世界は 常住であるか無常であるか? ☆ これにいづれとも答えなかったというとき それは 単なる形而上学の問題であるに過ぎないのか? という問いを問わなければならないものと思われます。 言いかえると 人間にとって 信仰の問題であるのではないか? ということにほかなりません。 十四難無記では アートマンは出て来ないようですが 《常住か否か》と問うというからには アートマンやブラフマンの問題であるほかありません。そして ブラフマンは 非経験の領域に想定する何ものかナゾの存在であり いわゆる神です。神として想定されているものです。 だとすれば たとえアン-アートマンを 無我ではなく非我として翻訳し受け取るとしても 言わば永続するモノコトとしてのアートマンないしブラフマン これらを否定していることに違いはないのではないでしょうか? ブラフマンを否定する すなわち 無い神を 神として立てている。と 信仰にかんするかぎり 成ります。 もし信仰などは 屁の河童だから その議論には乗らないというのなら たとえばこの世に人間の用いる言葉として 《かみ》や《信じる》という語があるのは なぜか? という問いに答えなければならないでしょう。それらが 死語であれば 答えるまでもないかも知れません。でも そうではないでしょう。 したがって 《非神》は けっきょく一般には その思想〔がさらにその基礎としてもとづく非思考の根底としての信仰〕においては 無神論だとなるはずです。 もったいぶっただけであるか それとも ブッダ自身がもともと信仰を持っていたのだが 十四の難問を単なる形而上学として受けとめて答えようとしたときには 然りとも否とも答えないという無記という立ち場を取った。このようだと解釈されます。 なお ○ さとり ☆ という言葉を使うときには 定義が必要でしょう。形而上学や修行など経験事象を言っているに過ぎないのか それとも 信仰次元のことを言っているのか。まづこの区別に従い明らかにしたあと それぞれにおいて 中身を定義すること。これです。 もっとも この《仏教は一神教か》の質問にかんしては さとり論は要らないはずですが 持ち出すのなら 必要です。 また この質問にかんするかぎり 初めから信仰論であるはずです。(と言えば 済むところだったけれど)。
- agripapa
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仏教の開祖を釈尊にみるなら、いろいろな仏教宗派がある中で さとりを開き、そこに至るということのみが宗派を超えた仏教の共通の第一通過点といえるのです そういう意味では釈尊の教えから決して逸脱しないという点において上座部には存在意義があるとも言えます ただ、そうしていればさとりを開けるかと言えば、釈尊の弟子にもいろいろないたように誰もがさとりを開けるというわけではないと考えられます さとりを開くということが 語りえぬものについては沈黙しなければならないといったことのように そのこと自体にある意味があるのであり 釈尊は後に続く人の為に、たださとりを開きそこに至るという道のみを説いたと言われるのも頷ける話なのです それは信仰とはまったく違った次元のものであり、そこに信仰するということからは決して見ることのない明確な境界を見る 信仰と信仰論は違うなどと言ってるような次元の話は目糞鼻糞の類でしかない ・
無神論というより 非神論? 十難無記ですから。 無我ではなく 非我だしね。 五ウン非我ですから。 龍樹はなんで「無我」なんて言っちゃったんですかね?
お礼
無神論、一神論、多神論、汎神論、非神論に十難無記、 無我に他我、そして非我、 いま祈る福島の人々は果たしてこんな事考えているのであろーか、 あ~、
補足
まずは感謝、 御回答頂き有難う御座います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
お邪魔します。 信仰と信仰論とは違うと心得なくてはいけない。 ましてや信仰とそして組織宗教――その思考としての教義や やはり思考としての教導の仕方について(つまりそれらは すでに 個人の内面における信仰とは別の事態となっている)――の実状ともまるきし違う。 そしてこの後者に対する批判としての哲学は それとしてつねに出番があり いつでも自由に舞台に上がっていく。むろん 信仰論も お手の物。 哲学は 真理を指し示そうと――そういう魂胆を持つことは じつは 避ける必要もないのだけれど――しているのではなく 真理を〔人間の言葉で出来るかぎりで〕指し示した信仰内容についてのあくまで解説である。だから 真理とのあいだに自己矛盾をはらむことは 基本的に言ってない。矛盾をはらむ・はらまないの次元にない。迂回するようにおこなう間接的な理論や議論であって 文章の目的や性質がちがう。 〔あるいは 信仰においてさえ 真理とのあいだに――人間の弱さやあやまち得る相対的で有限な能力にかんがみるかぎり――矛盾を呈することは ふつうである。 それゆえ 非経験かつ非思考の信仰と言う。経験かつ思考の次元で〔も〕扱われる道徳や倫理規範とは 別の話である。 人間の弱さをなじることに力をそそぐよりは それ(人の弱さ)を きみの心において ささえ強くしようとつねに準備している真理の聖霊なる力があることに心をくだきつつ思いを致しこれを受けとめ これをきよらかなおそれをもっていだくように心をくばることのほうが 建設的である〕。 自己中うんぬんのくだりは よく飲み込めない。読み解き得ないでいます。
