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マズローの欲求7段階説は 単純すぎないですか?
もしこの説が正しいなら、、 経済的にゆとりの無い人はみんな 心にもゆとりが無いように思えてきてしまいます。 人間の心理が そんな単純な進化の仕方をするとは、私にはとても思えません。 これは ビジネスマンを刺激するための何かの方便のような一種のデマゴーグに過ぎないのでしょうか? それとも ほんとうに すぐれた学問としての欲求分析の一つなのでしょうか? もし 後者なら、私には認めることが出来ない学説です。 そのへんの真実を知っておられる方(かた)がおられましたら 教えてください。
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質問者が選んだベストアンサー
大学で心理学を担当している教員です。 マズローの欲求階層説は、基本的には、次の5段階からなっています。 「7段階説」であるというのは、何らかの誤解ではないかと思います。 生理的欲求 安全の欲求、安定の欲求 愛情の欲求、所属の欲求 承認の欲求、自尊の欲求 自己実現の欲求(達成の欲求、自律の欲求などを含む) 生理的欲求が満たされて初めて、安全・安定の欲求を満たすことに向かうというように、低次の欲求である生理的欲求から、順次、高次の欲求が満たされていき、最終的には、自己実現の欲求の達成に向かうという考え方をモデル化しています。 このモデルは、もともときちんとした心理学の学問的なモデルですが、人間を理解する上で有用な考え方が含まれていますので、看護やビジネスなど他の多数の分野でも引用されることが多いようです。 質問者様は、質問文から拝察しますに、何かビジネス書か、自己啓発書でお読みになったかと思いますが、正しい考え方を理解せずに引用されていたのではないかと危惧します。 「デマゴーグ」というのは、かなり言い過ぎのように考えられます。 というのも、経済的にゆとりがある云々については、何ら言及していません。 Web上で見た範囲では、次のサイトの説明はきちんとしていると思いますので、お確かめください: http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/maslow.htm http://www.nri.co.jp/opinion/r_report/m_word/maslow.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ただし、最期のURL(Wikipedia)の説明にもありますが、「学説」の1つで、批判的な見方も確かに多くあります。 その根本的なものは、少数例のサンプルに基づく、理論というよりは人生哲学に過ぎないのではないかというものです。 確かに、実証性に欠ける側面があると、私自身も思いますが、だからといって全面的に否定してしまうほど価値のないものとも思えません。 学説や、理論は、いずれも「仮説」です。 「仮説」であるということは、100%正しいものであるとか、すべての人に当てはまるという性質のものではありません。 また、それが作成された時代や、文化的な背景の影響を受けていますので、時代が変わり、社会的状況が変化してきますと、うまく当てはまらない部分も出て来ます。 個人の特性や、その置かれた状況によっては、当てはまらない人もいます。 そういう、いわばマイナス点もあることを考慮に入れたとしても、今なお、人間理解に有用な学説であると思います。 なお、学問的には、シンプルで、適用範囲が広い学説がよい学説と考えられます。 心理学の概論書などには、この学説は必ずといってよいほど説明されていますし、マズローの原著の翻訳もありますので、引用や孫引きの本だけ出なく、それらも是非お読みください。 完全なる経営(アブラハム・マズロー著)、人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ (アブラハム・マズロー著)などです。
お礼
丁寧な御回答ありがとうございます 今 時間が残り少なく あしたも時間が取れない可能性もあるのですが あさってになってしまうかもしれないわけですが 補足質問させていただきたいことがたくさんあります。 一応 ご紹介のURLには 急ぎ全部ざっとですが目を通しました。 デマゴーグというのは ビジネスでのこの説の応用の場合です。 したがって どうやらきちっとした学問ではあるようですので、マズロー自身が デマゴーグとして云々 という設問は取り下げます。 (ビジネスなら デマゴーグも仕方ない面もあるかと思います。 でもそのように利用される隙が この学説にはあったとは思います) 疑問は ですが 深いです。 確かに あまりにも生きるために忙しかったりすると 星を見てもそよ風に揺れる草花を見ても何も感じなくなってしまうときもあるでしょう。 でも そうで無い人もいます。 また 子供の頃には むしろ新鮮な曇りない目で感動する心があり それを想い出すことで心が豊かになる人もいたしします。 そしてそうして 得られた心のゆとりは 当然「自己実現」へと自然にも向かわせるエネルギーを持っていたりします。 経験的事実の世界から そうしたことは充分言えるかと思われるのです。 が もちろん同時に、戦争状態の極限が人間を ただの殺人鬼に変えてしまうとう そのような心理もたしかにあるのですが、 ふつうの庶民の日常においては、 この学説は 観察眼が狭いのではと、私には思えてしまうのです。 私は 今現在 高齢の母と暮らしていてワーキングプアー状態で本も買えませんが、 でも ご紹介のマズローの本は 出きるだけ近い内に手に入れて読もうと思っています。 真剣ですので 補足質問が入りましたら 是非 また いろいろ教えてください。 よろしくお願いします。
