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処理されない怒り

乳幼児期から心身に溜まった「処理されない怒り」が、身体に転換され、陰部と太股裏の激痛にくるしんでいます。この「処理されない怒り」を処理するには、どうしたらいいでしょうか?医学を超えて哲学の分野にまできてしまいました。知恵をかしてください。

みんなの回答

回答No.4

人間の心と体は密接に繋がっていますが、その繋がりを良く理解する(知的理解では駄目で、体得する事が大事ですが)その事を体得出来た時に解消するはずです。 その前に人間には心が二つ在る事を書いてみたいと思います。もう一つの意識=自分が『無』の状態の時に働いている意識=無意識の意識=自分が無意識の時(自我意識が働いていない時)に働いている意識=仏性、という者との出会いを『見性』と言っています。 この事をもう少し詳しく書いてみます。 子供時代をもっと遡った場合、何も知らないはずの自分が居ます、もっと遡って生命として生じた段階にまで遡ったとした場合、もう何も判らないはずの自分になっているはずです。処が自分の意識がない状態から自分自身は働いています。 始めの働きは『細胞分裂です』或は命そのものの働きです。自我意識が関与しなくとも『自分は命そのものを生きる力(知恵)が在ります。その働きは人間固有の働きですが、蜘蛛には蜘蛛そのものとして生きる知恵があります。 植物にも同じ知恵があります。その形や色や性質などを遺伝子として受け継いでいる働きの事です。ライオンにも熊にも、麒麟にもツバメにも、生まれる前から備わっている『命を働かせる』働きが脳内に備わっています。 人間も同じように生まれるや否や泣く事も笑う事も、不安や恐怖や安心すると言う働きを知っています。実はその働きにも主人公が居ます。人間を人間として働かせる主人公と言う意味です。 その人間を人間として働かせる者を『仏性』とお釈迦様は名を付けたものと思います。言い換えるなら『命を働かせる働き』と言う意味です。暑くなったら汗が出る仕組みです。同時に心にも働きかけて『涼しい所や、水の在り処を、探させる働き』です。 人間の心は『自身の中の、自我意識では理解を超えた者、分からない者からの指示に従って』生きています。ですがその事さえ知らないで居ます。この事を『無明』と言っています。 宗教はこの事に触れています。この者を疑わずに居て、この者と仲良く協調出来た場合を『天国』と聖書には書いてあります。その天国に一番近い存在を幼子と書いています。 その反対の場合も書いています。それが知恵が付いたために天国から追放される『失楽園』と言うところです。この事をもっと詳細に説明すると、人間と言うものの理解の役に立つかも知れませんので書いてみます。 知恵が付いたという意味は、神を疑うと言う意味ですが、是は脳の機能分化が完成したと言う意味です。幼子の時は、『命の働きのままで』充分生き来てこれたと言う意味ですが、大人の脳になった時から、脳の機能分化が進んだために、『心は二つになって働き出した』と言う意味になります。 知恵が付いたと言う意味は『意識するようになった、或は意識出来るようになった』と言う意味です。 幼子は『意識出来ない状態=意識する機能が未だ未発達』と言う意味です。従って『心に矛盾や分裂や対立』が起きない脳の構造になっていた、と言う意味です。 処が思春期頃に『脳の機能分化がほぼ完成に近くなった時』から人間には悩みや、苦しみを感じるようになる事を意味します。言い替えると、二つになった自分の心が争い始める事になります。 この脳の機能分化によって『心が別々になって働き出す事を』聖書では失楽園と表現しています。 人間の苦しみとは『意識する事』です。意識した事を『病名にしたり症状名にしている事』から良く理解できます。 『命の働きの意志』と自我意識は、交替制を保って生きています。自我意識のみでは殆ど何も出来ないように作られています。ですが殆どの人は知らないで居ます。 精神科医が処方する睡眠薬が在りますが、人間は睡眠と言うメカニズムさえ余り分っていないように感じます。睡眠とは『自我意識が無意識と交替する事』を意味します。意識が無くなってから『睡眠に入っています』 自我意識が自我意識のまま眠りに入るのでは在りません。自我意識が無意識と交替して、『無意識の自分が』体と心を預かって、それから深い眠りに入ってゆく事を意味します。 神経症などの原因も同じです。人間の自我意識のみで体を動かそうとする事が全ての原因となっています。心を病むと言う場合も同じです、自我意識単体で『心の状態を制御しようとする』事を意味しています。 身体に関しても同じ事が言えます。自我意識には『身体』を『自在にする機能』は付いていない事を意味します。 自我意識が持っていない機能を使って、自分の心を制御しようとする場合『心を病む』と云う事につながっています。 健常者と言う人は、自分自身を疑う事をしない人の事を云っています。身体機能を疑う場合を自律神経失調症、心の在り方を疑う時を心を病む、行動を疑う場合を神経症と言っています。 疑うと言う事は『意識に上がってくる』と言う意味ですが、その場合『働きが出来ないもの』=『自分の命の働き』が抗議をしています。その無言の抗議を『生き難い想い』と、自我意識は感じています。 自分自身の何処を疑うのかでその症状や病名が変わってきます。ですがその症状や病名に沿って精密検査をした場合『何処にも異常は』見つける事は出来ません。その訳は『本当は何処も異常がないからです』 何処にも異常がないにも拘らず、『自分の頭の中で、異常を作り出している事』を意味します。その原因とは『意識するところ』=『意識する事』そのものが原因です。 身体の事を忘れ果てた時、或は心の事を忘れ果てた時、或は自分自身の行動そのものを忘れ果てた時『意識には上がって来なくなります』全てを忘れた時には治っているという意味ですが、忘れる事が出来ない事で『意識する事になっています』 その事を神経質な性格と言っています。人間の全ての行為、或は思惟するという活動、或は自分の行動を監視するという行為、或は五官から入ってくる情報を感ずると云う事柄において、何処かに違和感を感じてしまう場合を『神経質な性格』と表現しています。 そういう場合感じた『違和感』を受け流す事の出来た場合、健常者と表現しています。同じ違和感を受け流すか?或は『意識上に上げて』問題にするのかで、神経質が表面に出るかが分かれます。 禅において、或は森田療法を受けた場合でも、湧き上がる感情の処理の仕方を学ぶ事が全ての始まりとなります。 五官から入ってくる情報を受け取って、人間は感じて、考えて生きています。それらの情報源を『捕まえる事』を見性と表現しています。 検査をして異常が見つけられない場合、自分が感じる異常は、『自分の頭の中で作っています』そうさせる者を自身の中で見つけ出せた場合、自身が感じていた異常は『実際には無かった妄想』だった事が分ります。 世の中の見方や、感じ方の変更によって解消できる問題と言えます。世の中を一つにして見る見方が出来た時に妄想が消えます。頭の中の世の中と、現実の世の中が一致しない事を、頭の中に作られた世界と言います。 目の前の世界はいつも真実が『現前』しています。頭で計らうと云う事がなくなるだけで良いと言う意味です。計らいが尽きた時、全てこのままで良かった事を知ります。 このまま何も足すものも、引くものもなかった事が分かる事を『自然法爾』=あるがまま、と言っています。