お礼
>信仰と信仰論とは違うと心得なくてはいけない。 >ましてや信仰とそして組織宗教・・・ つまり、信仰と信仰論そして組織宗教は違うゆーこと。 宗教はシステムではない。 宗教はシステムを必要としないし、またシステムにしてはいけない。 宗教をシステムにすると、偶像が生まれ、奇跡が生まれ、宗教法人が生まれ、宗教ビジネスが生まれるが、真理の探求は停止する。 ラッセルはゆーております、優れた思想や哲学は個人の深い思索によって生み出されるものであり、集団が考え生み出すものではないと。
補足
まずは感謝、 御回答頂き有難う御座います。
- agripapa
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世界を山川草木悉有仏性とみるなかで 仏教は一神教系を一つの集団として扱って見る多神性汎神論といったことのほど それに真面目に答えてるということが真理を表現し得ているというわけではないということのほど 自己中を批判する論理展開の中に 自らの自己中を正当化する内部矛盾を含んでいたり~の 教義に自己中を誘発する欠陥因子がある以上 教祖様はその教義を刷り込んだことに起因する信者の暴走を修正してあげる義務があるでしょう このカテで他者と一緒になって自らが教義を刷り込んだ信者を批判しているのは筋違いです ・
お礼
>世界を山川草木悉有仏性とみるなかで >仏教は一神教系を一つの集団として扱って見る多神性汎神論・・・ いま福島の人達は、地の神、海の神、山の神などを相手に祈っているのであろーか、 あるいは仏には祈るが、神には祈らんのであろーか、 あ~、
補足
まずは感謝、 御回答頂き有難う御座います。
- ShiroganeMadam
- ベストアンサー率16% (12/72)
仏教は一神教でも多神教でもない。 仏教である。 神はない。 なお、真面目に回答しているのにチャンと取り上げてくれないという泣き言を言う人がいるが、自分の回答が意味あるものであれば反論して質問者を教え育てればよいと思います。 昔、某さんが湯桶読み(ゆおけよみ)が正しいと固執して、外国人に訂正され恥をかいたのと同じようにです。 タコ足がいっぱい絡まっている回答は、結論が何か分からず困惑します。迷惑します。 理路整然とした回答を書いてください。
お礼
>仏教は一神教でも多神教でもない。 >仏教である。 >神はない。 つまり、仏教は一神教でも多神教でもなく、仏教は仏教であると、 仏教に仏はあっても神はないと、 そのよーにゆーのは簡単であります。 しかし、ここで一つ考えてもらいたいことがあります。 いま祈ろーとする福島の人達にとって、果たしてこれが意味をなすものであるかゆーこと、 あ~、
補足
まずは感謝、 御回答頂き有難う御座います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
人の道はも少し真摯かと思っていたのを改めなければいけないのか。残念である。 真面目に回答している僧職様やサイテックスさん、木造100年さんに対し申し訳なく思いませんか。 別の意味では回答者のみなさんを愚弄していると理解できます。 つまり人の道の質問とは、自己の意見を主張し、それに同調する投稿を募集しているのに過ぎない。 親愛感をもっていた私は、無念ですよ。 もう少し真摯な質問かとおもっていたが。 サイトの管理者が読んでくれるとありがたいが。
お礼
このよーに考えてみてはどーか、 いま福島の人達が神や仏に祈ったとして、 神に祈る、仏に祈る、 この2つに何か違いはあろーかとゆーこと、 またこのとき2つの神、2つの仏、 3つの神、3つの仏などとゆーものが出てくるであろーかとゆーこと、 もちろん今の福島の人達にとって神や仏に違いなど有ろーはずがない、 またこのとき2つの神、2つの仏、 3つの神、3つの仏などとゆーものが出てこよーはずがない、 ゆーのがわしの答えです。 果たしてこれを問うために、「仏教は一神教か」と問うたのでありますが、 「人の道」は真面目にこれを問うているのであるが・・・、 あ~、
補足
まずは感謝、 御回答頂き有難う御座います。
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お礼
>語りえぬものについては沈黙しなければならない ここに仏教の限界があるのである。 語ることのできぬ者は、悟ったとは言えまい、 何故なら表すことの出来ぬものは悟りではないからである。 語ることをせぬ者は、真理を得たとは言えまい、 なぜなら普遍なる真理は万人に伝えることが出来るからである。 語ることをせぬ釈尊、語ることのできぬ釈尊は悟ってはおらず、真理に至ってはいない。 釈尊はただ悟ったよーに振舞っていたに過ぎないのである。
補足
まずは感謝、 御回答頂き有難う御座います。