補足
すみません 遅くなりましたが 早速補足質問させていただきます。 いろいろ ネットで検索してみましたが たしかに「7段階説」というのは大変な記憶違いだったようです。 二十年以上前ですが いくつかの本(原本の訳ではありません)で 読み その時から なぜか「7」と記憶してしまったようです? 質問しておきながら申し訳ありません。 ですが 5段階であろうと 疑問は 、たとえば三角形のピラミッド型の図で 一番下を生理的欲求とした場合など、その一番下から順に満たされてゆき 下が満たされないと 上の段の欲求が起こらないかのような表現自体に疑問が起こってしまうということなのです。 まず 簡単に一言で言うならば、 一人の人間においても、これらの欲求が 全部ばらばらに時間差を持って存在するとは 考えられません。 動物の脳は本能に縛られていますから 物事には流されるだけでそれを《見つめる》脳が無く 《ゆとり》という心理がないため笑いも起こらないわけです。 そこを 赤ちゃんは、最初オギャーと泣いてお腹の中から出てくるときにはまだ 大人の猿よりも低い脳だと聞いていますが そこからの進化はすごいもので いきなり大人の猿よりも 特に物事を《みつめる》という 比較しそれを検討し 反省の材料にしてしまう脳へと成長、その種が宿った瞬間、心には人間のみの《ゆとり》が 本能を離れて生まれると 考えられます。 その時 赤ちゃんは お母さんをそこに見つけ そして 笑いかけます。 おそらくその時こそほんとうの人間の誕生日^^なのでしょう。 たしかに 文明は 特に感性は欲の世界を《見つめる》能力をむしろ奪っても来たと思います。 しかし、時代を超え 私たちは よくよく自らを観察するなら すべての欲求を 私たちの中に いつでも見つけることができるはずでもあるということです。 そういう脳が本質的にそなわっているということです。 たしかに、 極限状態においては、 それは一つ(の段階だけ)になってしまう時があります。 たとえば私は子供の頃 南京の大虐殺の当事者の方(白髪の優しそうな 穏やかな 子供にもその心のあたたかさがつたわってくるようなおじいさん)に お話を聞いた時があります。 最初は 仲間は虫も殺せない田舎の青年たちが多かったと言います。 敵に向けて銃を撃つことも全員できなかったそうです。 でも そのうちに仲間が殺され すこしずつ神経が変わっていったのですが、その様子を なんと子供にも解るようにいろいろ説明してくれました。 そしてとうとう 南京の大虐殺の現場では 自らが 恐怖のために 女子供を 威嚇し 生き埋めにしていったと言います。 彼は この「威嚇」という言葉を何度も使っていましたが、当時私はその意味をまだ知らなかったはず 、しかし そのニュアンスはなぜか、正確に理解していました。 人間は 確かに動物的な生理的極限状態の中においては、唯一つの神経となってしまい、人を殺してはならないという道徳も理性も無くなってしまうと思います。 しかし たとえば では この事実はどうなのでしょう。 私は子供の頃 とあるいじめが遠因で 何度も重い肺炎で死の床をはいずった体験があります。 その中でも 右の肺胞がすべてつぶれ 左の肺胞もあと少ししかなくなってしまい そのこととともにあと3日の命と医者が告げているのを聞いてしまった時のこと、 どんながんばろうと もはや その呼吸の出来ない苦しさの耐えることも出来ない状態でいたときにても 私の心理は 死の孤独の方がもっと辛かったのですよ。 自殺する人は そこまでじっくり死をはいずる前に気負うしなってしまったりすると思います。 そうでなければ 孤独の前に誰も自殺なんてできないですよ。 これって 愛情の欲求でないのですか? 人間における一つの生理的究極の極限状況なのですが? 細かい疑問を言えば ご紹介のURLの資料でも 臨床例は少なくしかも歴史上の人物を過程した少数例であるにもかかわらず、 それぞれの段階のパーセンテージを出していますね? なぜ そんな例からパーセンテージが出てくるのか? 因子分析以前に 奇妙に思えてしまったりします。 でも まずは 大きく この欲求が 段階を経なければ それぞれ起こらないという説自体が 本質的に 人間の脳の本質部分を見落とした論理なのでは と思えてしまうのですが どうなのでしょう? 何かが、人の心について言語化され理論化された時点で それは機械についての論述とは違ったフィジーなものとなるという点は理解できますが、 これは 時代的背景とかを越えた本質的な点の見落としがある理論に思えたということなのです。 そのへん 今一度 vzb0433様のご見解をお聞かせいただけないでしょうか? よろしくお願いいたします。 申し送れましたが 私は 63歳の肉体労働者でもありますが 同時にもう40年以上も 踊りの心の世界の追及を 一人で求道してきた人間でもあるのです。 その孤独に耐えられたのは、さらなる孤独を知っていて、生きている限り たとえ誰から理解されなくても 人間的な世界を追いかけ続けることは出来ることをも知っているからだとおもいます。 私は地位や名誉はありませんが そういう人間^^です。 よろしくお願いいたします。