k4320z
質問者

お礼

長文にわたるご説明ありがとうございました。とても勉強になりました。感謝いたします。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.3

先つ頃 雲林院の菩提講に詣でてはべりしかば、例人よりはこよなう年老い、うたてげなる翁二人、嫗といきあひて、同じ所に居ぬまり、あはれに、同じやうなるもののさまかな、と見はべりしに、これらうち笑ひ、見かはして言ふやう   「年頃、昔の人に対面して、いかで世の中の見聞くことをも聞こえあはせむ。このただ今の入道殿下の御有様をも申しあはせばやと思ふに、あはれにうれしくも会ひ申したるかな。今ぞ心やすく黄泉路もまかるべき。おぼしきこと言はぬは、げにぞ腹ふくるる心地しける。かかればこそ、昔の人はもの言はまほしくなれば、穴を掘りては言ひ入れはべりけめとおぼえはべり、かへすかへすうれしく対面したるかな。」 『大鏡』序より 穴を掘りては言ひ入れはべりけめ で解決です。

k4320z
質問者

お礼

難しくてわかりませんが、御礼を申し上げます。

回答No.2

〈怒り〉の本質というか正体を知ってみましょう。 それが明確になれば、処理できます。 医学でも哲学でもなく、 心理学でもなく ちょっとした心理の問題です。 難しくありません。 先ず、 起点に《私の怒り》と書いて マインドマップを仕上げるところから 始めてみてください。 自己中心的な人間は、 自分の考えに拍手喝采をしてくれないものを憎む。 (三浦綾子) ということで、もしかしたら、私は質問者さまから 憎まれてしまうかもしれませんな。まぁそれはともかく、 進めてみてください。 あらゆる怒りを書き出してみてください。 個々の怒りの正体がわかれば、 道は開けます。

k4320z
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。マインドマップを仕上げる、、、、、、言語化するということですよね。「言葉が脳を支配する」という言葉があるくらいですか、、、。 勉強になりました、、、感謝いたします。

  • skyyks
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回答No.1

「処理されない怒り」誰でも一つや二つは持っていると思います。その怒りは後のもまつりでいかんともしがたいものです。そのまま放置するよりすべはありません。 やりきれない思いの中、思い出したり忘れたらりしながら今日まで生きてきたわけです。 今後もそうするより仕方ありません。 後は日々忙しくすごし、建設的な目標を持って努力奮闘していけば思い出すことあっても生活に支障なく生きていかれるはずです。そして身体的な痛みもおそらく医師の診断では所見無しと言われているのでは?なら自律神経から来ているかもしれませんので、建設的な生活改善の中でいつしか直るでしょう。

k4320z
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。行動する、、、、ことですかね。行動することによって心も身体も変わる、、、といいますからね。心いじらず身体を動かすということですかね。勉強になりました、、、、感謝いたします。